シャンタル・アケルマン – Wikipedia

シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman、発音 : [ʃɑ̃tal akɛʁman]、1950年6月6日 – 2015年10月5日)は、ベルギー出身の映画監督、脚本家、女優(日本語では誤ってシャンタル・アッカーマンと表記されていた時期もあった。姓「Akerman(アケルマン)」の語末「-an」は 鼻母音 [ɑ̃] ではなく、口むろ母音a+子音n の [an] であることから、カタカナ表記では「シャンタル・アケルマーヌ」が最も正確な発音に近い)。代表作に『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディールマン』がある[2][3]

1950年6月6日、ブリュッセルに生まれる[1]。ユダヤ人の両親を持つ[4]。彼女の父方の祖父母は、反ユダヤ主義の強まっていたポーランドを逃れ、ブリュッセルへ渡った[5]。貧困の中で育った彼女の父親は、12歳の頃から働き、18歳で自らの工場を持つに至った[5]。母方の祖父母はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で死去し[5]、彼女の母親は生還した[2]

高校での生活になじめなかった彼女は、文学に興味を持っていたが[5]、15歳の頃にジャン=リュック・ゴダール監督の映画『気狂いピエロ』を見て、映画製作の道へ進むことを決意する[5]

1968年、短編映画で映画監督デビューを果たす[2]。1975年、デルフィーヌ・セリッグ主演の『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディールマン』を監督する[4]。2011年、ニューヨーク市立大学シティカレッジのスタッフに就任する[3]

2015年10月5日、パリにて死去[6]。65歳没[6]。その死については、うつ病で入院していたという報道がある一方、自殺であったとする報道もなされている[6]

彼女の作品は、トッド・ヘインズやガス・ヴァン・サント、サリー・ポッター、ミヒャエル・ハネケらに影響を与えた[6]

フィルモグラフィー[編集]

映画[編集]

  • 街をぶっ飛ばせ(1968年) – 監督・出演
  • 部屋(1972年) – 監督・脚本・編集・出演
  • ホテル・モンタレー(1972年) – 監督・製作
  • 8月15日(1973年) – 監督・脚本・撮影・編集
  • 私、あなた、彼、彼女(1974年) – 監督・脚本・製作・出演
  • ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディールマン(1975年) – 監督・脚本
  • 家からの手紙(1977年) – 監督
  • アンナの出会い(1978年) – 監督・脚本
  • 一晩中(1982年) – 監督・脚本
  • 新パリところどころ「おなかすいた、寒い」(1984年) – 監督・脚本
  • 彼女は陽光の下で長い時を過ごした(1985年) – 出演
  • ゴールデン・エイティーズ(1986年) – 監督・脚本
  • 芸術省(1989年) – 出演
  • アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学(1989年) – 監督・脚本
  • 忘却に抗って – 命のための30通の手紙「エル・サルヴァドル、フェーベ・エリザベス・ベラスケスのために」(1991年) – 監督
  • 東から(1993年) – 監督・脚本
  • ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート(1994年) – 監督
  • カウチ・イン・ニューヨーク(1996年) – 監督・脚本
  • 囚われの女(2000年) – 監督・脚本
  • 向こう側から(2002年) – 監督・撮影
  • オルメイヤーの阿房宮(2011年) – 監督・脚本・製作
  • No Home Movie(2015年) – 監督・脚本・製作

関連文献[編集]

  • Margulies, Ivone (1996). Nothing Happens: Chantal Akerman’s Hyperrealist Everyday. Duke University Press.

    ISBN 978-0-8223-1723-4

     
  • Foster, Gwendolyn Audrey, ed (2003). Identity and Memory: The Films of Chantal Akerman. Southern Illinois University Press. ISBN 978-0-8093-2513-9 

外部リンク[編集]