崔慶禄 – Wikipedia

崔 慶禄(チェ・ギョンノク、최경록)は大韓民国の軍人、外交官、政治家。

1920年9月、忠清北道陰城に生まれる。1938年、日本陸軍に志願(志願兵1期)。1939年12月、陸軍兵志願者訓練所を修了して歩兵第79連隊に配属。同世代の中で最も優秀な成績で下士官候補生に選ばれた。下士官候補生試験の他に陸軍士官学校の試験にも合格した[2]。入校待機状態である途中、南方に送られニューギニアの戦いを経験した[2]。戦闘で重傷を負ったが、昔から縁のあった第20師団参謀長小野武雄大佐の配慮によって、マニラ陸軍病院、小倉陸軍病院、東京第1陸軍病院を経て搬送された。1944年、豊橋予備士官学校を卒業して准尉に任官。

1946年1月、軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10011番)[3]。第1連隊の創設に参与し、同連隊A中隊(中隊長:蔡秉徳大尉)小隊長[4]。1947年12月1日、第2旅団人事参謀[5]

1948年6月21日、第11連隊長となり済州島に赴任した。1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると臨津江の戦闘で勇戦した。同年7月、首都師団参謀長。1951年1月10日、陸軍本部高級副官。1951年1月14日、憲兵司令官[7]。1951年7月31日、陸軍憲兵学校校長。1952年1月22日、国防部第1局長。同年春、戒厳令を宣布するよう命じられた李起鵬国防部長官から意見を求められ「戒厳令の要件を満たしていない」と答え、これに李起鵬も同意して戒厳令を宣布することは出来ないと伝えると、李起鵬と共に現職を解任された[10]。1953年、アメリカ陸軍指揮幕僚大学卒業。

1955年第2軍副司令官。1958年、国防大学院卒業。1959年、国防大学院院長。1960年、陸軍参謀次長。同年4月に起きた四月革命では宋堯讃戒厳司令官の発砲命令に対して中断するように命じた[2]。同年5月に許政は、崔を陸軍参謀総長に採用しようとしたが、張勉と縁があった崔は陸軍参謀総長を遠慮した[2]。しかし張勉が国軍人事を断行し、崔は陸軍参謀総長に就任した[2]。韓国軍で最初の大規模起動訓練を実施[11]。また創軍以来、初めて兵力の削減を実施し、軍の効率性の向上に大きく寄与した[11]。その他、東海岸地域に東海岸警備司令部を創設して海岸線警備を強化した[11]

1961年3月 第2軍司令官。同年5月に起きた5・16軍事クーデターは消極的に支持していた[12]。翌6月に予備役編入。ジョージ・ワシントン大学に留学。1963年3月21日、朴正煕の軍事政権延長提案に反対するデモを起こした[2]

1965年7月14日、金弘壹、金在春朝鮮語版、朴炳権、朴圓彬、白善鎮、宋堯讃、孫元一、張徳昌、李澔、曺興萬朝鮮語版ら予備役将軍と共に日韓協定の反対声明を発表[13]。デモによって学生と軍が衝突する中、翌8月27日には「国軍将兵に送る呼訴文」を発表[14]。国軍将兵が神聖な国土防衛の使命よりも執権者によって国民や国家の利益に反する目的で動員される悲しき事態に至ったとし、執権者たちを反民族行為者であり、民主主義に逆らう反国家行為者だと糾弾した[14]。また国軍将兵には、どんな状況でも愛国国民に銃を向けてはならないと訴えた[14]

「祖国近代化に参加してほしい」という朴正煕の執拗な説得によって1967年にアメリカから帰国して駐メキシコ大使に赴任[15]

1971年、駐イギリス大使。

1974年、交通部長官。裡里駅爆発事故が起こると与党はおろか野党ですら鉄道庁長が責任を負うべき事案として引き留めたが、崔は辞任した[15]

全斗煥の度重なる要請により、1980年から5年間、駐日大使を務めた[15]

1989年1月、産経新聞に掲載された崔慶禄の寄稿文が波紋を呼んだが[16]、これに対して崔は「陸軍参謀総長、交通長官など公職と駐英、駐日大使など20余年間外交官生活をしてきた私がそのような分別のない言葉を述べたのか」と反問し、寄稿文について否定している[17]

1987年、在郷軍人会会長。

2002年9月2日午後11時半頃、自宅で老衰により死亡[11]