青柳種信 – Wikipedia
青柳 種信(あおやぎ たねのぶ)は江戸時代後期の国学者[1]、福岡藩士。沖ノ島御番中に記した『瀛津島防人日記』、藩公式の地誌『筑前国続風土記拾遺』の編纂、三雲南小路遺跡出土物の研究等で知られる。 生い立ち[編集] 明和3年(1766年)2月20日、筑前国福岡城下地行六番町下之組、西側往還から10軒目に生まれた。父勝種は江戸や長崎、沖ノ島へ度々赴任して家を開けることが多かったため、安永5年(1776年)荒戸四番町馬廻組長浜九郎右衛門の許に預けられ、学芸を学んだ。 安永7年(1778年)3月父が隠居したため、青柳家に戻り家督を継いだ。安永10年(1780年)麁原村顕乗寺東隣金山家宅を借り、兄が養子に入った井本家と同居した。 2度の江戸勤番[編集] 天明2年(1782年)江戸詰となり、天明4年(1784年)江戸藩邸で侍講井土南山に左国史漢を学び、天明6年(1786年)村山新兵衛が藩邸寄合長屋に開いた学舎で子弟の教育に当たった。天明6年(1786年)南山と共に香取神宮、鹿島神宮、筑波山等を巡り、11月19日帰国した。 帰国後、南山の紹介で天明7年(1787年)秋月藩藩校稽古館に入学した。また江戸滞在中に国学に関心を持ち、帰国後島井俊雄、田尻道足、細井三千代麿と交流を持った。3人から本居宣長高弟小篠道冲が長崎に向かったことを聞くと、同僚の佐賀出張を肩代わりして長崎まで足を伸ばしたが、行き違いになり天明8年(1788年)帰国した。 寛政元年(1789年)再び江戸詰となると、往路同僚と分かれて一人伊勢神宮に参詣し、松坂で本居宣長に会見した。江戸では野田諸成、加藤千蔭、青木菅根、村田春海、山本季鷹、久志本織江等と交流した。寛政2年(1790年)京都に上り、天明の大火で焼失した御所の仮宮遷幸の儀を拝し、江戸に戻った。 国元勤務[編集] 寛政6年(1794年)2月19日帰国後、3月18日沖ノ島御番を命じられ、滞在中『瀛津島防人日記』を著し、8月5日帰郷した。8月下旬、地行四番町上讃井家宅を借りて独居した。寛政7年(1795年)3月から寛政8年(1796年)春まで長崎に赴任した。寛政11年(1799年)妻の実家地行三番町久野家宅に移った。 寛政11年(1799年)組小頭木立藤次に代わって普請役所に勤め、享和2年(1802年)11月と享和3年(1803年)2月長崎に出張し、茶屋普請を監督した。享和3年(1803年) 鳥飼村入口に転居した。文化元年(1804年)香椎宮奉幣において普請小頭として社殿等修造に当たった。文化3年(1806年)3月18日香椎大宮司武内出雲守、木下薩摩守に付き添い上京して二条治孝に会見し、上田百樹、村上潔夫、千家俊信等と交流し、8月4日帰国した。 文化5年(1808年)2月浦方附頭取となり、8月15日フェートン号事件が起こると長崎で防備に当たった。文化7年(1810年)1月清輸出用俵物の数量が合わないことが発覚したため、長崎詰普請役直井剛八の下で浦方を調査し、鐘崎産鮑が兵庫港に直送されていることを突き止め対処した。 文化9年(1812年)7月伊能忠敬測量隊が来藩すると、領内の案内役を務めて『宗像宮略記』『後漢金印略考』を書き贈り、学識を絶賛された。文化9年(1812年)11月15日大坂廻米の任に当たり、12月24日帰国した。文化10年(1813年)伊能忠敬の第三次測量隊が来藩した時には、病気のため随行できなかった。 文化11年(1814年)5月4日国学家業城代組、6月10日右筆記録方となり、7月23日『続筑後風土記』編纂のため故実調査を行った。文政元年(1804年)鳥飼入口の自宅が大風の被害を受け、鳥飼茶屋之内に移った。 死去[編集] 天保5年(1834年)12月痰飲を患い、天保6年(1835年)2月初め悪化し、妻と共に病床に伏した。3月中旬腫気を生じ、唐人町の医師栗田元謙の診療により5月中旬快復に向かったが、8月30日妻に先立たれると、自身も12月17日に死去した。当初麁原山石丸に葬られたが、後に顕乗寺に移葬された。 大正5年(1916年)11月15日贈従四位[12]。
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