Month: June 2020

ジョヴァンニ・パチーニ – Wikipedia

ジョヴァンニ・パチーニ(Giovanni Pacini 1796年2月11日 – 1867年12月6日)は、イタリアの作曲家。オペラによって最も知られる。 パチーニの25作品程度のオペラは、ジョアキーノ・ロッシーニがイタリアのオペラ界を席巻していた時代に書かれたものであった。パチーニ自身も後年に回顧録『Memoirs』で率直に認めたように、彼のオペラは「かなり外面的」であった[1]。数年間、「ナポリのサン・カルロ劇場の支配人」の職を務めたこともあった[1]。その後、引退して音楽学校を設立すべくヴィアレッジョへと向かい、時間をかけてイタリアオペラの現状を評価する。そして作曲の筆を折った5年の間に、回顧録へと自らの考えを書き著した。彼と同様にこの時代のオペラの長所と欠点を再評価したサヴェリオ・メルカダンテの場合と同じく、パチーニもスタイルを変化させることになる。しかしながら、イタリアオペラ界に台頭してきたジュゼッペ・ヴェルディの影響の影に瞬く間に隠れてしまい、流行遅れとなったパチーニのオペラの多くは、イタリア国外では仮に上演されたとしてもその機会は稀であった[1]。録音もいくつか存在するものの、パチーニ作品の大半は今日では忘れられている。 パチーニはシチリアのカターニアに生まれた。ブッフォであった父のルイジ・パチーニは、ジョヴァンニのオペラが初演される舞台に幾度も上がっている。一家は元来トスカーナ州に居住していたが、偶然カターニアへと移ってきたところであり、そこでジョヴァンニが生まれることになった。 パチーニは生涯に74作品のオペラを作曲した。これまで総作品数は80から90作品程度であると見積もられていたが、その多くが同じ曲に異なる名前を付されたものであったことが確認されている。パチーニが「和声と楽器法に悩むことはほとんどなかった[1]」とされており、これはロッシーニも証言するところであった。ロッシーニは「神は音楽を知っていれば我々を助けて下さる。誰も神には逆らえないのだ。」と述べている[1]。パチーニがロッシーニの実力、並びにこの時期には彼が支配的であったことを認識していたのは確実である。「誰もが同じ楽派、同じ流行へと右へ倣えした結果、彼らは皆、偉大な指導者の模倣に陥ってしまった。(中略)もし私がペーザロ出身の巨匠の信奉者だったならば、他の誰もがそうなっていたことだろう[2]。」 ロッシーニが1824年にパリへ拠点を移すと、パチーニ及び同時代の音楽家たち(ジャコモ・マイアベーア、ニコラ・ヴァッカイ、ミケーレ・カラファ、カルロ・コッチャ、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ、ガエターノ・ドニゼッティ、フェデリコとルイジのリッチ兄弟、サヴェリオ・メルカダンテ)は共にイタリア・オペラの特性を変質させ始め、ベルカント唱法を新たな方向として据えた。管弦楽法は重厚になり、コロラトゥーラは特に男声では削減され、感情豊かな情念により重きが置かれた。例外も存在したものの、ロマン的な立役者はテノールに割り振られた(ロッシーニの時代には、そうした役柄は多くの場合アルトやメゾソプラノの女性が担った)。悪役はバス、その後バリトンが受け持った(ロッシーニの時代はテノールであることが多かった)。時代が下り、劇性にずっと多くの力点が置かれた。 こうした変革を指導したパチーニの役割は、今日になってやっと知られ始めたところである。パチーニ及び同時代のヴァッカイが、これまで考えられていた以上にベッリーニへ強い影響を与えたことにはほとんど疑いの余地はない[要出典]。こうした姿勢の変化は鍵となる2つの作品の復権に見ることができる。ヴァッカイの『Giulietta e Romeo』とパチーニの『L’ultimo giorno di Pompei』、いずれも1825年に数週間違いで完成された作品である。 小規模なオペラの数々、特に『Il Barone di Dolsheim, La

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竜世紀 – Wikipedia

『竜世紀』は、1988年に発売されたOVAである。 1巻1話30分で『神章 A.D.1990 璃子』(1988年10月26日発売)『魔章 R.C.297 ルリシア』(1988年12月25日発売)の全2話が制作された。原作は竜騎兵の『DRAGON BREEDER』(久保書店、WORLDコミックス刊)。2006年1月25日には、全2話と原作漫画及び設定資料を動画収録したDVD『竜世紀 コンプリート・コレクション』がジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントから発売された[1]。 本作は竜騎兵執筆の『DRAGON BREEDER』(久保書店、WORLDコミックス刊)の原作としながらも、原作が『魔章 R.C.297 ルリシア』のみの話に、『神章 A.D.1990 璃子』を加筆・修正しOVAとして製作・販売している。 ストーリー[編集] 神章 A.D.1990 璃子 世界各地で突然「竜」が現れ、「竜」は「人」を殺め続けた。人類は「竜」の存在を脅威として駆除し、日本の自衛隊も「竜」を駆除するため、「特殊部隊」を結成する。 堕落した世の中に失望感を抱いていた少女・璃子は、ある夜に自衛隊の銃撃により負傷した母竜から卵を託され、卵から孵った竜に「カーマイン」と名付けて育てた。そしてある日、世界の本当の敵である「魔」の軍勢が現れ・・・。

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ハーパーズ バザー – Wikipedia

ハーパーズ バザー ハーパーズ バザー(Harper’s BAZAAR)は、1867年にニューヨークで創刊した世界最古の女性向けファッション雑誌である。以来、一世紀を超えて32カ国で発行される世界有数のファッション誌として知られる。媒体の事業はアメリカのハースト・コーポレーションが保有している。 日本版は2000年9月、エイチビー・ジャパン株式会社から創刊。販売は朝日新聞が担当していた。発行人・桐畑忠彦、編集人・田上美幸。事業譲渡後、2010年12月号をもって一次休刊。 2013年9月、ハースト婦人画報社から2代目が再創刊され、現在に至る。創刊発行人はイブ・ブゴン。編集人は森明子。毎月20日発売・年10回刊(5月・11月は合併号発売)。 現在発売されている日本版は2013年に創刊された2代目で、ハースト婦人画報社が発行。2013年9月20日に創刊号が発売。表紙は、サラ・ジェシカ・パーカー。2014年内は奇数月、2015年以降は6・12月以外の年10回、毎月20日発売予定。 『Fabulous(素晴らしい!)』というキーワードを象徴的に使用しており、『Fabulous at Every Age』という名物企画では、年代を超越してファビュラスに輝く女性を各世代ごとに紹介している。 2017年には『ハーパーズ バザー』のグローバル・ファッション・ディレクターであるカリーヌ・ロワトフェルドが来日し、シークレットパーティ「BAZAAR ICONS BY CARINE ROITFELD」を日本で初開催。ララ・ストーン、MIYAVI、森星など国内外から多くのセレブリティが駆けつけた。 第2回は2018年10月25日、東京・恵比寿にあるガストロノミー ジョエル・ロブションにて開催予定。[1]

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一分金 – Wikipedia

一分金(いちぶきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種。 金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり、『三貨図彙』には一歩判と記載されている。「判」は金貨特有の呼称・美称であり、品位・量目を保証するための極印と同様の意味を持つ[1]。一方『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には一分判金/壹分判金(いちぶばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる[2]。「一分金」の名称は、一分銀と区別するために普及するようになったのであり、幕末の天保8年(1837年)以降のことである[3]。 形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている[4]。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている[5]。 額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され[6]、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨的な貨幣として流通した[7]。 江戸期の鋳造量は、小判金と一分判金を合わせた総量を「両」の単位をもって記録されており、本位貨幣的性格が強い[8]。 これに対し、一朱判金、二朱判金、二分判金は臨時貨幣と呼ぶべきもので、純金量が額面に比して少ないことから補助貨幣(名目貨幣)の性格が強かった(ただし、元禄期に発行された元禄二朱判金は、一分判金と同様に本位貨幣的である)[7]。京師より西の西日本では俗称「小粒」といえば豆板銀を指したが、東日本ではこのような角型の小額金貨を指した[9]。 江戸時代では慶長6年(1601年)に初めて発行されたとされるが、天正年間頃から鋳造されたとされる丸一分判や額一分判も現存している[10]。以後、万延元年(1860年)までに10種類鋳造されたが、幕府および市場の経済事情により時代ごとに品位・量目が小判金と同様に改定されている。また、江戸時代後期には、一分判と等価の額面表記銀貨、一分銀が発行されて以降、一分判の発行高は激減した。特に小型化した万延一分判は製造効率も低いためと思われ発行高は少ない[11]。 括弧内は発行年、量目、金含有率(規定)。発行高は小判に含まれる[12][13][14]。 安土桃山時代[編集] 江戸時代[編集] 地方貨幣[編集] 地方貨幣で一分の額面を持つ金貨としては、筑前一分金がある[15][16]。 注釈[編集] 出典[編集] ^ 三上(1996), p65, p239-240. ^ 日本貨幣商協同組合(2008),

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関矢孫一 – Wikipedia

関矢 孫一(せきや まごいち、1892年2月13日[1] – 1942年5月1日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 目次 1 経歴 2 親族 3 脚注 4 参考文献 新潟県[2]北魚沼郡下条村(広瀬村、広神村[3]を経て現魚沼市)で、素封家・関矢橘太郎、チエの二男として生まれた[4]。慶応義塾大学に学ぶ。農業を営み、広瀬村信用組合監事、同理事、同村議、新潟県議、同議長、北魚沼郡青年団長、小出銀行取締役会長、堀ノ内銀行取締役、小出尾製糸(株)社長、北越殖民(株)監査役となる[2]。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において新潟10区から憲政会公認で立候補して初当選[5]。1928年の第16回衆議院議員総選挙には不出馬。1930年の第17回衆議院議員総選挙では新潟3区から立憲民政党公認で立候補して復帰した[6]。1932年の第18回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1942年死去。 祖父 関矢孫左衛門(衆議院議員)[4] ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、9頁。

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アメンドイム – Wikipedia

アメンドイム[3](ブラジルポルトガル語: amendoim ポルトガル語発音: [amẽdʊĩ] アメンドイン; 学名: Pterogyne nitens)とは、マメ科の高木の一種である。南米に自生する(参照: #分布)。amendoim の語は通常はラッカセイ(ピーナッツ)のことを指すが、本種の果実はその名の通り形状がラッカセイに似るとされる(参照: #特徴)。材は有用であり(参照: #利用)、オレオ・ブランコ[3](oleo branco)など複数の俗称を持つ(参照: #諸言語における呼称)。 1843年にフランスのルイ=ルネ・テュラーヌがアメンドイムの記載を行った[4]。基準標本の産地はブラジル北東部のバイーアおよびピアウイとされているが、これはスイスの植物学者ジャック・サミュエル・ブランシェ(Jacques Samuel Blanchet)により採取されたものとイギリスの博物学者ジョージ・ガードナーにより採取されたものの計2種類が指定されているためである[4](等価基準標本)。Pterogyne属はテュラーヌがアメンドイムの記載を行った際に新たに設けられた属であり、アメンドイム1種のみの単型属である[5]。 その後に記載が行われた以下の分類名も後に本種のシノニムと認定された[6][7]。 ブラジル(北東部、南東部、西中央部、南部)、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン(北西部、北東部)、ウルグアイに自生する[2]。 小型の高木である[3]。樹高は23メートルで径60-90センチメートル[10]、樹幹は真直で多数の枝が下方から分かれ出る[3]。樹皮は灰褐色で矩形に小分する[10]。 葉は羽状複葉で小葉は卵形-長楕円状卵形、革質で[10]滑らかである[3]。

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琴ヶ浦善治郎 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “琴ヶ浦善治郎” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年1月) 琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日 – 1945年3月10日)は、富山県下新川郡(現在の魚津市)出身の元大相撲力士。本名は越野 善次郎(こしの ぜんじろう)。 1890年2月11日に富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。1909年1月に上京して二十山部屋に入門し、初土俵を踏む。四股名は小戸ヶ浦を名乗り、小錦八十吉 (初代)から徹底的に指導を受けたことで腕力や足腰が鍛えられた。1915年6月場所で新十両昇進を機に「琴ヶ浦」へ改名し、1917年1月場所で新入幕を果たした。 ペテン立ちが巧く、右差しで相手の左を攻めながら一気に寄る取り口で、上品な人柄もあって人気があったが、1927年10月場所で現役を引退し、年寄・常盤山を襲名した。同時期に東京・両国で洋食店を経営していたが、先代の遺族に対しての義務を怠るようになったことで廃業を決意し、以降は世話人に転向した。 1945年3月10日の東京大空襲によって死亡、55歳没。この空襲で豊嶌雅男・枩浦潟達也・岩友も犠牲となった。

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映画祭 – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年5月) 映画祭(えいがさい)とは、特定の場所で期間限定で開催される映画関連のイベント。通常、年に一度など定期的な開催サイクルを持ち、名称は(ベルリン国際映画祭などのように)開催地の地名を冠したものである事が多い。映画の上演が主となるが、加えてエントリー作品の審査及び賞の授与や、映画に関するイベント(講演会、研修会、見学会、レセプション、等)を含むこともある。 最も有名なのは国際映画祭であるが、ファンタスティック映画祭、ドキュメンタリー映画祭、女性映画祭などテーマ別の映画祭も多数ある。複合的に国際アニメーション映画祭といった名称・分類もあり、東京国際映画祭の協賛企画として東京国際女性映画祭が開かれる場合などもある。作品上映の前後に、監督や出演者などの舞台挨拶、ティーチイン(観覧者との質疑応答)などが行われる事も多い。 https://sp.elle.co.jp/mangacinema/ エル 映画祭 リンダさん 世界三大映画祭[編集] 世界三大映画祭[編集] 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の国際映画祭のうち、以下の3つを指す。モスクワ国際映画祭を加え、世界四大映画祭と称されることもある。 世界三大ファンタスティック映画祭[編集] SF映画、ホラー映画、スリラー映画、サスペンス映画など、フィクション、ファンタジー系のジャンルに焦点を当てた専門の映画祭については、以下の3つが三大映画祭とされる。 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の映画祭[編集] コンペティティブ長編映画祭(総合)[編集] 国際映画製作者連盟(FIAPF)公認の長編映画祭(Competitive Feature Film Festivals)で、長編・短編作品ともに扱う国際映画祭。 コンペティティブ長編映画祭(長編作品のみ)[編集] FIAPF公認の長編映画祭(Competitive

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コキツネノボタン – Wikipedia

コキツネノボタン(学名: Ranunculus chinensis)は、キンポウゲ科キンポウゲ属の二年草から多年草である[2][3]。 根茎は短く、多数の白色のひげ根を出す。茎は直立して高さ25 – 60 cmになり、円柱形で中空、開出毛が生え、上部でよく分枝する。根出葉は1 – 3個、葉身は広卵形になり、長さ幅ともに3.5 – 9 cm、1 – 2回3出複葉で、裂片は深裂して幅2 – 4 mmの卵形の鋸歯になり、先は鋭突頭、両面に伏毛が生える。葉柄は長さ8 – 15 cmになり、開出毛が密に生える。茎葉は3全裂から3深裂し、下部の茎葉に長い葉柄があり、上部にいくにしたがって短くなり、最終的に無柄になる。茎葉は上部にいくにしたがって小さくなり、上部の葉は単葉になる[2][3][4]。

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