ディートリヒ1世 (上ロートリンゲン公) – Wikipedia
ディートリヒ1世・フォン・ロートリンゲン(独:Dietrich I von Lothringen, 965年頃 – 1026年4月11日/1027年1月2日)もしくはティエリー1世・ド・ロレーヌ(仏:Thierry Ier de Lorraine)は、上ロートリンゲン公フリードリヒ1世とその妃ベアトリクス・フォン・フランツィーン(ユーグ・カペーの実姉)の息子。父が死去した978年以降、1026年または1027年まで上ロートリンゲン公およびバル伯であった。 当時の慣習によれば、16歳以上の公子・伯子は独立して統治することができ、ディートリヒは少なくとも父と死別した当時は間違いなく20歳程であったが、987年までは母ベアトリクスが摂政として実質上ロートリンゲン公国を統治していた。 ベアトリクスの生存記録がなくなった989年以降、ディートリヒは名実ともにロートリンゲン公となるべく、母を何らかの方法で統治から退けたとされる。諸説あるが、ベアトリクスを修道院に入れた、もしくは毒殺した説が存在している。 985年、ヴェルダンで西フランク王ロテールが率いる軍と戦うが、敗退し、捕虜となり投獄された。 後に釈放されたが、しばらくして、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世とルクセンブルク家がメッツ領を巡る紛争が起こり、ディートリヒは参戦して重傷を負った際、宮中伯エッツオ・フォン・ロートリンゲンに捕らえられ、再び投獄された。 ディートリヒはエッツオが所有していたトンブルク城に幽閉され、釈放の代償に多額の保釈金を支払わされた。 後、ディートリヒはブルグント公国で再び捕らえられたが、シャンパーニュ伯オド2世・ド・ブロワにトゥールを攻撃された時は相手を撃破している。 1024年に、ディートリヒはそれまで対立していたコンラート2世を新たな皇帝として認め、支持者となった。 晩年、ディートリヒは息子フリードリヒを後継者としていたが、フリードリヒは1026年に父に先立って死去した。その後、ディートリヒは1026年4月11日から1027年1月2日の間に死去した。公位は孫のフリードリヒ3世が継承した。 結婚・子女[編集] ディートリヒはリュネヴィル・メッツ伯フォルマー1世の娘と思われるリヒルデ・フォン・ブリースガウ(965年頃
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