五畿内志 – Wikipedia
『五畿内志』(ごきないし)、正式には『日本輿地通志畿内部』(にほんよちつうしきないぶ)とは、江戸時代の享保年間に編纂された畿内5か国の地誌、すなわち『河内志』『和泉志』『摂津志』『山城志』『大和志』を指す。江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされ、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた。 『五畿内志』とは、関祖衡・並河誠所が企画し、関の死後、並河を中心として編纂された『日本輿地通志畿内部』の略称である。編纂に当たって、日本全国の地誌を網羅することが念頭に置かれていたが、実現したのが畿内部のみであったことから、もっぱら『五畿内志』の略称で呼ばれる[1]。享保19年(1734年)付の巻首上書によれば、編纂は享保14年(1729年)から5年をかけておこなわれたとあり、享保20年から21年にかけて大阪・京都・江戸で出版された[2]。 全体は漢文で記された[3]61巻からなり、明によって編纂された地誌『大明一統志』にならった構成をとっている[1][2][3]。各国志の最初には山岳・主要交通路・河川および郡名を記した絵図を示し、ついで建置沿革、範囲、道路、景勝、風俗、祥異、郡ごとには郷、村里、山川、物産、寺社古跡、陵墓、氏族といった項目を記載する。 編纂に際して並河らは、各地をみずから探訪して古文書・古記録・伝承などを採録し、それら史資料をもとに記述を進めた[1][2]。そうした手法により、各項目の記述は詳細・精密であり、後世の五畿内の地誌・名所図会の類に盛んに引用され、後の『新編武蔵風土記稿』『新編相模風土記稿』といった地誌の編纂事業にも影響を与えた[2]だけでなく、当時の五畿内の事情を伝える資料として今日でもなお価値が高いものとして評価されている[2][3]。 前史[編集] 『五畿内志』編纂の前史となる元禄年間(1688年 – 1703年)から享保(1716年 – 1735年)にかけて、すなわち17世紀末から18世紀初にかけての時期は、中国大陸における明から清への王朝交代(「華夷変態」)を前提として、日本地理に対する再認識が生じていた時代であった。[4]。 17世紀半ばに明が滅亡し、中原を支配する王朝は清に交代した。だが、この時点では徳川政権や知識層は明復活の希望を捨てていなかった。[5]その希望の拠り所となったのは、台湾を拠点に明を復興しようと図る鄭氏政権や、清の覇業に与した呉三桂ら明の漢人武将が勲功により封じられていた半独立王国(三藩)の存在であり、例えば儒学者の林鵞峯は著書『華夷変態』(延宝2年〈1674年〉)に、明復活への期待を書き記していた[5]。しかし、三藩の乱(1673年 – 1681年)で漢人武将が排除され、引き続く1683年に台湾の鄭氏政権が滅ぼされ、中国大陸における漢人王朝が決定的に打ち滅ぼされるに及んで、徳川政権や知識層は、東アジアの安定と秩序が、華(文明=漢人による王朝)の下でのものから夷(野蛮=遊牧騎馬民族たる女真による清)の下でのものに移行したことが決定付けられた[6]ものとして事態を認識した[7]だけでなく、中国大陸における華の世界の消滅としても受けとめられた[7]。三藩の乱がまさに終焉を迎えた年(天和元年〈1681年〉)に就任した徳川綱吉の政権は、この衝撃的な事態をうけて徳川政権のあり方を考えることを迫られ、知識人たちもまた同様に衝撃を受けた。例えば山鹿素行が日本を「本朝」「中華」と称したのも、熊沢蕃山が北狄の脅威を説いたのも、綱吉政権成立に前後する年代のことである[7]。綱吉政権もまた、そうした状況に即して、人民を教化・保護することを務めとする華を自任したのだった[8]。 こうした華夷変態の衝撃がもたらした国家意識の上昇と日本地理への再認識のあり様は、綱吉政権下での『元禄国絵図』作成事業を通じて見てとることが出来る[9]。国絵図作成事業とは、旧令制国を単位に絵図・郷帳を作成させ、中央に集成する事業[10]で、17世紀以降では慶長9年(1604年)前後、寛永15年(1638年)、正保元年(1644年)、元禄9年(1696年)、天保2年(1831年)のものが知られており、このうち寛永・正保・元禄の際には日本図が作成された[11]。これらのうち、綱吉政権によって実施された元禄9年(1696年)の『元禄国絵図』の特色は、それ以前、例えば領分や石高の記載に重きを置いた正保の国絵図作成事業[12]と異なり、大名などの領分の記載を払拭し、国同士の境である国境を全国的に一貫して確定せしめた点にある[13]。このことは、個々の領主ごとの領分、すなわち知行を媒介とした将軍と領主との人的結合と、個別・具体的なコンテクストや人間関係から離れた自律的で抽象化された領域把握との機能分化が図られていたことを意味している[14]。旧令制国は中世を通じて、既に行政単位としては形骸化していた。しかし、『元禄国絵図』での「国」は、かかる自律的・抽象的な領域把握を全国レベルで措定・把握する単位となっている[15]。こうした「国」概念は、近世成立期までに見られてきた「国」概念とは異質な、新しい概念であった[16]。 そうした「国」の集積によって作られた[15]元禄の国絵図作成事業における日本図(「日本御一円之図」)で注目されるのは、幕撰日本図としては初めて琉球諸島が含められたことである[17]。琉球は明の冊封を受けてきたが、同時に1609年(慶長元年)の薩摩藩の侵攻以来、薩摩藩の支配をも受けており、二元的な両属体制をとっていた。そのため、清の干渉が琉球に及んだ際の対処が問題となり、薩摩藩の伺を受けた幕府は、軍事侵攻が無いかぎり琉球を清に従わせて構わないとした[18]。しかしながら、幕府は琉球の「背後」にある清の存在感を懸念し、綱吉への将軍代替りに際し、琉球が幕府に叛したとしても琉球に与しないよう、薩摩藩に対し改めて誓約を求めただけでなく、日琉関係を体制的に意図的に隠蔽する方針が採られた[18]。こうした事情を踏まえ、琉球の国絵図を担当した薩摩藩は、「異国御絵図」という扱いで琉球の国絵図を作成した[19]が、琉球国絵図は元禄日本図の一部として収載された[17]。こうした経緯は、17世紀末の日本における国家意識の上昇を示すものと考えられている[20]。こうした点を見てゆくならば、17世紀末から18世紀初にかけての「泰平のなかの転換」[21]において生じた日本地理に対する再認識は、「日本」という枠組みを意識した国家意識の上昇と相即したものだったのである。 18世紀初頭日本における地誌編纂の思想[編集] こうした背景のもとで、17世紀末から18世紀初にかけて地誌編纂の思想はいかなる展開を示したのか、2人の儒学者の著作を通して見ることができる[22]。 儒学者の太宰春台は、享保14年(1729年)の『経済録』巻四「地理」の中で「地理ヲ知ルハ、天下ヲ治ル本也」と記して、地誌・地図が統治に対してもつ重要性を強調した。春台はさらに『大明一統志』をはじめとして中国では地誌編纂が行き届いていることを賛嘆する一方で、古風土記の散逸以後、地誌編纂が不在である日本の状況を嘆く。かかる状況のゆえに、江戸幕府が開かれてから100年を閲する今でも国境論争がしばしば起きているばかりか裁許が難しい現状を指摘し、地誌を板行して流布させることを提案する。そして、元禄国絵図が非公開となったことに触れつつ、地誌が流布すれば裁許も容易になるとし、「地志ハ天下ヲ治ル道具ニ非ズヤ」と主張した。ここで見られる春台の思想は、日本と中国の歴史の比較から、日本における地誌編纂の欠如を問題として摘出し、地誌編纂が統治に必須であるばかりか、さらには国家の繁栄をももたらすとする点において、近世地誌の嚆矢たる『会津風土記』(寛文6年〈1666年〉)において確立した思想が踏襲されている[9]。さらに注目すべきは、地誌編纂が国境裁許との関係において、国絵図と対比されつつ主張されている点である。春台が念頭においていた元禄国絵図は「公儀」権力の編成原理である国郡を全国レベルで一貫させたもの[13]と評価されていることを考えるならば、春台の主張は、地誌の政治的機能への期待と板行による普及の提唱である[9]。 一方、谷泰山は自著『泰山集』の一節で、古風土記の散逸をむしろ「神慮」と評した。というのも、清が明を滅亡させた際に『大明一統志』を参照したように、地誌は「国之禍」であって、かかる地誌を改めて編纂することは否定されなければならないというのである[9]。泰山の主張は結論こそ春台と逆であるとはいえ、注目すべきは、その主張が明清交代という国際環境の激変を念頭に置いているという点である。前述のように、元禄国絵図作成が、明清交代とそれに伴う徳川綱吉政権の国家意識の表出としての意味を持つ[8][23]ことを考えるならば、17世紀末における対外関係の変化が18世紀初頭の地誌編纂をめぐる思想と議論の背景にあったと言うことができる[9]。 こうした日本地理の再認識は、別の形ではあるが、民間においても始まっていた。例えば、「流宣日本図」と通称される『日本海山潮陸図』(元禄4年〈1691年〉)の著者である絵師の石川流宣は、他にも地理書を出版して好評を得ていた。また、日本全土を網羅した最も初期の民撰地理書の『日本鹿子』(元禄4年〈1691年〉)には、流宣の『本朝通鑑綱目』の項目が採り入れられている[24]。こうした日本全土を網羅するという体裁の地理書の事例は他にも見られ、17世紀末以降には、民間においても「日本」という枠組みを意識する地理の再認識が広がっていたと考えられている[25]。同時期の畿内でも、民撰地誌の刊行が活発に行われていたが、それらの地誌は令制国の国郡を単位として編纂されており、国郡制に即したかたちでの地理認識が一般化したことを示しており、こうした地理認識への関心の上昇と軌を一にするように、知識人の間でも古風土記に対する関心が高まっていた[25]。『五畿内志』編纂を企画した関祖衡もまた、そうした研究に携わった一人であり、18世紀初頭に多数出現した近世偽作の古風土記[26]の真贋判定論争に加わっていた。こうした点から言えば、『五畿内志』編纂の前提となる18世紀初頭における地誌編纂の思想は、17世紀末以来の日本地理に対する再認識を踏まえたものだったのである[27]。
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