Month: June 2018

田中修 (植物学者) – Wikipedia

田中 修(たなか おさむ、1947年 – )は、植物学者、甲南大学特別客員教授・名誉教授。 京都府生まれ。1971年京都大学農学部卒業、1977年同大学院博士課程修了、「アオウキクサの花芽形成に対する代謝阻害物質及び窒素化合物の作用に関する研究」で農学博士。米国スミソニアン研究所博士研究員などを経て、甲南大学理学部助教授、93年教授。専攻・植物生理学[1]。 2017-18年の年末年始にかけて放送された「冬休み子ども科学電話相談」(NHKラジオ等)の、1月5日に出演した[2]。また植物担当の先生としてサイトにも掲載され、大事な単語が出てくると聞いてもらうだけでなく、口に出して覚えてもらう形をとる、「コール&レスポンス」が有名で、SNSでも大事な単語が出てくるとその単語がTLに並ぶほどである。 『緑のつぶやき』青山社 1998 『つぼみたちの生涯 花とキノコの不思議なしくみ』中公新書 2000『植物は命がけ 花とキノコの不思議なしくみ』中公文庫 『ふしぎの植物学 身近な緑の知恵と仕事』中公新書 2003 『クイズ植物入門 一粒のコメは何粒の実りになるか』講談社ブルーバックス 2005 『雑草のはなし

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自立晩報 – Wikipedia

自立晩報(じりつばんほう)は、台湾における夕刊紙であり、有数の歴史を持つ新聞である。かつては大きな影響力を持つ新聞でもあった。 自立晩報は、1947年10月10日に台湾で最初の中国語夕刊紙として創刊した。創刊以来、「無党無派、独立経営」をスローガンとし、「政治上いかなる党派にも偏らず、いかなる財閥やグループにも妥協しない」と自負している。顧培根によって創刊された同紙は、四開紙と呼ばれるサイズ(54cm×39cm)であった。1949年、鄭邦昆と婁子匡が発行権を高額で買い取り引き継いだ。1959年には呉三連が経営に加わる。1988年、新たに自立早報を創刊して自立報系と呼ばれるメディアグループを形成した。1980年代末には、台湾史に関する書籍を多く出版している。 自立晩報は過去に10回の経営者変更と5回の移転、そして3回の停刊処分を経験している。1950年11月17日、文芸欄「萬家燈火」に香港紙がカットした「草山衰翁」を掲載し、政府から「蔣介石総統対する不敬」として停刊処分と復刊を行わない処分を受けた。この処分は李玉階の尽力により解除され、1951年9月21日に復刊している。1959年に呉三連が発行人、葉明勳が社長となると台南幇の支持による資金で非主流的な様相を呈する。これが当時の新聞と異なる報道スタイルに発展し、多くの支持を得た。1953年2月には一週間、10月には3ヶ月の停刊処分を受けたが、自立晩報の姿勢は一貫し、出版法改正の反対、彭明敏の「台湾自救運動」宣言事件、中壢事件、美麗島事件、中正国際空港事件などを詳細に報道している。1987年、二人の記者を東京経由で中国大陸に派遣し取材を行い、読者の口コミを得ている。1993年6月の行政院国家科学委員会でも、自立晩報は国内で最も読者に信頼される新聞と報告されている。 戒厳令解除後、メディア市場の競争は熾烈を極め、自立晩報も赤字が累積し、呉三連が世を去ると政治勢力の介入に直面することとなった。1995年、中国国民党籍の台北市議会議員陳政忠が率いる宏福グループが経営に参加。2000年の金融危機で宏福グループが経営から手を退くと、台北県議会議員の陳錦碇が董事長に就任する。その後、象山グループの江道生総裁が経営に参加した。2001年、民主進歩党籍の台北市議会議員王世堅が董事長した後、給与支払いの滞りという問題が表面化して王は経営から退き、ほどなくして自立晩報は発行を維持する力を失ってしまう。 2001年9月、自立晩報の社員80人余りは発行の継続を決定し、謝志鵬を社長に選出して新会社を設立し、発行を続けている。2001年10月2日、停刊。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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ケベック州首相 – Wikipedia

代 氏名 氏名(仏語表記) 政党 任期 1 ピエール・ジョゼフ・オリヴィエ・ショヴォー Pierre-Joseph-Olivier Chauveau 保守党 1867年7月15日 – 1873年2月25日 2 ジェデオン・ウィメ Gédéon Ouimet 保守党 1873年2月27日 –

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隂山英男 – Wikipedia

隂山 英男(かげやま ひでお、1958年3月7日 – )は、日本の教育者。立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。安倍内閣の諮問機関「教育再生会議」委員を歴任。元大阪府教育委員会委員長。 「隂」は「陰」の異体字であり、陰山 英男とも表記される。 兵庫県朝来市(和田山町)出身。岡山大学法文学部法学科卒業。学生時代は放送文化部に所属しアナウンサーを目指すが挫折。佛教大学通信教育部にて教員免許を取得。兵庫県内の小学校で教員生活を始める。教員時代は典型的な“でもしか先生”であったが、同僚教師の過労死を切っ掛けに「命を大切にするなら、まず教師から。自分を犠牲にする教育実践など意味はない」と、授業改革に目覚める。 朝来町立(現在は合併により朝来市立)山口小学校在職当時、同僚、父母なども巻き込んで基礎学力向上のためのメソッドの開発を進め、岸本裕史が提唱した百ます計算やインターネットの活用、科学実験、そして日常の生活を見直すチェックシートの活用など、さまざまな工夫を重ねて、成果を上げる。 また、現場の教員たちの自主的な研究会「学力の基礎を鍛えどの子も伸ばす研究会」に小河勝らと共に所属。広島県尾道市教育委員会による校長の公募に応じて、2003年4月より、尾道市立土堂小学校(文部科学省指定研究開発学校)の校長に就任。 2006年4月より、京都市北区に開校の立命館小学校副校長に就任(立命館大学教授を兼務)。同年10月、政府の教育再生会議委員に就任(2008年1月まで)。 2008年10月1日、大阪府教育委員(非常勤)に就任(2012年から委員長(非常勤))。2015年3月12日に中原徹大阪府教育長が部下へのパワーハラスメント問題をきっかけに辞職。翌13日、隂山委員長も緊急記者会見を開き、同月末で教育委員長及び委員を辞職する考えであることを明らかにした。中原前教育長の友人である橋下徹大阪市長から、連日隂山委員長に対する批判がなされていた他、松井一郎大阪府知事からも辞職を促されていた[1]。 2012年からは福岡県飯塚市の学力アドバイザーを引き受け、市内一斉に隂山式の授業が展開されることになった。その結果、劇的な学力向上が達成され、それがモデルとなり、現在離接の田川市、宮崎県延岡市、新潟県糸魚川市などに広がっている。 「百ます計算」ばかりがメディアでは注目される結果となったが、隂山の教育法の根底にあるのは「基礎的な生活習慣を身につけさせること」と「反復練習」であり、「百ます計算」は後者の一部に過ぎない。 またこうした実践は、社会科のフィールドワークや理科のおもしろ実験など、教科書にはない創造的な授業を生み出す時間的な余裕を作ることが目的であった。 また、一般的に隂山の名を世に知らしめるきっかけになったのが「百ます計算」である。その為、世間では「『百ます計算』は隂山英男が発案した。」との誤解がまだまだ多いが前述の通り、岸本裕史が考案したものである。むしろ注目されるのは、1年分以上の漢字を一気に教える指導法で、福岡県田川市においては市内の児童の全員の漢字力の向上などが達成されている。 隂山メソッドの主な特徴 朝食は必ず摂らせる。米飯食が望ましい(腹持ちが良い為)。朝食を摂らせないことは虐待と同じと言い切る。 遅くとも22時には就寝させ、テレビは出来るだけ見せない。 深夜まで塾などで勉強させることは推奨しない。

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ママドゥ・サコー – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “ママドゥ・サコー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年10月) ママドゥ・サコー リヴァプールFCでのサコー(2014年) 名前 ラテン文字 Mamadou Sakho 基本情報 国籍 フランス セネガル 生年月日

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円板状エリテマトーデス – Wikipedia

円板状エリテマトーデス(えんばんじょうエリテマトーデス、円板状紅斑性狼瘡、英: discoid lupus erythematosus:DLE)または慢性円板状エリテマトーデスとは、日光露出部である頭部、顔面、四肢などに好発する原因不明の皮膚疾患であり類円形ないし不整形の鱗屑を伴う紅斑(円板状疹、ディスコイド疹)を特徴とする。全身性エリテマトーデス(SLE)と異なり皮膚症状のみ出現する皮膚限局性エリテマトーデス(CLE)の1つであり全身の臓器障害は見られないが、一部SLEへ移行する場合がある[1]。 DLEでは日光露出部に境界明瞭で毛孔開大を伴う類円形ないし不整形の紅色局面が多発する。頭皮にかかる場合には、その部位の脱毛をきたす。また、外傷や虫刺などにより新たな皮疹が出現することがある。DLEの皮膚病変は治癒過程で色素沈着ないし色素脱失、萎縮を生じ、瘢痕を残す。 診断・病理[編集] ループスバンドテスト陽性例(基底膜の沈着を認める) DLEの診断は皮膚の一部を切り抜く皮膚生検により確定する。生検組織の病理は表皮基底層の空胞変性と基底膜の肥厚、角質の増殖および角栓形成、真皮血管・付属器周囲の密なリンパ球浸潤を認める。蛍光抗体直接法では基底膜に免疫グロブリンの線状沈着を認める(ループスバンドテスト陽性)。 基本的にDLEの生命予後は良好であるが、個別の皮疹はステロイド外用に抵抗性であることが多い。長期間遷延するような病変では、稀に有棘細胞癌が発生することがあり[2]、DLEの経過中に生じた隆起性病変に対してはこれを疑い皮膚生検が検討される。 日光が症状を増悪させるので、日焼け止めを塗ることが予防となる。治療としては、ステロイド外用やタクロリムス外用が行われる。皮膚症状がDLE様であってもSLEを合併する場合には経口ステロイドなどの全身療法が必要である。また、内服薬ではヒドロキシクロロキンなどのマラリア治療薬が皮膚症状に有効であり、欧米では第1選択薬の一つである[3]。以前は保険適応がなかったが、2015年に日本でも承認された。ヒドロキシクロロキンの長期間の効果としては半数弱の人に有効であり、残りの半分は経口ステロイド薬等が必要になる[4]。 ^ C.M. Grönhagen, C.M. Fored, F. Granath and F. Nyberg

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国家院 (ロシア) – Wikipedia

国家院(こっかいん、露: Госуда́рственная ду́ма、国家会議、国家ドゥーマとも)は、ロシア連邦議会の下院。1993年に制定されたロシア連邦憲法によって設置された。上院である連邦院と共にロシア連邦議会を構成する。 議員定数450名。任期は5年(2011年までは4年)。21歳以上のロシア市民に被選挙権が与えられている。[1]。 ロシア語では “Государственная дума” (ガスダールストヴィェンナヤ・ドゥーマ、略称:Госдума )で、「国家のドゥーマ」の意味がある。なお、ロシア帝政時代の議会も正式には “Государственная дума” である。 選挙制度は、憲法制定当初は小選挙区比例代表並立制を取り入れ、450名中、半数の225名を比例代表制(得票率5パーセントを超える政党に議席を配分する「5パーセント」条項あり)、残り半数を小選挙区制により、それぞれ選出していた。2007年ロシア下院選挙より選挙法が改正され、完全比例代表制へ移行し、得票率7パーセント以上を獲得した政党に議席を配分することになった。2016年ロシア下院選挙より再び小選挙区と比例代表により半数ずつ選出する制度に変更。また、比例代表の阻止条項も得票率5%以上に緩和された。 最新の選挙結果[編集] 2016年9月の2016年ロシア下院選挙ではプーチン大統領率いる与党統一ロシアが圧勝し、議会の3/4を超える343議席を確保した。野党であるロシア連邦共産党、ロシア自由民主党、公正ロシアの3党はいずれも大きく議席を減らした。反プーチン野党であるヤブロコは議席を獲得できなかった。 統一ロシア圧勝の要因は新たに導入された小選挙区制にあり、225小選挙区のうち統一ロシアが203の選挙区で議席を獲得した。 2011年ロシア下院選挙[編集] 2011年12月の選挙では、選挙前315議席であった与党統一ロシアが選挙後238議席と議席を大きく減らした。 また選挙で不正があったとして大規模な抗議デモが発生した。(2011年ロシア反政府運動) e • d 

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ブリーカー・ストリート – Wikipedia

座標: 北緯40度43分49秒 西経74度0分9秒 / 北緯40.73028度 西経74.00250度 / 40.73028; -74.00250 58 ブリーカー・ストリートに建つジェームズ・ルーズベルト・ハウス。 ブリーカー・ストリート (Bleecker Street) は、ニューヨーク市マンハッタン区を東西に走る通りである。この通りは、グリニッジ・ヴィレッジのナイトクラブ・ディストリクトとして有名である。この通りは、現在では音楽施設やコメディ劇場が有名であるが、かつてはアメリカン・ボヘミアの中心地として知られていた。 ブリーカー・ストリートは、その西端のアビングドン・スクエア (en)(ウエスト・ヴィレッジ (en) 内の8番街とハドソン・ストリート (en)

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デビッド・モレル – Wikipedia

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2020年7月) オズベリー・デビッド・モレル・グティエレス・ジュニア(Osvary David Morrell Gutierrez Jr.、1998年1月18日 – )は、キューバのプロボクサー。サンタ・クララ出身。現WBA世界スーパーミドル級レギュラー王者。センサク・ムアンスリンとワシル・ロマチェンコと並ぶデビューから3戦目で世界王者になった[1]。現在はミネソタ州ミネアポリス在住。 2019年7月19日、キューバから亡命しウォリアーズ・ボクシング・プロモーションズと契約[2]。 2019年8月31日、ミネアポリスのミネアポリス・アーモリーでイェンドリス・ロドリゲス・バルデスと対戦し、初回1分5秒KO勝ちを収めた[3]。 2019年11月2日、メリーランド州オクソン・ヒルのMGM・ナショナル・ハーバーでクィントン・ランキンと対戦し、2回1分1秒KO勝ちを収めた[4]。 2020年8月8日、ロサンゼルスのマイクロソフト・シアターで、空位のWBA世界スーパーミドル級暫定王座決定戦をWBA世界スーパーミドル級1位で元同級ゴールド王者のレノックス・アレンと対戦し、12回3-0(120-108、119-109、118-110)の判定勝ちを収め、暫定ながらセンサク・ムアンスリンとワシル・ロマチェンコと並ぶ世界最速記録となるデビュー3戦目での王座獲得に成功した[5]。 2020年12月26日、ロサンゼルスのシュレイン・エキシビション・センターでWBA世界スーパーミドル級10位のマイク・ガブロンスキーと暫定王座の防衛戦を行う予定だったが、モレルが前日計量で170ポンドを記録し体重超過になったが、体重超過を犯したにも関わらず結局モレルの暫定王座は剥奪されず、ノンタイトル10回戦に変更して試合は行われ[6]、モレルが3回2分45秒KO勝ちを収めた[7]。 2021年1月19日、WBAは、モレルを暫定王者からレギュラー王者へ昇格した[8]。 2021年6月27日、ミネアポリス・アーモリーでWBA世界スーパーミドル級15位マリオ・アベル・ラモスと対戦し、初回1分9秒KO勝ちを収め初防衛に成功した[9]。 2021年7月8日、WBAからWBA世界スーパーミドル級3位のジョン・ライダーとの指令戦を発令され、8月8日までに交渉を行うように通達された[10]。 2021年12月18日、ミネアポリス・アーモリーでWBA世界スーパーミドル級10位アランテス・フォックスと対戦し、4回TKO勝ちを収め2度目の防衛に成功した[11]。 プロボクシング:5戦5勝 (4KO) 無敗

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がんばれ!Victory – Wikipedia

がんばれ!Victory(がんばれ!ビクトリー、略称:がんビク)は、佐賀県唐津市の小学校の同級生で結成された5人組ガールズバンド。所属レコード会社は、ポニーキャニオン。所属プロダクションは、エイジアプロモーション。2017年5月解散。 活動テーマは「絶対生音主義バンドル」「平成オールドロック」。「絶対生音主義」は生演奏の音だけでライブを行うという事、「平成オールドロック」は1970年代~1980年代のロックの良さをわかりやすく伝えることを目標としている。都内を中心にライブ活動を行っていた。2017年5月20日で解散(詳細は後述の通り)。 メンバー[編集] 人名 生年月日 血液型 担当 キャッチフレーズ 備考 あやき(井本文稀) (1995-11-28) 1995年11月28日(26歳) A型 ボーカル King of ポンコツ 背番号は”100″ポンコツすぎるため育成契約 れな(徳久礼奈) (1995-06-06)

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