石山寅吉 – Wikipedia
石山 寅吉(いしやま とらきち、1890年(明治23年)1月[1] – 1937年(昭和12年)5月16日[1])は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、政治家。衆議院議員。 新潟県中蒲原郡沼垂町[2][3][4](現新潟市)の貧しい農家に生まれる[3]。1896年(明治29年)同県北蒲原郡濁川村(現:新潟市北区濁川)の製綿業・石山家の養子となる[3][4]。しかし養家が倒産したため、樺太、北海道へ出稼ぎに出たが過労のため帰郷[2][3][4]。家業の再興を図るも不首尾で[3]、1915年(大正4年)精練工として足尾銅山に入山した[1][2][3][4]。 1917年(大正6年)足尾労働組合(のち大日本鉱山労働同盟会)の結成に参画した[3][4]。1919年(大正8年)足尾銅山争議を指導[3]。1921年(大正10年)麻生久の応援を得て再び足尾銅山争議を指導し[3]、その後、栃木県下初のメーデーを足尾で主催した[3][4]。1923年(大正12年)から故郷の新潟県で三宅正一、浅沼稲次郎らと農民組合の結成、農民運動の指導に取り組む[3]。1925年(大正14年)足尾立憲公民党を結成し[4]、足尾町会議員に石山を含めて6名が当選した[3][4]。1927年(昭和2年)大屋政夫らと日本労農党栃木県支部を結成し[4]、同年9月の栃木県会選挙で初の無産党県議に当選した[1][3][4][5]。 1928年(昭和3年)足尾鉱業所から石山が解雇され鹿沼町(現鹿沼市)に移住[3][4]。1931年(昭和6年)日光鉱山争議の指導により投獄された[3]。1933年(昭和8年)鹿沼町会議員に当選し[3][4]、上都賀病院の設立に尽力[4]。1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(栃木県第1区、社会大衆党公認)で当選したが[1][2][3][4][6]、市町村議選応援などによる過労のため登院することなく死去した[2][4][7]。 ^ a b c d e 『議会制度百年史 – 衆議院議員名鑑』178頁。 ^ a b
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