Month: May 2021

別失八里等処行尚書省 – Wikipedia

別失八里等処行尚書省(ビシュバリクとうしょ-こうしょうしょしょう)は、モンゴル帝国によって設置された中央アジアの統治機関。第2代皇帝オゴデイの時期から第4代皇帝モンケの時期にかけてモンゴル帝国の中央アジア統治を担ったが、1260年代の帝位継承戦争以後チャガタイ・ウルスに吸収・併合されて消滅した。 モンゴル帝国のトルキスタン征服[編集] モンゴル帝国が始めて中央アジア方面と関わりを持ったのは1210年代初頭、天山ウイグル王国の君主バルチュク・アルト・テギンが自発的に投降してきた時のことであった[1]。チンギス・カンは武力による征服ではなく進んでモンゴル帝国の傘下に入ってきたことを高く評価し、自らの娘を与えて「五番目の世嗣」と呼ぶほどの厚遇を与えた[2]。これに続き、1218年には西遼を征服して東トルキスタン一帯を制圧し、1220年代初めにはホラズム・シャー朝を征服して西トルキスタン一帯も征服した。しかし、中央アジア方面では東方の『元史』、西方の『集史』のような浩瀚な史書が編纂されなかったために断片的な史料しか残されておらず、モンゴル帝国がどのように中央アジアを支配したかについては不明な点が多い[3]。ただし、断片的な記述から華北(ヒタイ)のようにモンゴル人諸王が諸都市を投下領として所有し、統治体系は既存のものを尊重しつつ代官として送り込んだダルガチ(ダルガ)を介して税収・徴発を得るという形をとっていたとみられる[4]。 トルキスタン総督府の設置[編集] 「別失八里等処行尚書省」の前身となる組織が設置されたのは第2代皇帝オゴデイの時期のことで、『集史』「オゴデイ・カアン紀」には以下のように記されている。 [オゴデイ・]カアンは漢地の全州を宰相マフムード・ヤラワチに委任した。そしてウイグリスタン地域であるビシュバリクと高昌、コータン、カシュガル、アルマリク、カヤリク、サマルカンド、プハラから、ジャイフーン[河]の岸まで[の地域]を、ヤラワチの子のマスウード・ベクに[委任した]。またホラーサーンからルームとディヤルバクルの境まで[の地域]をアミール・クルクズに[委任した]。そしてこの全地域の徴収された税の全ては国庫に送られていた。 — 『集史』「オゴデイ・カアン紀」[5] 上記のように、オゴデイ時期のモンゴル帝国では「ウイグリスタンからジャイフーン河(=アム川)に至る」地域がひとまとまりの地域として認識され、マスウード・ベクに監督が委ねられていた[6]。マスウード・ベクを長とする中央アジア統治機関は諸王が税収の確保のために送り込んだ文官(ダルガ・ビチクチ)を取りまとめる存在であり、税収の確保と諸王・皇帝の権益折衝が主な任務であった[7]。また、オゴデイ時期には征服地における再度の人口調査が行われたが、その過程で「戸(家族世帯)」で数えるか「丁(成人男性)」で数えるかという議論があり、結果としてヒタイ(漢地)では「戸」を基準として、中央アジア(西域)では「丁」を基準として数えるよう定めたと記録されている[8]。 別失八里等処行尚書省の設置[編集] 第2代皇帝オゴデイの死後、帝位をめぐって内部対立が続いたが、1251年にモンケが第4代皇帝として即位した。モンケは征服地の管理についてはオゴデイ時期の方針を引き継ぎ、華北・中央アジア・イランの3地域に大きく分割して統治しようとしていた。『世界征服者史』には以下のように記されている。 [モンケは]諸税の査定(taqrif-iamvl)と人々の名前の登録のために、知事・軍政官・書記たちを任命した。第5気候帯の起点であるアム河の岸から第1気候帯にあたる漢地の最遠点に至るまでの東方諸国を、大宰相のマフムード・ヤラワチとその真の相続者マスウード・ベクとに従前通り委任した。……マーワラーアンナフル、トルキスタン、オトラル、ウイグル諸都市、コータン、カシュガル、ジャンド、ホラズム、フェルガナはマスウード・ベクに[委任した]。 — 『世界征服者史』[9] この記述に対応するように、『元史』巻3憲宗本紀には「憲宗の初年……ノガイ(訥懐)・タラカイ(塔剌海)・マスウード・ベク(麻速忽)らを別失八里等処行尚書省事に充て、アブドゥッラー(暗都剌)・ウスン(兀尊)・アフマド(阿合馬)・イティシャー(也的沙)にこれを助けしむ(元年辛亥……以訥懐・塔剌海・麻速忽等充別失八里等処行尚書省事、暗都剌・兀尊・阿合馬・也的沙佐之)」と記されており、この記述から漢文史料上ではモンゴル帝国の中央アジア統治機関が「別失八里等処行尚書省」と呼称されていたことが分かる[10]。 また、モンケの時期には既に本籍地(モンゴル語では「根源」を意味するフジャウルと呼ばれ、漢文史料では主に「根脚」と意訳される)を離れて活動する商人が税を納めていないことが問題視されており、本籍地に帰還するか移住先で税を納めるよう聖旨(ジャルリク)が出されたことが記録されている[11]。ここでも、基準となっているのはオゴデイ時代の人口調査に基づく「本籍=フジャウル」であり、その課税単位は「onluq(十戸)」や「yuzluq(百戸)」などであったことが現存するウイグル文字文書から窺える[12]。 解体・吸収[編集] 1260年、モンケが急死すると後継者の座をめぐって弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発し、モンゴル帝国の支配体系は激変せざるをえなくなった。東方ではクビライが継承戦争を制して正当なカアンの地位についたものの、イラン方面ではフレグが諸王の共有物たる征服地域を一方的に占有して自立し(フレグ・ウルス)、中央アジアでは傍系の出であるアルグがチャガタイ家当主となって自立した。「別失八里等処行尚書省」はアルグの時期に事実上チャガタイ・ウルスによって吸収・解体されてしまったものとみられる。 ところが、アルグが1266年に急死すると中央アジア情勢は再び混乱し、最終的にチャガタイ・ウルスを支配下においたオゴデイ家のカイドゥが中央アジアの覇者となった。ただし、中央アジアの中でも天山ウイグル王国のみはクビライの大元ウルスに属していたため、ウイグリスタンはカイドゥ・ウルスと大元ウルスの争いの最前線としてしばしば戦場となった(カラ・ホジョの戦い)。しかし、カイドゥはモンケ時期から引き続きマスウード・ベクを登用して定住民支配を委ねていたため、 支配層は激変したものの大枠ではモンゴル人による中央アジア支配の形式は変わらず続いていたものと考えられている[13]。そのカイドゥも14世紀に入って大元ウルスとの戦争(テケリクの戦い)の中で亡くなると、今度はチャガタイ家のドゥアがカイドゥの勢力を乗っ取り、「チャガタイ・ウルス」を中央アジアに復興させた。チャガタイ・ウルスは1320年代後半のケベクの治世までにはウイグリスタンも掌握したため、「別失八里等処行尚書省」の故地は全てチャガタイ・ウルスによって継承されることになった。 モンゴル帝国の三大外地属領[編集] ^

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ヨーク (イングランド) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ヨーク” イングランド – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年2月) ヨーク(York)は、イングランド北部ノース・ヨークシャーの単一自治体かつシティである。人口は209,893人である(2018年中期推計値)[1]。 ローマ時代には、属州ブリタンニアの要塞エボラクム (Eboracum) であった。「ヨーク」の名前の由来は「イチイの木」(yew trees) といわれている。 考古学的証拠から、中石器時代の紀元前8000年から7000年には今ヨークがある場所に人が定住していた痕跡があるが、それが永久的な定住だったのか不定期なものだったのかわかっていない。古代ローマ帝国のブリタニア征服時より、一帯はローマ人にブリガンテスとパリジという名前で知られた種族に占領されていた。ブリガンテス族はすぐに隷属を受けたがのちより敵対的になった。結果として、第9軍団ヒスパナがハンバーの北へ送り込まれた。 都市として創設されたのは紀元71年、第9軍団ヒスパナがブリガンテス族を征服し、フォス川(英語版)とオウス川の交わる平地に軍事要塞カストラを建設した時であった。要塞はのち石で再建され、総面積は50エーカー (20 ha)で6,000人の兵士が暮らした。ローマ時代の要塞のほとんどは今ヨーク・ミンスターの基金管理下にあり、ヨーク・ミンスター内地下室の遺跡は原型の城壁を露わにしている。 ハドリアヌス、セプティミウス・セヴェルス、コンスタンティウス1世らローマ皇帝は全員、彼らの遠征の最中、ヨークで宮廷をかまえた。滞在期間、セヴェルス帝はヨークをブリタニア・インフェリオル県の首都とするよう命じた。彼はヨークにコロニアか都市の特権を与えようとしたのだった。コンスタンティウス1世は滞在時にヨークで亡くなり、彼の子コンスタンティヌス1世は要塞内の軍隊を前に即位を宣言した。 7世紀のヨークは、アングロサクソン人のノーサンブリア王エドウィンの主要都市だった。最初のミンスター教会は、627年にエドウィン王が洗礼を受けた時期に建てられた。エドウィンはこの小さな木造教会を石造りに再建させたが、彼は633年に敗死し、石造りのミンスター完成の義務は彼の後継者オズワルドへ引き継がれた。

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普及指導員 – Wikipedia

普及指導員(ふきゅうしどういん)とは農業改良助長法に基づく国家資格、及びこの資格を所持し協同農業普及事業に従事する都道府県職員のことである。 農家に直接接し、農業技術の指導、経営相談への対応、農業に関する情報提供などを通じ、農業者の農業技術や経営を向上するための支援を専門としている。また、国や都道府県の制度の周知や遵守等(農薬の適正使用の指導等)を技術面からサポートする役割を担っている。[1] 普及指導員資格所有者が普及指導員として活動するためには、各都道府県の農業職として採用された上で、普及指導センター等に配属される必要がある。しかし、普及指導員資格を有していなくても、普及指導員の監督下で農業等の技術についての普及指導に携わることは可能である。[2] 普及指導員の拠点である普及指導センターは「〜普及所」「〜普及課」等、都道府県によって名称が異なる。普及指導センターは日本全国で計361箇所(支所・駐在所を除く)、普及に携わる職員は7,293名、うち普及指導員の資格を持つ職員は6,102名である。(平成31年度当初の数値)[3] 以前は農業改良を目的とする農業改良普及員と専門技術を教える専門技術員があったが、2004年5月に改正された農業改良助長法に基づいて都道府県におかれていた普及職員が普及指導員に名前を統合されたことをきっかけに2005年からこの2つの資格を廃止し、普及指導員資格試験として都道府県がそれぞれ行っていたのを国が行うようになった。 農業改良助長法第8条第2項には、普及指導員業務内容として次のように定められている。 試験研究機関、市町村、農業に関する団体、教育機関等と密接な連絡を保ち、専門の事項又は普及指導活動の技術及び方法について調査研究を行うこと。 巡回指導、相談、農場展示、講習会の開催その他の手段により、直接農業者に接して、農業生産方式の合理化その他農業経営の改善又は農村生活の改善に関する科学的技術及び知識の普及指導を行うこと。 任用資格[編集] 普及指導員資格試験の合格者 過去15年のうち12年以上、試験研究、教育等に従事している者 次の1及び2のいずれにも該当する者 管理栄養士、公認会計士、弁護士、税理士、社会保険労務士、技術士、弁理士又は中小企業診断士の有資格者 これらの業務に従事した期間が通算して2年以上ある者 3について、平成27年12月18日からは、6次産業化等を進める農業者からの幅広いニーズに対応できるように、農産物の加工や販売などの2次・3次産業と関連のある事業・制度に見識を有する多様な人材を、即戦力として普及指導員に任用できるように制度が見直されている。[3] 受験資格[編集] 普及指導員資格試験を受験するためには、一定年数以上の実務経験が必要となる。 実務経験とは以下に該当する職務に従事した経験のことである。 国、地方公共団体又は法人の試験研究機関における農業又は家政に関する試験研究 高等学校又はこれと同等以上の教育機関における農業又は家政に関する教育

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コーラルツッキー – Wikipedia

この記事は現役競走馬を扱っています。今後の動向で情報や評価が大きく変動する可能性があります。 コーラルツッキー(Coral Tsukki)[1]は、日本の競走馬。主な勝ち鞍に2019年のエーデルワイス賞、フルールカップ、2021年のノースクイーンカップ。NARグランプリ2019の2歳最優秀牝馬に選出された。 2019年5月9日、門別競馬場でのフレッシュチャレンジでデビューし、1着。2戦目の世代最初のオープン競走であるウィナーズチャレンジ1は5着に終わったが[4]、続く栄冠賞ではバブルガムダンサーの3着に入る。7月の2歳オープン競走で2勝目を挙げ、8月15日のフルールカップでは逃げ切り勝ちで重賞を初めて制した[5]。リリーカップ7着を挟み出走のエーデルワイス賞は、ハイペースのレースを差し切ってアザワクを半馬身差下し重賞2勝目を挙げた[6][7]。続戦に水沢競馬場でのプリンセスカップへの遠征が予定されるも岩手競馬での禁止薬物陽性馬の発生問題で開催が取りやめとなり[8]、間に1走も挟まず12月31日の東京2歳優駿牝馬への出走を余儀なくされ[9]、レースではレイチェルウーズの7着に終わる。それでも2019年度のNARグランプリ各賞の選考では2歳最優秀牝馬に選ばれ[10]、また地方競馬強化指定馬制度の1頭にも選定[11]。東京2歳優駿牝馬後に、川崎競馬場・山崎裕也厩舎に転厩した。 3歳時はユングフラウ賞から始動も6着。その後の4戦も3着以内に入らない競馬が続いたが、秋に入って準重賞で二度の2着、ロジータ記念で3着に入る成績を残した。9月の戸塚記念以降は中距離路線にシフトしたが、これは北海道時代の主戦であった服部茂史のコメントなどを参考にしたものだった[12]。4歳時も初めの3戦は10着、5着、10着と振るわなかったが、夏に2歳時以来の門別競馬場に遠征し、7月15日のノースクイーンカップに出走予定も濃霧で開催が7月20日に順延となるが、長距離輸送で大幅に減った馬体重も順延で回復する形となり、レースでは好位から進んで最後の直線でネーロルチェンテをハナ差下し、エーデルワイス賞以来の重賞3勝目を挙げ、管理する山崎裕也にとっても管理馬の初めての重賞勝利となった[12][13][14]。 競走成績[編集] 以下の内容は、JBISサーチ[2]、netkeiba.com[15]、地方競馬全国協会[3]に基づく。 競走日 競馬場 競走名 格 距離(馬場) 頭数 枠番 馬番 オッズ(人気) 着順 タイム(上り3F) 着差 騎手

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サンライト・ツイスト – Wikipedia

「サンライト・ツイスト」(Go-Kart Twist)は、イタリアの歌手であるジャンニ・モランディ(イタリア語版、英語版)の楽曲。1963年発売[1]。 目次 1 解説 2 日本語盤 2.1 木の実ナナ盤 2.2 伊藤アイコ盤 2.3 青山ミチ盤 3 CM 4 脚注 本作は、当時人気アイドルだったカトリーヌ・スパーク主演のイタリア映画「太陽の下の18歳」の挿入歌、1963年秋に大ヒット。本来の主題歌は、ジミー・フォンタナの映画同名曲。そのB面曲が本作である[1]。 タイトルの通りツイストの軽快なリズムを使い、それでいて哀愁あるメロディーラインも持ち合わせていて良くできた曲である[1]。 作詞はルチアーノ・サルチェ、作曲は映画音楽の大御所になっているエンニオ・モリコーネによる。

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アミティヴィル1992 – Wikipedia

アミティヴィル1992 Amityville: It’s About Time 監督 トニー・ランデル 脚本 クリストファー・デファリアアントニオ・トロ 原案 ジョン・G・ジョーンズ 製作 クリストファー・デファリア 製作総指揮 スティーヴ・ホワイトバリー・ベルナルディ 出演者 スティーヴン・マクトショーン・ウェザリーミーガン・ウォード 音楽 ダニエル・リチット 撮影

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