本圀寺 – Wikipedia

本圀寺(ほんこくじ)は、京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山(霊跡寺院)であり六条門流の祖山である。山号は大光山。

本寺は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝える。貞和元年(1345年)に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した[1]。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれている。その後、本末解体による六百旧末寺の離散や多数の訴訟と借財により、本圀寺は荒廃して六条堀川での創建の地を売却して山科に移転した。68世久村日鑒貫首の発案で、金色の鯱や龍、仁王像に大梵鐘、その他金色ずくめの装飾を施した寺院となったが、104世伊藤日慈貫首晋山後、旧に復されている。

旧塔頭は現在も六条の旧地に十六院残っている(松林院、瑞雲院、一音院、詮量院、了円院、勧持院[2]、松陽院、林昌院、本妙院、智妙院、本實院、真如院、了光院、智了院、智光院、久成院)。

六条の旧地にある本圀寺墓地は現在、旧地にある塔頭寺院が管理している。

最近、旧末寺寺院、縁故四法縁(莚師法縁、奠師法縁、親師法縁、達師法縁)の中に六条に本圀寺を復興させようとする動きがある。復興の暁には山科は奥之院となる。

2021年、107世・早川日章貫首(飯田市長源寺から)が晋山。

本圀寺寺紋の三つ紅葉は、公達日忠聖人の出身の公家菊亭家の家紋を授かった経緯がある。

中世[編集]

寺伝によれば建長5年(1253年)日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源と伝える[3]。なお、松葉ヶ谷の草庵(法華堂)の所在地については複数の説がある。日蓮が伊豆国(現伊東市)への配流(伊豆法難)から戻った後、弘長3年(1263年)に法華堂は再興され、本国土妙寺と改称された[3]。寺では日蓮を高祖、弟子の日朗を二祖と位置づけている。

本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)のことである。同年、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた[4]。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている[4]

天文5年(1536年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺の成就寺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)、六条堀川の旧地に再建された。

永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌永禄12年(1569年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条城建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条城に運ばれて再組み立てされたという[5]。さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られた。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた[4]。天正19年(1591年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により西本願寺造立のため、寺地のうち二町を割譲した。

近世[編集]

元和元年(1615年)、徳川家康は本国寺の寺領を安堵[4]。水戸藩主徳川光圀が当寺にて生母久昌院の追善供養を行い、貞享2年(1685年)に光圀の名から一字を下され本圀寺と改称した[6]

正徳元年(1711年)には徳川家宣の襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の宿舎となっている。天明8年(1788年)の天明の大火では経蔵(現存)を除く伽藍が焼失した。

文久3年(1863年)には鳥取藩士による本圀寺事件が起き、また水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室や徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。

近代[編集]

1872年(明治5年)、学制発布により、求法檀林は廃檀した。1921年(大正10年)、本圀寺は明徳女学校を設立。同校は京都市西京区に移転し、京都明徳高等学校となっている。

1969年(昭和44年)、宗門特選で札幌の本龍寺伊藤日瑞住職が63世貫首に就任、係争中訴訟の解決を図った。伊藤貫首のもと、本圀寺は六条堀川の旧地から京都市郊外の東山区山科(現・山科区)へ移転することになる。1971年(昭和46年)、山科移転第一期工事(本師堂、客殿)が完成し落慶法要が営まれた。以後、第二期、第三期工事が順次完成し山容を整える。

山科移転以前の旧寺地は西本願寺の北側で、本願寺聞法会館や駐車場の敷地となっている。本圀寺の山科移転後も塔頭16院(前述)は旧地に残り、五条通り南北の猪熊通沿いに所在している。

  • 高祖日蓮 → 二祖日朗 → 三祖日印 → 四祖日静 → 五祖日伝
  • 日経(六世)
  • 月厳(七世)
  • 日聡(八世)
  • 日暁(九世)
  • 日円(十世)
  • 日尭(十一世)
  • 日了(十二世)

重要文化財(国指定)[編集]

  • 本圀寺経蔵(輪蔵)
  • 三箇の霊宝
    • 立像釈迦像
    • 三赦免状
    • 立正安国論
  • 歴代天皇の綸旨
  • 日蓮真筆本尊六幅
  • 真生廟

交通アクセス[編集]

京都市営地下鉄御陵駅から徒歩15分。
自動車でも行くことが可能であるが住宅街の中を通る為、道が狭く離合が出来ない箇所があるので注意が必要である。

六条門流の主要寺院[編集]

  • 村雲御所瑞龍寺(滋賀県近江八幡市)
  • 広布山本満寺(京都府京都市)
  • 向嶋山長源寺(福井県小浜市:六条門流三長、通称小浜本山)
  • 誉師山長満寺(愛知県幸田町:六条門流三長、通称三河本山、本圀寺第一末寺)
  • 大尭山長遠寺(兵庫県尼崎市:六条門流三長)
  • 大光山本圀寺(京都府京都市:六条門流三本、六条門流祖山)
  • 高照山本傳寺(大阪府大阪市:六条門流三本)
  • 萬歳山本経寺(長崎県大村市:六条門流三本、大村法華根本寺)
  • 猿畠山法性寺(京都府京都市:京お猿畠、本圀寺末頭)
  • 発星山本妙寺(熊本県熊本市:九州総導師)
  • 平河山法恩寺(東京都墨田区:江戸触頭、通称本所法恩寺)
  • 妙祐山幸龍寺(東京都世田谷区:江戸触頭、通称浅草田甫幸龍寺)
  • 妙祐山宗林寺(東京都台東区:江戸触頭、通称谷中宗林寺)
  • 金谷山大明寺(神奈川県横須賀市:通称三浦本山)
  • 楞厳山妙法寺(神奈川県鎌倉市:通称鎌倉本山、苔寺)
  • 海秀山大法寺(富山県富山市:通称呉東本山)
  • 法光山清光院妙金寺(栃木県宇都宮市:通称鴛鴦妙金寺)
  • 海秀山大法寺(富山県高岡市:通称呉西本山)
  • 本城山経王寺(京都府宮津市:通称丹後本山)
  • 大乗山法華寺(兵庫県姫路市:通称播磨本山)
  • 妙光山本遠寺(愛知県名古屋市:熱田法華堂)
  • 長生山妙勝寺(愛知県あま市:通称坂東総本寺)
  • 布教のため堀川の地より去った塔頭
    • 圓龍院 現宗照山圓龍院(愛知県あま市)
    • 本栖院 現信正山本栖寺(京都府京都市)
    • 吉祥院 現妙栄山吉祥院(鳥取県米子市)
    • 持珠院 現海森山持珠院(愛媛県伊方町)
    • 本立院 現日光山本立寺(愛媛県伊方町)
    • 一妙院 現稲龍山一妙院(長崎県長崎市)
    • 円乗院 現長幸山円乗寺(大分県豊後大野市)
    • 心行院 現妙光山心行寺(大分県臼杵市)

ギャラリー[編集]

本圀寺事件[編集]

本圀寺事件は、八月十八日の政変前日の文久3年8月17日(1863年9月29日)に当寺において発生した事件である。河田景与をはじめとする鳥取藩の尊王攘夷派藩士22名が、彼らを危険視する宿泊中の側用人黒部権之助、高沢省己、早川卓之丞の3名を惨殺、翌日18日彼らの残書により加藤十次郎が自殺した。この事件は因幡二十士事件因幡二十二士事件とも呼ばれる。一方、側用人4名にこの事件で殺害された早川の家来の藤井金蔵を加えた5名は本圀寺五烈士あるいは本圀寺事件五烈士と呼ばれる。暗殺者のうち5名は慶応2年8月3日(1866年9月11日)、被害者の遺族により島根県の手結浦であだうちされている[7]

参考文献[編集]

  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 6 洛南』、駸々堂出版、1986
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979

関連項目[編集]

外部リンク[編集]