Month: September 2020

福永嫮生 – Wikipedia

福永 嫮生(ふくなが こせい(旧姓:愛新覚羅)、1940年(昭和15年)3月18日 – )は、清朝の最後の皇帝にして満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟溥傑の次女。 人物・来歴[編集] 1940年(昭和15年)3月、溥傑と嵯峨浩(日本の侯爵家出身)夫婦の次女として、一時的に戻っていた母の出身地・東京で生まれる。同年6月に父のいる満州(現在の中国東北部)に渡る。 1945年(昭和20年)日本の降伏とともに満州国は解体し、父と母は生き別れとなる。嫮生は母とともに1年4か月にわたって中国大陸を流転した末、1947年(昭和22年)日本に引き揚げてくる(詳細は嵯峨浩#流転の日々を参照のこと)。 日本に引き揚げた後は、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移っていた母の実家の嵯峨家で育つ。一方、父はソビエト連邦のハバロフスクや中国の撫順・ハルビンで収容生活を送っていたため、日本に戻った当初は連絡すらも取れない状態であったが、1954年(昭和29年)に姉の慧生が中国の首相・周恩来に「父に会いたい」という手紙を書き、それに感動した周により父との文通が認められた。1957年(昭和32年)、姉の慧生が天城山心中により死亡。学習院初等科・学習院女子中等科・学習院女子高等科を経て、1960年(昭和35年)3月、学習院女子短期大学家庭生活科卒業。 1960年(昭和35年)11月、父溥傑は釈放され、翌年母らとともに中国に渡り、父と16年ぶりに再会する。父母は北京(父の出身地)で再び夫婦生活を始めたが、嫮生は日本に戻り、日本に帰化する(母の浩が結婚した際、当時の吉岡安直帝室御用係が嵯峨家に無断で浩の日本国籍を抜いてしまったことにより、浩と嫮生の当時の国籍は在日華僑であった[1])。1963年(昭和38年)に再び中国に行き、1年程父母と一緒に過ごす。この頃タケダ化粧品の新聞広告に出たこともある。 その後、嵯峨家の祖母のもとで花嫁修業を行い、1968年(昭和43年)、母の妹・泰子の嫁ぎ先であり、嵯峨家と親交の深い福永家(兵庫県神戸市に所在)の次男(泰子の夫の姉の息子)・健治と結婚し、5人の子を儲ける。 現在は父母や伯父の溥儀が生きた時代の証言や、自身の体験や父母から学んだことを基にした日中友好や戦争体験の講演等で活動しており、母の著書『流転の王妃』[2]の後日譚となる『流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡』[3]を発刊。2013年に父母の書簡などの遺品を関西学院大学に寄贈[4]。兵庫県西宮市在住。 流転の記憶[編集] 敗戦時に5歳半であった嫮生は、1年5ヶ月の間、冬期には氷点下30度に及ぶ大陸で、6000㎞の距離を母や愛新覚羅一族と共に捕虜として流浪した。連行された先々で囚われの身となる中、幼い嫮生のみ外出を許され、一族や周りの様子を母に伝えるなどした。アヘン中毒で錯乱状態の婉容と、それを世話する母の姿を見ている。通化事件では、戦闘のただ中にあって目前で溥儀の乳母の右手が吹き飛ばされるなど、その「地獄絵図」は生涯脳裏から消えない記憶となった。凍傷や赤痢など身体の衰弱にも耐え、日本に帰国した嫮生は、母の実家・嵯峨家で暮らすようになって1年近く経っても、いつでも逃げ出せるように服と靴を風呂敷に包んで枕元に置いて寝る習慣が抜けなかったという。また、1年遅れて学習院初等科の受験面接で、「今までどこに住んでらっしゃいましたか」との問いに、「はい、監獄です!」と答えて母を青くさせている。 父・溥傑の釈放後、再び中国へ渡るが、幼い頃の恐怖の記憶があり、日本で育った嫮生は中国への永住を躊躇していた。中国で最後の皇帝一族として生きるより、日本での平凡な生活を望む嫮生と、愛新覚羅家の後継者として、また唯1人となった娘を手元に置いておきたい両親との間で意見の相違があった。周恩来総理が親子の間を取りなし、国交のない時代の中国と日本を自由に往来するようにとの配慮があり、嫮生は日本に戻り、日本に帰化した。 参考文献[編集]

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千徳氏 – Wikipedia

千徳氏(せんとくし)または浅瀬石千徳氏(あせいしせんとくし)は陸奥国を本拠とした氏族。 千徳氏は南部氏流一戸氏の一族、一戸行重を祖とする説(『奥南落穂集』)と、同様に南部氏分流の一戸政英を祖とする説(『千徳舘興廃実記』)とがある。 前者は戦国時代、南部氏の目代として一戸行重が千徳城主となったのが始まりだとし[9]、 後者は土岐氏の一族で千徳城主であった土岐千徳氏・千徳次郎善勝を南部信時の家臣、櫻庭光康らが滅ぼし、文亀2年(1502年)、目代として一戸政英を置いたことに始まるというものである。 岩手県宮古市の羽黒山神社棟札の「大檀那南部源朝臣千徳二郎殿、天文八年(1539年)三月六日云云」との記事や、同地黒森神社棟札の「大檀那南部右馬允源安信、同左衛門督信高、天文十年〔1541年〕六月八日云云」の記事により、当時既に一戸氏が千徳の地を領有し、南部氏一族の勢力が及んでいたことは確実である。また『宮古由来記』では千徳氏が閉伊郡黒田村を領有したのを天文21年(1552年)からだとしている[注釈 3]。後に石川高信に従い、浅瀬石村を与えられた一族が浅瀬石氏を称した。『奥南落穂集』は浅瀬石長重を一戸行重の三男、もしくは次男としている。 『岩手県史』[要文献特定詳細情報]では『千徳舘興廃実記』を受けて一戸政英 – 政明 – 政吉 – 政氏と相続したとし、さらに奥南落穂集を参考にした上で、一戸行重が千徳城主となったのは千徳政吉の浅瀬石城移住後の天正9年(1581年)以後のことではないかとしている。 『奥南落穂集』などの記録によると千徳政吉の代に石川政信の補佐のため浅瀬石城主になったが天正9年(1581年)に病死、その後千徳政氏が浅瀬石城主となるも大浦為信(後の津軽為信)と同盟し、南部氏を裏切って為信の津軽統一に協力したという[注釈 4]。 『黒石星田家文書』は一戸行重を鎌倉時代の人物とし、千徳氏の以後に繋がる系図を記しているが信憑性に欠け、そのままには信用できない[注釈 5]。 一戸行重の次男、長重は石川高信に従って浅瀬石村を与えられ浅瀬石氏を称した[10]。浅瀬石長重と子の長定らは浪岡城を攻撃した津軽為信と戦い討ち死にしている[注釈 6]。しかし長定の子が生き延び、浅石清四郎と称して岩崎合戦および大坂の陣へ参陣した南部軍に従軍している[11]。一方、千徳城に残った一戸氏一族の一戸孫三郎は、南部信直により滅ぼされたと言われている。 また、浅瀬石城に移った千徳政氏は津軽為信と同盟し[注釈

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いすゞ・アスカ – Wikipedia

アスカ(ASKA)は、1983年よりいすゞ自動車から販売された中型セダンである。 フローリアンの後継車として発売された。1990年からは、いち早く他社からのOEM供給車に切り替わったが、同様にOEM供給車に切り替わっていったジェミニが2000年にホンダ・シビックのフルモデルチェンジに伴う廃止後も2002年のホンダ・アコードのフルモデルチェンジまで販売が継続され、結果的には、いすゞが最後まで販売したセダンとなる。 車体は4ドアノッチバックセダンのみである。初代には姉妹車のような3ドアハッチバック、5ドアハッチバックも設計されたが、生産・販売には至らなかった[1]。先代のフローリアンに設定されていたライトバン[注釈 1]やOEM元に設定されているステーションワゴンなどは設定されていない。 初代にはタクシーや教習車仕様も設定されていた。ピアッツァと同様にヤナセ向けにグレード「NERO」の導入が計画され、試作車は実際に一部販売店で展示までされたが、実現しなかった。 歴史 (自社生産時代)[編集] 初代 JJ110/120/510型(1983年-1990年)[編集] 1983年4月、発売。フローリアンの後継車であったため、正式には「フローリアンアスカ」と称した[注釈 2]。 型式名:JJ110(1.8L車)、JJ120(2.0L車)、JJ510(2.0Lディーゼル車) いすゞがフローリアンの後継車の設計を迫られていた時期に、GMが立ち上げた「グローバルカー(世界戦略車)構想」へ当初より参画して作られたJ-car(当初はU-car)というクラスのモデルである。姉妹車にはオペル・アスコナ(3代目)、ホールデン・カミーラ、キャデラック・シマロン、シボレー・キャバリエ、シボレー・モンザ、シボレー・アスカなどがある。アスコナが原型と言われることが多いが、実際にはごく初期段階を除いてほとんどの設計を、オペル、GM、いすゞの3社が個別で同時進行したため、足回りや一部の外装以外、部品の共通性は無いに等しい[注釈 3]。 国内だけでなく、アジア・ニュージーランド・南米にも輸出された。この内アジアでは「Isuzu JJ」、ニュージーランドでは「Holden camira (JJ)」、南米では「Chevrolet Aska」の車名で輸出・販売された。 1983年8月、89馬力にパワーアップをしたターボディーゼル車追加。

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デルブリュック散乱 – Wikipedia

デルブリュック散乱(英語: Delbrück Scattering)は真空偏光の結果として原子核のクーロン場で高エネルギー光子が偏向する現象で、1975年に観測された。これに関わる、光による光の散乱も真空偏光の結果として起こるが、1998年までは観測されなかった[1]。いずれの場合も、量子電気力学で記述された散乱過程である。 デルブリュック散乱のファインマン・ダイアグラム。波線は光子を、二重線は原子核の外部場中の電子を表している。 最も低い次数のファインマンダイアグラムは4つの頂点を持ち、2つの光子が入射し、それが仮想の電子と陽電子を対生成し、それが対消滅し、再び2つの実光子となる。 1932年から1937年まで、マックス・デルブリュックはベルリンで、オットー・ハーンと共同でウランに中性子を照射する研究を行っていたリーゼ・マイトナーの助手を務めていた。この期間にいくつかの論文を執筆し、そのうちの一つがクーロン場による真空の偏光によるガンマ線の散乱に関する重要な貢献であった(1933年)。彼の結論は理論的には正しいが、その時点では適用できないことが判明したが、20年後にハンス・ベーテがこの現象を確認し、「デルブリュック散乱」と命名した[2]。 1953年、ロバート・ウィルソンは鉛原子核の電場による1.33MeVガンマ線のデルブリュック散乱を観測した。 ^ Burke, D. L.; Field, R. C.; Horton-Smith, G.; Spencer, J. E.; Walz,

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国際香粧品香料協会 – Wikipedia

国際香粧品香料協会(こくさいこうしょうひんこうりょうきょうかい、英語名称:International Fragrance Association、略称:IFRA、イフラ)は、香粧品香料業界全体の利益および香粧品香料の安全性を維持するために活動する国際的な組織である。 1973年にスイスのジュネーヴで設立され、現在はベルギーのブリュッセルに事務局が設置されている。 メンバー[編集] 8社の国際的企業からなる正会員と21の各国関係団体からなる工業会会員、関係団体が存在しない国の企業からなる賛助会員で構成されている。日本からは正会員として高砂香料工業、工業会会員として日本香料工業協会(JFFMA)が参加している。 目的と役割[編集] 1973年の協会設立以来、香粧品香料(フレグランス)の自主規制規格であるIFRAスタンダードを制定している。香料成分やその混合物である天然精油は、さまざまな効能があるが、中には人体に対して有害性(皮膚感作性や光毒性、神経毒性、等)があるものもある。協会設立当時はそれらに対する法律や規制が存在しなかったことから自主規制として定められた。正会員企業および各工業会会員や賛助会員に所属する企業はこれを遵守することで、香料やそれを用いた製品の安全性を維持し、香粧品香料業界の発展を目指すことを目的としている。 IFRAスタンダード[編集] IFRAとは別の1966年に設立された非営利団体である国際化粧品原料安全研究機関(RIFM)が、香料の科学的データ収集と分析、安全性確認試験を行い、その結果に基づいて制定される。12の使用用途別カテゴリー(細区分を含めると18カテゴリー)に対して使用の禁止や制限、成分の規格を定めている。2~3年ごとに新たな科学的データに基づき改定作業が行われ、2021年現在は第50次修正が最新である。 禁止(Prohibition、P)[編集] 香粧品香料としていかなる使用用途に対しても、使用を禁止するもの。(例:ゲラニルニトリル、ムスクキシレン、ケードオイル等) 制限(Restriction、R)[編集] 科学的データに基づき使用用途別に使用できる量を制限するもの。(例:シトラール、ゲラニオール、ベルガモットオイル等) 規格(Specification、S)[編集] 使用する香料の科学的規格を定めるもの。(例:リモネン、リナロール、等) IFRAは香粧品香料に関する団体であり、食品香料は管轄しない。食品香料(フレーバー)については国際食品香料工業協会(IOFI)が活動している。 外部リンク[編集]

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田中達彦 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “田中達彦” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年1月) 田中 達彦 基本情報 国籍 日本 出身地 千葉県銚子市 生年月日 (1945-08-27) 1945年8月27日(76歳) 身長体重

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ベルトルト・フォン・ラインフェルデン – Wikipedia

ベルトルト・フォン・ラインフェルデン(ドイツ語:Berthold von Rheinfelden, 1060年ごろ – 1090年5月18日)またはベルトルト1世(Berthold I.)は、シュヴァーベン公(在位:1079年 – 1090年)。 シュヴァーベン公およびハインリヒ4世の対立王であったルドルフ・フォン・ラインフェルデンの長男である。母親については不明で、ルドルフの最初の妃マティルデ(ハインリヒ4世の姉)とする説[1][2]、2番目の妃アデライデ・ディ・サヴォイアとする説(その場合ベルトルトの生年は1062年以降となる)[3][4]、またはそれ以外の不明の妃とする説[5]がある。 ルドルフの2番目の妃アデライデが1079年に死去した後、ルドルフはザクセンから動けなくなり、シュヴァーベンの同盟者とのつながりが絶たれてしまったため、ルドルフは新たに南ドイツを監視する人物が必要となった。そのため、ルドルフは息子ベルトルトをシュヴァーベン公とした。しかし、皇帝ハインリヒ4世は自身の戦略上有利な場所に領地を持つフリードリヒ1世・フォン・ビューレンをシュヴァーベン公に任じた[6]。 ハインリヒ4世との内戦によって、シュヴァーベンは混乱に陥った。1084年、ベルトルトはハインリヒ4世の支持者によって包囲され、最終的に義弟ベルトルト2世とヴェルフ4世に戦いを委ねた。ベルトルトは1090年に嗣子なく死去し、ザンクト・ブラジエン修道院(英語版)に埋葬された。ベルトルトの妹アグネスと結婚したベルトルト2世がシュヴァーベン公位を継承した[7][8]。 ^ Thiele, table 21. ^ Frommer, p. 114.

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ヤロスラフ・リバコフ – Wikipedia

ヤロスラフ・リバコフ 2010年世界室内陸上競技選手権大会 選手情報 フルネーム ヤロスラフ・ウラジーミロヴィチ・リバコフ 国籍 ロシア 種目 走高跳 生年月日 (1980-11-22) 1980年11月22日(41歳) 生誕地 ソビエト連邦 白ロシア・ソビエト社会主義共和国、モギリョフ 身長 193cm 体重 83kg 自己ベスト

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サンドクロック – Wikipedia

サンドクロック (Sandclock) は、滝田周(たきたしゅう)と永田佳之(ながたよしゆき)からなる男性2人組アコースティックユニット。 所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ。所属レーベルは日本クラウン。 メンバー[編集] 滝田 周(たきた しゅう、Key&Vo) 神奈川県出身[1]。B型。 神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校[1]を経て慶応大学[1]卒業時に音楽を始め、鍵盤を独学で始める。 好きなアーティストは大橋トリオ、秦基博、ダニエル・パウター、ベン・フォールズ・ファイヴ、Carpentersなど。 特技は暗記。お酒が好き。中学・高校は野球部に所属。 永田佳之(ながた よしゆき、Gt&Vo) 大阪府出身[2]。A型。 放送芸術学院専門学校[2]に入学して本格的にギターを始める。卒業後、ギター1本持って、ヒッチハイクで日本一周の旅を始める。その後、東京へ上京。 好きなアーティストはジェイソン・ムラーズ、エド・シーラン、Sam Ock、秦基博など。 特技は卓球。中学・高校と卓球部で全国大会に出場。現在はフットサル、ランニング、筋トレにはまっている。 ユニット名の由来[編集]

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