山城国 – Wikipedia

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。

「山城」の名称と由来[編集]

「やましろ」は、古くは「山背」「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。

この名称は、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域であることから来ていると云われている[2]

延暦13年11月8日(794年12月4日)の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から「山城国」に改称した。これが「城(ジョウ、き)」という字を「しろ」と読む原因となった(詳細は日本の城を参照)。
平城京時代の木簡を見る限り「山代国」・「山背国」の表記は並存していたと見られている。

近世以降の沿革[編集]

国内の施設[編集]

[編集]

山城国内に設けられた天皇の宮殿(宮・京)は、次の通り。

国府[編集]

国府所在地を記した文献は次の通り。

国府は数度変遷したと見られており、現在では次のように推定されている。

  • 1. 相楽郡
    8世紀前半まで。京都府木津川市山城町上狛(かみこま)と推定。当地には山城国分寺も所在。
  • 2. 葛野郡
    8世紀前半から延暦16年(797年)まで。京都府京都市右京区太秦と推定。
  • 3. 乙訓郡
    延暦16年(797年)から貞観3年(861年)まで。京都府長岡京市神足または久貝(南栗ヶ塚遺跡)と推定。長岡京南。
  • 4. 乙訓郡
    貞観3年(861年)以後[6]。京都府乙訓郡大山崎町大山崎の河陽離宮(離宮八幡宮)と推定。

これらの度重なる移転は、遷都の影響とみられる[7]

国分寺・国分尼寺[編集]

山城国分尼寺推定地に建つ碑

神社[編集]

延喜式内社

『延喜式神名帳』には、大社53座37社(うち名神大社23座16社)・小社69座59社の計122座96社が記載されている(山城国の式内社一覧参照)。
また、他に宮中の36座(大30座・小6座)、京中の大3座が記載されている(宮中・京中の式内社一覧参照)。

総社・一宮

  • 総社:不詳
  • 一宮:賀茂神社(賀茂上下社)[8] – 以下2社の総称。

山城国の一宮指定には地方諸国と異なって神祇官が関わっているとされている。11世紀末から諸国でそれぞれに一宮が成立していく中で、畿内ではそれに対応して12世紀になってから決められたと考えられる。

二宮以下は存在しない。

守護所[編集]

守護所は、当初、山城国守護を京都守護が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。その後、六波羅探題が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。室町時代に山城国を宇治川を境に上三郡と下五郡に分割して、それぞれに守護代を任ずるようになってからは、上三郡の守護所が宇治槙島に置かれ、下五郡の守護所が淀など数ヶ所に置かれた。

安国寺利生塔[編集]

  • 安国寺 – 京都府京都市中京区四条大宮に所在した
  • 利生塔 – 法観寺 (京都府京都市東山区八坂河原東八坂上町)

[編集]

※ 郡名は『延喜式』による。

江戸時代の藩[編集]

国司[編集]

山城守[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府[編集]

  • ~1221年 – 京都守護兼任
  • 1221年~1333年 – 六波羅探題兼任

室町幕府[編集]

武家官位の山城守[編集]

江戸時代以前[編集]

江戸時代[編集]

山城国の合戦[編集]

関連項目[編集]