Month: December 2019

モスクワとコンスタンティノープルの断交 – Wikipedia

モスクワとコンスタンティノープルの断交(-だんこう、英語: Moscow–Constantinople schism)は、「ギリシャ正教」「東方正教会」とも呼ばれるキリスト教の正教会において、ロシア正教会モスクワ総主教庁と、「全地総主教」という称号を有するコンスタンティノープル総主教庁との間で起こった不和・断交(シスマ)の問題。特に、2018年に起こり現在まで続く断交と、それに伴って世界各地の正教会に及びつつある不和を記す。 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の国教として発展してきた歴史を持つ正教会(ギリシャ正教)において、その首都であったコンスタンティノープル(ラテン語: コンスタンティノポリス、現代ギリシア語: コンスタンディヌーポリ、現在のトルコ共和国イスタンブール)に座するコンスタンティノープル総主教は「全地総主教(Ecumenical Patriarch)」という特別な称号を有し、正教会全ての名誉的筆頭者として表敬されている。ただし、カトリック教会がローマ教皇の絶対的首位権の下にピラミッド型の全世界的統一組織を持つのと違い、正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則である。各国・各地域を管轄する首座主教は、総主教・府主教・大主教といった名誉上の地位の高低はあっても基本的には教権上対等であり、コンスタンティノープル全地総主教といえども教権上は数多の首座主教のうちの一人に過ぎない。 1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落以降、コンスタンティノープル総主教庁はイスラム教国であるオスマン帝国の直接支配下に置かれ、教権は著しく低下した。さらに1924年のオスマン帝国滅亡とトルコ共和国成立、それに前後するギリシャなどバルカン半島諸国の独立を経て、コンスタンティノープル総主教は、正教会を信奉する国家の後ろ盾も、一カ国の管轄という権能もなく、教権的な実権をほぼ完全に失い、名誉職的な性質が強まった。 一方、モスクワ総主教庁は、強大なロシア帝国の国教として、また正教会最大の信者人口を持つロシア正教会の首座主教座として相対的に教権が高まった。「新ローマ(Nova Roma)」と呼ばれたコンスタンティノープルがオスマン帝国の支配下に降って以降は「第三のローマ」を標榜し、政治上・教権上ともにコンスタンティノープルに取って代わって正教会世界の盟主的な存在となっていった。1721年のロシア皇帝ピョートル1世による総主教座廃止(以後長らく空位状態であった)や、ロシア革命の結果建った共産主義国ソビエト連邦(ソ連)による大弾圧もあったが、ソ連時代後期には懐柔策もあって、広大な国土を持つソ連の大部分を統轄する教権を回復した。ソビエト連邦の崩壊とロシア連邦成立以降は、ロシア国内のみならずウクライナなど旧ロシア帝国領土や旧ソ連構成国に対する教権的優位を維持しようと動き出した。その背景には、旧ソ連構成国には大量のロシア人移民が居住しており、旧構成国のソ連からの独立によって各国の民族主義が台頭し、その風下に置かれるマイノリティとなった彼らロシア系住民の支持もあった。 軋轢の始まり[編集] ウクライナ独立と教会乱立[編集] 1991年にウクライナがソ連から独立して以降、ウクライナ独立正教会(UAOC)[注 1]およびウクライナ正教会・キエフ総主教庁(UOC-KP)[注 2]の承認を巡って、ロシア正教会モスクワ総主教庁とコンスタンティノープル総主教庁の対立が始まった。ウクライナにはモスクワ総主教庁系の自主管理教会としてのウクライナ正教会(UOC-MP)[注 3]も存在し、それらウクライナ独立派の2教会と対立していた。 エストニアの教会を巡る対立[編集] 1996年には、同じくソ連から独立したエストニアにおいて、モスクワ総主教庁系の自主管理教会であるエストニア正教会(英語版)と重なる形で、コンスタンティノープル総主教庁に連なる自治正教会(自主管理教会よりも権限は大きい)として結成されたエストニア使徒正教会(英語版)[注 4]をコンスタンティノープル総主教庁が2月20日に正式承認したことから、これに反発したロシア正教会は同年2月23日から5月16日まで、短期間ながらコンスタンティノープル総主教庁と断交するという事件もあった。 軋轢の本格化[編集]

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ソウル交通公社2000系電車 – Wikipedia

この項目では、2005年から導入されたソウル交通公社2号線の新2000系電車について説明しています。1980年から導入されたソウル交通公社2号線の旧2000系電車については「ソウル特別市地下鉄公社2000系電車」をご覧ください。 九老デジタル団地駅付近を走行中の208編成(3次車) ソウル交通公社新2000系電車(ソウルこうつうこうしゃしん2000けいでんしゃ)はソウル交通公社(旧:ソウルメトロ)の通勤形電車。ソウル交通公社2号線で使用される。 導入から25年を経過し、法定耐用年数に達した旧2000系電車の置き換えとサービス向上を目的に2005年から導入が開始された。 制御方式はVVVFインバータ制御で、ロテム社が独自開発したIPM-VVVF制御装置を採用した。車体はステンレス外板による軽量構造であるが、先頭部分はFRP製である。側窓は大型の一枚窓で、紫外線を遮断する着色ガラスが採用されている。座席はステンレス製で中間が7人掛け、車端部が3人掛けとなっており、3人掛け部分の小型窓のみ開閉可能である。座席を含め、内装は全て不燃材が用いられているほか、天井部分には火災警報機が設置されている。各乗降扉の上には路線図が設置され、現在の走行位置と次の停車駅がランプで点灯する仕組みとなっている。また、天井には動画広告や停車駅案内などを放映する情報表示装置(17インチ液晶モニター式、1台あたり表裏計4画面)が1両あたり2台ずつ設置されている。この表示装置には次駅のドア開閉方向を知らせるランプが組み込まれている。 2015年にロウィン/タウォンシス連合[注 1]が3次車200両を受注[1]。ソウル交通公社発足後の2017年8月から営業運転に投入された[2]。 2017年、ソウル交通公社発足後に入札された4次車214両は現代ロテムが受注し、2019-2020年に全数が投入される[3]。2018年7月にモックアップが公開された[4]。 バリエーション[編集] 本系列は2005年から現在に至る長期にわたって大量に製造が続いているため、製造時期によって仕様が異なる。 1次車[編集] 1980年に製造された抵抗制御車の置き換えを目的に、循環線用の10両編成5本と聖水支線用の4両編成1本が2005年に導入された。 2次車[編集] 1982年に製造された抵抗制御車と、1983年~1984年に製造されたチョッパ制御車の置き換えを目的に、循環線用の10両編成29本と聖水支線用の4両編成3本が2007年から2009年にかけて導入された。 10両編成のうち、223~231、271、272編成には旧2000系の中間付随車が改造の上で連結されている。 3次車[編集] 1989年~1991年に製造されたチョッパ制御車の置き換えを目的に、循環線用の10両編成20本が2017年~2018年に導入された。 車体形状は大幅に変更され、前面の非常扉が廃止され、旧2000系と同様の非貫通式となった。 また、戸袋付近に次駅のドア開閉方向を知らせるランプや、ドア上部にLCD式車内案内表示装置が設置された。 4次車[編集]

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旭豊勝照 – Wikipedia

旭豊 勝照(あさひゆたか かつてる、1968年9月10日 – )は、愛知県春日井市出身の元大相撲力士。大島部屋所属。本名は市川耐治(元関脇・羽黒山の婿養子時は安念耐治)。身長190cm、体重145kg。得意手は左四つ、上手投げ。趣味はマリンスポーツ。俳優の松平健に似た顔立ちから、現役時代には「角界の暴れん坊将軍」「角界のマツケン」と呼ばれた[1]。松平健とは同じ愛知県出身でもあり、断髪式には松平健本人も登場した。最高位は東小結(1996年7月場所、11月場所)。現・年寄立浪[1]。 力士時代[編集] 中学時代は水泳部に所属し大会でも入賞するなど活躍した。高校に進学しても水泳を続けたが、高校卒業と同時に父の知人だった元大関・旭國斗雄の大島部屋に入門。1987年3月場所に初土俵を踏んだ。しかし、リウマチ熱や左足の故障に悩まされ2度も番付外に陥落、一時期は廃業するつもりで実家に帰ってしまったこともあった。当時は再出世の力士も出世披露を受けることになっていたことから、初土俵の時を含めて3回出世披露を受けた。 以降は、着実に番付を上げて行き入門から3年で幕下に昇進したものの、体重が増えず幕下と三段目を往復する生活が続いた。徐々に体重も増え、幕下中位でも成績を残せるようになり、1992年11月場所には西幕下16枚目の地位で幕下優勝を果たした。しかし規定(15枚目までの地位での幕下優勝者は翌場所十両に昇進)により1枚違いで場所後の十両昇進はならず、翌場所は東幕下筆頭に留め置かれ、大負け。勝てば勝ち得となる八番相撲も組まれたにもかかわらず結局2番しか勝てなかった。数場所の間幕下の1桁を一進一退した。この間、母親の勧めもあって名を耐治から勝照に改めている。その後、1993年9月場所には東幕下4枚目の地位で再び幕下優勝を果たし、翌11月場所に十両に昇進。1995年3月場所には新入幕を果たした。 左四つ得意で右上手を取ると力を発揮し、1996年3月場所では貴乃花から金星を挙げて9勝6敗で殊勲賞。翌5月場所には新三役で小結に昇進した。その場所には8勝7敗と勝ち越し、翌7月場所には関脇に昇進してもおかしくはなかったが、西から東に回っただけで番付運に泣かされ昇進することはできなかった。続く9月場所は曙から金星を挙げて9勝6敗で敢闘賞[1]。その後も幕内上位での相撲が続き、曙太郎・貴乃花光司から金星を獲得するなど地力の高さを見せた。瓢箪をぶら下げた化粧廻しや、電飾を使った化粧廻しを使用したことでも知られている(後者に関しては、露鵬・白露山兄弟も使用)。 立浪襲名後[編集] 1995年4月には立浪一門の総帥である立浪の長女と結婚し養子縁組を結び婿養子となり、立浪部屋の後継者となった。1999年2月には立浪が停年を迎えるため、余力を残しながら1月場所中に引退した。準年寄・旭豊を経て2月に年寄・立浪を襲名して立浪部屋を継承した。ところが、部屋経営や指導方針の意見の違いから先代と対立するようになった。そして対立が表面化した時期は引退相撲の直後だった。引退相撲の利益を先代とその妻に持ち逃げされるなどの問題が発生し、部屋を継承してから1年も経たずに金銭管理面での対立等が原因となって先代の自宅ビルから移転、別居状態に陥ってしまった。 そして女性問題[2]の発覚で離婚及び養子縁組解消の訴訟、先代からは部屋の明け渡し及び年寄名跡の襲名継承金(譲渡代金)1億7500万円の支払いを求める訴訟を起こされた。最高裁までもつれ込み、結局完全勝訴したが年寄名跡の価値と対価の釣り合いが取れているかなどが問題になった。一時は関取が不在で低迷していた時期があったが、2006年1月場所には猛虎浪が十両に昇進し、久し振りに関取が誕生した。また先代の長女との離婚後、2004年11月には別の女性と再婚している。なお2003年、先代と対立して相撲界を去った元横綱・双羽黒の北尾光司を部屋のアドバイザーに迎えている。 2007年に部屋を両国から茨城県つくばみらい市へと移転した。 2011年、弟子の猛虎浪が大相撲八百長問題に関与した責任で、委員から主任へ降格(後に委員へ復帰)。 一門から離脱[編集] 2012年4月、1月の理事選で貴乃花光司に投票したことへの引責を理由に一門からの離脱を申し入れ、貴乃花グループ(後に貴乃花一門)へ合流した。これに伴い、立浪一門は同年5月場所中に臨時の一門会を開催し処遇及び名称の変更を協議した結果、一門名を「春日山・伊勢ヶ濱組合」とすることで意見がまとまった(同年11月に伊勢ヶ濱一門に再改称)[3]。2015年7月場所より、前月に死去した同じ一門の19代音羽山の後任として勝負審判に再任された[4]が、翌9月場所直前の9月7日に、20代音羽山が審判部に異動した関係で立浪自身は5月場所まで配属されていた監察委員に再度異動した。 人物・エピソード[編集] 現役時代から甘いマスクで人気を集めていた。現在では体型がかなりスマートになっている。現役時代から女性のファンが多かったが、2010年代前半では元来の甘いマスクも相まって、「イケメン親方」と言うあだ名で呼ばれていた。 現役時代は切り傷を負うと卵の薄皮を傷口に貼り付けて治療していた。卵の薄皮による切り傷の治療は民間療法として定着しており、2018年11月にアルマードが、卵殻膜による傷の治療について東京農工大学との研究論文が、アメリカの科学専門ジャーナルに掲載されることを発表している[5]。 2018年1月場所中のAbemaTVの相撲中継で「うちの先輩は、釜でご飯を食べていましたよ。3升炊き(の釜)にカレーを入れたり」と、力士の規格外の胃袋について説明した[6]。

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ウージェーヌ・ラヴィエイユ – Wikipedia

ウージェーヌ・ラヴィエイユ(Eugène Antoine Samuel Lavieille、1820年11月29日 – 1889年1月8日)はフランスの画家である。 パリで生まれた。父親はタペストリーの製造の仕事をしており、兄のジャック・アドリアン・ラヴィエイユ(Jacques Adrien Lavieille:1818–1862) は木版画の版画家として有名になった。はじめ、装飾画家の仕事をしたが、1841年にジャン=バティスト・カミーユ・コローの弟子となった。 1847年頃はオワーズ川沿いの街、リスル=アダンの風景を描く画家たちのなかに入り、1852年にバルビゾンに移り、4年間滞在した。1856年からはオー=ド=セーヌ県のヴィル=ダヴレーに住み、ラ・フェルテ=ミロンやその周辺の風景を描いた。その後もフランスの各地に移って風景画を描いた。 バルビゾン派の画家、ミレー、テオドール・ルソー、トロワイヨン、ディアズ、デュプレ、ドービニーや、フェリックス・ジアン、アントワーヌ・シャントルイユらと親しく交流した。 1844年からサロン・ド・パリに出展を始め、多くの街で展覧会を開き多くの作品が美術館に買い上げられた。1878年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲した。 息子のアドリアン・ラヴィエイユ(Adrien Lavieille:1848-1920)、孫のマリー・ラヴィエイユ(Marie Ernestine Lavieille:1852-1937)、アンドレ・ラヴィエイユ(Andrée Lavieille:1887-1960)も画家になった。 弟子にはエドモン=アドルフ・ルドー(1840-1908)[1]やウジェーヌ・ベルテロン(1829-1916)[2]、フリードリヒ・アルベルト・シュミット(1846-1916)らがいる。 レヴィのセーヌ河畔

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ボーダーフリー – Wikipedia

ボーダーフリー (border free) とは、河合塾の入試難易予想ランキング表で定められた、入学学力試験をそもそも設けていない、または入学希望の受験者数不足で定員割れしている等で不合格者が皆無又は僅かであることで合格率50%となるボーダーがどの偏差値帯においても存在しないために偏差値を計算することが出来ない大学の総称である[1]。特に1990年代初頭以降に安易に設置が認可されて新設された私立大学・短大に多い。2015年時点で私立大学の43%である250校が定員割れしている。 ここから派生し、低偏差値大学の蔑称としてFランク大学(Fランク、Fラン[2])という言葉が生まれた。更に、インターネット上のマウントの意味で同年代学力平均を越えている偏差値の中堅大学や低偏差値の国公立大学に対しても使う者までもいるが誤用である[3][4][5][6][7][8][9]。大学偏差値帯別奨学金返済滞納率統計からボーダーフリー卒業生は延滞率が高いこと、貸与型奨学金がFランク大学の経営を支えていること、貸与型奨学金を受給してまで通うことへは返済不履行から懸念が示されている[10][5][6][7][11]。英語圈では「ミッキーマウス[12]学位」(Mickey Mouse degrees)と呼ばれる。 2007年時点で高卒後の専門を含む教育機関への進学率は76.3%、大学への進学率は47.2%であった。1990年の大学への進学率は24.6%であり、20年程で約2倍も上昇したが、 こうした大学への進学者の急激な増加はかつての大学受験というフィルターを通すことで、全ての大卒した者というだけでは同年齢人口の中で平均を超える学力を持っていることを保証しなくなったことを意味する。1990年代初頭に浪人生の数が最大だったなど当時の大学への進学はそれだけ高い学力と学習にかける時間、さらには進学への強い学習意欲と意志が必要とされるものだった。大学進学が容易化して大卒資格の価値が落ちた背景には少子化なのに非専門的系大学設置を安易に多数認めたこと、外国人で補充や定員割れを何年も起こしてるところに閉鎖命令を出さないことにある[要出典]。2000年6月23日の週刊朝日によるとFランクの大学が全国の私立大学の4割を占めていて、2009年7月31日の朝日新聞によると私立大の46.5%・短期大学の69.1%が定員割れなので日本約半数の大学は学力が低くとも進学出来てしまう閉鎖命令を出すべき無駄な大学と指摘されている。週刊ポストは18歳人口がより多かった1985年に大学生185万人だったが、2009年には285万人と100万人も増えた。偏差値上位校の卒業生の内定率は90%以上で昔と変わっていない一方で、逆に中堅以上大学卒は昔に比べても就職難易度は変わっていないと報道している[4][13]。 関連項目[編集] 注釈[編集] 出典[編集] ^ “入試難易予想ランキング表 | 志望校をさがす | 河合塾 Kei-Net”. www.keinet.ne.jp.

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