Month: October 2019

青柳種信 – Wikipedia

青柳 種信(あおやぎ たねのぶ)は江戸時代後期の国学者[1]、福岡藩士。沖ノ島御番中に記した『瀛津島防人日記』、藩公式の地誌『筑前国続風土記拾遺』の編纂、三雲南小路遺跡出土物の研究等で知られる。 生い立ち[編集] 明和3年(1766年)2月20日、筑前国福岡城下地行六番町下之組、西側往還から10軒目に生まれた。父勝種は江戸や長崎、沖ノ島へ度々赴任して家を開けることが多かったため、安永5年(1776年)荒戸四番町馬廻組長浜九郎右衛門の許に預けられ、学芸を学んだ。 安永7年(1778年)3月父が隠居したため、青柳家に戻り家督を継いだ。安永10年(1780年)麁原村顕乗寺東隣金山家宅を借り、兄が養子に入った井本家と同居した。 2度の江戸勤番[編集] 天明2年(1782年)江戸詰となり、天明4年(1784年)江戸藩邸で侍講井土南山に左国史漢を学び、天明6年(1786年)村山新兵衛が藩邸寄合長屋に開いた学舎で子弟の教育に当たった。天明6年(1786年)南山と共に香取神宮、鹿島神宮、筑波山等を巡り、11月19日帰国した。 帰国後、南山の紹介で天明7年(1787年)秋月藩藩校稽古館に入学した。また江戸滞在中に国学に関心を持ち、帰国後島井俊雄、田尻道足、細井三千代麿と交流を持った。3人から本居宣長高弟小篠道冲が長崎に向かったことを聞くと、同僚の佐賀出張を肩代わりして長崎まで足を伸ばしたが、行き違いになり天明8年(1788年)帰国した。 寛政元年(1789年)再び江戸詰となると、往路同僚と分かれて一人伊勢神宮に参詣し、松坂で本居宣長に会見した。江戸では野田諸成、加藤千蔭、青木菅根、村田春海、山本季鷹、久志本織江等と交流した。寛政2年(1790年)京都に上り、天明の大火で焼失した御所の仮宮遷幸の儀を拝し、江戸に戻った。 国元勤務[編集] 寛政6年(1794年)2月19日帰国後、3月18日沖ノ島御番を命じられ、滞在中『瀛津島防人日記』を著し、8月5日帰郷した。8月下旬、地行四番町上讃井家宅を借りて独居した。寛政7年(1795年)3月から寛政8年(1796年)春まで長崎に赴任した。寛政11年(1799年)妻の実家地行三番町久野家宅に移った。 寛政11年(1799年)組小頭木立藤次に代わって普請役所に勤め、享和2年(1802年)11月と享和3年(1803年)2月長崎に出張し、茶屋普請を監督した。享和3年(1803年) 鳥飼村入口に転居した。文化元年(1804年)香椎宮奉幣において普請小頭として社殿等修造に当たった。文化3年(1806年)3月18日香椎大宮司武内出雲守、木下薩摩守に付き添い上京して二条治孝に会見し、上田百樹、村上潔夫、千家俊信等と交流し、8月4日帰国した。 文化5年(1808年)2月浦方附頭取となり、8月15日フェートン号事件が起こると長崎で防備に当たった。文化7年(1810年)1月清輸出用俵物の数量が合わないことが発覚したため、長崎詰普請役直井剛八の下で浦方を調査し、鐘崎産鮑が兵庫港に直送されていることを突き止め対処した。 文化9年(1812年)7月伊能忠敬測量隊が来藩すると、領内の案内役を務めて『宗像宮略記』『後漢金印略考』を書き贈り、学識を絶賛された。文化9年(1812年)11月15日大坂廻米の任に当たり、12月24日帰国した。文化10年(1813年)伊能忠敬の第三次測量隊が来藩した時には、病気のため随行できなかった。 文化11年(1814年)5月4日国学家業城代組、6月10日右筆記録方となり、7月23日『続筑後風土記』編纂のため故実調査を行った。文政元年(1804年)鳥飼入口の自宅が大風の被害を受け、鳥飼茶屋之内に移った。 死去[編集] 天保5年(1834年)12月痰飲を患い、天保6年(1835年)2月初め悪化し、妻と共に病床に伏した。3月中旬腫気を生じ、唐人町の医師栗田元謙の診療により5月中旬快復に向かったが、8月30日妻に先立たれると、自身も12月17日に死去した。当初麁原山石丸に葬られたが、後に顕乗寺に移葬された。 大正5年(1916年)11月15日贈従四位[12]。

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貨車車票 – Wikipedia

貨車車票(かしゃしゃひょう)は貨車の両側面に掲出されて貨車の行き先、積み荷、荷受人などを示す紙片である。車票と略称される。発駅で作成され、途中駅での貨車の仕分けや着駅での積み荷の引き渡しにあたって参照される。貨車の両側面には、車票を掲出するための額縁として車票サシが設けられている。 放射性物質、危険品など、特別な注意を要する貨物を積載する貨車には、その旨を表示するために、車票に加えて貨車表示票が使用される。貨車の車票サシのそばには、貨車表示票を挿入するための表示票サシが設けられている。 発駅の駅長は、貨物の積み付け、封印などに異常がないことを確認したうえで車票および表示票をそれぞれ車票サシおよび表示票サシに挿入する。着駅の駅長は、貨物の取り卸しが終わったときに車票および表示票を貨車から取り除く。 車票はコレクションの対象となっており、鉄道会社のイベントで販売されたり、インターネット上のオークションで取引されたりしている。輸送中の貨車から車票が抜き取られる盗難事件も発生し、問題となっている。 なお、中国語の「車票」は「乘車票」の略称であり、乗車券を意味する。 JR貨物の車票と表示票[編集] 日本貨物鉄道(JR貨物)の車票はボール紙でつくられており、その幅は252ミリメートル、その高さ205ミリメートルである。白地に黒色の文字および罫線が印刷されており、種類によってはさらに赤色または緑色の線が加えられている。 種類[編集] JR貨物の車票には3種類があり、積み荷に応じて使い分けられている。 普通車票 危険品車票も電算処理車票も使用しないときに使用する。 危険品車票 逆T字状の赤色の太線が印刷されている。危険品のみを積載した貨車に使用する。 電算処理車票 L字状の緑色の太線が印刷されている。本社運輸技術部長が指定した列車に連結する貨車に使用する。 記載事項[編集] 3種類の車票の様式は、赤色または緑色の太線の有無を除いて同一であり、次の事項が記入される。 発駅 貨物の発駅名を記入する。2駅発の車扱貨物積車については第1発駅の名称を記入する(第2発駅は着駅の欄に記入する。)。 発駅コード

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公共放送サービス – Wikipedia

「PBS」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「PBS (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この記事は英語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年2月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 英語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|PBS}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 公共放送サービス(英語: Public Broadcasting Service, PBS)は、アメリカ合衆国で会員数349のテレビ放送局を有する、非営利・公共放送ネットワークである。PBSの本部はバージニア州アーリントンに置かれている。PBSはその前身であるNETの後継団体として1969年に設立され、1970年10月にPBSとしての放送が開始された。 情報:List of PBS member stations

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五徳のホルトノキ – Wikipedia

五徳のホルトノキ(ごとくのホルトノキ)は、福岡県田川郡香春町の菅原神社境内に生育していたホルトノキの巨木である[1][2]。推定の樹齢は500年以上とされ、菅原神社の神木として地元の人々の信仰対象になっていた[1]。ホルトノキの代表的な巨木として、福岡県指定天然記念物や「新日本名木100選」に選定されるなどその名を知られていたが、1992年(平成4年)9月に台風の被害を受けて倒壊している[1][2]。 香春町は筑豊を形成する自治体の1つで、町域の中西部には香春岳がそびえている[1]。香春岳は三つの山で構成されていて、南から一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と呼ばれている[1][3]。一ノ岳、二ノ岳はセメント採掘によって登山は禁止され、三ノ岳のみが登山可能である[3]。この山は五木寛之の小説『青春の門』の舞台としても知られている[1]。 ホルトノキは千葉県以西の本州、四国、九州、沖縄の暖地に分布する常緑高木で、別名を「モガシ」ともいう[1][4][5]。樹皮は灰褐色を呈し、樹皮と枝葉の煎汁を大島紬の黒褐色の染料として用いる[1][5]。分布域は広く、大きく育ったものは樹高が30メートルに達するが、巨木は少ない[1][5]。 五徳のホルトノキは、香春岳の一ノ岳西側に鎮座する菅原神社の裏山にある常緑樹林の中で生育していた[1][2]。推定の樹齢は500年以上とされ、樹高は17メートル、幹廻りは6.1メートル、枝張りは四方に6.7メートルから14.6メートルを測っていた[1]。樹形は傘状に広がり、地上2メートルほどのところに大きな空洞ができていた[1][2]。この木にはネズミモチやヤブニッケイなどの樹木が着生し、ツタ類が巻き付いていた[1]。 地元の人々はこの木を神木として敬い、菅原神社の祭礼や催しの際にはしめ縄を張り、酒を振りかけていた[1]。菅原神社の境内は、毎年夏の盆が近づく時期に地元の子供会が清掃して木の保護を心掛けていた[1]。この木はホルトノキの代表的な巨木として福岡県指定天然記念物に指定され、1990年(平成2年)に開催された「国際花と緑の博覧会」に合わせて企画された「新日本名木100選」では、福岡県から唯一選定された[1][6]。 五徳のホルトノキは、写真家の渡辺典博が1991年(平成3年)に訪問したときには左側に伸びていた大枝が数本枯死していたが、右側の幹から伸びる枝の生育は良好だった[2]。しかし、1992年(平成4年)9月の台風で大きな被害を受け、倒壊した[2]。 交通アクセス[編集] 所在地 福岡県田川郡香春町五徳 菅原神社境内  交通 ^ a b c d e f g h

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資材購買 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “資材購買” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月) この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年11月) 資材購買(しざいこうばい)とは製造業での生産部門における機能のひとつである。定められた品質の「資材」を「調達」し、「価格」をコントロールし、資材の「在庫」をコントロールする機能部署というものが一般的である。 基本的な機能[編集] 図面等で定められた一定品質の材料・部品を必要なタイミングで調達し、製造ラインに供給する。 適切な価格で買えるよう改善する。諸条件、環境の変化に応じて価格をコントロールする。 適切な在庫量になるよう諸条件を改善する。急激な需要増に対しては、ある程度高くても買い集める、急激な需要減に対してはできる限り調達を控える。最適な在庫金額を維持できるように努力する。 資材マンに求められる資質[編集] 安ければ安いほどいい、仕入先の都合はなにも考えなくてもいい、自分の会社だけが儲かればいいという考え方では、取引は長続きしない。 公正明大なこと。業務的に不正を起こしやすいので、倫理的に自分を律することができる資質が重要。 商売上手なこと。自分も儲けなければならないが、相手の儲けも考えられるようにする。相手が儲けのない商売では、向こうはやりたくなくなる、手を抜きたくなるので、やはり取引は長続きしない。 自分が買っているものを知ろうと努力すること。自分がどんなものを買っているのか、よく知ることが必要。どんな材料でどのような作り方をして、どのような使われ方をしているのかわからないのに、いいものを安く買うことはできない。

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霰 (朝潮型駆逐艦) – Wikipedia

霰(あられ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[1]。一等駆逐艦朝潮型の10番艦(最終艦)である[2]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「霰」に続き2隻目。朝潮型は速力と航続距離の性能不足の面から霰をもって建造が打ち切られ、以降は新設計の陽炎型駆逐艦が建造された。 太平洋戦争まで[編集] 1936年(昭和11年)12月14日、海軍省は建造予定の水上機母艦2隻に千代田と瑞穂、朝潮型駆逐艦2隻に峯雲と霰の艦名を与える[1]。舞鶴海軍工廠で建造された朝潮型は、2番艦大潮と霰のみである。霰は1937年(昭和12年)3月5日に起工[3]。同年11月16日に進水[3][4]。空母飛龍と同日附の進水である[4]。 1938年(昭和13年)3月15日、吹雪型駆逐艦磯波駆逐艦長大原利通少佐は霰の艤装員長に任命される[5]。3月23日、舞鶴海軍工廠に霰艤装員事務所を設置する[6]。 1939年(昭和14年)3月1日、大原艤装員長は正式に霰初代駆逐艦長となる[7]。同日附で霰艤装員事務所を撤去[8]。霰は4月15日に竣工した[3]。 7月10日、第18駆逐隊司令として久宗米次郎大佐が着任[9]。霰も同駆逐隊に編入された。 同年11月6日、陽炎型駆逐艦1番艦陽炎が竣工し、第18駆逐隊(霞、霰)に編入される[10]。 11月15日、第18駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に編入された[10]。同時に第二水雷戦隊司令官も後藤英次少将から五藤存知少将に交代[11]。第二水雷戦隊旗艦も川内型軽巡洋艦3番艦那珂から川内型軽巡2番艦神通に変更される[12]。 また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦川内艦長へ転任[13]。新司令として佐藤寅次郎大佐が着任した[14]。 12月20日、陽炎型2番艦不知火が竣工して第18駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた[10]。 1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に第18駆逐隊の僚艦と共に参加[15]。18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。12月7日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から荒木傳大佐に交代[16]、佐藤大佐は翌年3月31日より第4駆逐隊初代司令となる[17]。 1941年(昭和16年)9月1日、荒木大佐(18駆司令)は軽巡北上艦長へ転任[18]、新司令として駆逐艦初霜、漣、電艦長等を歴任した宮坂義登大佐(前職、第30駆逐隊司令)が着任した[19]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将も第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転出、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった[20]。 9月20日、霰駆逐艦長は大原中佐から吹雪型駆逐艦磯波駆逐艦長緒方友兄少佐に交代する[21]。 それまで第18駆逐隊司令駆逐艦は臨時移動以外霰に指定されていたが、9月29日より不知火に変更された[22]。 太平洋戦争[編集] 太平洋戦争開戦時の第18駆逐隊(駆逐隊司令:宮坂大佐)は朝潮型2隻(霰、霞)、陽炎型駆逐艦2隻(陽炎、不知火)で編制されていた。さらに第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)は軽巡神通を旗艦とし、第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)、第18駆逐隊で編制されていた。だが第8駆逐隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦:重巡洋艦愛宕)直率の南方部隊本隊に編入されている。第18駆逐隊も第二水雷戦隊の指揮下を離れ、南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将)の警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官:旗艦阿武隈)に編入[23]。第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)および陽炎型19番艦秋雲(第五航空戦隊所属[24])と行動を共にした。 1941年(昭和16年)11月26日、ハワイ攻撃機動部隊の空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。緒方(霞艦長)によれば、朝潮型駆逐艦には航続力の点で不安があったため燃料を入れた大量の18リットル缶を艦内に積み上げており、煙草も吸えなかったという[25]。12月14日から呉海軍工廠で修理を行った。 1942年(昭和17年)1月8日、呉を出港して引き続き南雲機動部隊を護衛する。ラバウル攻撃を筆頭に、2月には第二航空戦隊のポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加した。4月23日、呉に帰着して入渠整備を行った[26]。一連の作戦終了後、機動部隊の護衛を主任務とする第十戦隊(旗艦長良)の新編にともない、第18駆逐隊は原隊(第二水雷戦隊)に復帰[27]。当時の第18駆逐隊は第1小隊(不知火、霞)、第2小隊(陽炎、霰)という編制である[28]。また第8駆逐隊が第二水雷戦隊からのぞかれた[29]。 5月下旬、第二水雷戦隊(神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊)はサイパンに集結。6月上旬のミッドウェー海戦には攻略部隊輸送船団の護衛として参加した[30][31]。6月8日、18駆は第七戦隊(司令官栗田健男少将)の指揮下に入る[32]。6月14日に第七戦隊を護衛してトラックに帰投。大破した重巡洋艦最上を同地に残し、6月23日、第18駆逐隊は第七戦隊の重巡洋艦熊野、鈴谷を護衛して呉に帰投した[33]。

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向き – Wikipedia

この項目では、正負の向きについて説明しています。ベクトルや座標の向きについては「方向」をご覧ください。 数学における実ベクトル空間の向き(むき、orientation) または向き付けとは、基底の順序付き組に対し「正」の向きまたは「負」の向きを指定する規約のことである。3次元ユークリッド空間における2種類の向きはそれぞれ右手系や左手系(あるいは右キラル・左キラル)と呼ばれる。しばしば右手系が正の向きにとられるものの、右手系を負の向きとするような向き付けももちろんありうる。 実ベクトル空間における向きの概念を基礎として、実多様体などの様々な幾何学的対象にも向きを考えることができる。 Vを(0でない:とくに断らない限り以下同様)実ベクトル空間とし、b1 = (b1(1)…b1(n)), b2 = (b2(1)…b2(n))をVにおける二つの(順序付き)基底とする。線形代数の基礎的な結果によって、正則線形変換 A : V → V でb1をb2に移すようなものが一意的に存在する。Aの行列式が正のとき、b1 と b2は同じ向きを持つと言われる。そうでない場合にはこれら二つの基底は逆の向きを持つと言われる。同じ向きを持つという関係は基底の集合上に同値関係を定めており、Vが 0 次元でなければこの同値関係はちょうど二つの同値類を持つことになる。V上の向き付けとはこのうち片方に +1

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アミノフィリン – Wikipedia

アミノフィリン(Aminophylline)とは、キサンチン誘導体のアルカロイドの1つであるテオフィリンに、1⁄2当量のエチレンジアミンを加えて、水溶性を高めた薬剤である。 アミノフィリンは、強心作用、利尿作用、気管支平滑筋弛緩作用などを有する[1][2]。ただし、この生理作用の本体は、テオフィリンによる。テオフィリンは血液脳関門も突破するため、末梢だけでなく中枢神経系にも作用する。 ホスホジエステラーゼの阻害薬であり[3]、細胞内でのcAMPを増加させる。また、アデノシン受容体をブロックする。これらの作用によって、気管支平滑筋を弛緩させる。さらに、中枢神経系を興奮る作用も有し、呼吸興奮作用も有する。 効能・効果[編集] 経口薬では、気管支喘息、喘息性(様)気管支炎、閉塞性肺疾患(肺気腫、慢性気管支炎など)における呼吸困難、肺性心、鬱血性心不全、心臓喘息(発作予防)が承認されている。 注射薬では他に、肺水腫、心臓喘息(発作治療)、チェーン・ストークス呼吸、狭心症(発作予防)、脳卒中発作急性期、早産や未熟児の原発性無呼吸 が加わる。 注射薬はアナフィラキシーの治療にも用い得る[4]。外用薬として使用すると、局所の体脂肪を減少させるとの研究がある[5]。心停止への応用が検討された事もあるが、有効性を示せなかった[6][7]。 重大な副作用には、 が挙げられている[8][9]。 なお、アミノフィリンの薬効本体であるテオフィリンは、血中濃度8〜20 (µg/mL)が治療域であり、それを超えると中毒症状が発生する。典型的には悪心・嘔吐等の消化器症状や心拍数増加(100〜120/分)に始まり、呼吸促進、不整脈、痙攣・中枢症状へと進む。 薬物動態[編集] 錠剤を服用してから最高血中濃度に達するまでの時間(Tmax)は平均1.43時間、血中半減期(T1/2)は9.61時間前後である。 アミノフィリンの注射剤は、テオフィリンに結合性溶解補助剤として、エチレンジアミンを添加して可溶化(英語版)した製剤である。エチレンジアミンは、テオフィリンと複合体を形成して、溶解度の高い状態になる。なお、テオフィリンの場合は、エチレンジアミン以外に、酢酸ナトリウムも結合性溶解補助剤として使用できる[10]。 ^ 獣医学大辞典編集委員会『明解獣医学辞典』チクサン出版社、1991年。ISBN 4885006104。 ^ 伊藤勝昭他『新獣医薬理学 第二版』近代出版、2004年。ISBN 4874021018。

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サンゴーカメラ – Wikipedia

サンゴーカメラは、東京都豊島区東池袋1-21-1[1]にかつて存在したカメラを中心とした家電量販店。1981年に永豊企業株式会社のカメラ事業部門として設立された[2]。35(SUNGO)カメラとも表記される(読みは同じ)。 池袋駅東口のサンシャイン60通りに店舗を構える。1980年代当時、同じく東池袋に店舗を持つビックカメラやさくらやと競争を繰り広げ、価格面ではライバル店に負けない程の評判があった。1980年代末には、隣接する系列店と併せた複合ビルにすべく、店舗建物の改築工事に着手した[3]。 1991年、テックサンゴー(TECH35)としてリニューアルオープン。「女性客に心地良い空間」をテーマとし、火野正平をイメージキャラクターに起用。改築前の倍に増えた売り場面積を利用し、声掛けや呼び込みも廃してゆったりと買い物ができるような売り場とした[4]。しかし、開店直後に長期休業という予期せぬ事態が発生。ソレによる客の流れの変化に加え、価格競争を離脱した事から客離れが著しく、ほどなく閉店・廃業した。 テックサンゴービル[編集] 池袋の店舗跡[注 1]には1993年にセガ・エンタープライゼス(現・セガ)が大型アミューズメントセンター「池袋GIGO」を出店[5]し、約19年の間セガが直営。2012年にはセガのアミューズメント施設運営事業を子会社「セガ エンタテインメント」に分離したことなど複数の要因により2013年『セガ池袋GIGO』に改称。2020年には「セガ エンタテインメント」が株式会社GENDAに譲渡され(その後、社名をGENDA SEGA Entertainment→GENDA GiGO Entertainmentに改称)セガ関連の会社が運営する体制は終わったが、「セガ池袋GIGO」という名称はそのままであった。 2015年、ヒューリックが当店ビルを取得[6]。2020年にはイリュウインベストメントがヒューリックから当店ビルを取得している[7]。 2021年、GENDA SEGA Entertainmentはセガ池袋GIGOが入るビル施設との賃貸借契約満了およびビルのリニューアルが行われることを理由とし、同年9月20日をもって「セガ池袋GIGO」を閉店[7]。その後、ビルのリニューアル工事が行われ、建物名を「ラグーン池袋ビル」に改称[8]。「ラグーン池袋ビル」はトレーニングジム「UNDEUX」[9]、100均ショップ「ダイソー」[10]などが入居する商業ビルとなり、GENDA SEGA Entertainmentから社名変更したGENDA GiGO Entertainmentは当ビルの地下1階~地下2階に「GiGO

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ファンシーブルー – Wikipedia

ファンシーブルー マイケル・テイバーの勝負服(青帽) 欧字表記 Fancy Blue[1][2] 品種 サラブレッド[2] 性別 牝[2] 毛色 鹿毛[2] 生誕 2017年2月2日(5歳)[1] 父 ディープインパクト[1][2] 母 チェンチコヴァ[1][2] 母の父 Sadler’s Wells[1][2]

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