Month: January 2021

ダン・チャイン – Wikipedia

ダン・チャイン(ダン・チャンニ、ベトナム語:Đàn tranh / 彈箏)はベトナムの民族楽器の一つ。撥弦楽器である。中国の古筝や日本の箏、韓国の伽耶琴、モンゴルのヤトガなどに似ている。ベトナム北部ではダン・タップ・ルック (ベトナム語:đàn thập lục / 彈十六)と呼ばれている[1]。長い共鳴胴に金属弦が張られ、可動式の駒と糸巻きは楽器の上部に置かれる。 ダン・チャインは独奏でも合奏でも、また歌の伴奏にも用いられる。 13世紀末葉から14世紀初頭には、ダン・チャインは14弦であったが[2][3]、15から18世紀には15本の弦が張られるようになりthập ngũ huyền cầmと呼ばれた[2]。19世紀になり、16弦のものが現れ、この16弦のものが1980年代初頭までもっとも一般的な形態として用いられてきた[2]。 ダン・チャインをはじめとする古筝、箏、伽耶琴、ヤトガなどの楽器は、東南アジアの竹筒のツィターを原型として発達したものであろうことが、20世紀の音楽学によって示された。[4][5][6][7][8] 全長は104から120センチメートル。共鳴胴は、湾曲した甲板と平らな底板と側面の6つの部品から成る。甲板と底板には一般的に桐材が用いられる[1]。側面の部品や駒、糸巻き、二つの小さな脚は硬木で作られる[1]。Λ型の可動式の駒は、それが置かれる位置によって大きさが異なり、最も低い弦には最も大きな駒が、最も高い弦には最も小さな駒が置かれる。弦は鋼で作られ、細さは種々ある。弦は五音音階に調弦される。奏者は普通、爪を用いて演奏する。爪は金属やプラスチック、陸亀の甲羅などで作られる。 最も一般的なダン・チャインは16本の弦を持つものであり、19世紀から1980年代後半まで用いられてきた[2]。1950年代後半には、ベトナム南部の音楽家Nguyễn Vĩnh Bảo (1918年生)[9]が17弦や19、21弦のダン・チャインを考案し、1980年代までには17弦のものが新たな一般的な形態としてベトナム全土に広まった[2]。1980年代から1990年代にかけては、更に拡張された22、24、25弦のものも制作された。 奏者は右手で弦を弾く。左手はポルタメントのために用い、これにより幅広い音域にわたって調性的ないし微分音的な装飾が生み出される。伝統音楽の中では、2から3本の指(親指と人差し指、また加えて中指)が撥弦に用いられる。新しい作品においては、4から5本の指を用いることもあり、また、他声部を演奏するために左手も撥弦に用いられることがある。 関連項目[編集]

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如水会 – Wikipedia

如水会館(千代田区一ツ橋) 一般社団法人如水会(じょすいかい)は、一橋大学の後援等を目的とする団体である。東京都千代田区一ツ橋に、地上14階、地下2階の高層ビル「如水会館」(1982年9月16日、如水会ビルディングとして竣工落成)を所有している。学士会館の斜向かいに位置する。 「如水会」の名は、『礼記』の「君子交淡如水」(君子の交わりは淡きこと水の如し:才徳のある者の交際は水のようにさっぱりしており、濃密ではないが長続きする)に由来する。会員同士の良き交流が継続することを期して付けられた。命名者は渋沢栄一。 東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部廃止の文部省令に対し同校の全校生徒・同窓会が抗議し、学生総退学決議がなされた申酉事件を受けて結束を固めるため同窓会館が設立されるに伴い、1914年に同窓会の名称を「如水会」とした。1916年に文部大臣より設立許可を受け、社団法人となった。 これまで、図書館建設や、東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)支援のための東京商科大学奨学財団の設立、財団法人一橋大学後援会の設立、兼松講堂の改修、一橋大学基金の支援など、一橋大学支援活動を行ってきた[1]。 一橋大学学生・教員に対する海外留学援助制度は留学先の学費のみならず、往復旅費や月6~8万円の滞在費まで支給する。その他、学生のゼミナール活動に対する如水会館での飲食費補助、如水会館での新入生歓迎会の開催、各界で活躍するOBを招いた寄付講義の開講など、その援助の対象は多岐に亘る。会館の利用は一般開放されており、ウエディングから記者会見まで、多種多様な行事が行われる。 初代如水会館(1919年) 1914年、母校支援を目的に設立される。1917年、一ツ橋に図書館建造し大学に寄付。1940年、東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)支援のため、東京商科大学奨学財団を設立して大学経費9年分に及ぶ寄付金を集める。1950年、一橋ファンドを設立し、1956年には、井藤半彌学長が村田省蔵理事長や菅礼之助相談役らに諮り、文部大臣の認可を得て財団法人一橋大学後援会となる。1962年から海外留学奨学金制度を開始し、のちに明治産業の協力を得て、一橋大学海外留学奨学金制度となる。1989年、卒業祝賀会を開始。1991年、新入生歓迎会を開始。1992年国立市東に外国人研究者宿泊施設・如水ゲストハウスを建設し大学に寄付。1994年、初代学長佐野善作による佐野書院を建て替え大学に寄付。1999年、小平キャンパスに如水スポーツプラザを建設。2003年には一橋大学のシンボルである兼松講堂(国の登録有形文化財)が如水会の募金活動によって全面改修された。この時の募金額は10億円に上った。また、石弘光理事および清水啓典理事の提案で、100億円を目標とする一橋大学基金が設立され、江頭邦雄理事長が募金支援会会長に就任。2004年2月より特に若手卒業生(平成元年以降)を対象に社団法人如水会平成卒業生の会という名称にて積極的に若手による活動を展開中[1]。 名誉社員[編集] 歴代理事長[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集] 座標: 北緯35度41分30.9秒 東経139度45分30.4秒 / 北緯35.691917度 東経139.758444度 / 35.691917;

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北海道滝川西高等学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “北海道滝川西高等学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年1月) この項目では、1973年に滝川市に移管された公立高校について説明しています。1950-54年に同名の「北海道滝川西高等学校」を称した高校については「北海道滝川工業高等学校」をご覧ください。 北海道滝川西高等学校(ほっかいどうたきかわにしこうとうがっこう、英称:Hokkaido Takikawa Nishi High School)は、北海道滝川市にある公立(市立)の高等学校。1959年に開校した学校法人今野学園 滝川商業高等学校を前身とする。 学校法人 今野学園 滝川商業高等学校[編集] 1946年に開校した「滝川洋裁学院」を発展させ1952年に財団法人となった「滝川ドレスメーカー高等女学院」を母体として学校法人「今野学園」を発足、その後1958年に滝川市が市制施行を果たし経済・文化面で中空知の中心となる中で地方産業や教育文化の向上を目的とした商業高校の必要性から本校を発足させた[1]。

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スクーデリア・キャメロン・グリッケンハウス・007 LMH – Wikipedia

スクーデリア・キャメロン・グリッケンハウス・007 LMH カテゴリー LMH コンストラクター スクーデリア・キャメロン・グリッケンハウス 主要諸元 シャシー カーボンファイバー アルミニウム ハニカム モノコック サスペンション(前) 独立懸架 ダブルウィッシュボーン プッシュロッド サスペンション(後) 独立懸架 ダブルウィッシュボーン プッシュロッド

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デカルト主義 – Wikipedia

デカルト主義(デカルトしゅぎ、英: Cartesianism)とは、ルネ・デカルトによる哲学的教説(もしくはそれに連なる学派)を指す言葉である。デカルトはしばしば、理性の使用こそが自然科学の発展に繋がると強調した最初の思想家であると考えられている[1]。彼にとって、哲学とはあらゆる知識を具現化する思考体系であり、それを自らの著書において表現したのである[2]。 デカルト主義者は精神と身体は全く別の存在であると考える。そして、感覚と知覚は虚偽や幻覚の源泉であり、確かな真理は形而上学的な存在である精神の内部でのみ得られるとされる。精神は身体と相互に作用することができるが、身体の中にあるわけでもなければ、身体と同じ次元に存在するわけでもない。 一般的に、デカルト主義は世界を次の3つの存在領域に分類するとされている。 身体(物質) 精神 神 地理的な分布[編集] デカルトが長く住んだオランダでは、デカルト主義は大学教授・講師の間で広く支持された教説であった。ドイツでは、この教説の影響力はあまり振るわず、ドイツ語圏の国境付近に住むデカルト主義者たち(例えば、東フリジアの医療数学者イヴォ・ハウケスなど)は自分の著作を地元ではなくオランダで出版することが多かった。フランスでは非常に広い支持を集め、アントワーヌ・アルノーをはじめとするジャンセニストたちの間で影響力を持ったが、イタリアでのように教会の弾圧を受けることもあった。イタリアではデカルト主義が発展することはなかったが、それは恐らくデカルトの著作が1663年に禁書目録に含められたからである[3]。 イギリスでは、宗教その他の理由により、デカルト主義はあまり広範に受け入れられなかった[3]。ヘンリー・ムーアは当初この思想に魅了されたが、国の方針を反映してかデカルトへの態度は徐々に変わっていった。「いち早く受容したが、真剣な検討により疑念が膨れ上がり、最終的に拒絶した」[4]。 著名なデカルト主義者[編集] アントワーヌ・アルノー[3] バルタザール・ベッカー[3] トマゾ・カンパイラ[5] ヨハネス・クラウベルク[3][6] ミケランジェロ・ファルデラ[3] アントワーヌ・ルグラン[3] アドリアン・ヘーレボールト[3] ニコラ・マルブランシュ フランソワ・プーラン

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紀平凱成 – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける音楽の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。基準に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “紀平凱成” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年10月) 紀平 凱成(きひら かいる、2001年4月2日 – )は、日本のジャズピアニスト。 福岡県福岡市に生まれる。名前の由来はイルカのように自由で、人を幸せにできる子に育ってほしいとの思いから[1]。 2歳の頃に自閉症と診断された[1][2]。絶対音感を持っており、幼少期よりテレビCMや携帯電話の着信音など、聞こえてくる音楽を耳コピして演奏できた[2]ほか、アレンジも自由自在に行っていた[3]。 小学1年生の頃に「ピアニストになりたい」と宣言する[4]。ロック、クラシック、ジャズなどの音楽に熱中し、楽器で遊んでいるうちに音楽理論を身につけ、作曲を行うようになる[5]。 2015年には東京大学と日本財団が進める「異才発掘プロジェクト」第1期ホーム・スカラーに選出される[5]。難易度が高いといわれているニコライ・カプースチンの曲を弾きこなす超絶技巧が評価され国内外で数々の賞を受賞[5]。 2017年にはイギリスのトリニティ・カレッジ・ロンドンの上級認定試験合格と同時に、”Exhibition Award”(奨励賞)受賞、2018年には同大学の”Diploma”(学士資格)を取得[5]。

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