Month: March 2019

五畿内志 – Wikipedia

『五畿内志』(ごきないし)、正式には『日本輿地通志畿内部』(にほんよちつうしきないぶ)とは、江戸時代の享保年間に編纂された畿内5か国の地誌、すなわち『河内志』『和泉志』『摂津志』『山城志』『大和志』を指す。江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされ、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた。 『五畿内志』とは、関祖衡・並河誠所が企画し、関の死後、並河を中心として編纂された『日本輿地通志畿内部』の略称である。編纂に当たって、日本全国の地誌を網羅することが念頭に置かれていたが、実現したのが畿内部のみであったことから、もっぱら『五畿内志』の略称で呼ばれる[1]。享保19年(1734年)付の巻首上書によれば、編纂は享保14年(1729年)から5年をかけておこなわれたとあり、享保20年から21年にかけて大阪・京都・江戸で出版された[2]。 全体は漢文で記された[3]61巻からなり、明によって編纂された地誌『大明一統志』にならった構成をとっている[1][2][3]。各国志の最初には山岳・主要交通路・河川および郡名を記した絵図を示し、ついで建置沿革、範囲、道路、景勝、風俗、祥異、郡ごとには郷、村里、山川、物産、寺社古跡、陵墓、氏族といった項目を記載する。 編纂に際して並河らは、各地をみずから探訪して古文書・古記録・伝承などを採録し、それら史資料をもとに記述を進めた[1][2]。そうした手法により、各項目の記述は詳細・精密であり、後世の五畿内の地誌・名所図会の類に盛んに引用され、後の『新編武蔵風土記稿』『新編相模風土記稿』といった地誌の編纂事業にも影響を与えた[2]だけでなく、当時の五畿内の事情を伝える資料として今日でもなお価値が高いものとして評価されている[2][3]。 前史[編集] 『五畿内志』編纂の前史となる元禄年間(1688年 – 1703年)から享保(1716年 – 1735年)にかけて、すなわち17世紀末から18世紀初にかけての時期は、中国大陸における明から清への王朝交代(「華夷変態」)を前提として、日本地理に対する再認識が生じていた時代であった。[4]。 17世紀半ばに明が滅亡し、中原を支配する王朝は清に交代した。だが、この時点では徳川政権や知識層は明復活の希望を捨てていなかった。[5]その希望の拠り所となったのは、台湾を拠点に明を復興しようと図る鄭氏政権や、清の覇業に与した呉三桂ら明の漢人武将が勲功により封じられていた半独立王国(三藩)の存在であり、例えば儒学者の林鵞峯は著書『華夷変態』(延宝2年〈1674年〉)に、明復活への期待を書き記していた[5]。しかし、三藩の乱(1673年 – 1681年)で漢人武将が排除され、引き続く1683年に台湾の鄭氏政権が滅ぼされ、中国大陸における漢人王朝が決定的に打ち滅ぼされるに及んで、徳川政権や知識層は、東アジアの安定と秩序が、華(文明=漢人による王朝)の下でのものから夷(野蛮=遊牧騎馬民族たる女真による清)の下でのものに移行したことが決定付けられた[6]ものとして事態を認識した[7]だけでなく、中国大陸における華の世界の消滅としても受けとめられた[7]。三藩の乱がまさに終焉を迎えた年(天和元年〈1681年〉)に就任した徳川綱吉の政権は、この衝撃的な事態をうけて徳川政権のあり方を考えることを迫られ、知識人たちもまた同様に衝撃を受けた。例えば山鹿素行が日本を「本朝」「中華」と称したのも、熊沢蕃山が北狄の脅威を説いたのも、綱吉政権成立に前後する年代のことである[7]。綱吉政権もまた、そうした状況に即して、人民を教化・保護することを務めとする華を自任したのだった[8]。 こうした華夷変態の衝撃がもたらした国家意識の上昇と日本地理への再認識のあり様は、綱吉政権下での『元禄国絵図』作成事業を通じて見てとることが出来る[9]。国絵図作成事業とは、旧令制国を単位に絵図・郷帳を作成させ、中央に集成する事業[10]で、17世紀以降では慶長9年(1604年)前後、寛永15年(1638年)、正保元年(1644年)、元禄9年(1696年)、天保2年(1831年)のものが知られており、このうち寛永・正保・元禄の際には日本図が作成された[11]。これらのうち、綱吉政権によって実施された元禄9年(1696年)の『元禄国絵図』の特色は、それ以前、例えば領分や石高の記載に重きを置いた正保の国絵図作成事業[12]と異なり、大名などの領分の記載を払拭し、国同士の境である国境を全国的に一貫して確定せしめた点にある[13]。このことは、個々の領主ごとの領分、すなわち知行を媒介とした将軍と領主との人的結合と、個別・具体的なコンテクストや人間関係から離れた自律的で抽象化された領域把握との機能分化が図られていたことを意味している[14]。旧令制国は中世を通じて、既に行政単位としては形骸化していた。しかし、『元禄国絵図』での「国」は、かかる自律的・抽象的な領域把握を全国レベルで措定・把握する単位となっている[15]。こうした「国」概念は、近世成立期までに見られてきた「国」概念とは異質な、新しい概念であった[16]。 そうした「国」の集積によって作られた[15]元禄の国絵図作成事業における日本図(「日本御一円之図」)で注目されるのは、幕撰日本図としては初めて琉球諸島が含められたことである[17]。琉球は明の冊封を受けてきたが、同時に1609年(慶長元年)の薩摩藩の侵攻以来、薩摩藩の支配をも受けており、二元的な両属体制をとっていた。そのため、清の干渉が琉球に及んだ際の対処が問題となり、薩摩藩の伺を受けた幕府は、軍事侵攻が無いかぎり琉球を清に従わせて構わないとした[18]。しかしながら、幕府は琉球の「背後」にある清の存在感を懸念し、綱吉への将軍代替りに際し、琉球が幕府に叛したとしても琉球に与しないよう、薩摩藩に対し改めて誓約を求めただけでなく、日琉関係を体制的に意図的に隠蔽する方針が採られた[18]。こうした事情を踏まえ、琉球の国絵図を担当した薩摩藩は、「異国御絵図」という扱いで琉球の国絵図を作成した[19]が、琉球国絵図は元禄日本図の一部として収載された[17]。こうした経緯は、17世紀末の日本における国家意識の上昇を示すものと考えられている[20]。こうした点を見てゆくならば、17世紀末から18世紀初にかけての「泰平のなかの転換」[21]において生じた日本地理に対する再認識は、「日本」という枠組みを意識した国家意識の上昇と相即したものだったのである。 18世紀初頭日本における地誌編纂の思想[編集] こうした背景のもとで、17世紀末から18世紀初にかけて地誌編纂の思想はいかなる展開を示したのか、2人の儒学者の著作を通して見ることができる[22]。 儒学者の太宰春台は、享保14年(1729年)の『経済録』巻四「地理」の中で「地理ヲ知ルハ、天下ヲ治ル本也」と記して、地誌・地図が統治に対してもつ重要性を強調した。春台はさらに『大明一統志』をはじめとして中国では地誌編纂が行き届いていることを賛嘆する一方で、古風土記の散逸以後、地誌編纂が不在である日本の状況を嘆く。かかる状況のゆえに、江戸幕府が開かれてから100年を閲する今でも国境論争がしばしば起きているばかりか裁許が難しい現状を指摘し、地誌を板行して流布させることを提案する。そして、元禄国絵図が非公開となったことに触れつつ、地誌が流布すれば裁許も容易になるとし、「地志ハ天下ヲ治ル道具ニ非ズヤ」と主張した。ここで見られる春台の思想は、日本と中国の歴史の比較から、日本における地誌編纂の欠如を問題として摘出し、地誌編纂が統治に必須であるばかりか、さらには国家の繁栄をももたらすとする点において、近世地誌の嚆矢たる『会津風土記』(寛文6年〈1666年〉)において確立した思想が踏襲されている[9]。さらに注目すべきは、地誌編纂が国境裁許との関係において、国絵図と対比されつつ主張されている点である。春台が念頭においていた元禄国絵図は「公儀」権力の編成原理である国郡を全国レベルで一貫させたもの[13]と評価されていることを考えるならば、春台の主張は、地誌の政治的機能への期待と板行による普及の提唱である[9]。 一方、谷泰山は自著『泰山集』の一節で、古風土記の散逸をむしろ「神慮」と評した。というのも、清が明を滅亡させた際に『大明一統志』を参照したように、地誌は「国之禍」であって、かかる地誌を改めて編纂することは否定されなければならないというのである[9]。泰山の主張は結論こそ春台と逆であるとはいえ、注目すべきは、その主張が明清交代という国際環境の激変を念頭に置いているという点である。前述のように、元禄国絵図作成が、明清交代とそれに伴う徳川綱吉政権の国家意識の表出としての意味を持つ[8][23]ことを考えるならば、17世紀末における対外関係の変化が18世紀初頭の地誌編纂をめぐる思想と議論の背景にあったと言うことができる[9]。 こうした日本地理の再認識は、別の形ではあるが、民間においても始まっていた。例えば、「流宣日本図」と通称される『日本海山潮陸図』(元禄4年〈1691年〉)の著者である絵師の石川流宣は、他にも地理書を出版して好評を得ていた。また、日本全土を網羅した最も初期の民撰地理書の『日本鹿子』(元禄4年〈1691年〉)には、流宣の『本朝通鑑綱目』の項目が採り入れられている[24]。こうした日本全土を網羅するという体裁の地理書の事例は他にも見られ、17世紀末以降には、民間においても「日本」という枠組みを意識する地理の再認識が広がっていたと考えられている[25]。同時期の畿内でも、民撰地誌の刊行が活発に行われていたが、それらの地誌は令制国の国郡を単位として編纂されており、国郡制に即したかたちでの地理認識が一般化したことを示しており、こうした地理認識への関心の上昇と軌を一にするように、知識人の間でも古風土記に対する関心が高まっていた[25]。『五畿内志』編纂を企画した関祖衡もまた、そうした研究に携わった一人であり、18世紀初頭に多数出現した近世偽作の古風土記[26]の真贋判定論争に加わっていた。こうした点から言えば、『五畿内志』編纂の前提となる18世紀初頭における地誌編纂の思想は、17世紀末以来の日本地理に対する再認識を踏まえたものだったのである[27]。

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セルビアの国章 – Wikipedia

セルビアの国章(セルビアのこくしょう)は、セルビア王国が成立した1882年に制定された。社会主義時代に廃止されていたが、2004年に再度国章とされた。セルビア王国の王家オブレノヴィッチ家の紋章と同様のデザインであり、中世セルビア王国を築いたネマニッチ朝の紋章に用いられていた双頭の鷲をあしらっている。2010年に紋章のデザインが変更された。 双頭の鷲はかつてこの地に大きな影響を及ぼした東ローマ帝国が象徴としていたもので、双頭の鷲が抱える盾に描かれたセルビア十字は12世紀から使われている。双頭の鷲の左右にあるフルール・ド・リスもネマニッチ朝以来使われている。 大紋章は、双頭の鷲が描かれた盾の後ろを、王がまとっていたアーミンのケープが覆っている。小紋章はセルビアの国旗にも描かれており、「コカルダ」(セルビア語: Кокарда)と呼ばれる。 構成要素[編集] 赤い盾(エスカッシャン)の中のフィールド部分はセルビア国家を象徴する。この部分には、赤地に双頭の鷲が描かれている。その翼と胴体は白(銀色)で、くちばし、舌、脚、爪は黄色(金色)である。双頭の鷲の左右には、金色のフルール・ド・リスが描かれている。盾の上にはセルビア王国の王冠が置かれている。現在のセルビアは共和国であるが、この王冠は取り除かれなかった。 双頭の鷲が抱える盾(インエスカッシャン)の中の文様はセルビア国民を象徴する。ここには赤地に白(銀色)で十字が描かれ、十字で区切られた四つの部分それぞれに白(銀色)で火打鉄(firesteel)が配置されている。火打鉄はそれぞれ盾の外側を向いている。このデザイン(セルビア十字)は、中世以来セルビア国家とセルビア正教会が用いている。十字の四方にある火打鉄は、一般的には「С」の字だとされている。これはよく知られたセルビア語の語句で、セルビアの国家の非公式のモットーでもある「Само Cлога Србина Cпасава」(団結のみがセルビア人を救う)から来ているとされる。しかし、この火打鉄はギリシャ文字の「Β」であり、東ローマ帝国がモットーとした「ΒΑΣΙΛΕΥΣ ΒΑΣΙΛΕΩΝ ΒΑΣΙΛΕΥΩΝ ΒΑΣΙΛΕΥΣΙΝ」(王たちの上に君臨する、王の中の王)から来ているともされる。このインエスカッシャンから十字を除いた紋章は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国であったセルビア社会主義共和国の国章にも使われていた。 ギャラリー[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、セルビアの国章に関連するカテゴリがあります。

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ソリガメ – Wikipedia

ソリガメ(橇亀、学名:Chersina angulata)は、リクガメ科ソリガメ属に分類されるカメ。本種のみでソリガメ属を形成する。 南アフリカ共和国南部から南西部固有種 最大甲長30cmだがこの個体の性別は不明。オスの最大甲長は27.2cm。メスよりもオスの方が大型になり、メスは最大でも21.6cm。背甲はドーム状に盛りあがり、上から見ると細長い。縁甲板は鋸状にならず滑らかで、やや反り上がる。左右の第12縁甲板は癒合する。肋甲板や椎甲板の色彩は孵化直後からある甲板(初生甲板)が暗褐色で、その周囲が黄褐色、甲板の外縁が暗褐色に縁取られる。縁甲板の色彩は黄褐色で、甲板ごとに1つずつ三角形の暗色斑が入る。しかし老齢個体では背甲が暗褐色一色になったり、椎甲板や肋甲板の初生甲板を除いて黄褐色になる個体もいる。左右の喉甲板は癒合し、骨甲板も含めて前方に突出する。種小名angulataは「角のある、角張った」の意で、突出した喉甲板に由来し英名(angulated)と同義。和名は喉甲板がソリのように見えることが由来。また英名bowsprit(バウスプリット)も突出した喉甲板に由来する。 頭部は小型。頭部の色彩は黄褐色で、頭頂部は黒や暗褐色。四肢は頑丈で、指趾には発達した爪が生える。 卵は長径3.4-4.3cm、短径2.4-5.3cmで白く硬い殻で覆われる。幼体の背甲は上から見ると円形だが、成長に伴い細長くなる。 オスは背甲がより細長く、喉甲板の突出が顕著。またオスは尾が太くて長い。 核DNAおよびミトコンドリアDNAの塩基配列解析による分子系統学の研究では、同じアフリカ大陸に分布するヒョウモンガメ属、ヒラセリクガメ属、ヤブガメ属に近縁で単系統群を形成すると考えられている。 標高900m以下の森林や半砂漠地帯などに生息する。昼行性。周年活動するが、冬季に気温の低い日には落ち葉の下などで活動せずに過ごす。 食性は植物食で、主に草を食べるが陸棲の貝類を食べることもある。 繁殖形態は卵生。オスは繁殖期になると互いに体当たりをしたり、突出した喉甲板で相手をひっくり返して争う。オスはメスを追いかけ後肢や尾に噛みつき交尾を迫る。1回に1個(2個産むこともある)の卵を産む。卵は180日以上、時に12-14か月かけて孵化する(飼育下では94-198日で孵化した例がある)。 人間との関係[編集] 開発による生息地の破壊、野火、ペット用の採集(密猟)などにより生息数は減少している。しかし生息地の大部分が自然保護区に指定されているため、絶滅の危険性は低いと考えられている。 ペットとして輸入されることもあり、日本にも輸入されている。流通はまれ。飼育下では人工飼料にも餌付く。 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、ソリガメに関連するメディアがあります。 ウィキスピーシーズにソリガメに関する情報があります。 参考文献[編集] 千石正一監修 長坂拓也編著

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消えた声が、その名を呼ぶ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “消えた声が、その名を呼ぶ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) 消えた声が、その名を呼ぶ The Cut 監督 ファティ・アキン 脚本 ファティ・アキンマルディク・マーティン(英語版) 製作 ファティ・アキンカール・バウムガルトナー(ドイツ語版)ラインハルト・ブルンディヒヌアハン・シェケルチ=ポルストフラミニオ・ザドラ 出演者 タハール・ラヒムシモン・アブカリアン

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平岡円四郎 – Wikipedia

平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日〈文政5年10月7日〉- 1864年7月19日〈元治元年6月16日〉)は、幕末期日本の武士(一橋家家臣・家老並)。徳川慶喜の小姓を務めた。諱は方中。 旗本・岡本忠次郎の四男として生まれ、16歳の時に旗本・平岡文次郎の養子となる。昌平坂学問所にて学問所寄宿中頭取(学生寮の寮長)に就任するなど若い頃から聡明だった。だが、人づきあいが苦手な性格が災いしてか「武術鍛錬のため」と2年ほどで学問所を辞めてしまう。その後10年近くは定職につかずにいたが、一時的に町方与力の助手をしたりすることはあったという[2]。 徳川慶喜(一橋家相続および改名前は松平昭致)が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭は慶喜に諍臣が必要と考え、藤田東湖にその人選を依頼した。平岡の才能を認めていた川路聖謨や藤田から同家の小姓として推薦され、慶喜に仕えることとなった[2]。安政5年(1858年)に徳川家定の将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福(紀州藩主)が擁立され、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老・井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された。安政6年(1859年)、甲府勝手小普請にされる。 文久2年(1862年)12月、慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年(1863年)4月、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。この年、慶喜の上洛にも随行している。京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされた[注釈 1]。慶喜からの信任は厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月2日には慶喜の請願により大夫となり、近江守に叙任される[4]。その2週間後の6月14日、渡辺甲斐守の宿所から御用談所へ向かう途中、京都西町奉行所付近[5]にて在京水戸藩士江幡広光、林忠五郎らに襲撃され暗殺された。平岡に同行し暗殺者を倒した川村恵十郎によると、一人に背後から頭へ、一人に腰へ一刀づつ斬り付けられ即死だったという[6]。享年43。 遺体は京都で荼毘に伏せられ、本所の本久寺に葬られた。法号は養忠院殿徳孝日浄大居士。なお、円四郎自身の墓石は関東大震災後の特設墓地造営により失われており、東京大空襲においても同寺は被害を受け、現在はその名前は見ることはできないが、コンクリート製の”平岡家之墓”に同族の平岡煕や平岡養一などと並んで葬られている。 平岡の推薦で一橋家の家臣に取り立てられた経験を持つ渋沢栄一は後年、以下のように述べている。 この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。 — 渋沢栄一『実験論語処世談』[7] 注釈[編集] ^ 「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」と評された[3]。 ^ 「二日 幕府、禁裏守衞総督德川慶喜權中納言・後征夷一大橋將軍ノ願意ニ依リ、其家家老並平岡方中圓四郎ヲ諸大夫ト為スニ敍ス近江守ト稱ス」 出典[編集] 参考文献[編集]

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モハーヴェ郡 (アリゾナ州) – Wikipedia

モハーヴェ郡(モハーヴェぐん、英: Mohave County)は、アメリカ合衆国アリゾナ州北西部隅に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は200,186人であり[1]、2000年国勢調査からは約45,000人増加した。郡庁所在地はキングマンである[2]。最も人口が多い都市はレイクハバスシティであるが、人口が固まっているのはブルヘッドシティ、モハーヴェ砦およびモハーヴェ・バレーのある地域である。 モハーヴェ郡にはグランド・キャニオン国立公園やミード湖レクリエーション地域の部分、およびグランドキャニオン・パラシャント国立保護区の全てが入っている。カイバブ、フォートモハーヴェ、およびフアラパイの各インディアン居留地も郡内にある。 モハーヴェ郡はアリゾナ準州議会第1会期が最初に創設した4郡の1つである。当初の郡境は西経113度20分より西、ビル・ウィリアムズ川より北と定められていた[3]。1865年にパーユート郡が分離設立され、その領域の大半が1866年にネバダ州に割譲された後、1871年に残っていた領域が郡内に戻ってきた。現在の領域は1881年に確定されたものである。 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は13,469.71平方マイル (34,886.4 km2)であり、このうち陸地は13,311.64平方マイル (34,477.0 km2)、水域は158.07平方マイル (409.4 km2)で水域率は1.17%である[4]。その面積はアラスカ州を除いた大陸アメリカ合衆国の中で5番目に大きな郡である(上位に来るのは隣接するカリフォルニア州サンバーナーディーノ郡(面積20,053平方マイル (52,000 km2))、やはり隣接するアリゾナ州ココニノ郡(面積18,617平方マイル (48,000 km2))、ネバダ州ナイ郡(面積18,147平方マイル (47,000 km2))および同州エルコ郡(面積17,179平方マイル (44,000 km2))である。)

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ドブタミン – Wikipedia

ドブタミン(INN、dobutamine)は、急性心不全や心停止の治療の際に、一時的に用いられる場合のある、アドレナリン受容体アゴニストの1つである。主に交感神経系のβ1受容体を直接作動させる。また、弱いがβ2アドレナリン受容体とα1アドレナリン受容体の活性化作用も持つ。なお、ドーパミンとは異なりノルアドレナリンの放出を引き起こさないため、心拍数や血圧にはほとんど影響せずに心拍出量を増加させる[1][2][3]。 効能・効果[編集] 急性循環不全における心収縮力増強が効能・効果である[4][5]。 ドブタミンは心臓の手術中や敗血症性ショック等の急性で可逆的な心不全や心原性ショックに際して陽性変力作用(心収縮力増強)を期待して用いられる[6]。 ドブタミンは心不全状態の心臓の心拍出量を増加させる。完全非経口栄養法(英語版)実施時に、器質性心疾患を持つ場合や心臓手術後で、心臓の収縮力(英語版)が低下して代償不全(英語版)が起きた際に、短期間の陽性変力支援薬として用いられる事もある。しかしながら、心拍数を上昇させて心筋の酸素要求量を増大させるので虚血性心疾患には用いられない。 また、冠動脈疾患を検出するための薬理学的心負荷薬として、病院での検査の際にドブタミンが用いられる場合もある。 肥大型閉塞性心筋症(特発性肥厚性大動脈弁下狭窄)の患者には禁忌である[4][5]。 主な副作用は、β1作動薬に共通の高血圧、狭心症、不整脈、頻脈である。不整脈に関して、房室伝導を増強させるので、特に心房細動を有する患者には注意して使う必要がある[7]。ドブタミンの最も危険な副作用は不整脈であり、時に致死的である。 作用機序[編集] ノルアドレナリンもアドレナリンも、アドレナリン受容体のアゴニストである。ただノルアドレナリンのアミノ基の水素の1つをメチル基で置換した事によって生合成されるアドレナリンは、ノルアドレナリンよりもアドレナリンβ受容体に対して、親和性が高い事が知られている[8]。それと同様に、ドブタミンはアミノ基の水素の1つを、嵩高い置換基で置換した事によって、アドレナリンβ受容体への親和性を高めてある[9]。ドブタミンの場合は、アドレナリンβ受容体の中でも、β1受容体(英語版)に対する親和性が高く、この受容体を作動させ易い[9]。β1受容体は心臓に発現しており、このβ1受容体に直接働き掛けて、ドブタミンは心収縮力と心拍出量を増大させる。 これに対して、ドーパミン受容体にドブタミンは働かないので、ノルアドレナリン(α1作動性物質)を放出させず、末梢血管の収縮作用が弱いので、血圧上昇作用はドーパミンよりも弱い。 ドブタミンは選択的β1作動薬(英語版)ではあるものの、弱いながらβ2作動作用とα1受容体(英語版)選択的刺激作用がある。 臨床的にはβ1の陽性変力(英語版)作用を期待して心原性ショックに用いられる。ドブタミンはラセミ体であり、(+)-異性体と(−)-異性体が混在している。(+)-異性体はβ1作動性・α1遮断性を持ち、(−)-異性体はα1作動性を持つ[10]。その結果、両者の混合物であるドブタミンは結果的にβ1作動性を示す。(+)-ドブタミンは弱いβ2作動性も併せ持っており、血管拡張薬としての特性も有している[11]。 ドブタミンは、1970年代にイソプレナリンの誘導体として合成された[12][注釈 1]。なお、イソプレナリンよりもドブタミンの方が、アミノ基に導入された置換基は大きい。 注釈[編集] ^ イソプレナリン(INN:isoprenaline)は、イソプロテレノール(英語:isoproterenol)とも呼ばれる。 出典[編集] ^

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タッピング奏法 – Wikipedia

タッピング奏法(タッピングそうほう)とは、ギター、特にエレクトリックギターや、それに類する弦楽器において、指板上の弦を指で叩き付けて押弦したりそのまま横に弾いたりして音を出す技法。単にタッピング (Tapping) とも言う。 右利き用ギターを前提として述べると、ギターには、指板上で左手で弦を押さえるフィンガリングをおこないながら、右手で弦を弾くピッキング(ピック奏法、フィンガー・ピッキング)をおこなって音を出すのが通常の演奏法とされる。 この基本的な弾き方に対して、フィンガリングをおこなう指で弦を指板に叩き付けるように勢い良く押下するハンマリング・オンと、押弦している指を弦に引っ掻けるようにして離脱させて音を発生させるプリング・オフという2つの奏法がある。基本的にこの2つを間断なく繰り返して2音を反復することをトリル奏法と呼ぶ。そしてこのトリル奏法を拡張したのがタッピング奏法である。 1965年の時点で、イタリア人のヴィットリオ・カマルデーゼは、タッピング奏法をイタリアのテレビで披露していた[1]。 片手タッピング 2音間に留まらず、3音以上の旋律をハンマリングとプリングで行う奏法。 両手タッピング 両手タッピングは上述のトリル奏法を拡張したもので、文字通り両手でハンマリングとプリングを行う奏法。特にスタンリー・ジョーダンによるこの奏法は、タッチスタイルと呼ばれている[2][3]。 両手タッピングという奏法自体は古くから存在し、しかしこの奏法が一般に受け入れられるまでは20年以上の時間を要した。 タッピングの歴史は古く、戦前には早くもジャズ・ギタリストのロイ・スメックがウクレレの演奏でタッピング奏法を披露していた[4]。1965年にはヴィットリオ・カマルデーゼが、イタリアのテレビ番組でタッピング奏法を披露した[1]。 ロックの分野では、1960年代にはキャンド・ヒートのハーヴィ・マンデル[5]がタッピング奏法をプレイしているのを見たと、当時ディープ・パープルのギタリストだったリッチー・ブラックモアが、後年のインタビューで語っている[6]。 1978年、 ヴァン・ヘイレンのギタリストであるエディ・ヴァン・ヘイレンがデビューアルバム『炎の導火線』収録の「暗闇の爆撃」で披露したタッピング奏法がライトハンド奏法としてギター雑誌等で紹介され、タッピング奏法をライトハンド奏法と呼ぶようになった。 エレクトリックギターに於いてはライトゲージと呼ばれる細めの弦が好んで用いられる。ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン登場以来ロック・ギターに於いてはチョーキングを多用するのが当たり前となったことで、よりチョーキングのしやすい細い弦が好まれるようになっていたと見られる。 フォークギターやクラシックギターは太い弦を用いるのが普通であり、特にフォークギターは張力も強いため指板上で指を叩き付ける程度の力では大きな音を出しにくい。エレキ・ギターは、強く歪ませると小さな音でも拾われやすいためピッキングとハンマリング/プリングの音量差が出にくくなり、奏法として使いやすくなる。 両手の親指を除く全ての指を用いて鍵盤楽器のようにタッピングを行う両手タッピングについては、奏法自体は1950年代に前述したグレッチの技術者であったジミー・ウェブスター (Jimmie Webster)

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動力集中方式 – Wikipedia

準動力集中方式の列車の例 (TGV Duplex) 両先頭車は運転席と動力部分のみであるが、切り離して他の列車に使われることはない。 動力集中方式(どうりょくしゅうちゅうほうしき)とは、列車が1両ないし2両程度の動力車(車両内部に客室・荷物室等が全くない、または半分程度かそれ以下の機関車[注釈 1])によって、牽引または推進される方式のことである[独自研究?]。日本では貨物列車を除いて数を大幅に減らしているが、世界中の多くの鉄道を走る列車のうち、貨物列車はほぼすべてこの方式で、旅客列車もこの方式によるものが多い。 動力集中方式を採用している旅客列車の例として、日本のブルートレインやフランスのTGVなどがあげられる。 フランスのTGVやドイツのICE 1、イギリスのHSTなどでは両端の動力車の間に付随客車を配置した固定編成が採用されており、この方式については準動力集中方式とも呼称される[1][2]。 対をなす形態は動力分散方式である。 長所と短所[編集] 動力分散方式に比して述べる。 長所[編集] 自車で動力装置をもたないため、車両増備のコストが廉価である。 編成が長い場合、コスト的に有利になる。過去(1975年ごろ)の日本の研究では次のように算定されたことがある[3]。 ただし、これは旅客輸送、貨物輸送および郵便荷物輸送という大きく性格の異なる3種類の輸送事業を兼業で行っていた当時の国鉄が昭和40年代の輸送事情および動力車の性能に基づいて算定したものであり、21世紀になった現代においては日本の法令で認められた15両程度の編成では高コストになることがほとんどである。 客車・貨車当たりの有効積載量に優れている。 動力が機関車に集中しているので点検の手間が省け[4]、車両のメンテナンスに多くの労力を要しない。したがって長期間使用しない車両があっても維持しやすく、時期に応じて輸送の波が激しい路線に対応しやすい[注釈 2]。 客室での騒音や振動が少ない。

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