Month: January 2020

庭野日鑛 – Wikipedia

庭野 日鑛(にわの にちこう、改名前は庭野浩一、1938年(昭和13年)3月20日 – )は、日本の宗教家、在家仏教教団立正佼成会第2代会長。 父庭野日敬の創立した立正佼成会の会長職を1991年(平成3年)に継承し、法華経を基盤とした日敬の教えをもとに布教伝道の日々を送っている。また、現在は新日本宗教団体連合会(新宗連)特別顧問をはじめ、世界宗教者平和会議国際委員会(WCRP)会長・同日本委員会理事長、アジア宗教者平和会議(ACRP)会長、庭野平和財団総裁などを務め、国内外で宗教協力活動の推進に力を注いでいる。 人物・来歴[編集] 1938年(昭和13年)3月20日、東京都中野区において庭野日敬・立正佼成会会長と直子夫人の長男として誕生。「浩一」と名づけられた。 1958年(昭和33年)4月1日、立正大学仏教学部に入学。(※立正大学は、日蓮宗の宗門大学であり、立正佼成会とは関係は無い) 1960年(昭和35年)11月15日、庭野日敬開祖54歳の誕生日に会長後継者に指名される。当時、立正大学仏教学部3年生。 1967年(昭和42年)1月22日、28歳で結婚。 1967年(昭和42年)3月31日、立正大学仏教学部卒業、同大学大学院文学研究科に進学[1]。 1968年(昭和43年)3月31日、立正大学大学院文学研究科修了[1]。 1970年(昭和45年)1月1日、布教本部長に就任。6月28日、法名『日鑛』に改名。 1971年(昭和46年)4月18日、「関西教区青年幹部の集い」に初巡教。 1974年(昭和49年)、ブラジル、ロサンゼルス、ハワイの各教会に初の海外巡教。 1977年(昭和52年)7月22日、中国佛教協会の招きで、中国を訪問。 1986年(昭和61年)3月20日、ローマ教皇庁立サレジオ大学から名誉哲学博士号を受ける。 1991年(平成3年)11月15日、法燈継承式(会長位継承)で第2代会長に就任。 1992年(平成4年)

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有楽町センタービル – Wikipedia

有楽町西武(右側)があった時代の有楽町マリオン 有楽町センタービル(ゆうらくちょうセンタービル)は、有楽町駅、銀座駅にほど近い東京都千代田区有楽町二丁目に所在する複合商業施設である。有楽町駅前再開発事業により建設された。愛称は「有楽町マリオン (Yurakucho Mullion) 」。 また、朝日新聞の別刷りとして、ショッピング、エンタテインメント、外食などの街情報を、もっぱら掲載するカルチャーに特化(当時の言い方ではライフスタイル)した発行物にもこの「マリオン」の名が冠せられ、朝日新聞社は、この呼称を有楽町という場所に縛られない、新しい情報の発信イメージを持たせるように考えていたと思われる。 有楽町マリオンのシンボルとして、数寄屋橋側ファサードに設置されているからくり時計「マリオン・クロック (Mullion Clock) 」についても本項で記述する。 かつてこの敷地には南町奉行所があったとされる。旧・朝日新聞東京本社、旧・日本劇場(日劇)、旧・丸の内ピカデリーがあったため、朝日新聞社、東宝、松竹が所有権を持っていた。3社が共同出資して設立した有楽町センタービル管理株式会社が管理している。 愛称の「マリオン (mullion) 」は、英語で建築用語の方立(ほうだて)を意味し、ガラス窓を縦に仕切る建具を指す。巨大なガラス建築を縦に2分割した構造から名付けられた。 当初の計画では、西武百貨店(出店当時は別会社の株式会社有楽町西武)が全館を借り、堤清二が悲願としていた東京都心でのフルライン都市型百貨店を展開する予定だったが、阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の一員で、数寄屋橋阪急(現:東急プラザ銀座)を出店していた阪急百貨店が対抗して出店を決めたため、百貨店2館が併存してテナントになるという形となった。そうして1984年10月6日、有楽町西武と有楽町阪急を核店舗として有楽町マリオンがオープンした。 しかしバブル景気の崩壊後には、セゾングループ解体を経て株式会社そごう・西武へ移行した翌年の2010年12月25日に有楽町西武が閉店。区画所有者である朝日新聞と松竹の選考を経て、跡地にJR東日本系のファッションビル「ルミネ有楽町」が2011年10月28日に開業した[3]。ルミネとしては初の駅ビル以外への出店となる。また、ルミネ開業に合わせて有楽町阪急もリニューアルされ、大人の男性を対象とした「阪急メンズ東京 (Hankyu MEN’S TOKYO) 」として2011年10月15日にオープンした。

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師崎町 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “師崎町” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年1月) 師崎町(もろざきちょう)は、かつて愛知県知多郡にあった町。 知多半島最南端の町であった。師崎地区、大井地区、片名地区の3地区に分かれる[2]。南知多町となってからの1975年(昭和50年)時点の耕地面積は、水田が60ヘクタール、畑地が33ヘクタールだった[2]。同時期の産業の中心は漁業であり、16億4000万円の水揚高があった[2]。 地区内からは貝塚や古墳も発見されている[2]。かつては幡頭崎(はずさき)という地名だったが、江戸時代初期から師崎と呼ばれるようになった。江戸時代のこの地域は尾張藩領であり、帆船による交通の中心地だった[2]。師崎には船奉行(千賀氏)や遠見番所が設置され、尾張国・三河国・伊勢国・志摩国の4国の通船を管轄した。1853年(嘉永6年)にマシュー・ペリーが来航した際には、成瀬隼人正が尾張藩の藩命で師崎と内海に砲台(台場)を築いた[3]。 1876年(明治9年) – 師崎村、篠島村、日間賀島村が合併し、鴻崎村となる。 1881年(明治14年) – 鴻崎村が師崎村、篠島村、日間賀島村に分立する。 1889年(明治22年)10月1日 –

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鞍谷氏 – Wikipedia

鞍谷氏(くらたにし)は、室町時代の越前国にあった足利氏の一門。3代将軍足利義満の子であった義嗣の子・嗣俊に始まるという説があるが、奥州斯波氏の出身ともされる。いずれにしても足利一門の中でも家格は高く、鞍谷御所と称した。戦国期には越前国主朝倉氏の客将として遇され、姻戚関係を重ねた。 足利将軍連枝説[編集] 『越前名勝志』等によると、鞍谷氏の祖は足利義満の子義嗣であるとされる。応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱の際に義嗣が兄の将軍義持と対立して逆名を受けたため、右兵衛佐嗣俊は越前に逃れ、 今立郡鞍谷庄に住して鞍谷御所と称したという。また義嗣の後は掃部頭嗣時、刑部大輔嗣知と続いたという。ただし、義嗣の子については『続群書類従』所収の「足利家官位記」等の系図にも記載されておらず、義嗣の子について記した良質な史料は存在しない。これらの説は江戸時代に流布されていた「鞍谷氏系図」によるものである。 奥州斯波氏出身説[編集] 以上の鞍谷氏を足利義嗣の子孫とする説は江戸時代の越前に流布した『鞍谷系図』によるもので、『奥州斯波系図』には斯波詮教(志和御所、奥州斯波氏)の子郷長が越前に移り住んで鞍谷氏を相続したと記されているが顧みられていなかった。 佐藤圭は、良質な系図が残っていないものの、斯波氏一門の中でも家格の高い奥州の一族が越前に移り、斯波氏宗家が朝倉氏に追われた後は越前における斯波一族諸氏(佐藤は「越前斯波氏」と呼ぶ)の中核的存在になったこと、当時鞍谷氏は斯波一族と認識されていたのに対して足利将軍家の出(義嗣の子孫)であることを示す同時代史料は見られないこと、さらに当時の土地文書から鞍谷氏の所領はもともと斯波氏宗家のものであったことが確認できることから、鞍谷氏は将軍家出身ではなく奥州斯波氏の流れを引く有力一門で、後に斯波氏宗家に代わる存在になったとする。 斯波義敏が将軍足利義尚の求めに応じて文明13年(1481年)にまとめた『斯波家譜』に、「斯波の先祖は高経の弟の左京権大夫家兼という者で、関東(陸奥国)[注釈 2]の知行地斯波郡に家兼を置いたことから名字を斯波とし、その子孫は今日も関東にある。近年越前へもその一族が移って来て斯波と名乗っている」と記されている。また、永正11年(1514年)成立の『奥州余目記録』が載せる奥州探題大崎教兼(家兼の子孫)の文明3年から5年頃の記事によれば、「越前には武衛様御一家、斯波殿、仙北殿、五条殿、末野殿へは謹上と書き上げる」と厚礼の書札礼をとることと記されている。ここでいう越前の「斯波殿」は、『斯波家譜』の奥州から移り住んだ斯波一族と同じものとみられる。永正8年(1511年)成立の『大崎家鹿島社古記録』は、「奥州の斯波殿は越前の斯波をお持ちなので斯波殿と呼ぶ。当国の斯波の郷へ下って四代になる」といい、奥州斯波氏の下に「越前の斯波」を位置付けている。時代は下るが、連歌師宗長が編集に関与した『今川家譜』に、「(斯波氏の祖)家氏の子孫は、奥州斯波、同国の大崎、出羽の最上、越前鞍谷、同国の大野、尾張の武衛などである。ただし尾張の武衛はこの家の嫡流である。これを尾張流という」とあり、ここで鞍谷氏は斯波氏一門として現れる。 足利(斯波)高経の四男義将の子孫で管領家となった斯波氏宗家はもっぱら「武衛」と称されているが、その一方で本貫の斯波郡には家兼の子孫ともあるいは高経の長子家長の子孫ともいう奥州斯波氏が南北朝時代以来定着しており、「斯波殿」とは彼らおよび越前に移った一族の当主を指した。佐藤は、蜷川親元の『親元日記』寛正6年(1465年)3月28日条などに見える「斯波四郎三郎殿(政綿)」を「越前斯波氏」であるとする。そして鞍谷を領していた斯波政綿が、『朝倉宗滴話記』に見える朝倉孝景の長女が嫁した「鞍谷殿」であろうと見る。 佐藤は、没落していた奥州斯波氏の勢力が戦国中期に一時的に回復した様子が見られることについて、鞍谷氏から詮基という人物が下って奥州斯波氏を再興したという所伝からその可能性も指摘している。 なお佐藤は、斯波義俊と栄棟を同一人物と見て鞍谷氏の名跡を継承したとする説には矛盾があり再検討すべきとし、斯波義廉(義俊の父)の実家渋川氏はむしろ加賀国から越中国にかけての一帯につながりを持っており、戦国時代に渋川氏や管領斯波氏(義廉)の一族がいた可能性が高いのは加賀方面で、鞍谷氏とは直接の関係はないと見る。 鞍谷御所は越前守護斯波氏の庇護下にあったが、やがて斯波氏は家督継承を巡って斯波義敏と斯波義廉の二派に分かれ、これが一因となって応仁の乱が起こる。乱の最中、東軍の総大将・管領細川勝元は斯波氏被官で西軍の有力部将であった朝倉孝景を寝返らせ、越前支配を認めた(守護職補任の密約だったともいう)。斯波義敏・義寛親子は、越前の回復を目指し、乱後も幕府にたびたび訴訟を起こしたが、幕府は朝倉氏の「武衛への参仕」を条件とする調停案を示した。ここで朝倉氏は、斯波義廉の子を名目上の越前国主・斯波氏当主(武衛)として立てることでその条件を遵守する形を取り、義敏・義寛派の越前回復の主張に対抗した。この義廉の子(栄棟喝食)を斯波義俊に比定し、これが女婿として鞍谷氏の名跡を継承したとする考え方もある[要出典]が断定はできない。 鞍谷氏のその後[編集] 応仁の乱後、朝倉氏が名実ともに守護となると鞍谷氏は朝倉氏の客将化し、越前随一の名門として、また代々朝倉氏と姻戚関係を結んで一定の権威を保持した。鞍谷御所嗣知の息女は朝倉義景の側室になっている。後に足利義昭が義景に庇護を求め、兄である将軍義輝を討った三好三人衆と松永久秀を討伐するための出兵を求めてきたとき、義昭の従者であった明智光秀が義景に取り入って家中に勢力を築いたが、嗣知は義景に讒言して光秀を退けたという。足利義昭も義景が討伐の兵を挙げないことにしびれをきらせ、光秀も朝倉家中において立場を失ったことから、主従は尾張の織田信長を頼ったが、皮肉にもこれで大義名分を得た信長によってやがて朝倉氏は滅ぼされる。以後の鞍谷氏の事績は明らかではないが、信長の武将である佐々成政に仕えた鞍谷民部少輔の名が見える。 (足利将軍連枝説による)      足利義満  ┏━━━━┫ 足利義持 足利義嗣       ┣━━━┳━━━┓

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稲葉江 – Wikipedia

稲葉江(いなばごう)は、南北朝時代に作られたとされる日本刀(打刀)である。日本の国宝に指定されており、山口県岩国市にある公益財団法人柏原美術館が所蔵している。稲葉郷とも呼ばれる。 刀工・郷義弘について[編集] 南北朝時代の刀工・郷義弘により作られた刀である。郷義弘は、通説では越中国新川郡松倉郷(富山県魚津市)に住んでいたことから、郷、もしくは読み替えて同音の江と称されるという[2]。一説には、義弘の本姓が大江氏であるため、1字取って江の字を用いて、転じて郷の字を使用したともいう[2]。義弘は相州正宗の流れを汲む正宗十哲の一人とされ、師匠である正宗に劣らず地刃ともに明るく冴える作品が多く評価が高い刀工であるが、一方で義弘による在銘の刀は皆無であり、本阿弥家が義弘の刀と極めたものか伝承により義弘の刀と言われているもの以外、滅多に義弘の刀を見ないことをもじって「郷とお化けは見たことがない」ともいわれる[2]。 名前の由来[編集] 稲葉江の名前の由来は、西美濃三人衆の一人である稲葉良通の子である重通が所持してことによる。元は長大な太刀であったが、1585年(天正13年)に刀剣鑑定・研磨を家業とする本阿弥光徳に依頼して磨上(すりあげ、長大な太刀の茎を切り縮めて刀身全体を短く仕立て直すこと)を行い、鑑定の上で金象嵌銘を入れている。この金象嵌銘は指裏(さしうら)に「天正十三十二月日江本阿弥磨上之(花押)」、指表(さしおもて)に「所持稲葉勘右衛門尉」と記されている。なお、『日本刀大百科事典』にて刀剣研究家である福永酔剣の説明によれば、重通は1585年(天正13年)7月13日に兵庫頭を受領していることから重通の差料であったとすれば「稲葉兵庫頭」と金象嵌銘に記すだろうとして重通所持の通説に疑問を投げかけており、この頃に勘右衛門の通称名を重通から受け継いでいたのは5男である道通であることから金象嵌銘に記されているのは道通のことではないかという指摘もある。 徳川家康から津山松平家へ[編集] いずれにしても稲葉重通(もしくは道通)が所持していた本作は、徳川家康が所望したことにより500貫にて買い取られることになった。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが勃発した際には、家康は会津の上杉景勝を制圧するために東下していた。しかし、畿内でも石田三成が挙兵したとの報せを受けて家康は下野国小山で引き返すことになり、対上杉の手勢として家康の次男である結城秀康を宇都宮に残すことになった。家康は秀康に対して、激励の意味も込めて秘蔵の具足や軍配、そして本作を秀康に与えることになった。戦後、秀康は越前北ノ庄藩68万石を与えられ、後に松平姓へと復姓した。 その後は秀康の子である忠直、次いでその子光長へと伝わっていた。なお、光長の時代に奇人刀工として知られる大村加卜が越後国高田藩に仕えていた関係から本作の実見が許されていたようであり、著作『剣刀秘宝』に押型が集録されている。『剣刀秘宝』には、鋩子(ぼうし、切先の刃部分)に金輪が入っているが一枚鋩子(切先内すべてに焼きが入っているもの)であるため判然とは見えないこと、本阿弥光温によって「日本に一つ二つの道具」であると本作が賞賛されたことが記されている。光長の養子である宣富から始まる津山松平家に太平洋戦争終戦後まで伝来する。徳川8代将軍吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』にも記載されている。 近代以降[編集] 1933年(昭和8年)10月31日には松平康春子爵名義で重要美術品に認定された[7]。続いて、1936年(昭和11年)9月18日には松平康春子爵名義で国宝保存法に基づく国宝(旧国宝)に指定される[8]。1945年(昭和20年)1月13日には津山松平家を出て中島飛行機(現在のSUBARU)の2代目社長である中島喜代一へと所有が移る[9]。文化財保護法施行後の1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定された[10]。国宝としての指定名称は「刀 金象嵌銘天正十三十二月日江本阿彌磨上之花押 所持稲葉勘右衛門尉(名物稲葉江)」である[注釈 1]。2000年時点では、東京都の個人蔵だった。 その後、2015年(平成27年)1月21日に文化庁が行った所在不明文化財第2次調査結果において、所有者の死去や転居により所在不明になっている文化財に本作も含まれていることが発表された[12]。翌年2016年(平成28年)5月に、仲介者から購入したという当時の所有者が本作の所在不明扱いになっていることを知り文化庁へ届け出たことで所在が判明した[13]。その後、2019年(平成31年)3月に山口県岩国市に本社を構えるプラント塗装業であるカシワバラ・コーポレーションが本作を購入し、同社取締役会長であり岩国美術館(後に柏原美術館と改称)の館長も務める柏原伸二によって同美術館に寄贈されている[14]。 刀身[編集] 刃長(はちょう、切先と棟区の直線距離)は70.9センチメートル、反り(切先と棟区を結ぶ直線から棟へ引いた直線の最大長)は2.0センチメートル、元幅(もとはば、刃から棟まで直線の長さ)は2.9センチメートル[10]。鍛え[用語 1]は小板目(板材の表面のような文様)がよく詰んでおり、地沸(じにえ、平地<ひらじ>の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見えるもの)が細かに厚くつく[10]。 刃文(はもん)[用語 2]は小湾れ(このたれ、ゆったりと波打つような刃文)に互の目(ぐのめ、丸い碁石が連続したように規則的な丸みを帯びた刃文)交じり、足入り、匂深く小沸よくつき、所々に砂流しほつれごころがある[10]。総体に焼幅広く、物打より上は特に焼幅深く大模様に乱れる。帽子(ぼうし、切先部分の刃文)はほとんど一枚となり、表裏に横手の線から著しく先が下がって肩の怒った力強い棒樋(ぼうひ、刀身に掘られた太い一本の溝)を掻流す[10]。大磨上(おおすりあげ、元の茎を完全に切断し元々あった銘も無くなってしまったもの)であり、茎(なかご、柄に収まる手に持つ部分)に前述の金象嵌銘が入っている[10]。 注釈[編集]

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ヤマカツエース – Wikipedia

ヤマカツエース(英:Yamakatsu Ace)は、日本中央競馬会 (JRA) に登録されていた競走馬である。馬名は冠名+第一人者、最高、最高の存在[3]。 2歳(2014年)[編集] 6月22日の函館芝1200m新馬戦でデビューし、2番人気に支持されるも6着に終わった[4]。次走の未勝利戦で初勝利を挙げ[5]、2勝目を目指してオープン競走へ挑むも勝利することはできなかった[6][7]。 3歳(2015年)[編集] 年明け2戦目の条件戦で2勝目を挙げると[8]、アーリントンカップへ駒を進め6着となった[9]。続くファルコンステークスでは馬場に足をとられながらも上がり最速で追い込み3着に入った[10]。次戦のニュージーランドトロフィーでは、道中は中段の外を追走し、直線に入って追い出されると突き抜けて優勝。重賞初勝利およびNHKマイルカップの優先出走権を手にした[11][注釈 1]。NHKマイルカップでは、クラリティスカイの外にポジションを取るも、追い出し時の反応が鈍く13着であった[13]。短期放牧の後、函館記念へ参戦。先行策から粘り込みを図り3着入線となった[14]。続く札幌記念では、直線で外から伸びてくるも4着までだった[15]。その後、富士ステークスに出走。終始内にポジションを取るも、道中スローで前が開かず13着に終わった[16]。距離をマイルから2000mへ戻し挑んだ福島記念では、4コーナー手前から追い出すと同レース連覇を狙ったミトラを直線でかわし、重賞2勝目を達成した[17]。 4歳(2016年)[編集] 年明け初戦に中山金杯を選択。道中はスローながらマイネルフロストが大逃げを打つ展開を5番手につけ3コーナーから進出すると、直線では逃げ粘るマイネルフロストを差し切り、重賞3勝目を連勝で飾った[18]。続く京都記念では、道中手応え良く進めるも馬場に脚をとられ5着に終わった[19]。放牧を挟み鳴尾記念へ出走。デビュー以来初めて1番人気に支持されるも、直線でモタつき6着だった[20]。宝塚記念では、稍重の馬場に1,2コーナーで足をとられ直線で伸びず13着に終わった[21]。その後、2年連続で札幌記念に参戦。道中折り合いながら進めるも、稍重馬場が合わず5着だった[22]。秋は天皇賞(秋)から始動。道中好位で運ぶも、瞬発力勝負に泣き15着となった[23]。次走に金鯱賞を選択。道中は中団で折り合って進め、最後の直線で外から脚を伸ばし、クビ差かわして重賞4勝目を挙げた[24]。有馬記念では、道中は内枠を生かしてロスなく内を追走すると、直線では馬群を縫いながら上がり最速で追い込み4着に入った[25]。 5歳(2017年)[編集] 5歳になった本馬は、2017年から開催時期が3月に変更された(詳しくは金鯱賞#概要を参照)金鯱賞に出走し、1番人気に支持される。レースでは中団を進み、最後の直線で先頭に立つと2着馬ロードヴァンドールに1馬身1/4差つけ勝利。重賞5勝目および大阪杯への優先出走権を手にするとともに、「3か月ぶり連覇」という珍記録を達成した[26]。次走の大阪杯ではキタサンブラックの3着となり、休養に入る。8月の札幌記念ではサクラアンプルールの3着に敗れるも中距離戦では堅実な走りを見せていた。秋シーズンは天皇賞(秋)は11着、ジャパンカップは8着、有馬記念は10着と不本意な結果に終わった。 6歳(2018年)[編集] シーズン初戦の金鯱賞は4着に終わり、3連覇はならなかった。大阪杯4着のあと、香港・シャティン競馬場で行われるクイーンエリザベス2世カップの招待を受けるも、右前脚の骨膜炎により辞退した[27]。その後、復帰を目指していたが、右膝のけいじん帯炎を発症したため、9月6日に引退が決まった[2]。今後は北海道新ひだか町のアロースタッドで種牡馬になる[28]。 競走成績[編集] 競走日 競馬場 競走名 格

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黄宗羲 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “黄宗羲” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年1月) 黄 宗羲(こう そうぎ、万暦38年8月8日(1610年9月24日) – 康熙34年7月3日(1695年8月12日))は、中国明末清初の儒学者。字は太沖。号は南雷・梨洲。紹興府余姚県の出身。明の滅亡に際して反清運動に参加するが後に故郷に隠棲して学術に没頭、陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖と称された。 王陽明とは同郷にあたる。父の黄尊素は明末の東林党の指導者の一人として知られ、1626年(天啓6)に時の権力者で、東林党に対抗する閹党を従えていた魏忠賢の弾圧を受け獄死した。 黄宗羲は東林党の精神を引き継いだ政治結社復社に参加、1644年に李自成によって明が滅び、清が中国本土に侵入してくると郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。彼は魯王朱以海の政権に協力し、1649年には長崎を訪れ日本の江戸幕府に反清の援軍を要請している(この時の一部始終は『日本乞師記』にまとめられている)。この時の要請は果たせず、結局反清復明の運動は絶たれてしまい、以後は故郷で著述に明け暮れる日々を送った。 清からは博学鴻詞科へ薦挙を受けたが彼はこれを固辞した。ただし、清の明史編纂事業にあたっては、自身の替わりに息子の黄百家と弟子の万斯同を赴かせている。これは明の国難に殉じた諸氏の歴史を後世に遺すという意図があったといわれる。 後に大往生した。享年は85。 その著書と思想[編集] 黄宗羲は一代の陽明学者である劉宗周に師事していた。自身は陽明学者であったが、明末の陽明学左派が陥った観念だけで事物を論じる空疎な学問には否定的であった。実証的な学問、すなわち実践を尊び事実に即した学問を説いた。その学問は単に歴史学に留まらず経学・地学・数学などの各分野にわたり考証学の中でも浙東学派の祖と称される。

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子連れのコンパニオン – Wikipedia

「子連れのコンパニオン」(こづれのコンパニオン、原題: Closing Time)は、イギリスのSFドラマ『ドクター・フー』の第6シリーズ第12話。2011年9月24日に BBC One で初放送された。監督はスティーヴ・ヒューズ、脚本はギャレス・ロバーツ(英語版)が担当しており、彼が第5シリーズで執筆したエピソード「下宿人」の後日譚である。 本作では異星人のタイムトラベラー11代目ドクター(演:マット・スミス)が差し迫った死の前に別れを告げる旅に出ており、その過程で現代のコルチェスターに暮らす友人クレイグ(演:ジェームズ・コーデン)の家を訪れる。当初は長居するつもりのなかったドクターだが、デパートでサイバーマンの侵略が行われていることに気付き、クレイグと彼の息子アルフィーと共にその調査に動く。 ロバーツと番組製作総指揮スティーヴン・モファットは「下宿人」とコーデンの演技を喜び、クレイグの再登場を望んだ。「子連れのコンパニオン」はスミスとコーデンによる漫才でコメディ仕立てになっているが、フィナーレ「ドクター最後の日」に繋がるテーマとエピローグが盛り込まれている。本作では『ドクター・フー』新シリーズにサイバーマットが初登場し、彼らもデザインが一新された。エピソードの大部分はカーディフのデパートと民家で夜に撮影され、撮影は早朝まで続くこともあった。「子連れのコンパニオン」のイギリスでの視聴者数は693万人で、批評家からは一般に肯定的なレビューを受けた。サイバーマンの使用を喜ばない批評家も多かったが、演技・コメディ・感情に訴える場面が称賛された。 ドクター目線では「閉ざされたホテル」から200年が経過しており、「ドクターからの招待状」で殺害された未来のドクターの年齢になっている。彼が200年間をどのように過ごしてきたかは、映画に出演するなどしていた「ドクターからの招待状」の冒頭で垣間見ることができる[1]。「ドクターからの招待状」で彼がコンパニオンに送った青い封筒と身に着けていたテンガロンハットは、いずれもクレイグの私物であることが本作で明かされる[2][3][4]。リヴァー・ソングの視点からは本作の最後のシーンは「ドクターからの招待状」のピクニックの直前にあたり、彼女がドクターを射殺する宇宙飛行士であることが確定する[4]。 本作では新シリーズで初めてサイバーマットが登場した[2]。サイバーマットはクラシックシリーズでは The Tomb of the Cyberman(1967年)、The Wheel in Space(1968年)、「サイバー人間の復讐」(1975年)に登場していた[3]。ドクターは子ども達に玩具を見せながらブリキ犬の話をしているが、これは4代目ドクターのコンパニオンであるK-9のことを指す[3]。彼は赤ちゃんと会話することができるとも主張しており、これは実際に「ドクターの戦争」でやっていたことである。彼はクレイグの家の”模様替え”に「イマイチだ」と批判しており、これは The Three

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コンモツィオ – Wikipedia

『コンモツィオ』(ラテン語: Commotio) 作品58は、カール・ニールセンが1930年6月から1931年2月にかけて作曲したオルガン作品。作曲者最後の主要作品であり、1931年4月24日にコペンハーゲンのクリスチャンスボー城の礼拝堂で私的に初演された。 ニールセンは本作ととりわけ重要な作品と考えていた。1931年2月24日に娘婿にあたるテルマーニー・エミルに宛てた手紙にはこう書かれている。「私の他の作品でこれほどに集中を必要としたものはありません。絶対に違うにもかかわらず長きにわたり一種のオーケストラだと看做されてきたこの楽器、それにちょうど相応しい多声音楽という、真にオルガンでのみ効果的な様式というものを再構築しようとする試みなのです。」ニールセンは楽曲の長さにも言及している。22-24分、それはバッハのどのオルガン作品にも勝る長さでである[1]。 デンマークのオルガニストたちがこの作品に強い関心を抱いたことにより、幾度かの私的演奏が行われることになった。クリスチャンスボー城の礼拝堂での演奏に加え、ピーダ・トムスンによって2回、6月14日にコペンハーゲンの聖ニコライ教会にてマークセン・オルガンによりフィン・ヴィーザウーが2回、1週間後にロスキレ大聖堂でイミーリウス・バンギアトにより1回、そして7月にピーダ・トムスンよりもう1回である[1]。 公開初演は1931年8月14日にオーフス大聖堂(英語版)においてイミーリウス・バンギアトにより行われた。心臓の疾患により健康状態がすぐれなかったにもかかわらずニールセンも駆け付けた。この演奏に対する論評は行われなかったようである[1]。 ドイツに新しいオルガン作品が到着したという知らせの後、シュレースヴィヒ出身のオルガニストであるエルヴィン・ツィリンガーはバンギアトとニールセンに対し、その10月にリューベックで開催される北欧ドイツオルガン週間の場でコンモツィオを演奏してもよいか問い合わせている。ニールセンは出席を希望したが健康状態の悪化に伴う体力の衰えによりドイツ行きは叶わなかった。オルガニストに選ばれたバンギアトが一人でリューベックに赴くことになり、彼は到着から1、2日経ってニールセン他界の知らせを聞くことになる。こうしてコンサートは告別演奏となった。 『Dansk Kirkemusiker-Tidende』における、スヴェン=オーヴェ・ムラの論評からは感動的な経験が伝わってくる。「ニールセンの訃報により我々を満たした憂鬱な感情と混ざり合うのは、近年のオルガン作品としては誇張抜きに最も重要であると呼ばれてもおかしくない、この作品を完成してくれたことに対する彼への感謝である。ニールセンは同時代の素材を、悪い意味で現代的に見えないように配置する術を心得ていた。他にこれを理解している者は少数しかいない。彼の表現の流儀は独特で風変りかもしれないが、非常に自然に感じられる。彼が新しい道を求めていた理由が、単によく知られた道から離れるためだったという印象を受けることは全くない。実に頻繁に現代の音楽を特徴づけている気取りはカール・ニールセンの音楽に見出されることはない。徹底的に健全な彼の音楽語法と生きた音楽を生み出す彼の能力が、ここに永久の価値をもつオルガン作品を生み出した。エミーリウス・バンギアトはニールセンの作品に熟達の演奏を捧げた[1]。」 リューベックでの演奏に合わせて、ニールセンはプログラムノートの執筆を依頼されていた。まずコンモツィオが「運動、または精神的」という意味であると脚注に説明した上で、彼は次のように続けている[注 1]。「ラテン語のCommotioという語は実のところあらゆる音楽に適用可能であるが、ここではもっと特定的に自己客体化の表現として使用されている。オルガンと呼ばれ、我々が大気と呼ぶ自然物によって音が決定される壮大な楽器のための大作においては、作曲者はあらゆる個人的、抒情的な感情を抑制しなければならない。表現は大きく厳格なものとなり、感情的なものに代わり一種の乾きを要求する、そして心に抱かれるよりむしろ耳によりしかと受け止められなければならない。この作品は2つのフーガを支えにしており、まるで森の木の幹に巻き付くつる植物のようにそこへ導入、中間楽章群とコーダがしがみついている。しかし、作曲者としてこれ以上の分析は不要と考える[1]。」 管弦楽編曲[編集] 近年になって2つの管弦楽編曲が生まれている。ひとつはボー・ホルテン版で2007年に自らオーデンセ交響楽団を指揮して発表したもので[2]、もうひとつのハンス・エブラハムセン版は2016年にファビオ・ルイージ指揮、DR放送交響楽団の演奏によって披露されている[3]。 注釈 ^ ニールセンはこれをドイツ語で執筆している。 出典 外部リンク[編集]

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レガシー (テスタメントのアルバム) – Wikipedia

『レガシー』(原題:The Legacy)は、アメリカ合衆国のヘヴィメタル・バンド、テスタメントが1987年に発表した初のスタジオ・アルバム。レコーディング当時のバンド名は「レガシー」だった。 レガシーは当初、エリック・ピーターソンと彼のいとこであるデリック・ラミレス(ボーカル、ギター)によって結成され、本作にはラミレス在籍時に作られた曲「C.O.T.L.O.D.」も収録されているが[1]、その後ラミレスが脱退し、アレックス・スコルニックとスティーヴ・ゼトロ・スーザが加入。スーザは多くの曲の作詞に貢献したが、4曲入りのデモ・テープを録音した後レガシーを脱退してエクソダスに加入し、友人のチャック・ビリーを後任ボーカリストに推薦した[1]。 その後、他にもレガシーという名前のバンドが複数存在することが判明し、そのうちの一つは既にソウル・チャート入りを果たしていたため、所属レーベルのメガフォース・レコードはバンドに改名を要求[2]。そして、S.O.D.やM.O.D.のメンバーとして知られるビリー・ミラノの案によりテスタメントと改名した[2]。 本作のレコーディング・セッションでは「レイン・オブ・テラー」も録音されたが、本作への収録は見送られ[2]、1987年のEP『Live at Eindhoven』でライヴ・ヴァージョンが発表されて[3]、その後、1988年リリースの12インチ・シングル「Trial by Fire」にボーナス・トラックとして収録された[4]。 アレックス・ヘンダーソンはオールミュージックにおいて5点満点中4.5点を付け「”Burnt Offerings”、”Apocalyptic City”、”First Strike Is Deadly”のような骨をも砕かんばかりの曲からは、ジューダス・プリーストやメタリカからの影響も聴き取れるが、テスタメントは疑いなく、バンドとして独自の個性やヴィジョンを持っていた」と評している[5]。アメリカのウェブサイトLoudwireが2013年に選出した「25 Best Debut Metal Albums」では13位にランク・イン[6]。 オーヴァー・ザ・ウォール

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