カラ・ホト – Wikipedia
カラ・ホト(Khara-Khoto)は内蒙古自治区アルシャー盟エジン旗にあるタングートの都市遺跡。かつて居延海のほとりに位置していた。西夏語”Eji Nai”を漢訳して「亦集乃」、中国語では「黒城」[1]または「黒水城」と呼ばれる。カラ・ホトの名は中古モンゴル語より。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に現れる「エチナ」に比定されている。 カラ・ホトの歴史は1032年に遡り、11世紀に交易で栄えた西夏の中心都市で、遼朝と西域をほぼ最短で結ぶことができる交易路の途上にあった。高さ9.1メートル、厚さ3.7メートルの城壁に囲まれ[2]、東西421メートル、南北374メートル[3]の囲郭都市であった。カラ・ホトが最初に落城したのは1226年、モンゴル帝国のチンギス・ハンによって[4]であるが、落城後もモンゴルの宗主権のもと、繁栄を続けた。フビライ治世下では西夏時代の3倍にまで都市は拡張されていた。元朝15代皇帝トゴン・テムル(順帝)は大都を追われたあとこの地に潜伏した。カラコルム・上都・クムルに通じる交差路に位置していた。 マルコ・ポーロは『東方見聞録』でこの地を「エチナ」と呼んだ[4][5][6]。 カムピチュの町(張掖市)から12日の旅程でエチナの町に到着する。西夏人の町であり北へ向かうとサンディ砂漠(ゴビ砂漠)へと続く。人々は偶像を崇拝し、多くのラクダや牛を飼っている。セーカーハヤブサ、ラナーハヤブサが多く生息し、住民は貿易をせず、農耕と牧畜で生活している。エチナを抜けると北に砂漠が広がり、40日間は人や町に出会うことはないため、この地で食料を備蓄する必要がある。 — Marco Polo、The Travels of Marco Polo、translated by Henry Yule, 1920 オーレル・スタイン探検隊により南西角の墳墓を東方から撮影 現地の伝承によれば1372年モンゴルの将軍カラ・バトール(英: Khara Bator、「黒い英雄」の意)[2]が明の軍勢に包囲され、水路を断たれた[4]。カラ・バトールは運命を悟り家族共々自害した。その後、明軍の最終攻撃で守兵と住民は殲滅された。別の伝説ではカラ・バトールは城壁北西の抜け道から脱出したといい、遺跡には馬一頭通れるだけの抜け道が現在も残されている。 カラ・ホトの見取図
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