トゥデラ – Wikipedia
トゥデラ(スペイン語: Tudela)は、スペイン・ナバラ州のムニシピオ(基礎自治体)。バスク語名はトゥテラ(バスク語: Tutera)。 人口の点では州都パンプローナに次いでナバラ州第2の都市である。エブロ川谷内に位置している。鉄道の2路線がトゥデラを通っており、AP-68号線とAP-15号線という2本の高速道路がトゥデラ郊外で交差している。トゥデラはナバラ州南部の農業地帯であるリベラ・ナバーラ(Ribera Navarra)の中心地である。 ヌエバ広場での祭り トゥデラ一帯には、少なくとも古代ローマ時代から人が定住していた。一般的には、コルドバの太守アブドゥル・ラフマーン1世が治めていた802年にトゥデラができたといわれている。9世紀初め、エブロ河岸にある場所としてトゥデラの戦略的重要性は歴史的・政治的環境によって増した。ムラディ(en。アル・アンダルス時代、イスラム教に改宗していたイベリア半島出身者を指す)のバヌー=カシ家が本拠地を置いていた。町はイスラム教徒によって、パンプローナのキリスト教徒に対する戦闘の拠点となっていた。のちにトゥデラは、カスティーリャ王国、アラゴン王国と戦う上でのナバラ王国の重要な防衛拠点となっていった。 1119年、アラゴン王アルフォンソ1世のもとでトゥデラが征服されたとき、3つの異なる共同体が暮らしていた。イスラム教徒、モサラベ、ユダヤ教徒である。征服の結果、共同体の関係に緊張があらわれた。イスラム教徒らは町を囲む城壁の外に住むことを強いられ、それ故にユダヤ人は城壁内に住み続けることができた。異なる文化の共存は、重要な中世文学者を生み出したトゥデラの評判に反映された。 この地で過ごしたナバラ王にサンチョ7世がいる。1212年のナバス・デ・トロサの戦いでイスラム教のムワッヒド朝に勝利した後、健康が悪化した彼はこの地で隠棲、1234年に亡くなるまでトゥデラの山城に閉じこもった[1]。 ユダヤ人は1498年に町から消えた(スペインの他地域よりわずかに後にナバーラからユダヤ人追放が行われた)。イスラム教徒とモリスコ(レコンキスタ時代にイスラム教からキリスト教に改宗した人々)は、1516年と1610年に各自追放された。市内には、イスラムに影響を受けた建築がいまも姿を残している。その様式をスペイン人はムデハル様式という。しかしトゥデラ第1のモスクであった建物は1121年に教会へ転用され、12世紀終わりからサンタ・マリーア・デ・トゥデラ大聖堂の建設が始められた。トゥデラ大聖堂は、プエルタ・デル・フイシオ(Puerta del juicio、最後の審判)といったロマネスク建築の顕著な例を示している[2]。一部、ゴシック様式の影響を受けた物と、バロック要素の加えられた建物もある。 1808年11月23日、ナポレオン・ボナパルトの元帥ジャン・ランヌはスペイン独立戦争でのトゥデラの戦いで勝利した。17世紀終わり、新たな公の広場がつくられた。ヌエバ広場またはロス・フエロス広場と呼ばれ、市の中心部となっていった。鉄道駅は1861年に建設され、ともに農業革命が起きた結果、市の拡大の新たな時代を迎える結果となった。 ユダヤ人のトゥデラ[編集] トゥデラは、かつてのナバーラ王国における最重要そして最古のケヒッラーであった。 キリスト教支配下における共同体の組織[編集] アルフォンソ1世が1114年にイスラム教徒からトゥデラを奪った時、町には数多くのユダヤ人が暮らしていた。事実、トゥデラ出身としてよく知られているユダヤ人の数名は、イスラム教徒支配時代に生まれており、ベニヤミン・デ・トゥデラはキリスト教徒による征服後すぐに生まれたとされている。 ユダヤ人は、1115年に征服者によって与えられたフエロ(特権)には満足しなかった。そして自分たちの安全が脅かされていると疑っていた。彼らは移住を決めた。アルフォンソ1世の特別な要請と彼の約束において唯一、彼らはナヘラの自治権によく似た自治権を授けられてしかるべきで、そうしてユダヤ人は満足してとどまった。彼らはキリスト教徒の憎悪のせいで迫害を受け続け、王に対して彼らは『もしこの侮辱が指摘されなかったら自分たちは市から去るほかない。』と訴えた。そこで、ナバーラ王サンチョ6世は1170年に、アルフォンソが彼らに授けていた全ての権利を認証した。このより大きな安全のために、彼はアルハマ(Aljama、キリスト教徒統治下でのイスラム及びユダヤ教徒の自治権に関する公の記録)として城の周辺を彼らに割り当てた。王は彼らに免税特権を与え、彼らは自分たちの防備区画を維持できた。王は、かつてのフデリーア(Judería)内にあるユダヤ人の住居を自由に売買することを禁じた。そして王は市郊外にユダヤ人墓地をつくることを許可した。王は、ユダヤ人の合法的な地位の規則内で、寛容を見せたのである[3]。 ユダヤ人街内では、大小のシナゴーグがあった。ユダヤ人共同体は独自の行政本部(2人の長と、レヒドロスと呼ばれる20人の議員からなる)をもっていた。彼らは、罰則を課したり、共同体の構成員から追放したり、破門を宣告するという新たな法令を作成した。1359年、トゥデラのユダヤ人らは、ナバーラ王カルロス2世の代理で彼の実弟にあたるルイス王子に、嘆願を出した。彼らの信仰規則を冒した者を懲らしめる許しがほしいというのであった。法令は1363年3月、共同体の議員たちによって脅迫者と中傷者を強圧に処遇することが決められた。この法令は、贖罪の日に全シナゴーグで公に読み上げられた。そして1400年、40年の期間を経て刷新された(法令はカイザーリンクの著作の中でも与えられている。l.c. pp.
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