Month: July 2019

アハルツィヘ (カズベギ地区) – Wikipedia

アハルツィヘ(グルジア語: ახალციხე、グルジア語ラテン翻字: Akhaltsikhe)[2]は、ジョージアのムツヘタ=ムティアネティ州カズベギ地区にある村落。スノ共同体に属する。海抜は1,800メートル。ステパンツミンダ(グルジア語版)の南方12キロメートルに位置し、テレク川の支流スノスツカリ川とアルツフモスツカリ川の合流点の峡谷にある。スノスツカリ川をはさんだ対岸にはコセリ村がある。 村には9世紀から10世紀頃に建てられた聖堂があり、19世紀に復元がなされた[3]。 国勢調査による人口は、次の通り。 年 人口 男性 女性 出典 1926 155 70 85 [4] 2002 129 66 63 [5]

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東京都立両国高等学校・附属中学校 – Wikipedia

この項目では、東京都立両国高等学校と附属する中学校について説明しています。墨田区立の中学校については「墨田区立両国中学校」をご覧ください。 東京都立両国高等学校・附属中学校(とうきょうとりつ りょうごくこうとうがっこう・ふぞくちゅうがっこう)は東京都墨田区江東橋1丁目にある都立中学校・高等学校。 ナンバースクールの旧制府立三中を前身とする。通称は「両高」(りょうこう)。初代校長には八田三喜が就任し、スパルタ的な教育を行いつつも、学友会活動を重視し自律精神の養成に努めた。厳格な規律を重んじる校風は、2代校長の広瀬雄以降にも受け継がれ、今日まで続く校訓である「自律自修」の基礎を築いた。 1950年代~1960年代は第六学区トップ校として東京大学合格者を40~60名前後輩出。当時は千葉県からの越境通学者も多く、広範囲から生徒が集まっていた。学校群制度時代は墨田川高校・小松川高校と61群を組んだ。 2006年(平成18年)度より附属中学(3クラス、男女計120名)が開校し、中高一貫校として移行した。中学受験においては都立中高一貫校の中でも高い難易度を維持しており、一部では小石川・武蔵と共に「都立中御三家」と呼ばれている。 教育方針[編集] 府立三中以来、自らを厳しく律し、自ら進んで学ぶという「自律自修」の校訓に基づいた教育がなされており、厳格な規律の中でも自主性を重んじる校風である。 芥川龍之介や堀辰雄、石田衣良など、文芸界の第一線で活躍する著名人を輩出してきた伝統は両国の国語教育に現れている。中学1年時から作文や論文の執筆や読解を求められ、一年間で複数のレポート・論文の執筆、中学3年時には高校レベルの評論文の読解など、卒業時まで一貫した「国語教育」「書かせる教育」が実践されている。出版活動も盛んで、高校・中学生徒会が1年間の集大成として発行する『365日』や、教員による研究結果を発表する『三高教室』という学術雑誌がある。 語学教育の一環として中学生で英語劇が行われ、9月に開催される両国祭の一つの目玉となっている。また、中学3年時と高校3年時には活きた英語を身につけることを目的とした「実践英語」が必修となっているなど、英語教育には積極的である。 地域の経済状況もあって、古くから「勉強の両国」と称されるほど総じて受験指導には熱心であった。補習や長期休業中の講習が多く開かれるほか、試験の成績上位者の張り出しや、学習面でのアンケートによる生徒の学習状況の把握などが行われる。中高一貫校化に伴って「予備校不要」の更なる強化を打ち立てている。なお、2005年より土曜授業を復活させている(4時間授業で年16~17日間)。 創立当時の校舎の外観 初代校長として尽力した八田三喜 東京府立第三中学校からの眺め(右方向に錦糸町駅)。1920年代 同上、亀戸方面の工場地帯を望む 基礎データ[編集] アクセス[編集] 象徴[編集] 校章[編集] 5枚の桜の花弁と5筋の旭光を交互に円形に配し、中央に「三高」の字を置く(旧制中学時代は「三中」)が、これは学制改革期に一時使用した「都立第三新制高等学校」の校名の名残である。附属中学校は基本的なデザインを踏襲しつつ、文字を「両国」に替えたものを使用する。桜と旭光の意匠は府立一中の影響を受けたもの。

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ディートリヒ・エルトマン – Wikipedia

ディートリヒ・エルトマン(Dietrich Erdmann、1917年7月20日 – 2009年4月22日)は、ドイツの作曲家。 ボン出身。8歳のときにベルリンに移った。文化的な環境の家庭で、9歳からピアノを学んだ。ギムナジウム在学中からハラルド・ゲンツマー、パウル・ヒンデミットに師事し、1931年からチェロを学んだ。1934年から1938年までベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)で学んだ。 1947年からベルリン教育大学で教鞭をとり、1954年に準教授、その12年後には教授に就任した。1970年には副学長となり、1982年に退職した。 主な作品[編集] 管弦楽[編集] チェロと小管弦楽のための協奏曲 アルト・サクソフォンと小管弦楽のための協奏曲 弦楽合奏のためのセレニタ・ノットゥルナ 管弦楽のためのスペクトルム フルートと小管弦楽のためのコンチェルティーノ ピアノと小管弦楽のためのコンチェルティーノ 極彩色の音楽 弦楽合奏のための音楽 室内楽[編集] 木管四重奏のための即興曲 弦楽三重奏曲 弦楽四重奏曲のための4つのスケッチ

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ちゃお – Wikipedia

この項目では、小学館の漫画雑誌について説明しています。その他の用法については「チャオ」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ちゃお” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年1月) この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 『ちゃお』は、小学館発行の日本の月刊少女漫画雑誌。1977年9月3日創刊。 『なかよし』(講談社発行)・『りぼん』(集英社発行)と並ぶ、三大小中学生向け少女漫画雑誌の一つと言われる。三誌の中では、本誌が最も後発である[注 1]。誌名の由来は、親しい人との間で「こんにちは」「さようなら」として使われるイタリアのくだけた挨拶言葉「チャオ (ciào)」[注 2]。 2002年頃以降、最も発行部数の多い少女漫画雑誌である。また、過去には100万部以上を発行していたが、2006年以降他の少女漫画雑誌とともに相対的に部数は落ち込んでいる(歴史を参照)。 対象年齢の変遷[編集] 創刊当初から1980年代頃までは小中学生向け雑誌ではあったが、上記の競合誌と比べて大人っぽい誌面であり[注 3]、女子高校生をターゲットにしていた時期もあった[2]。1980年代中盤はアニメ作品とのタイアップ漫画を積極的に載せ、低年齢層の取り込みを図った時期もあったが、1988年に『ぴょんぴょん』[注

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ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン – Wikipedia

ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン(Louis Joseph de Bourbon, 1654年7月1日 – 1712年6月11日)は、ブルボン朝フランスの貴族・軍人。ボーフォール公、ヴァンドーム公。大同盟戦争、スペイン継承戦争において司令官を務めた。ヴァンドーム公ルイ2世(アンリ4世とガブリエル・デストレの孫)と、ロール・マンシーニの長男としてパリで生まれた。オーストリアの司令官プリンツ・オイゲンは母方の従弟に当たる。 1669年に叔父のボーフォール公フランソワがオスマン帝国との戦争で戦死、次いで父が亡くなりボーフォール公位とヴァンドーム公位を継承したが、幼少のため母方の叔母のマリア・アンナ・マンチーニに養育された。 18歳で軍へ入り、すぐに仏蘭戦争で頭角を現し、1688年には陸軍中将となった[1]。大同盟戦争のステーンケルケの戦いではリュクサンブール公フランソワの元で、マルサリーアの戦いではニコラ・カティナの元で異彩を放った[1]。1695年にはカタルーニャにおける司令官を任ぜられ、1697年にバルセロナを攻略、直後にフランス元帥となった[1]。 スペイン継承戦争序盤の1702年、フランスはカティナとヴィルロワ公を相次いでイタリアに派遣したが[1]、いずれもプリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍の前に敗れ、ヴァンドームがイタリア戦線の指揮を命じられた。1702年8月15日のルッザーラの戦いでオイゲンに大敗したが、1704年から攻勢に出て巻き返し、1705年8月16日、カッサーノの戦いでオイゲンに勝利した。 翌1706年4月19日、オイゲンがウィーンに滞在中の隙を付いてカルチナートの戦いでも勝利したが、ラミイの戦いでヴィルロワがイギリス軍司令官初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルに大敗、戦線を修復すべく8月にヴィルロワに代わってフランドルへ送られた。イタリア戦線には後任にマルサンとオルレアン公フィリップ2世が派遣されたが、9月7日のトリノの戦いでオイゲンに敗北してフランス軍はイタリアから駆逐された。 フランドルへ移動してからは南ネーデルラントを戦場にして同盟軍と戦ったが、主君のフランス王ルイ14世が孫のブルゴーニュ公ルイを指揮官としてネーデルラントへ送り出すとブルゴーニュ公と意見が対立、1708年のアウデナールデの戦いではマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍と交戦、ブルゴーニュ公の援軍が無いことが一因で大敗してしまった。リール包囲戦ではブルゴーニュ公・ベリック公と共に包囲軍の補給路を断ったが、ベリックとも仲違いして離脱された上、リールが同盟軍に落とされるとヘント防衛から引き上げさせられ、帰国後はブルゴーニュ公との対立が尾を引いて指揮権も取り上げられてしまった。 その後軍務にうんざりして所領へ引退したが、1710年にスペイン王フェリペ5世(ルイ14世の孫、ブルゴーニュ公の弟)から召喚されてスペイン軍の指揮を執ることとなり、ブリウエガの戦い、ビジャビシオーサの戦いで勝利を重ねた[1]。戦争終結前の1712年6月11日にビナロスで急死し[1]、エル・エスコリアル修道院へ埋葬された。死の2年前に結婚した妻マリー・アンヌとの間に子がなく(同性愛傾向があったためとされる)、ヴァンドーム公位は弟のフィリップが継承した。 ^ a b c d e f

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ペトロパブロフスク・カムチャツキー航空251便墜落事故 (2021年) – Wikipedia

ペトロパブロフスク・カムチャツキー航空251便墜落事故は、2021年7月6日にロシアのカムチャッカ地方で発生した航空事故である。エリゾヴォ空港からパラナ空港(英語版)へ向かっていたペトロパブロフスク・カムチャツキー航空251便(アントノフ An-26B-100)が着陸進入中に墜落し、乗員乗客28人全員が死亡した。 2020年に撮影された事故機 事故機のアントノフ An-26B-100(RA-26085)は1982年に製造番号12310として製造された[1][2]。An-26は軍用の輸送機だが、事故機は2012年10月に民間の旅客機へ改修されたものだった。搭載されていたエンジンはイーウチェンコ AI-24(英語版)だった[3]。事故機は以前、ペルミトランスアヴィアやエア・マリ・インターナショナル(英語版)などで運用されており、国際連合にリースされたこともあった[3]。 コックピットには4人の乗員がいた。機長は35歳で、2013年からペトロパブロフスク・カムチャツキー航空に勤務しており、3,300時間以上の飛行経験があった。副操縦士は28歳で、1,253時間の飛行経験があった。航空機関士は65歳で、9,300時間の飛行経験があった。ナビゲーターは49歳で、2,900時間の飛行経験があった[4]。 2012年にもパラナ空港へ進入していた同便が墜落(英語版)し、10人が死亡していた[5]。 事故の経緯[編集] 251便はPETT12時57分にエリゾヴォ空港を離陸し、15時05分にパラナ空港へ到着する予定だった。14時09分、機長はチギリスキー地区(英語版)の管制官と交信を行い、パラナの気象条件を尋ねた[6]。気象情報を得た機長は最終進入を開始した。最後の交信は14時50分に行われた[4]。 交信が途絶えたとき、251便は空港から約10km離れた地点を飛行していた。管制官は着陸復航の報告は無かったと証言した[7]。事故当時、空港付近の天候は曇りだった[8]。251便は標高263mの急な崖に衝突したと報告されている[6][9]。衝突地点は最低降下高度より低く、進入経路を逸脱した場所だった。衝突により機体は完全に破壊された[9]。 当日のうちにロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省のMi-8が墜落現場を確認した[10][11]。非常用位置指示無線標識装置からの微弱な信号が受信され、機体の残骸は21時頃に発見された[4]。残骸は断片化しており、胴体部は丘の上に、その他の残骸は海岸に落下していた[12]。 7月7日までに19人の遺体が回収された[13]。墜落現場の地形から、捜索救助活動は困難だと判断された[8]。また、高波のため夜間の救助活動は中止された[2]。パラナでは3日間の追悼期間が設けられた[13]。事故に対してアメリカ[14]、ギリシャ[15]、トルコ[16]、セルビア[17]、パキスタンなどの国が哀悼の意を示した[18]。 事故調査[編集] ロシア国内で発生した事故であるため、国家間航空委員会が事故調査を担当する。ロシア連邦捜査委員会は事故原因として悪天候、機械的故障、パイロットエラーの3つが考えられると述べた[13]。7月9日、フライトデータレコーダー(FDR)が発見された。スポークスマンは大きな損傷は見られず、モスクワで解析される予定だと話した[19]。一方でコックピットボイスレコーダーも同日に回収されたが、損傷がひどくデータの取り出しは行えなかった[20]。 ロシア連邦航空局(英語版)はFDRの分析について一報を伝えた。機体は2,600フィート (790 m)で無指向性無線標識(NDB)を通過し、滑走路29への旋回を行うために手順に従ってアウトバンドコースに入った。管制官によれば、パイロットは手順に記された方位289度ではなく340度へ向かっており、2,000フィート (610 m)へ降下していた。251便はベースターンと最終旋回を行っていたが、フラップや着陸装置は展開されていなかった。空港から12km地点で機体は空港へ向けて方位140度に旋回した。衝突の約1分前に最後の交信が行われ、管制官はパイロットに空港まで9kmで方位320度へ飛行していることを知らせた。ロシア連邦航空局は2012年に発生した墜落事故で講じられた推奨事項の実施に関する評価を行うよう勧めた[4]。 ^ Ranter,

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ランドスケープ (細川俊夫) – Wikipedia

ポータル クラシック音楽 ランドスケープ (Landscape)は、日本の作曲家、細川俊夫が1992年から1994年にかけて作曲したさまざまな編成からなる作品群である。 目次 1 作品構成 1.1 ランドスケープ I 1.2 ランドスケープ II 1.3 ランドスケープ III 1.3.1 編成 1.4 ランドスケープ IV

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ナンバ走り – Wikipedia

ナンバ走り(ナンバばしり)は、「ナンバ」をもとに研究された走り方である。ただし、実際には「ナンバ」ではないものも含む場合がある。なんば走りとも表記される。 ナンバ走りの基本は「右手と右脚、左手と左脚を同時に出す」ことである。これは江戸時代の日本の飛脚の走り方といわれており、これにより飛脚は1日に数十km、場合によって100km以上を走れたとされる。しかし、その走法は失伝しており、映像なども残っていないために推測しかできないとされ、その真偽には疑義がもたれている。 また、ウルトラマラソンやトレイルランニングに見られるように、手と脚を逆に出す現代の一般的な走法でも1日に100km以上走ることは可能である。 この走法と「ナンバ」の名称は、古武術研究家の甲野善紀の著作などにより一般に知られるようになった。スポーツの練習法としても注目され、桐朋学園大学教授の矢野龍彦などがナンバ走りを取り入れたスポーツ理論などを提唱・指導している。2000年に桐朋高校のバスケットボール部が取り入れ、東京代表としてインターハイ出場を決めたほか、新潟県の県立高校のバスケットボール部でもナンバ走りを取り入れているところがある[要出典]。2003年6月の日本陸上競技選手権大会の男子200mで20秒03のアジア新記録を出した末續慎吾が「ナンバ走りの動きを意識して走った」と語ったことで、認知度が上昇した。しかしながら、実際には桐朋高校のバスケットボール部の選手や末續慎吾の走法は右手と右足、左手と左足が同時に出る「ナンバ」にはなっておらず、ナンバの歩法を練習に取り入れることによって得た身体感覚をもとにして生み出された、無駄のない効率的な走り方のことを指して「ナンバ走り」と呼ぶことも多い。実際に「ナンバ」でない以上、これらを「ナンバ走り」と呼ぶのは言葉の独り歩きの面があるとも言える。 また、末續慎吾の走法は甲野善紀や矢野龍彦よりも、当時の男子100m日本記録保持者伊東浩司がJBBFボディビル日本チャンピオン、アジアボディビルチャンピオン経験のある初動負荷理論の小山裕史の助言を基に生み出した走法に、末續のコーチである男子400m日本記録保持者高野進が自らの選手時代の経験を加味して生み出した「膝を上げず前へ出す」走法の影響が強く、高野が末續の走法を追求する外国の取材陣を煙に巻くために、部分的に取り入れたに過ぎない「ナンバ」を連発したためにこの言葉が広まったという面も否定できない[1]。 ナンバ走りは上肢の振りや上体の捻りが少なく、効率が良く楽な走り方とされているが、東海大学体育学部の内山秀一らによる2011年の発表では、走行時のピッチの増加がナンバ様の走り方を出現させることを確認したうえで、走行時のピッチの増加とそれに伴う上体の捻りの減少は運動負荷を低減させるに至らないことが示唆された、としている[2]。 ^ 折山淑美『末續慎吾×高野進』 集英社文庫、68-71頁、185-187頁。 ^ 『ナンバ様走行時の運動負荷強度』(内山秀一、山田洋、小河原慶太、宮崎彰吾、高野進) 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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ポルシェ・959 – Wikipedia

ポルシェ・959(Porsche 959 )は、ドイツの自動車メーカーポルシェが製造・販売していたスーパーカーである。当時のポルシェが持つ技術を結集した1台であった。 ポルシェは1970年代後半から4WDシステムの開発を進めており、1981年にスタディモデル4WDカブリオレを製作、1983年のフランクフルトモーターショーにてグルッペBが発表された[3]。このモデルは生産車にフィードバックすべき技術のトライアルモデルとして、1986年から959として限定生産された。外観からは911とさしたる違いを見せない959の名を呼び声高くしたのは、レースでの活躍と、時代の最先端と称しても差し支えない内容を持った技術的背景にある。当時のグループBのホモロゲーションを取得するため200台[4]の生産予定でスタートしたプロジェクトは、予想をはるかに超えるオーダーに少しでも応えるために増産されることになり、最終的には283台が生産された。 911と似た外見のボディであるが911と共用のパネルはない。一体化されたリアフェンダー、下面全面のカバーリング、NACAダクトの採用などによりCd値0.31と空気抵抗を小さくしている。基本的にボディシェルはケブラーやガラス繊維により強化されたエポキシ樹脂素材をオートクレーブ加工したハイブリッド構造である。フロントフードとドアパネルには熱硬化性アルミニウム合金、バンパーは復元性に優れたガラス繊維強化ポリウレタンを使用するなど、部位ごとに材質を使い分けている。 959には画期的ともいえる四輪駆動システムが採用されていた。可変トルクスプリット式と呼ばれ、コンピュータ制御により加減速・コーナリングなどの車体状況に応じ前後の駆動力配分を自動制御し、ステアリングコラムに設けられたレバースイッチにより、天候状態や路面状況により最適なモードを選択することができた。なお、1989年に登場した日産・スカイラインGT-Rの四輪駆動システム(ATTESA E-TS)とツインターボエンジン(日産・RB26DETT)の制御は、959を手本にして開発されたといわれている[5][注釈 1]。 場所さえ確保すれば公称値である最高速度300km/h以上を何ら問題なく達成し、その一方で930型911をベースとしているので後席があるなど日常的な足にもなるという全く正反対の二面性を持つ車となっている。 タイヤサイズはフロントが235/45-17で、リヤが255/40-17だった。左ハンドル仕様のみの設計であり、右ハンドル仕様車は生産されなかった。 エンジン[編集] グループC車両である962Cに搭載していた、シリンダーヘッドのみ水冷の半空冷式水平対向6気筒935/82型エンジンをベースに、公道での使用に耐えられる改良を加えたもの。ボアφ95mm×ストローク67mm[注釈 2]で排気量2,848ccという中途半端な値だが、これは将来的に参加するレースのレギュレーションを睨んでのことである。1気筒あたり4バルブ、圧縮比8.0、最高出力450PS/6,500rpm、トルク51.0kgm/5,500rpm[6]。 2基のKKK製ターボチャージャーを低・中回転時には1基のみ、高回転に差しかかったところで2基により過給を行なうシーケンシャル制御のツインターボで低中回転域の実用的なトルク、レスポンスと高回転域のハイパワーを両立している。 トランスミッション[編集] ウルトラローを含む6速MT[2]。 足回り[編集] サスペンションは乗り心地優先と走行性能優先から選択できる[7]。 地上高を120mm、150mm、180mmから選択できる。地上高を高くしたまま高速走行した場合、自動で低く変更される[7]。この装備は軽量スポーツバージョンの場合装備されない[7]。 ポルシェがボッシュと共同開発した空気圧低下警告システムを備える。ボッシュマグネシウムホイールはスポークが中空になっており、2つの圧力スイッチが内蔵されている。このスイッチは走行中に高周波発生器を介して電気信号を制御装置に送り、空気圧が低い場合どの車輪の空気圧が低下しているか警告灯で運転者に知らせる[7]。

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