パリの恋人 – Wikipedia

パリの恋人』(ぱりのこいびと Funny Face)は、1957年のアメリカ合衆国のロマンティック・コメディのミュージカル映画。主演はオードリー・ヘプバーンとフレッド・アステア。ヘプバーンは本作が初めてのミュージカル映画。監督は『恋愛準決勝戦』でアステアと組んだスタンリー・ドーネン。ドーネンは、後に『シャレード』と『いつも2人で』でもヘプバーンと組んだ。

あらすじ[編集]

小さな本屋で働くジョー(オードリー・ヘプバーン)は、共感主義に没頭していた。ある日、彼女はひょんな事からファッション雑誌のモデルを依頼される。ジョーにとってはパリに行けることはうれしいことではあったが、モデルの仕事は初めてだったため、少々不安だった。
それでも、ジョーはパリで共感主義の元祖フロストル教授に会えるという期待を胸に、雑誌の編集長マギー、カメラマンのディックと共にジョーはパリへ飛び立つ。

キャスト[編集]

  • 東京12チャンネル版吹替 – 初回放送1970年11月19日『木曜洋画劇場』。
  • ソフト版吹替 – 2001年発売のDVDに初収録。後に発売されたBDにも収録。

スタッフ[編集]

ベースになったのは脚本家のレナード・ガーシュが1951年、ブロードウェイのために書いた『結婚の日』という台本である[2][3][4]。ガーシュが親しい友人になった写真家リチャード・アヴェドンの半生をもとに書いたもので[2]、最初は別の音楽が付いていた[4][5]。それがMGMミュージカル制作の第一人者ロジャー・イーデンスの目にとまり、『踊る大紐育』で一緒に仕事をしたスタンリー・ドーネンが監督をすることになった[4][5]

ガーシュがドーネンにシナリオを読んでいると、暗室の場面で「これじゃモデルなんかになれない。変な顔(Funny Face)」という部分でガーシュとドーネンの目が合い、ドーネンが「ここであの歌を使える!」と叫び、ガーシュも「ガーシュウィン!」と叫んだ[5]。二人は1927年にフレッド・アステアが出演した舞台『ファニー・フェイス』のためのジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンのスコアから歌を探したところ、「我々が設定した新しい場面に合うように初めからできていたのではないかと思えるほど」だったという[5]

題名を『Funny Face(『パリの恋人』の原題)』と変え、新曲をロジャー・イーデンスとレナード・ガーシュで追加し、オードリー・ヘプバーンとフレッド・アステアに出演依頼がなされた[6][4]。ヘプバーンは重厚な『戦争と平和』の次の作品のため軽い作品を望んでおり[6][5][7]、フレッド・アステアと踊れるということで大喜びで出演を引き受けた[4][6][2][7]。フレッド・アステアはヘプバーンが共演を望んでいると言うことで、一生に一度しかない共演のチャンスを逃したくないと思い、ほかの仕事を全てストップするように指示した[8]

しかし当初パラマウントは契約していたヘプバーンの貸し出しを拒否[3][5]。アステアはこの企画が実現しないだろうとまで言われていたが、ヘプバーンが望むなら必ずなんとかなると信じていた[8]。結局、将来ヘプバーンがMGMのために1本出演するという契約で企画全体がパラマウントに売られ、パラマウントで製作されることとなった[3][7][2][9]。歌の収録前、ヘプバーンは4週間に渡り発声訓練を続けた[6]。MGMでジュディ・ガーランドなどの歌手兼女優の発声コーチをした経験のあるケイ・トンプソンも応援で駆り出され、ヘプバーンをコーチしている[6]

キャラクター設定[編集]

フレッド・アステアが演じるカメラマンのディックは当時ファッション写真家として全盛期にあったリチャード・アヴェドンの半生がモデルになっている[2][4][10]。この映画では実際にアヴェドンがビジュアル・コンサルタントとして関わっている[2][6][5][11]

ケイ・トンプソン演じるファッション雑誌編集長マギーは、『ヴォーグ』の編集長ダイアナ・ヴリーランド[2][6][12]、あるいは『ハーパース・バザー』の編集長カーメル・スノウをモデルにしており[4]、作家でありキャバレーのスターでもあるケイ・トンプソン自身を念頭に置いて創られている[2][6]

アカデミー賞[編集]

ノミネート
アカデミー脚本賞:レナード・ガーシュ
アカデミー撮影賞 :レイ・ジューン
アカデミー美術賞:ハル・ペリーラ、ジョージ・W・デーヴィス、サム・カマー、レイ・モイヤー
アカデミー衣装デザイン賞:イディス・ヘッド、ユベール・ド・ジバンシィ

カンヌ国際映画祭[編集]

ノミネート
パルム・ドール:スタンリー・ドーネン

全米監督協会賞[編集]

ノミネート
全米監督協会賞 長編映画監督賞:スタンリー・ドーネン

ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞[編集]

受賞
トップ10フィルム賞
特別賞(フォトグラフィックの革新に対して)

バンビ賞[編集]

ノミネート
主演女優賞:オードリー・ヘプバーン

ローレル賞(en:Laurel Awards[編集]

ノミネート
ミュージカル男優賞:フレッド・アステア(4位)

全米脚本家組合賞[編集]

ノミネート
アメリカンミュージカル賞:レナード・ガーシュ

サテライト賞[編集]

ノミネート(2007年)
ベストクラシックDVD賞:50周年記念バージョンに対して

後世への影響[編集]

本作でデザイナーへの道を志すきっかけとなったケースは、ほかのどの映画よりも多いと言われている[13]。影響を受けたデザイナーにはジェフリー・バンクス[13]、アイザック・ミズラヒ[6][13] などがいる。また、後にヘプバーン最後の映画『オールウェイズ』を撮ることになるスティーヴン・スピルバーグはティーン・エージャーの頃、両親に無理矢理連れて行かれて『パリの恋人』をドライブインで見た[13]。そしてヘプバーンを見た途端スピルバーグはすっかり魅了されたという[13]

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』のタイトルバックに関して、手掛けたファン・ガッティは「『パリの恋人』をベースにしている」と語っている[14]

  1. ^ Funny Face (1957) – Box office / business” (英語). IMDb. 2011年5月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h チャールズ・ハイアム (1986年3月15日初版発行). 『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』. 近代映画社 
  3. ^ a b c ジェリー・バーミリー (1997年6月13日). 『スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン』. シンコー・ミュージック 
  4. ^ a b c d e f g ロビン・カーニー (1994年1月20日). 『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』. キネマ旬報社 
  5. ^ a b c d e f g アレグザンダー・ウォーカー (2003年1月20日). 『オードリー リアル・ストーリー』. アルファベータ 
  6. ^ a b c d e f g h i バリー・パリス (1998年5月4日初版発行). 『オードリー・ヘップバーン』上巻. 集英社 
  7. ^ a b c イアン・ウッドワード (1993年12月25日初版発行). 『オードリーの愛と真実』. 日本文芸社 
  8. ^ a b フレッド・アステア (2006年10月1日). 『フレッド・アステア自伝 Steps in Time』. 青土社 
  9. ^ MGMとの契約が後の『緑の館』になる(チャールズ・ハイアム『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』)
  10. ^ 日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』でオードリー・ヘプバーンもそう発言している。
  11. ^ Richard Avedon, Avedon Fashion 1944-2000, Harry N. Abrams:2009, p19
  12. ^ ヘプバーンの伝記では「ヴォーグ」の編集長と書かれているが、『パリの恋人』撮影時のヴリーランドはまだ「ヴォーグ」の編集長ではなく、「ハーパース・バザー」の編集者である。ただし、アヴェドンと組んで仕事をしていたのはヴリーランドである。(「20世紀ファッション界の女帝、ダイアナ・ヴリーランドの秘密に迫る映画『ダイアナ・ヴリーランド 伝説のファッショニスタ』」ファッションポストニュース.2012年11月26日.)
  13. ^ a b c d e パメラ・クラーク・キオ (2000年12月18日). 『オードリー・スタイル』. 講談社 
  14. ^ pen[ペン]p44. 阪急コミュニケーションズ. (2004年No.139 10月15日号) 

外部リンク[編集]