Month: July 2019

カメルーンの州 – Wikipedia

カメルーンの州(フランス語: Région レジオン、英語: Region リージョン)は、同国における最上級の行政区画である。日本語では地域、地方とも訳される。1983年以降の総数は10州。1961年から1972年までは連邦州(仏語: Région administrative、英語: 英: Administrative Region[1])、1972年から2008年までは州(仏/英: Province、プロヴァンス(仏語) / プロヴィンス(英語))と呼称された。 州の下は58つの県(仏語: Département、英語: Divison[1])、360つの基礎自治体または郡(Commune / Arrondissement、英語: Subdivision[1])、集落(Village)の順に細分化されている(数字は2017年の年末時点の総数[2])。 州境は植民地時代の境界を基にしており、10州のうち北西州と南西州の2州は旧イギリス領カメルーンの一部(南カメルーン)、他の8州は旧フランス領カメルーンであった。元々はどちらもドイツ保護領カメルーンの一部であったが、第一次世界大戦後の1919年に分割された。1960年代のアフリカの年に両者は独立・合邦し連邦国家となったが、宗主国による文化の違いや経済的・政治的格差により両者の対立は深まった。1972年に連邦制は廃止され、単一国家に移行した。問題は未だに収束しておらず、旧イギリス領地域では1990年代より独立運動が過熱し南カメルーン連邦共和国として独立を宣言するに至った。中央政府によって独立運動は抑えられているものの、2010年代後半からは再燃しており予断を許さない状況にある。一部ではかつてのように自治権の付与や連邦制への移行といった声もある[3]。

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古市公威 – Wikipedia

古市 公威(ふるいち こうい[注 1]、嘉永7年閏7月12日[3](1854年9月4日) – 昭和9年(1934年)1月28日)は、日本の学者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校(法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第2代所長[4]。東京帝国大学名誉教授。男爵。 帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。 幼少期からパリ留学まで[編集] 古市公威は、姫路藩士・古市孝の長男として1854年(嘉永7年)に江戸の藩屋敷で生まれた。1869年(明治2年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学し、1870年(明治3年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。1873年(明治6年)には開成学校に設置された諸芸学科へ進学、1875年(明治8年)、諸芸学修行のため文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなった。1879年(明治12年)8月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)を卒業して工学士の学位を受領、同年にはパリ大学理学部に入学、翌年には同校を卒業して理学士の学位を受領している。 帰国後[編集] 帰国した古市は1880年(明治13年)12月、内務省土木局雇いとなり、内務技師として現場で勤務するかたわら、翌年には東京大学講師を兼任することとなり、以後、官僚技術者と大学教官の二足の草鞋をはいた。 1886年(明治19年)5月1日には32歳にして帝国大学工科大学(東京大学工学部の前身)初代学長に就任[5]。また、初代文部次官の辻新次らと同年5月に仏学会(日仏協会の前身)、同年11月に東京仏学校(後に東京法学校と合併して法政大学の前身となる)を設立し、東京仏学校の初代校長にも就任した[2]。1890年(明治23年)9月29日、貴族院議員に勅選され[6]、1924年(大正13年)1月16日まで在任[7]。1894年(明治27年)には内務省の初代土木技監に就任して、土木行政の改善を図り、土木法規を制定するなど、技術上・行政上に非凡の才能を振るい、近代土木界の最高権威とされる。東京都文京区本郷2丁目に現存する1887年(明治20年)頃建てたと思われる古市の旧居は、住宅および蔵が2003年(平成15年)3月、国の登録有形文化財となった。 古市は、内務省が軌道条例を鉄道作業局(帝国鉄道庁から鉄道院を経て鉄道省へ改組)と共同所轄していた関係から、日本初の都市間高速電車(インターアーバン)となった阪神電気鉄道の成立にも関与している。本来、軌道条例は馬車鉄道や路面電車など、専ら道路上を走行する交通機関を前提とした法令であり、より高規格かつ長距離を運行する高速電気鉄道への適用は想定外の事態であった。だが、既設の官鉄線との競合を理由に私設鉄道法での大阪 – 神戸間電気鉄道免許出願を鉄道作業局から却下された阪神電気鉄道による、窮余の策とも言える軌道条例に基づく路線特許出願に対し、当時逓信次官であった古市は「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との見解を示して容認した。この見解は、ほとんど併用軌道区間のない高速電気鉄道が軌道条例→軌道法を法的根拠として特許を出願する際の根拠となり、以後の日本における鉄道路線網形成にきわめて重大な影響を及ぼしている[2]。 この頃から鉄道行政にも携わるようになり、1903年(明治36年)3月31日に当時日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道作業局の長官に就任した。彼の在任時には中央本線の開業記念式典が行われた。しかし日露の緊張が高まったこともあり、9か月で鉄道作業局長官を辞して、戦時の補給路となる京釜鉄道の官選総裁に着任して、京城(ソウル)-釜山間の速成工事の指揮を行った。日露戦争後、韓国統監府鉄道管理局の長官にそのまま留任し、韓国の鉄道整備が一段落したことを受けて1907年(明治40年)6月に長官を辞任して帰国した[2]。 ヨーロッパの視察をして、日本にも地下鉄が必要であると考えるようになった早川徳次は各方面に実現に向けて働きかけを行い、これに対して古市は大いに支援することになった。1920年(大正9年)8月29日に設立された日本最初の地下鉄である東京地下鉄道株式会社の初代社長にも迎えられている。短期間で野村龍太郎に譲っているが、1925年(大正14年)の地下鉄建設起工式では最初に杭を打っている。古市は、各種官庁への率先しての交渉や鉄道省に技術者の派遣要請など、発足したばかりの東京地下鉄道の経営に大きな貢献を行った[2]。 晩年は工学系の技術者の国際会議を東京で開催したり、日仏会館理事長を務めたりしたが、1934年(昭和9年)1月28日に満79歳で亡くなった[2]。 業績・人柄[編集] 古市は内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作るとともに、工科大学長・土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を作った。彼の代表的な功績として、横浜港の建設がある。1905年(明治38年)、横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成したが、その設計を担当したのは古市だった。

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コミュニティバスやわた – Wikipedia

コミュニティバスやわたは、八幡市が運営するコミュニティバスで、京都京阪バスに運行委託を行っている。 本項ではかつて運行していた八幡市の実証実験路線である八幡市南北線についても記述する。なお、八幡市南北線は一般路線である。 コミュニティバスやわたは京都京阪バス八幡営業所が管轄。2018年3月までは京阪バス男山営業所が管轄していた。廃止された八幡市南北線は京阪バス京田辺営業所の管轄であった。なお八幡市南北線は2009年6月30日で運行を終了した。 運行経路[編集] コミュニティバスやわた[編集] 橋本東山本 – かもしか公園前 – 橋本栗ケ谷 – あらかし近隣公園前 – 明野 – 橋本東刈又 – 男山雄徳 – ひかり

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