アルトマルク号事件 – Wikipedia

イェッシングフィヨルドで撮影されたアルトマルク

アルトマルク号事件(アルトマルクごうじけん、ノルウェー語: Altmark-affæren、英語: Altmark Incident、ドイツ語: Altmark-Zwischenfall)は、第二次世界大戦中の1940年2月16日、当時中立だったノルウェーの領海を舞台にイギリスとドイツ国の間で発生した軍事衝突。イギリス海軍によって行われた大掛かりな移乗攻撃の最後のものである[1]

1940年2月に、ドイツのタンカーアルトマルクは、299名の捕虜と共にドイツに戻りつつあった[2]。船上の捕虜は、ドイッチュラント級装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーの通商破壊活動によって沈められた商船から収容されたイギリスの船員だった。南大西洋からドイツに帰る途中、アルトマルクはノルウェーの領海を通過した。ノルウェー官憲による調査は2月15日に3回にわたって行われた。

ノルウェーの士官は船に乗り込んでおおまかな捜索を行い、ドイツの乗員は同船が全く商業的な目的で運行していると約束した。最初の調査は水雷艇TryggによってLinesøy島沖で行われ、次にソグネフィヨルドで水雷艇Snøggにより、そして最後はHjeltefjordにおいてカルステン・タンク=ニールセン提督と駆逐艦ガルムによって非公式に行われた。3回目の調査の後、アルトマルクは魚雷艇SkarvとKjell、および巡視艇Firernの護衛によって南方へ誘導された。伝えられるところでは、イギリスの捕虜は船倉に閉じ込められていたが、大声で叫んだり船の側壁を叩いたり、懸命に合図を送ろうとしたので、ドイツの乗組員はウインチを動かすことなどによってその音をかき消さなければならなかったという。しかしノルウェーの捜索隊は船倉まで調べに入ることはなく、船はそのまま通航を許された。

アルトマルクは同じ日、エーゲルスンでイギリス空軍機に発見され、直ちに海軍に通報された。駆逐艦コサック(フィリップ・ヴァイアン英語版艦長)によって阻止されそうになったアルトマルクは、イェッシングフィヨルド英語版に避難した。しかしコサックはその翌日にその後を追い、接舷を強要した。イギリス側は2月16日22時20分にアルトマルクに乗り込み、乗組員を圧倒して7名を殺害の末、捕虜を解放した。コサックは、2月17日の真夜中過ぎにイェッシングフィヨルドを退去した。

ノルウェーの護衛艦は抗議したが、介入はしなかった。ノルウェー政府によって後に出された公式見解は、国際条約によれば、中立国は圧倒的に優勢な力に対する抵抗の義務は負っていないというものだった。

ノルウェー人は中立の侵害に対して憤ったが、ヨーロッパの戦争に巻き込まれることも望んでいなかった。しかしアルトマルク号事件は、連合国にもドイツにも同様に、ノルウェーの中立に対する懸念を植え付けるものだった。両側ともノルウェーに対して軍事力を行使する非常時計画があった。その主たる目的は、戦争初期にドイツ軍需産業が依存していたスウェーデンの鉄鉱石の輸送路の確保であった。

アルトマルク号事件によって、ヒトラーは連合国がノルウェーの中立を尊重しないことを確信した。2月19日、ヒトラーはデンマークとノルウェーの占領を目的とするヴェーザー演習作戦の推進を決定した。作戦は1940年4月9日に実施された。

アルトマルク号事件は、「まやかし戦争」の期間、つかの間であるが、イギリスにとって切実に必要とされていた士気高揚の効果をもたらした。またドイツに占領されたノルウェーに対して、戦争期間を通じて長続きする宣伝効果を持った。

ノルウェー対独協力政府は、彼らの蔑称である「クヴィスリング」を打ち消すために、この衝突のあった場所イェッシングフィヨルドから、親連合国・反ナチスの者を指す「イェッシング」という蔑称を造り出したが、この言葉は一般大衆によって直ちに好意的な言葉として使われ始め、もくろみは逆効果となった。そのため1943年には公の場での使用が禁止された。

参考文献[編集]

  1. ^ [1]BBC Home. The Last Boarding Action of the Royal Navyby WatTyler
  2. ^ “The Rule of Law in International Affairs” (Brian Simpson 2003), page 215

外部リンク[編集]