モスクワとコンスタンティノープルの断交 – Wikipedia
モスクワとコンスタンティノープルの断交(-だんこう、英語: Moscow–Constantinople schism)は、「ギリシャ正教」「東方正教会」とも呼ばれるキリスト教の正教会において、ロシア正教会モスクワ総主教庁と、「全地総主教」という称号を有するコンスタンティノープル総主教庁との間で起こった不和・断交(シスマ)の問題。特に、2018年に起こり現在まで続く断交と、それに伴って世界各地の正教会に及びつつある不和を記す。 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の国教として発展してきた歴史を持つ正教会(ギリシャ正教)において、その首都であったコンスタンティノープル(ラテン語: コンスタンティノポリス、現代ギリシア語: コンスタンディヌーポリ、現在のトルコ共和国イスタンブール)に座するコンスタンティノープル総主教は「全地総主教(Ecumenical Patriarch)」という特別な称号を有し、正教会全ての名誉的筆頭者として表敬されている。ただし、カトリック教会がローマ教皇の絶対的首位権の下にピラミッド型の全世界的統一組織を持つのと違い、正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則である。各国・各地域を管轄する首座主教は、総主教・府主教・大主教といった名誉上の地位の高低はあっても基本的には教権上対等であり、コンスタンティノープル全地総主教といえども教権上は数多の首座主教のうちの一人に過ぎない。 1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落以降、コンスタンティノープル総主教庁はイスラム教国であるオスマン帝国の直接支配下に置かれ、教権は著しく低下した。さらに1924年のオスマン帝国滅亡とトルコ共和国成立、それに前後するギリシャなどバルカン半島諸国の独立を経て、コンスタンティノープル総主教は、正教会を信奉する国家の後ろ盾も、一カ国の管轄という権能もなく、教権的な実権をほぼ完全に失い、名誉職的な性質が強まった。 一方、モスクワ総主教庁は、強大なロシア帝国の国教として、また正教会最大の信者人口を持つロシア正教会の首座主教座として相対的に教権が高まった。「新ローマ(Nova Roma)」と呼ばれたコンスタンティノープルがオスマン帝国の支配下に降って以降は「第三のローマ」を標榜し、政治上・教権上ともにコンスタンティノープルに取って代わって正教会世界の盟主的な存在となっていった。1721年のロシア皇帝ピョートル1世による総主教座廃止(以後長らく空位状態であった)や、ロシア革命の結果建った共産主義国ソビエト連邦(ソ連)による大弾圧もあったが、ソ連時代後期には懐柔策もあって、広大な国土を持つソ連の大部分を統轄する教権を回復した。ソビエト連邦の崩壊とロシア連邦成立以降は、ロシア国内のみならずウクライナなど旧ロシア帝国領土や旧ソ連構成国に対する教権的優位を維持しようと動き出した。その背景には、旧ソ連構成国には大量のロシア人移民が居住しており、旧構成国のソ連からの独立によって各国の民族主義が台頭し、その風下に置かれるマイノリティとなった彼らロシア系住民の支持もあった。 軋轢の始まり[編集] ウクライナ独立と教会乱立[編集] 1991年にウクライナがソ連から独立して以降、ウクライナ独立正教会(UAOC)[注 1]およびウクライナ正教会・キエフ総主教庁(UOC-KP)[注 2]の承認を巡って、ロシア正教会モスクワ総主教庁とコンスタンティノープル総主教庁の対立が始まった。ウクライナにはモスクワ総主教庁系の自主管理教会としてのウクライナ正教会(UOC-MP)[注 3]も存在し、それらウクライナ独立派の2教会と対立していた。 エストニアの教会を巡る対立[編集] 1996年には、同じくソ連から独立したエストニアにおいて、モスクワ総主教庁系の自主管理教会であるエストニア正教会(英語版)と重なる形で、コンスタンティノープル総主教庁に連なる自治正教会(自主管理教会よりも権限は大きい)として結成されたエストニア使徒正教会(英語版)[注 4]をコンスタンティノープル総主教庁が2月20日に正式承認したことから、これに反発したロシア正教会は同年2月23日から5月16日まで、短期間ながらコンスタンティノープル総主教庁と断交するという事件もあった。 軋轢の本格化[編集]
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