Month: September 2019

放送通信委員会 – Wikipedia

放送通信委員会(ほうそうつうしんいいんかい、韓国語: 대한민국 방송통신위원회、英語: Korea Communications Commission、略称:放通委)とは、アメリカ合衆国の 連邦通信委員会(FCC)をモデルにして、2008年2月29日「放送通信委員会の設置及び運営に関する法律」に基づき設立された大韓民国大統領直属機関である。放送・通信、周波数研究及び管理と関連した各種政策を樹立し、審議・議決する。別途に放送通信審議委員会を設置する。所属機関に電波研究所、中央電波管理所を置く。   2008年2月29日:放送通信委員会の設置及び運営に関する法律により設立(放送委員会と情報通信部の一部機能を統合) 委員会[編集] 委員会は委員長1人・副委員長1人を含めた5人の常任委員で構成される。委員の任期は3年である。 委員長 大統領が指名し、国会の人事聴聞を経て任命。代弁人と監査担当官が補佐。 委員(副委員長1人、常任委員3人) 1人は大統領の指名、残り3人のうち1人は大統領が所属またはかつて所属していた政党の交渉団体の推薦、あとの2人はその他の政党の交渉団体の推薦による。副委員長は委員の中から互選する。 下部組織[編集] 運営支援課 企画調整室 政策企画官(室長を補佐) 国際協力官(室長を補佐)

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半場康好 – Wikipedia

半場 康好 (はんば やすよし、1972年4月3日 – ) は、静岡県出身の元サッカー選手である。ポジションはミッドフィールダー。 テクニックに優れ[2]、またヤマハサッカースクール(ヤマハSS)からヤマハ発動機サッカー部へ昇格した第1号選手[2] でもある。日本サッカーリーグには1990/91年シーズンの11節より追加登録。1991/92年シーズンには2試合に出場で0得点1アシストを記録したが、その後Jリーグでは出場がなかった。1995年のシーズンで引退し、クラブスタッフに転じた[3]。 現在は、ジュビロ磐田のスクールコーチをしている[4]。 所属クラブ[編集] 個人成績[編集] 各シーズンの所属クラブ/背番号/出場・得点記録の出典[6] 1992年、1993年は天皇杯予選の記録不明。 出場歴[6] ^ a b c d

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王澍 (建築家) – Wikipedia

王澍(おうじゅ、中国語: 王澍、 Wang Shu, ワン・シュウ、1963年11月4日生まれ[1])は、中華人民共和国の建築家。 杭州市に本拠を置き、同市の中国美術学院で建築芸術学院の院長を務める。2012年にはプリツカー賞を中華人民共和国の国民として初めて受賞した[2][3]。 寧波美術館 (2005年) 寧波博物館 (2008年) 王澍は1963年にウイグル自治区の首都ウルムチで生まれた。子供時代から絵を描き始めたが特別な美術教育は受けなかった[1]。美術家になりたいという情熱と、技師になってほしいという両親の願いの妥協の結果、王澍は建築家の道を選び、南京市の南京工学院(現東南大学)へ進んで1985年に卒業した。1988年に同校で修士号を得たが、修士論文の『死屋手記』は批判を浴び、修士号授与までには曲折があった[4][5]。 大学院修了後は、杭州の風景と美術の伝統に惹かれて杭州市へ移り、中国の美術教育の名門である浙江美術学院(現在の中国美術学院)に勤務し、古い建築の改修や、環境と建築の関係についての研究などを行った。最初の建築作品は同じ浙江省の海寧市に作った青少年センターで、1990年に竣工したが、以後1998年まで実際の建築を手がけていない[1]。その代わりに建築の研究を進め、上海市の同済大学建築・都市計画学院で博士号を2000年に得ている。同年に中国美術学院の建築芸術学院の教授となり、2007年には院長となった[1]。 1997年には妻で同じく建築家の陸文宇(Lu Wenyu)と共に建築事務所「業餘建築工作室」(Amateur Architecture Studio)を開いた[2]。「アマチュア」という事務所名は、中国の都市開発の陰で進んでいた古い街並みの大規模な更地化への批判、それをもたらした「プロによる魂のない建築」への批判が込められていた[1]。 2000年には蘇州大学文正学院の図書館を手掛けたが、これにより2004年の中国建築芸術獎を受賞した[1][2]。2005年に作った「寧波五散房」(Five Scattered Houses in

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きみとバンド (日本のバンド) – Wikipedia

きみとバンドは、日本のガールズバンドである。2020年に愛媛で結成された。所属事務所はタイム。 メンバー[編集] 詳細は各項目を参照。 結成[編集] 秋元康がプロデュースする「ラストアイドル」を卒業した愛媛県東温市出身の清原梨央と、愛媛の最強美人姉妹と称される2人組アイドル「大野姉妹」で松山市出身の大野真依、東温市出身の大野ひまりがスリーピースバンドを結成。 大野姉妹with清原梨央(仮)という仮称のままで、デビューから半年経てバンド名が決定。 バンド名は「今までファンの方や周りの方と共にやってこれた。自分達だけではここまでこれなかった。みんな(きみ)がいるから今がある。これからもみんな(きみ)と一緒に進んでいく。」「脱アイドル、『バンド』として有名になりたい」の願いが込められている。[2] インディーズ・デビュー[編集] 2020年2月27日 初配信シングル「∞yaken」リリース。 2020年3月23日に大野姉妹with清原梨央(仮)という仮称のままで、東京下北沢Gardenにてデビューワンマンライブを行う予定だったがコロナ禍でデビューは4度延期になる。 5度目にようやくデビューし(東京下北沢ガーデン/ 500枚即日完売) そのまま7都市をワンマンデビューツアーで周った。 「スローモーション」「オレンジ色の世界」「へっちゃらなのだ」 2020年8月15日 東京下北沢Gardenにてデビューワンマンライブ 全国7都市デビューツアー 2020年11月3日 セカンドシングル発売 「恋のモンスター」「はなればなれ」「きみとふたり」

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新琴似駅 – Wikipedia

新琴似駅(しんことにえき)は、北海道札幌市北区新琴似8条1丁目にある北海道旅客鉄道(JR北海道)札沼線(学園都市線)の駅である。駅番号はG05。電報略号はコニ。 札沼線は桑園駅から当駅までが高架区間、次の太平駅から終点の北海道医療大学駅まで地上区間となる。 新琴似という地名は、1887年(明治20年)に入植した屯田兵の新琴似兵村に由来する。兵役終了後、新琴似兵村部落会が札沼線敷設に際して駅を置くよう運動して、新琴似駅が設置されることになった。駅設置当時の村の中心は北西側で、周辺は農地だった。後に工場が進出したが戦後に閉鎖、移転してなくなった。1978年(昭和53年)に札幌市営地下鉄南北線の麻生駅ができた頃から宅地化が急速に進み、一帯は全面が市街地になった。 かつては駅東南約300mに札幌市電鉄北線(てつほくせん)の終点である新琴似駅前停留場(しんことにえきまえていりゅうじょう)が設置されていたが、札幌市営地下鉄南北線の麻生駅延伸を待たずして廃止された。 JR北海道[編集] 札幌市電[編集] 相対式ホーム2面2線を有する高架駅。ホームへは階段・エレベータの他に、上下両方向のエスカレーターが設置されている。 2012年5月31日までは八軒駅・新川駅と並び、非電化・高架・複線という珍しい構造の駅だった[注釈 1]。高架化工事中、当駅周辺では一時的に線路を(複線のまま)元の路盤よりも更に北西側(現下り線の更に外側)に振った。現駅舎は旧駅のほぼ真上に構築された。 桑園駅管理の業務委託駅(北海道ジェイ・アール・サービスネットが受託)。みどりの窓口(営業時間7時00分 – 20時00分)・自動券売機・話せる券売機[1]・自動改札機・ICカードチャージ機・セブン-イレブン(北海道キヨスク運営、サンクスから転換)設置。待合室にはパン専門店ベーカリーベル新琴似店(日曜定休)がある。 待合室には石でできた熊の像「新ちゃん」が置かれている。旧駅舎の札幌方面行ホームにあったのを移設したものであるが、誰がいつ頃寄贈したものか分からず、駅で情報を募ったものの分からずじまいであったという。「一度片付けたところ事故が起きた」「いたずらをされたときには駅の売上げが落ちた」などの話もあったことから、新駅完成時にも撤去されず引き継がれている。その後公募によって「新ちゃん」と命名され、季節毎に着せ替えが行われるなど親しまれている。 のりば[編集] (出典:JR北海道:駅の情報検索) 駅出入口(2018年8月) 改札口(2018年8月) ホーム(2018年8月) 駅名標(2017年2月) 利用状況[編集]

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懸賞 (相撲) – Wikipedia

大相撲の懸賞(おおずもうのけんしょう)は、大相撲の取組で勝利した力士に授与される金銭のことである。同時にその懸賞旗を掲げ「広告」を行うことそのものも指す。 2019年(令和元年)9月場所以降、幕内力士の場合1回の取組で1本につき7万円[1]が協賛する企業・団体から提供される。政治利用を避けるため、個人名義の申し込みは認められていない[2][3]。1991年(平成3年)5月場所から2014年(平成26年)3月場所までは1本が6万円、2014年(平成26年)5月場所から2019年(令和元年)7月場所までは1本が6万2000円だった[4]。申し込みは原則として取組5日前まで、取組指定は取り組み前日(千秋楽除く)の14時までを期限とする。 懸賞金7万円のうち、1万円は日本相撲協会の事務経費(取り組み表への掲載費、会場内の懸賞提供アナウンス費及びその際の企業・団体名含め15字以内のキャッチコピー費)として、3万円は納税充当金[注 1]として日本相撲協会が獲得者本人名義の預り金として天引きするので、勝利力士は勝ち名乗りに際し懸賞1本当たり手取りで現金3万円を受け取る[4]。 現金が包まれている熨斗袋(封筒)は東京の麻布十番にある長門屋商店で制作されている。 場内アナウンス例 特定のアナウンスだけが長くならないよう、公平に扱う観点から、15字以内に限られている[4]。 単数「この取組には、フリー百科事典のウィキペディアから、懸賞があります。」 複数(2つの場合)「この取組には、フリー百科事典のウィキペディア、並びに、誰でも記者になれるウィキニュースから、懸賞があります。」 複数(3つないしそれ以上の場合)「この取組には、フリー百科事典のウィキペディア、誰でも記者になれるウィキニュース、並びに、投稿・編集自由な辞書のウィクショナリーから、懸賞があります。」 取組に懸賞金がかけられた場合、仕切中に土俵の回りを呼出がスポンサーの企業名や商品名が書かれた懸賞旗を持って回る。この懸賞旗は、スポンサーを希望する企業が蔵前(東京都台東区)にある専門業者に依頼して制作。その後、相撲協会に持ち込むことになっている[3][4]。懸賞旗は大きさ(縦120cm、横70cm)や旗の上の部分に木の棒、下の部分には金色のモールを付けるなどの厳格な条件がある[4]。 公共放送であるNHKのテレビ中継は、広告放送を禁止した放送法83条に抵触するという判断から、この場面になると遠景からの土俵の撮影に切り替えて、過去1年間の取組対戦成績を記したスーパーを被せる[3]。懸賞を掛けたスポンサー名が読み上げられるため、場内音声を絞った上から解説のコメントを被せる(ただし懸賞の本数について、放送内で言及することはある)。同じくNHKのラジオ中継でも懸賞読み上げの場内音声は絞られ、アナウンサーは勝負の展望やこれまで行なわれた取組の結果を伝える。一方、日本相撲協会ホームページの公式取組映像配信は場内音声もそのまま配信されているため聴くことができる。 横綱・大関クラスの取組ともなると、かなりの数(多い場合は40本以上)の懸賞がかけられる。2005年(平成17年)9月場所千秋楽結びの一番である朝青龍vs栃東は当時史上最多の49本の懸賞がついた。これだけの数になると、仕切りの制限時間の間、懸賞の垂れ幕が土俵を回り続けることになり、仕切りの緊張感を殺ぐという意見が出たため、2006年(平成18年)1月場所からは1つの取組につき50本(東京場所は後述の森永賞を含めて51本)までという制限が設けられた。2006年(平成18年)9月場所千秋楽結びの一番、朝青龍vs白鵬に初の制限いっぱいの51本の懸賞がかけられた。ただし横綱クラスでも毎回のように大量の懸賞がかけられるとは限らない。2008年(平成20年)1月場所で朝青龍の取組にかけられた懸賞は、謹慎処分明けということもあり、横綱としては異例の2本であった[1]。白鵬翔が最多記録となる33度目の優勝を決めた2015年(平成27年)1月場所千秋楽および稀勢の里寛が初優勝を果たした2017年1月場所千秋楽[5]は、懸賞依頼が殺到し、緊急措置として[6]60本(森永賞を含めて61本)の懸賞が設けられ、現在はこれが懸賞最多記録となっている。のちに相撲人気の上昇や懸賞の拡大もあって、2017年(平成29年)3月場所の時点で1つの取り組みにつき最大60本の懸賞が認められている[7]。 懸賞金は原則中入後の取組に懸けられ、十両力士同士の取組は懸けられない[8](唯一の例外として1970年(昭和45年)の輪島vs長浜〈豊山〉)。幕内対十両の取組に懸けることはできる。原則として一場所15日間、毎日懸賞を出すことが求められていたが、2000年(平成12年)からは5本以上であれば1日だけ、あるいは同じ取組に複数本懸賞を出せるようになった。形式は、後援する力士の取組すべてにかけたり、出場力士にかかわらず結びの一番は必ずかけるなど、さまざまである。 相手力士が休場(引退)し、不戦勝となった場合は懸賞を受け取ることができない。この場合既に懸けられていた懸賞については、相撲協会が懸賞を懸けた企業に連絡し、懸け主は同日の他の取組に懸け替えるか、懸賞を取り止めるかのいずれかを選択することになる[4]。例えば2015年(平成27年)5月場所8日目の白鵬vs大砂嵐では40本の懸賞が懸けられていたが、大砂嵐が休場となったため、23本が他の取組に懸け替えられ、17本が取りやめになった[9]。 詳細は「手刀」を参照 懸賞のかかった一番は、行司は勝ち名乗りの後で、軍配の上に懸賞袋を乗せ、勝ち力士に差し出す。この場合、軍配が三方の代用とされる。 勝ち力士はこれを右手で三つ手刀を切ってから受け取るのが現在は普通になっている。これは昭和の大関・名寄岩静男から始まったもので、彼以前はもっと無造作に受け取るのが普通だったが、名寄岩がこれを無作法で見た目にも良くないとして始めたものを他の力士も次第に真似るようになった。 名寄岩によれば、三つ手刀を切る意味は、〝心〟という字を描くということで、手刀の切りかたも(力士当人から見て)左→中央→右の順だった。「勝負をつかさどる三柱の神への感謝の意で、左→右→中央の順で手刀を切る」という、現在の解釈とはやや異なっている。もっとも懸賞を受け取った後、右に払い心の字を切る力士も多い。 懸賞金の制度は古来の伝統に基づいておらず、手刀を切る手の左右に関しては取り決めも存在せず、昭和30年代まで手刀を切る手や切り方も力士によってまちまちだった。これを見かねた元横綱双葉山定次の時津風理事長から通達が出され、「右手で、左、右、中央と手刀を切る」ことが原則とされた。この後も、逆鉾昭廣(後の井筒)のように左利きの力士が左手で手刀を切っても特別に問題視されることもなかったが、左利きである横綱朝青龍明徳が左手で手刀を切って懸賞金を受け取ったときに、横綱審議委員会の内舘牧子がそれを問題視し、以後、原則の厳格化が進んだ[10]。

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