横川省三 – Wikipedia

横川 省三(よこかわ しょうぞう、元治2年4月4日(1865年4月28日) – 明治37年(1904年)4月21日)は明治期の新聞記者。スパイ。南部盛岡藩の出身。初名は勇治。勇次のペンネームで活動することもあった。旧姓は三田村、山田(兵役逃れ目的で「徴兵養子」となったためである。「俺は今日から山田勇治じゃ。徴兵にゃ行かんぞ」と吹聴している[1])。

若い頃は自由民権運動に携わり、加波山事件により投獄された。また、1887年には保安条例施行に伴い、伊東圭介と共に皇居周囲三里以内から追放された。

その後朝日新聞の新聞記者として、郡司成忠の千島列島探検隊の特派員や日清戦争の従軍記者などの活動をする。その後記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。この間に娘が二人生まれたが、妻を無くしている。

日露戦争開戦に際しては弟に娘を預け、北京公使館の内田康哉清国公使に招かれ、青木宣純大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、沖禎介とともに特殊工作に従事する。ロシア軍の東清鉄道爆破任務のためラマ僧に変装して満州に潜伏する。

省三と同班の沖禎介は、巡回中のロシア軍コザック騎兵にチチハルにて捕縛されてしまう。二人は即ハルピンに移送され、軍法会議にかけられた。検察官は彼らは民間人であるとして、絞首刑を求刑したが、省三はそれに異議を唱えた。「どうか銃殺刑に処していただきたい」と嘆願した。
しかし裁判長はロシア軍総司令官クロパトキンに二人の態度に感銘を受け、彼らの減刑を請願した。だが、クロパトキンの判断は判決を変えなかった。銃殺刑の判決を聞いて、二人は裁判長と法務官に深々と一礼した。

死に臨み、省三は唯一心残りであった二人の娘に遺書を書き、所持金500両をロシアの赤十字社に寄付した。処刑当日。刑場にはロシア軍将校、外国観戦武官、一般ロシア人などが大勢が、敵国の赤十字社に所持金全てを寄付した省三の前例のない行動は、ロシア人の心を動かされ一目見ようとしたためである。
二人は最期に「天皇陛下万歳」を叫び、39歳の若さで死亡した。[2]

  • 日清戦争の際に従軍記者として戦艦の搭乗を希望したが、許可おりなかったが、「僕を機械の一部と思ってください」と頼み館長を説得させた。
  • 最初の遺言で所持金を娘に託そうとしたが公金であるため、寄付に変更した。
  • 後に横川省三の死刑執行官シモノフは、ロシア革命後、日本に亡命し、長女の律子に父の最期を伝えた。
  • 大正13年(1924年)、従五位を追贈された[3]