Month: May 2018

青木城 – Wikipedia

青木城(あおきじょう)は、神奈川県横浜市神奈川区高島台にあった16世紀の日本の城。現在の本覚寺付近とされ、小田原の後北条氏被官・多米氏の居城とされる。 京急本線神奈川駅北側に位置する「高島台」の丘陵は、2020年現在は京急本線やJR線、国道1号により寸断されているが、かつては東側の「権現山」と尾根伝いに繋がっており、権現山側に権現山城、高島台側に青木城があったとされている。 1510年(永正7年)、扇谷上杉氏の被官・上田政盛が、関東進出を狙う伊勢盛時(のちの北条早雲)と通じて上杉氏に謀反し権現山城で挙兵。上杉朝良(扇谷上杉氏)と上杉憲房(山内上杉氏)がこれを攻め「権現山の戦い」が勃発した[1]。両上杉氏は権現山城を落とし、援軍に駆けつけた伊勢(後北条)軍をも撃破して勝利したが、この戦いの際、伊勢側の援軍が「本覚寺の地蔵堂」を根城(本城)として立て籠ったとされており(『鎌倉九代記』)、現在青木城と呼ばれている本覚寺付近も既に城郭の一部として使われ始めていた。 この戦いには破れたものの、その後も伊勢氏(後北条氏)の進出は止まらず、権現山はやがて後北条氏が掌握して対上杉氏の前線となり、大永年間(1521年-1528年)に多米元興(周防守)が青木城主として配置された[2]。 以上の経緯から、青木城の正確な築城年代は不明だが『日本城郭大系』では権現山城が先に築城され、大永年間ごろに発展・拡大的に青木城が成立したと考えられている[3]。 その後も青木城は多米氏の管轄下にあり、1559年(永禄2年)成立の『小田原衆所領役帳』によると、当時は「多米新左衛門」(多米周防守と同一人物かは不明)が領有していた[3]。 1569年(永禄12年)に武田信玄が小田原を攻撃した際、多米周防守は青木城を捨て、北条氏綱の娘婿である吉良頼康の居城蒔田城(横浜市南区蒔田町)の守備にあたったという[3]。 廃城年代も不明だが、多米氏は1590年(天正18年)の小田原征伐の際に討たれ(『諸国廃城考』)、1830年(文政13年)成立の『新編武蔵風土記稿』では「さして今は城塁の跡の残りたるも見えず。」とあり、江戸時代後期までには痕跡も判然としなくなっていた[3]。 権現山城のあった権現山は、幕末に神奈川台場造成のための土取り場として削られ、明治時代以降は鉄道等によって開削されるなど地形の変形が著しい。また青木城のあった高島台側も本覚寺のほか住宅地化しており、遺構は破壊されたと考えられている[5]。 参考文献[編集] 磯子の史話出版部会 1978『磯子の史話』磯子区制50周年記念事業委員会 pp.63-66 平井聖ほか 1980『日本城郭大系』新人物往来社 pp.284-285 「神奈川宿 青木城跡」『新編武蔵風土記稿』巻ノ70橘樹郡ノ13、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763985/27。 関連項目[編集]

Continue reading

カミツキガメ科 – Wikipedia

カミツキガメ科(カミツキガメか、Chelydridae)は、爬虫綱カメ目に分類される科。模式属はカミツキガメ属。 北アメリカ大陸、南アメリカ大陸北西部[4] 現生種は南北アメリカ大陸のみに分布するが、ユーラシア大陸からも本科の構成種の化石が発見されている[2]。 最大種はワニガメで、最大甲長80センチメートル[3]。背甲と腹甲の継ぎ目(橋)は細い[4]。腹甲は小型で、十字状[4]。 頭部は大型[4]。尾は長い[4]。 1980 – 2000年代には頭骨や上腕二頭筋の形態・ミトコンドリアDNAのシトクロムbおよび12s rRNAの分子系統解析などから、オオアタマガメ科を本科と単系統群を形成するとしてカミツキガメ上科に含む説が提唱された[5]。脊椎骨の形態や核形の比較からオオアタマガメ科はイシガメ科やリクガメ科に近縁とする説もあり、2000年代後半に行われた核DNAやミトコンドリアDNAの全塩基配列の分子系統推定ではオオアタマガメ科はリクガメ上科に含まれるとする解析結果が得られた[5]。 カミツキガメ属は以前はカミツキガメC. serpentinaのみで構成されていたが、1996年にミトコンドリアDNAの制限酵素領域の解析から遺伝的的距離が大きいとして3種に分ける説が提唱された[2]。ワニガメ属は以前はワニガメM. temminckiiのみで構成されていたが、2014年にジョージア州とフロリダ州のSuwannee川流域の個体群がM. swanniensisとして新種記載する説が提唱された[6]。 以下の分類・英名は、Turtle Taxonomy Working Group(2017)に従う[1]。 カミツキガメ属に関しては近年まで北アメリカ大陸から南アメリカ大陸に広域分布する1種と考えられていたこともあり、2000年代までの時点ではホクベイカミツキガメを除いた知見はほとんどない[3]。少なくともホクベイカミツキガメは底質が泥や砂で水生植物が繁茂した水場に広く生息するが、主に河川の流れの緩やかな箇所・池沼・湿地・河川の周囲にある水たまりなどに生息する[2]。ワニガメは主に河川や三日月湖も含む湖・水路などのある程度の水深がある環境に生息し、底質が泥で水生植物の繁茂した環境を好む[3]。完全水棲で産卵するメスを除いて、上陸することは少ない[2][3]。一方で少なくともホクベイカミツキガメは水場が干上がったり水位の低下時・地域によっては降雨時に上陸して移動することもあり、水辺のアリ塚の周囲でアリを全身にたからせる(蟻浴)が報告された例もある[2]。水底を徘徊して活動する[2][3]。 少なくともホクベイカミツキガメとワニガメは、魚類、両生類、爬虫類、昆虫類、甲殻類、貝類、動物の死骸、果実などを食べる[2][3]。水底を徘徊し獲物を探すが、ワニガメは獲物を待ち伏せて捕食することもある[3]。 人間との関係[編集]

Continue reading

第45回衆議院議員総選挙 – Wikipedia

第45回衆議院議員総選挙(だい45かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、2009年(平成21年)8月30日に日本で行われた国会(衆議院)議員の総選挙である。 第45回衆議院議員総選挙候補者ポスター掲示板(福島県南相馬市福島県第1区) 第44回衆議院議員総選挙(いわゆる郵政解散による「郵政選挙」)で当選した議員の任期が2009年9月10日に満了するため、衆議院解散の有無に関係なく、総選挙は遅くとも同年10月20日までに実施予定であったが、2009年7月21日に衆議院が解散された(解散に至る経緯は後述)。衆議院解散後の臨時閣議で8月18日公示、8月30日の選挙執行が決定された。 8月に投開票が行われる総選挙日程は1902年の第7回総選挙以来107年ぶりであり、現行の日本国憲法下では初めて。衆議院解散から総選挙施行までの期間は、憲法第54条第1項において定められた最長の期間である40日間であるが、これは7月12日投開票の東京都議会議員選挙の影響をできるだけ遠ざける狙いがあったとされている(後述)。 期日前投票制度を利用して投票日前に投票した有権者は1,398万を超え、国政選挙での期日前投票制度の実施以来、最高を更新した[1]。 選挙の結果、民主党が選挙前を大幅に上回る308議席を獲得し、議席占有率は64.2%に及んだ。単一の政党が獲得した議席・議席占有率としては現憲法下で行われている選挙としては過去最高であった。社会民主党や日本共産党は選挙前勢力を維持、国民新党は1議席減らした。337人を擁立した幸福実現党は供託金をすべて没収される大差で全員落選した。 一方、自由民主党は119議席を獲得したが、公示前議席より181議席の減少となり、1955年の結党以来初めて衆議院第1党を失った。公明党は公示前議席から10議席少ない21議席となった。 民主党は結党11年目にして衆議院第1党となり、第172回国会で民主党が中心の新政権が発足した。非自民政権としては1993年7月18日に行われた第40回総選挙の結果に基づき、その後の特別国会によって成立した細川内閣以来であった。 平成生まれの人が初めて投票できることとなった総選挙である(2016年の公職選挙法改正による18歳選挙権施行以前は、選挙権年齢は満20歳であった。参院選での平成生まれの人の投票は第22回参議院議員通常選挙から)。 選挙前の経緯[編集] ねじれ国会[編集] 前回の選挙以後、内閣総理大臣が小泉純一郎→安倍晋三→福田康夫→麻生太郎と総選挙を経ることなく交代。この間、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で自由民主党および公明党から成る連立与党が敗北、いわゆる「ねじれ国会」の状況となった。 2008年6月11日に野党が多数を占める参議院で福田康夫首相に対する問責決議が可決(現憲法下で初)された。野党は後期高齢者医療制度を含む国内問題の処理を批判し、解散・総選挙か福田康夫首相の辞任を要求した。与党側は翌6月12日に衆議院で内閣信任決議を可決するものの、福田康夫首相は9月1日に首相辞任を発表。9月22日の自由民主党総裁選挙で勝利した麻生太郎が後継の総理大臣となった。 選挙日程の先送り[編集] 当初、マスメディアは自由民主党が麻生人気を背景として、2008年の10月下旬か11月上旬に選挙を行うとみていた。9月から10月にかけて解散・総選挙の日程がさまざまに取りざたされ、話し合い解散を模索する動きもあったが、政権発足時の支持率が40%台と低調だったことに加え、アメリカ合衆国発の金融危機で世界経済に様々な影響が出たこともあり、これらの諸課題に対処するための補正予算成立を先決とし、麻生は選挙を先送りする方針を示した[2]。 2009年に入ると、2月から新型インフルエンザが蔓延するようになり、総選挙と東京都議会議員選挙(7月12日投票)との近接を避けたい公明党への配慮から、与党側では5月までの解散もしくは夏以降の解散が模索され、最終的には8月以降に選挙が実施されるという見方が大勢となった。この間、麻生個人の首相としての資質の問題や[3]、かつてない速さで悪化する経済情勢に加えて、ねじれ国会における野党の審議拒否・審議引き延ばしのために迅速な景気対策がとれなかったため、麻生内閣の支持率は10%台まで落ち込んでいった。2009年3月に西松建設事件で民主党代表小沢一郎の公設第一秘書が逮捕され、この影響で一時支持率は持ち直したものの、日本郵政をめぐる人事問題での鳩山邦夫総務大臣更迭や、宮崎県知事東国原英夫擁立をめぐる自由民主党内の混乱などで再び支持率は下降。 そして、国会の会期を7月28日まで延長したことから、任期満了選挙の場合、8月11日公示、23日投開票の日程が濃厚になった。 解散へ[編集] 7月12日に行われた東京都議会議員選挙で自由民主党が惨敗、民主党が都議会第一党となった。翌7月13日、7月21日から24日のいずれかで衆議院解散を行い、8月30日に投開票を行うことで与党が合意したと報じられ[4]、7月17日、麻生が自由民主党を通じて各党に「21日午後に解散詔書朗読のための本会議を開き、衆議院を解散する」との旨を伝えた[5]。 なお、天皇が7月3日から17日の日程でカナダおよびアメリカ合衆国・ハワイを訪問しており、この時期の解散は避けるべきとの自由民主党内での意見[6]に対し、麻生は、皇太子が国事行為を代行できるため、天皇の外国訪問は解散権を制約する要素ではないとの認識を示していたが[7][8]、最終的には天皇の帰国後に解散の日程が設定されることとなった。

Continue reading

位相群の群環 – Wikipedia

この項目では、位相群に付随する位相多元環について説明しています。離散群の場合の純代数的な取扱いについては「群環」をご覧ください。 数学において、局所コンパクト群の群環(ぐんかん、英: group algebra)とは、その群の表現が適当な環の表現の表現として読み替えることができるような(いくつかの)構成法が与えられたときの、その環(ふつうは作用素環あるいはもっと一般のバナハ代数)を総称して呼ぶものである。そういった環は、位相を抜きにして考えた群に対する群環と同じような働きを果たす。 群環 Cc(G)[編集] 函数解析学、特に調和解析で用いる目的で、純代数的な群環の構成を位相群 G に対するものへ敷衍することは意味がある。G が局所コンパクトハウスドルフ位相群である場合には、G はハール測度と呼ばれる本質的に一意な左不変可算加法的ボレル測度 μ を持ち、ハール測度を用いて G 上のコンパクト台つき複素数値連続函数全体の成す空間 Cc(G) の上に畳み込み演算を定義することができる。さらに Cc(G) に任意に与えられたノルムによる完備化も群環となり得る。 畳み込み演算は

Continue reading

楊万里 – Wikipedia

楊 万里(よう ばんり、建炎元年9月22日(1127年10月29日) – 開禧2年5月8日(1206年6月15日)は、中国南宋の学者・詩人。字は廷秀、誠斎先生と号した。范成大・尤袤・陸游とともに南宋四大家の一人。 吉州吉水県の出身。紹興24年(1154年)に進士となり、張浚の宰相在任時に臨安府教授に任命され、ついで奉新知県となり治績をあげた。虞允文・陳俊卿が宰相となった時に国子博士に抜擢され、太常博士・吏部右侍郎・将作少監をへて、漳州知州・常州知州となり、淳熙元年(1174年)から東宮講官が欠員となると孝宗が侍講に抜擢した。そこで『東宮勧読禄』を上奏して帝王治国の要諦を説き、宰相の王淮に『淳熙薦士録』という書で提言して朱熹・袁枢など60人を登用させた。淳熙14年(1187年)に高宗が崩じ、孝宗は3年の喪に服すために徳寿宮に入り、太子に詔して庶務を議事堂に処理させようとしたところ、楊万里はこの措置に反対し、上疏して諫めたために孝宗の不興を買い、筠州知州へと左遷された。 光宗即位とともに秘書監となったが、江東転運副使となったときに、朝廷が江南に鉄銭を普及させようとした際にこれに反対して罷免される。寧宗即位の時にふたたび出仕して、宝文閣待制に進んだところで隠退する。韓侂冑が辺境で兵乱を起こしたことを聞き、憂いのあまり絶食して没する。光禄大夫を贈られ、文節と諡された。 学問・思想・詩[編集] 楊万里は張浚によって「正心誠意」の学を授けられ、その言葉に深く感じ書斎を誠斎と名づけ、誠斎先生と呼ばれた。その学風は史伝を多く引証し、六経に精しかった。つとに異民族に侵略された北方の回復を望み、君道・国務・治原など30カ条の文を作り「千慮策」として朝廷に献じたこともある。 詩人としても名声が高く、南宋の詩人としては陸游についで伝わる作が多い。陸游が晩年、韓侂冑に妥協したのに対し楊万里は節を曲げず、そのため「詩品の洗練されていることでは陸游がまさるが、人品を問うならば陸游は楊万里に遠くおよばない」と『四庫全書総目提要』は評している[1]。その詩法は江西詩派の流れをくみ、黄庭堅風の詩を書いていたが、のちに自らその時期の詩を焼き捨てたという。唐詩を愛好し、観察発想が奇抜であり「才思健抜」と称せられた。宋詩のうちもっとも俗語を多用するという。その詩文はすべて、楊万里の長男が編纂した『誠斎集』133巻に収められている。 著作・詩集[編集] 『誠斎易伝』30巻 『心学論』 『庸言』 『江湖集』7巻 『荊渓集』5巻 『西帰集』2巻 『南海集』4巻 『朝天集』6巻 『朝天続集』4巻

Continue reading

古田勝久 – Wikipedia

古田 勝久(ふるた かつひさ、1940年(昭和15年)1月3日 – )は日本の制御工学、ロボット工学の研究者。東京工業大学名誉教授、工学博士(東京工業大学)。東京工業大学教授、東京電機大学教授、同学長を歴任し、非線形制御の検証用として開発した回転テーブル式の倒立振子はFuruta Pendulum(英語版)として世界に知られている[29][30][21]。 システム同定や非線形制御、ロボット・メカトロニクスの制御で実績をあげ、スーパーメカノシステムやHAM(Human Adaptive Mechatronics)、Safe Manual Control[31]といった概念も提唱し、東京工業大学のCOE形成基礎研究や、東京電機大学の21世紀COEプログラムをリードした[31]。制御理論の研究では多くの弟子を育て、日本発の制御系CAD「MATX」[注釈 1]は古田研究室から誕生している。 略歴[編集] 受賞・栄典[編集] 社会的活動[編集] (学術団体) (その他) (社)日本電気計測器工業会 – 先端制御技術の動向調査委員会

Continue reading

山本渓愚 – Wikipedia

山本 章夫(やまもと あきお、文政10年1月9日(1827年2月4日) – 明治36年(1903年)10月27日)は幕末、明治の儒学者、博物画家、本草学者。京都の本草学者山本亡羊の子。明治初年駅逓司、博覧会事務局等に関わったが、次兄山本秀夫没後、山本読書室を受け継ぎ、聚芳社を創立した。また、久邇宮家、本圀寺、京都市美術学校等で漢学・道徳を教え、賛育学社で漢方存続運動を指導した。 修学[編集] 文政10年(1827年)1月9日京都油小路通五条上ル上金仏町に生まれた。山本家の下、6歳で漢詩を始め、9歳で四書を暗誦し、12歳で四書五経に通じた。15歳で森徹山、蒲生竹山に絵画を学んだ。 西国各地へ採薬旅行に赴き、嘉永4年(1851年)には北越地方、文久2年(1862年)には周防国まで足を伸ばしている。 政府出仕[編集] 明治元年(1868年)3月太政官により内国事務局書記を命じられ、4月会計官駅逓司、5月駅逓司判事、次いで知事試補となるも、7月判事に戻り、9月判事頭取に就任した。明治2年(1869年)2月8日聖上御車幸御用掛となり、3月7日明治天皇に従い東京に渡った。5月19日駅逓司を辞職し、6月20日京都に帰った。 明治5年(1872年)3月博覧会事務局に出仕し、4月東京に戻り、ウィーン万国博覧会事務に携わり、明治6年(1873年)11月辞職し、京都に帰った。 明治8年(1875年)10月京都博物館御用掛、明治18年(1885年)3月京都博覧会特別品評部長を務めた。 本草会活動[編集] 文久元年(1861年)8月1日から海紅亭と号して物産会を行った[8]。明治7年(1874年)5月10日松原通不明門の大火で本家読書室が焼失すると、明治8年(1875年)2月新居を建て、明治9年(1876年)10月10日本草会を引継ぎ、以降毎月15日に開いた。 明治20年(1887年)11月聚芳社を創立し、後に博物会と改称された。 教育活動[編集] 明治13年(1880年)1月23日久邇宮朝彦親王により彦宮(久邇宮邦彦王)侍講を任され、明治23年(1890年)3月成城学校入学まで書画、漢籍、経史を教えた。その後多嘉王、女王7名、厳宮(賀陽宮邦憲王)、邦憲王妃に教えた。また、明治17年(1884年)生まれた第四王女を命名した。 明治13年(1880年)4月から明治29年8月まで本圀寺教主の要請で僧侶に講義を行った。明治14年(1881年)11月賛育学社都講となって漢方医学を教え、明治27年(1894年)5月京都市美術学校講師、7月日本弘道会京都支部名誉講師も歴任した。 晩年[編集] 明治32年(1899年)1月杭州の考証学者兪曲園に自著「考訂孝経」「考訂大学」「考訂中庸」の三書を贈り、兪曲園から碩学の士と称えられた。

Continue reading

和歌浦 – Wikipedia

「和歌の浦」はこの項目へ転送されています。静岡県下田市の和歌の浦については「和歌の浦 (下田市)」をご覧ください。 和歌浦(わかのうら)は和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称。国指定の名勝。 住所表記での「和歌浦」は「わかうら」と読むために、地元住民は一帯を指して「わかうら」と呼ぶことが多い。狭義では玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を指すのに対し、広義ではそれらに加え、新和歌浦、雑賀山を隔てた漁業集落の田野、雑賀崎一帯を指す。名称は和歌の浦とも表記する。 『万葉集』にも詠まれた古からの風光明媚なる地で、近世においても天橋立に比肩する景勝地とされた。近現代において東部は著しく地形が変わったため往時の面影は見られないが、2011年にようやく国の名勝に指定され、また自然海岸を残す西部の雑賀崎周辺は瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されており、それぞれ保護されている。 本項では和歌山市和歌浦支所の管轄地域と、その前身である海草郡和歌浦町(わかうらちょう)、同町の町制前の名称である海部郡・海草郡和歌村(わかむら)についても述べる。 名称の由来[編集] 和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が『万葉集』巻六の919番歌に、 若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡(若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る) と詠んでいる。「片男波」という地名は、この「潟をなみ」という句から生まれたとされる。また、『続日本紀』によれば、一帯は「弱浜」(わかのはま)と呼ばれていたが、聖武天皇が陽が射した景観の美しさから「明光浦」(あかのうら)と改めたとも記載されている。和歌浦には明光商店街があるが、これは続日本紀の明光浦の呼称にちなんでいるものである。 平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。 奈良・平安時代[編集]

Continue reading

クリスチャン・ボイス (米国) – Wikipedia

クリスチャン・ボイス(Christian Voice)はアメリカ合衆国の保守派によるロビー団体。同国の政治において宗教右派を権利を主張してアドボカシーを行なっている。1980年には、45の教派に所属する3万7千人の牧師を含む、約10万7千人の会員を抱えていた[1]。その本部は1970年台から80年代にはヘリテージ財団本部に入居していたが、現在はワシントンD.C.郊外にあたるヴァージニア州アレクサンドリアに位置する[1]。 クリスチャン・ボイスは1978年から79年にかけて創設された有名なキリスト教ロビー団体の4つのうちの1つである[2]。クリスチャン・ボイス、モラル・マジョリティ(英語版)、宗教円卓会議、全米キリスト教連合(英語版)はロナルド・レーガン政権下で全盛期を謳歌した[2]。 また、クリスチャン・ボイスは「モラル・レポート・カード[2]」というカードを発行し、1980年から84年の間には「連邦カード」や「候補者スコアカード」などが問題となった[3]。 クリスチャン・ボイスは1978年、ロバート・グラント(英語版)とリチャード・ゾーンの2人によって、カリフォルニア州の反LGBT、反ポルノ団体から独立する形で発足した[4]。発足に際し、福音派の牧師であり、全米キリスト教連合(英語版)(Christian Coalision)の創設者であるパット・ロバートソンから財政支援を受けた[4]。また、保守派のシンクタンクであるヘリテージ財団の代表ポール・ウェイリッチ(英語版)や宗教右派運動の発案者も1976年にグラントと面会し、クリスチャン・ボイスの本部をヘリテージ財団の本部内に置くことで合意した[5]。その後、メルキト・ギリシャ・カトリック教会(英語版)の会員[6]でもあるウェイリッチが福音主義ユダヤ人のハワード・フィリップス(英語版)を勧誘し、さらにローマ・カトリックでニクソン政権時代の政府職員であったリチャード・ヴィグリー(英語版)も加わった[5]。ヴィグリーは反共運動の指導者であり[6]、クリスチャン・ボイスの発展を支援した[6]。 クリスチャン・ボイスはロビー団体として特に名をあげた。グラントは共和党の政治家で政府職員のゲーリー・ジャーミンを雇い、米国議会に大きな影響を及ぼした[2]。ジャーミンはユダヤ人や根本主義者、ローマ・カトリック、ペンテコステ派、カリスマ派などの多様なキリスト教徒、ユダヤ教徒に対して、政治の変革という共通の見解に向けて互いの違いを横に置くことを訴えた。この手法はフランシス・シェーファーなどが採用した戦略でもあった。この点において、クリスチャン・ボイスは他の3団体とは異なっていた。モラル・マジョリティ、宗教円卓会議、全米キリスト教連合の3団体は思想的には根本主義で固まっており、他の宗派との政治協力には消極的であったからである[2]。 しかし、創設者のグラント自身がクリスチャン・ボイスは「偽物」であり、「カトリックとユダヤ人の3名によって操られている」と述べ、1978年にはウェイリッチ、ヴィグリー、フィリップスの3名が脱退。3名はテレビ宣教師ジェリー・ファルウェルと協力してモラル・マジョリティを創設した[6]。 ラルフ・ユージーン・リード・ジュニア クリスチャン・ボイスは大統領選においてジミー・カーターの対立候補を探していた[2]。カーターは新生したクリスチャンという評価を受け入れていた民主党候補であり、1976年の大統領選ではキリスト教保守派の人気も得て当選した[2]。しかし、任期中のパナマ運河返還や共産主義陣営に対する態度が弱腰であるとして保守派の人気を失った[2]。これらにより、1980年の大統領選ではロナルド・レーガンが当選した[2]。選挙期間中、クリスチャン・ボイスは「クリスチャン・フォー・レーガン」という部署を作り、カーターが同性愛を容認しているという宣伝キャンペーンを支援した[2]。一方で、「モラル・レポート・カード」と呼ばれる政治介入が問題視された[2]。 クリスチャン・ボイスは宗教右派における最初のロビー団体であり、全米キリスト教連合(英語版)、モラル・マジョリティ(英語版)、家族調査評議会などがその後に設立された。クリスチャン・ボイスは数多くの政治的有力者を雇用していた。例えば、元連邦下院議員のトム・ディレイや『レフトビハインド』シリーズの作者ティム・ラヘイなどである。一時はユタ州、アイオワ州、アイダホ州の連邦上院議員が執行委員を務めていた時期もある[2]。 上院議員を執行役員として採用するなどのルールを無視したやり方によって、クリスチャン・ボイスは多くの支持者を失った[2]。同団体の主な政治的目標は、憲法修正による公立学校における「祈祷」の許可であるが、第1期レーガン政権の末期に断念した。第2期レーガン政権では活動をロビイングからキャンペーン文書、特に先述の「レポート・カード」の出版へと移行した[2]。1986年の大統領選では30万枚のレポート・カードが発行されたと主張している[2]。しかし、それ以降はクリスチャン・ボイスの財政支援とリーダーシップは衰退し[2]、共和党は上院で過半数を下回った。さらに、クリスチャン・ボイスの主要メンバーは文鮮明をリーダーとする統一教会の財政支援を受け、アメリカ自由連合の創設へと移行した[2]。 ^ a b “Exposing The Christian Right Wing”.

Continue reading