Month: January 2020

諸葛靚 – Wikipedia

諸葛 靚(しょかつ せい、生没年不詳)は、中国三国時代に魏・呉に仕えた武将。字は仲思。徐州琅邪郡陽都県の出身。諸葛誕の末子。子は諸葛頤(中国語版)・諸葛恢。諸葛瑾・諸葛亮とは同族にあたる。 晋の武帝司馬炎とは幼なじみである。 257年、父の諸葛誕が司馬昭に対して反乱を起こした際、救援を得るための人質として諸葛靚は呉に送られた。翌258年、諸葛誕の乱が鎮圧されると、父は討ち死にし、三族は皆殺しとなった。そのため、行き場を失った諸葛靚はそのまま呉に留まり、仕官することとなった。 孫晧が皇帝に擁立されると、諸葛靚は重用され呉の官職を歴任し、右将軍に昇った。 265年9月、孫晧が建業から荊州の武昌に遷都した際、左御史大夫の丁固と共に建業の守りを任された。 266年10月、永安の山賊である施但らが反乱を起こし、孫晧の異母弟である永安侯孫謙を脅迫して同行させ、一万余の徒党を率いて建業に攻め上った。施但は孫謙を皇帝に立てて勅命を出させたが、諸葛靚はただちにその使者を斬った。さらに丁固と共にこれを牛屯で迎え撃って散々に破り、孫謙を保護したが、孫謙は自殺した(『呉書』には孫晧による毒殺とある)。 268年、孫晧に合肥攻撃を命じられ、丁奉と共に軍を進めた。 280年、晋が六方向より大挙して攻めてきたので、諸葛靚は大司馬・副軍師として丞相張悌・丹陽太守沈瑩・護軍将軍孫震と共に3万の兵を率いて長江を渡り、晋の城陽都尉である張喬率いる7千の軍を包囲攻撃をしてこれを降伏させた。諸葛靚はこの際、張喬らは切羽詰って援軍が直ぐには来ないために一時的に降伏したに過ぎず、全員穴埋めにして全軍の士気を挙げるべきだと主張したが、聞き入れられなかった。 その後、沈瑩は青巾兵と呼ばれる精鋭5千を率いて晋の軍を攻撃したが、三度攻撃をかけても落とすことは出来ず、撤退しようとしたところで軍が混乱を起こし、それに乗じて晋軍が攻撃を仕掛けてきたため、沈瑩の軍は壊滅した。これを契機とし、呉の他の軍も次々に敗れ去り、一度は降った張喬らもやはり裏切って、背後から呉の軍を攻撃した。 諸葛靚は600の敗残兵を取りまとめて撤退しようとし、張悌の下に共に逃げるように使者を送ったが、張悌はその場を動こうとしなかった。諸葛靚は自ら赴いて張悌の袖を引っ張って説得し、撤退しようとしたが、張悌はこれを拒絶したため、涙を流して袖を離した。張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛靚は孫奕らとともに司馬伷に降伏した。 呉が晋によって滅ぼされると、司馬炎は昔の誼もあり、彼を侍中に取り立てようとした。だが彼は固辞して受け入れず、そのまま隠遁してしまった。晋への恨みを忘れず、決して晋の都である洛陽のある方向を向かなかったという。 朝廷において宴会が催された際、孫晧が「あなたの字は仲思というが、なにを思っているのかね?」と訊ねた。諸葛靚は「家にあっては孝行を思い、君主に対しては忠勤を、朋友に対しては信実を思っております。それだけのことでございます」と答えた。孫晧は満足し、諸葛靚の肩を叩き笑いながら去っていった。 呉が滅んだ後、司馬炎は諸葛靚とどうにかして連絡を取ろうしたが、彼は取り合おうとはしなかった。司馬炎の叔父の司馬伷は、諸葛靚の姉を妃としていた。そこで、司馬炎は諸葛妃に頼みこんで諸葛靚を招かせ、諸葛靚が入るのを見計らって、司馬炎も部屋に入った。諸葛靚が廁まで逃げていくのを、司馬炎は追いかけて顔を合わせた。挨拶がおわり酒がめぐったとき、司馬炎が「今日ようやく再会できた。あなたはかつての竹馬の交わりを覚えているかね?」と訊ねた。諸葛靚は「臣は炭を呑んで漆を身に塗る(恩を受けた人間の仇をとろうとした豫譲の故事)ことができず、今日ふたたびご聖顔を拝することになってしまいました」と言うなり、涙をはらはらと流した。それを見ているうちに、司馬炎は恥ずかしくなり部屋を出ていった。 諸葛靚は文雅端正にして才能徳望があったという。 また、孝行ぶりを極めたものとして後の世にも評判となり、「嵆紹・諸葛靚の二人を見て、はじめて忠孝の道が理解できるのだ」と、称賛を受けた。 子の諸葛恢は西晋・東晋に仕えた。名臣との呼び声高く、尚書令にまで栄進した。

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ラキヤ (飲料) – Wikipedia

特別なボトルのラキア、セルビアの全国飲料 各種のラキヤのボトル ラキヤ(ブルガリア語: ракия / rakiya、マケドニア語: ракија / rakija、セルビア語: ракија / rakija、ボスニア語: rakija、クロアチア語: rakija)、ラキア(アルバニア語: Rakia)、あるいはラキウ(ルーマニア語: rachiu)は、発酵させた果実から作られる蒸留酒であり、バルカン半島諸国で一般的に生産・飲用されている。通常、ラキヤのアルコール度数は40%程度であるが、自家製のものではより度数の高いものもあり、典型的には50%ないし60%程度である。名称はトルコの蒸留酒ラクに由来するが、ラクとは異なる飲料に発展したものである。 ブルガリアのラキヤ蒸留装置 ラキヤは、南スラヴ人たちの国民的飲料であると見られている。幅広くみられるものとしては、スモモから作られるシュリヴォヴィツァや、ブドウから作られるグロズドヴァ(grozdova)などがある。それ以外では、モモやアンズ、リンゴ、ナシ、サクランボ、イチジク、マルメロなどを用いたものもある。セルビアやブルガリアなどでは、複数の果物を混ぜ合わせたラキヤもある。イストリア半島では、ラキヤは主にブドウのみから作られ、当地ではトラパ(trapa)やグラッパ(grappa)などと呼ばれる。グラッパという呼び方は、イタリアでも見られる。スモモやブドウのラキヤは、蒸留後に味付けとして他の材料が加えられることもあり、ハーブやハチミツ、スミミザクラ、クルミなどが用いられる。 ラキヤの種類と名称[編集] 原料となる果物の種類によって、さまざまなラキヤがある。

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石井公成 – Wikipedia

ISHII, Kosei 石井 公成 生誕 石井 公成1950年東京都立川市 研究分野 仏教と周辺文化 研究機関 駒澤大学 出身校 早稲田大学 博士課程指導教員 平川彰 博士課程指導学生 李子捷 主な業績 N-Gramを利用した仏教漢文典籍の分析 影響を与えた人物

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イー・ガーディアン – Wikipedia

イー・ガーディアン株式会社は、東京都港区に本社を置くネット風評監視サービスを行なう会社。 会社概要[編集] 代表者名[編集] 本社[編集] 東京都港区虎ノ門1-2-8 虎ノ門琴平タワー8F[1] 資本金[編集] 36,428万円(2020年3月末日現在)[1] 事業内容[編集] 関連会社[編集] EGセキュアソリューションズ株式会社[1] 株式会社グレスアベイル[1] EGテスティングサービス株式会社[1] E-Guardian Philippines Inc.[1] イー・ガーディアン東北株式会社[1] 株式会社ジェイピー・セキュア[1] 加盟団体[編集] 6月

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階上村 – Wikipedia

青森県三戸郡階上村については「階上町」をご覧ください。 階上村(はしかみむら)は、1955年(昭和30年)まで宮城県本吉郡にあった村。現在の気仙沼市波路上・長磯・最知・岩月の各地区にあたる。 沿革[編集] 1875年(明治8年)10月17日 – 水沢県による村落統合により、波路上村・長磯村・最知村・岩月村の計4か村が合併して階上村が成立。 1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行にともない、階上村単独で村制施行。 1955年(昭和30年)4月1日 – 大島村・新月村と共に気仙沼市に編入される。 津波被害[編集] 1896年(明治29年)6月15日 – 明治三陸地震。死者442人・負傷者117人(村の人口2,622人)。犠牲者の大部分は明戸部落(現・気仙沼市波路上明戸)の住民であった(部落の人口588人のうち、死者433人・負傷者114人)。 1933年(昭和8年)3月3日 – 昭和三陸地震。死者1人・負傷者1人。 歴代村長[編集]

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捏造 (科学) – Wikipedia

科学的探求および学術研究における捏造(ねつぞう、でつぞう、英: Fabrication)は、存在しないデータ、研究結果等を、あたかも自分が実施したかのように意図的に作成し、研究成果や学業成果として学術出版、論文、書籍、申請書、レポート(調査や研究等の報告書、学校で課題として提出する小論文)などで発表・申請・提出、あるいは口頭で発表する行為である。 研究における捏造行為は、研究公正・研究倫理に違反する行為であって、一般的には法律に抵触せず犯罪として扱われない[1]。しかし、重大な捏造行為は詐欺罪などの犯罪に該当することが多い。 日本を含めほとんどの先進国では、学術界の不正行為を捏造、改竄、盗用の3つと定義しており捏造は科学における不正行為とみなされる。 2014年に文部科学省は捏造、改竄、盗用の3つを「特定不正行為」と命名した[2]。白楽ロックビルは、「研究不正」に対応させた「研究ネカト」と呼ぶことを提唱している[3] 。 学術界では理系分野に限定せず、心理学、法学、文学などを含め、すべての分野を対象に、大学教員、研究者、大学院生に捏造を禁じている。 米国の高等教育界では、捏造行為を重大な学業不正の1つとみなし、大学院生、学部生に禁じている。重大な捏造をすればほぼ退学処分になる。学位論文審査で発覚すれば、捏造の質と量に応じ警告レベルから学位の不授与や退学処分まである。また、一度授与された学位でもはく奪されることが多い。 一方、日本の高等教育界では学則で禁止していた大学は少なかったが、最近学則で禁止するようになり、「けん責」、「停学」、「退学」処分と記述するようになった。 日本[編集] 基本は、2006年の文部科学省のガイドライン「研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて」である[4]。このガイドラインを、2014年8月26日に改訂した[2]。前文は変更されたが、「改竄」の定義の変更はない。以下、2014年版ガイドライン「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」に記載された不正行為を引用する。 対象とする不正行為は、故意又は研究者としてわきまえるべき基本的な注意義務を著しく怠ったことによる、投稿論文など発表された研究成果の中に示されたデータや調査結果等の捏造、改竄及び盗用である(以下「特定不正行為」という。)。 (1)捏造 存在しないデータ、研究結果等を作成すること。 (2)改竄 研究資料・機器・過程を変更する操作を行い、データ、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。 (3)盗用 他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究結果、論文又は用語を当該研究者の了解又は適切な表示なく流用すること。 — 文部科学省、研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて[2] 2014年8月26日の改訂で、捏造、「改竄」、盗用」の各定義は変わらないが、この3つを「特定不正行為」と命名した。

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あなたと生きる (テレサ・テンのアルバム) – Wikipedia

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柳橋 (台東区) – Wikipedia

この項目では、台東区の地名について説明しています。神田川の橋については「柳橋 (神田川)」を、かつて存在した花街については「柳橋 (花街)」をご覧ください。 柳橋(やなぎばし)は、東京都台東区の町名。現行行政地名は柳橋一丁目および柳橋二丁目。郵便番号は111-0052[2]。 台東区の南端に位置する。北で蔵前、東で隅田川を跨いで墨田区横網・両国、南で中央区東日本橋・日本橋馬喰町、西で浅草橋と接する。沖積平野に当たり地形は平坦であり、東を隅田川、南を神田川が流れる。墨田区側には鉄道橋(総武線隅田川橋梁)以外に直接渡る手段がない。南西に一丁目、北東に二丁目が配される。国道6号沿いに当たり、主に商業地として利用される。 河川[編集] 柳橋は1630年の江戸時代に徳川幕府が設置した米蔵「浅草御蔵」の一部として指定されており、現在の柳橋2丁目には三河岡崎藩邸や信濃上田藩邸などの武家屋敷が置かれており官有地となっていた。浅草御蔵は隅田川の西岸、神田川北側の一画に、南は現在の柳橋2丁目より、北は蔵前3丁目にかけて位置していた[4]。浅草御蔵は幕府の米蔵であり、地租が金納となったのちは米廩(べいりん)、または米蔵と呼ばれ、1878年(明治11年)以降は大蔵省内において大阪など全国の米蔵を掌握し、米価の調節など貯蓄米にかかわる事務を行った常平局が管理し、浅草御蔵の地に本局をおいた。柳橋1丁目は浅草旅籠町などが中心に江戸前の料亭が軒を連ね、特に柳橋芸妓で知られた。 関東大震災後の復興と区画整理に伴い、1934年(昭和9年)に町名が変更され、従前の下平右衛門町の大部分・新森田町・新片町・旅籠町の大部分が浅草区柳橋1丁目、旅籠町の一部・旅籠町2丁目・瓦町東部・須賀町東部・御蔵前片町東部が浅草区柳橋2丁目となった。1947年(昭和22年)3月15日に下谷区と浅草区が合併し台東区柳橋1丁目および2丁目となり、1964年(昭和39年)に住居表示が実施され現行の柳橋1丁目・2丁目となっている。 旧町名[編集] 松平市正邸跡であった。享保3年、蔵前の森田町が延焼し、御蔵火除地として一部公収された関係で翌年ここに代地を給された。そこで森田町代地といった。町屋は代地となって以来開かれた。その後明治2年、森田町代地が改められ新森田町となった。  江戸時代御蔵前片町代地と言った。享保3年12月、上野からの出火で蔵前通りの片側町屋も延焼した。その際一部が上地された。翌年に松平市正邸跡のこの地に代地を給された。ついで文化9年隅田川の河岸地を合わせ、明治2年浅草新片町に至った。新片町にはかつて島崎藤村が住んだ。彼の著作「新片町だより」は本町を題材にしている。 元禄元年以前から存在し1丁目と2丁目に分かれていた。寛文図では幕府米蔵の北西部と奥州街道との間に「はたこ丁」と記入されている。町名の由来は奥州街道の地で旅館街で賑わったことに因んだらしい。 地名の由来[編集] 名称は神田川と隅田川の合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのに因んだ。 世帯数と人口[編集] 2020年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 丁目 世帯数 人口 柳橋一丁目

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ウーゴ・ギジャモン – Wikipedia

この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はギジャモン、第二姓(母方の姓)はサンマルティンです。(Template:スペイン語圏の姓名) ウーゴ・ギジャモン バレンシアでのギジャモン (2020年) 名前 本名 ウーゴ・ギジャモン・サンマルティンHugo Guillamón Sanmartín ラテン文字 Hugo Guillamón 基本情報 国籍 スペイン 生年月日 (2000-01-31) 2000年1月31日(22歳) 出身地 サン・セバスティアン

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