Month: January 2020

コロニア・ローマ – Wikipedia

コロニア・ローマ(スペイン語: Colonia Roma)あるいはローマ地区は、メキシコシティのクアウテモクの地区名で、メキシコシティ歴史地区から見て西に位置する。行政上はひとつの地区(コロニア)ではなく、コアウィラ通りを境にして北のローマ・ノルテと南のローマ・スルの2つの地区に分かれている[2]。 20世紀はじめのポルフィリオ・ディアス大統領時代に上流階級のための地区として計画されたが、1940年代になると徐々に衰えて中流階級の地区となり、1985年のメキシコ地震以後はさらに衰退した。2000年代以後、ジェントリフィケーションによる回復が進んでいる[3]。 ローマおよび隣接するコンデサ地区はメキシコシティにおけるヒップスター・サブカルチャーの震源地として知られる。また食に関してはポランコ地区のライバルである。住宅のほかにレストラン、バー、クラブ、商店、カルチャーセンター、教会、ギャラリーなどが立ちならぶ[4]。建物の多くは20世紀はじめのディアス時代以来のアール・ヌーボーまたは新古典主義建築の様式を持つ。ローマ=コンデサ地区は2011年にメキシコシティの21の「バリオ・マヒコ」(魔法の地区)のひとつに選ばれた[5]。 アルバロ・オブレゴン通りの公園化された中央分離帯 ローマ地区の北はチャプルテペク通りを境として繁華街ソナ・ロサのあるフアレス地区に接する。西はインスルヘンテス通りとベラクルス通りを境としてコンデサ地区に接する。東はクアウテモク通りでドクトレス地区に接する。南はミゲル・アレマン通りをベニート・フアレスとの境とする。 公式にはコアウィラ通りを境としてその北のローマ・ノルテと南のローマ・スルの2つの地区に分かれている[6]。 最大の通りはアルバロ・オブレゴン通りであり、週末には芸術作品や古物やグッズを売る人々が集まる[7]。 北部にはスペインのマドリードのシベーレス広場の噴水のレプリカがあり、その周辺に流行の店が集まっている[8]。 古い荒れた建物と現代のビル ローマ地区は19世紀末から20世紀はじめにかけて上流階層がヨーロッパ風の邸宅を建てた場所のひとつである。ほかの地域と同様にこれらの邸宅の多くは消え去ったが、ローマ地区では保存状態がほかの地域よりもよく、今も1930年代以前の建物が約1,100残っていると推定されている[9]。これらの建物は新コロニアル様式(植民地時代のメキシコの建物を模倣したもの)やアール・デコ建築もあるが、多くは当時流行したフランス・ローマ・ゴシック・ムーア建築の要素の折衷様式である[9]。パコ・スタンリーはここに住み、オフィスとしても使った[10]。しかし1950年代以後に建てられた現代的なビルも多く、現在も建て替えは進行中である[11]。新しい建物は古い建物よりも大きく重いため、周囲の地盤に影響を及ぼし、残る古い建物に被害を与えることがある[12]。1990年代から古い建物をオフィス、商店、レストランなどとして使うことによって地区全体の景観を保とうとする努力が払われている[9][11]。 ローマ地区を上流階級の町に戻そうとする努力が払われているが、今も劣化の問題は残り、多数のキャバレーや男性用クラブがあって、売春を支えてきた[9]。管理されていない、あるいは放棄された建築物もあり、貧しい人々によって不法占拠されている[13]。 2010年の人口はローマ・ノルテで27,770人、ローマ・スルで17,435人であった[1]。 1930年代から1940年代にかけて、イディッシュ語を話す多数のユダヤ人がメキシコシティの中心部からローマ=コンデサ地区に移住してきた。今日ではユダヤ博物館、文書館、シナゴーグ、コシェルの惣菜屋などがある[14]。ただし1950年代以降ユダヤ人たちはさらに西へと移住し、そちらがユダヤ人コミュニティの本拠になっている[15]。 1990年代以後、35人ほどのきわめて貧しいオトミ族の小さなコミュニティがあり、その多くは放棄された建物を不法占拠している[13]。 芸術・文化[編集] コリマ通りには数多くのギャラリーがある。一帯はまたアメリカ合衆国や世界に出ようとする中南米の芸術家を引き寄せている[16]。 カサ・ラム文化センターは20世紀はじめの邸宅を修復活用するプロジェクトの一環として、1994年にオープンした[17]。1911年に建てられた邸宅の中に展示スペースとレストランが設けられている[7]。 カサ・ウニベルシタリア・デル・リブロ(大学の本の家)は1920年代に建てられた建物で、1986年以降この建物はメキシコ国立自治大学(UNAM)に貸し出されており[6][18]、UNAM関係の書籍の販売に特化した書店になっている。特定の大学の学術的著書を専門に売る書店としてはメキシコ唯一のものである[18]。

Continue reading

国鉄タ1850形貨車 – Wikipedia

国鉄タ1850形貨車(こくてつタ1850がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した私有貨車(タンク車)である。 1950年(昭和25年)4月15日にタム900形1両(タム947→タ1850)の専用種別変更改造(カセイソーダ液→塩酸)が行われ形式名は新形式であるタ1850形とされた。約2年後の1952年(昭和27年)6月10日に同じくタム900形1両(タム979→タ1851初代)の専用種別変更改造が行われ本形式に編入された。 本形式の他に塩酸を専用種別とする形式はタ1750形(1両)、タム5100形(6両)、タ3200形(4両)、タム5000形(368両)、タム9400形(10両)、タム25000形(4両)、タキ5000形(62両)、タキ5050形(109両)、タキ6700形(7両)、タキ12500形(9両)の10形式があった。 落成時の所有者は2両とも曹達商事(現・ソーダニッカ)であり常備駅は、上越線の渋川駅である。 1961年(昭和36年)10月13日にタ1851のタンク体の更新工事が行われ13 t積みから15 t積みとなった。このため形式はタ1850形を離れタム5000形(タム6224)へ編入された。約2年後の1964年(昭和39年)2月6日にタム4800形1両(タム4803→タ1851二代)の専用種別変更改造(S酸肥液→塩酸)が行われ本形式へ編入された。この際タ1852とは成らずにタ1851が附番された。このためタ1851は初代、二代が存在した。 タ1851二代の所有者は、昭和電工であり常備駅は東海道本線貨物支線の新興駅であった。 タンク体材質は、一般構造用圧延鋼材 (SS41、現在のSS400)製であり、このため内部に腐食防止のためのゴムライニング処理が施されている。 車体色は黒色、寸法関係は全長は6,100 mm、軸距は3,900 mm、実容積は11.3 m3、自重は9.6 t – 10.2 t、換算両数は積車2.6、空車1.4、軸ばね支持方式は一段リンク式であった。 1970年(昭和45年)3月17日に最後まで在籍したタ1851二代が廃車となり同時に形式消滅となった。 参考文献[編集]

Continue reading

リチャード・シュガーマン – Wikipedia

リチャード・シュガーマン(Richard Sugarman, 1944年 – )は、アメリカ合衆国の哲学者、政治アドバイザー。バーモント大学宗教・哲学科教授で、「リトアニア出身の哲学者エマニュエル・レヴィナス研究の世界的権威」[2]。2016年アメリカ合衆国大統領選挙候補者バーニー・サンダースの政治アドバイザーの一人である。 初期の経歴[編集] リチャード・シュガーマンは1944年にニューヨーク州バッファローに生まれた[2]。父方はウクライナ系ユダヤ人家系で、母方はイギリス系ユダヤ人家系[2]。父の家族はハシディズムで、母は改革派ユダヤ教徒[2]。父は連続起業家[2]。 シュガーマンは1966年にイェール大学を卒業した[3]。イェールでのルームメイトは、後にアメリカ合衆国上院議員になるジョー・リーバーマン[2]。指導教員はジョン・ダニエル・ワイルドで、ポール・ワイスの薫陶も受けた[2]。シュガーマンは1969年にイェール大学で修士号を得た[3]後、ボストン大学で博士号を取得した[3]。学位論文の題目は「ルサンチマンの現象学に向けて(Toward a Phenomenology of Ressentiment)」[4]。 シュガーマンは1970年にバーモント大学に着任し[2]、1974年から同大学宗教学科で教鞭をとっている[2]。「現象学、ユダヤ哲学、実存主義、人文学」を担当する教授である[3]。「リトアニア出身の哲学者エマニュエル・レヴィナス研究の世界的権威」[2]であり、数冊の著書がある。 アンナ=テレサ・ティミエニエツカによれば、「『Phenomenological Inquiry』に掲載されたシュガーマンの論文が、ヨハネ・パウロ2世が亡くなった晩にナイトテーブルの上に置かれていた」[2]。 政治コンサルタントとしての経歴[編集] シュガーマンはバーニー・サンダースが1981年にバーモント州バーリントンの市長に立候補するよう促した。それ以前には二人は同棲していた[5][6]。2016年バーニー・サンダース大統領選挙キャンペーンのアドバイザーを務める[3]。 シュガーマンには妻リンダとの間に三人の子どもがおり[2]、バーモント州バーリントンに住んでいる[2]。シュガーマンは関節炎を患っている[2]。正統派ユダヤ教徒で、アハヴァト・ゲリム集会に参加した[2]。また、「弁解しないシオニスト」でもある[2]。 Sugarman, Richard

Continue reading

シャロン (ストリートファイター) – Wikipedia

シャロン プロフィール シャロン(Sharon)は、カプコン、アリカの対戦型格闘ゲーム『ストリートファイターEX』シリーズ、およびアリカの対戦型格闘ゲーム『ファイティングEXレイヤー』に登場する架空の人物。 赤いショートカットヘアとバラのタトゥーを持つ[3]、謀報機関のエージェント。犯罪シンジケートの重要人物としてマークされている、自分と同じバラのタトゥーを持つ人物を探している。 『ストリートファイターEX2』から登場するキャラクターで、同時期に登場しているシャドウガイストとの関連性を持つ。 隙の小さい技とトリッキーな動きで相手を翻弄しやすい。移動も早く、使い勝手のいい必殺技、リロードによる攻撃力アップ、スーパーコンボに飛び道具を2種を持つ。 『ストリートファイターV』の公式サイトの「シャドルー格闘家研究所」の「キャラ図鑑」にて新たな個人プロフィールが明かされた[2]。 『ファイティングEXレイヤー』(以下『EXレイヤー』)では、苦痛な過去を捨て恋人との平和な日々を過ごすことを選んだが、諜報機関はその見返りに海外の諜報機関と協力し、謎のエネルギー調査を強要する[4]。本作でもシャドウガイストに決戦を挑むが、未だ彼との関係が明確になっていない。 各種技の解説[編集] 名称はアリカ公式サイトの『ストリートファイターEX3』紹介ページでの完全技表より[5]。 投げ技[編集] ブラッディーマウント 相手を倒して何度も殴りつける。ボタン連打で回数を増やせる。 『ストリートファイターEX2PLUS』以降では「ロード」を使用してピストルを所持している時に、この技を使うと威力が上昇する。 ブラッディチョーク 背後に回り、相手の首を何度か絞める。こちらもボタン連打で回数を増やせる。 フライングネックドロップ 空中の相手をつかみ、ブレーンバスターの要領で叩きつける空中投げ。 ブラッディーキック 『EXレイヤー』で実装された「ブラッディチョーク」の代わりに実装された投げ技。相手の背後に回り込み飛翔してから回し蹴りを叩き込む。

Continue reading

サバデイ – Wikipedia

サバデイ(カタルーニャ語: Sabadell、[səβəˈðeʎ])は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県のムニシピオ(基礎自治体)。バリェス・ウクシダンタル郡に属す。リポイ川の沿岸にあり、バルセロナの北西20kmにある。スペイン語での読みはサバデル。 サバデイは、隣接するタラサとともに、紡績工場を持つカタルーニャでの産業革命の先駆者であった。19世紀半ば、スペイン国内では最も重要な羊毛の集約地となり、「カタルーニャのマンチェスター」との異名をとった。今日でも、この繁栄の時代の紡績工場がいまだに見られ、その多くは住居や商業施設として再利用されている。近年のサバデイは、商業、金融業および工業を基盤とする都市であり、目をひくような農業活動は見受けられない。 サバデイはバルセロナの北西にあるバリェス・ウクシダンタル郡の中央部に位置し、バルセロナとはおよそ20km離れている。市街地の東側にリポイ川の渓谷が南北に貫く。 南部のバルバラー・ダル・バリェスとは市域を接し、周辺自治体と小都市圏を形成している。 人口[編集] 出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 – 1991年[2]、1996年 – [3] ローマ時代、アラゴネ(Arragone)と呼ばれる小さな集落が、現在のラ・サルト教会近くの地にあった。これが中世にはアラオーナ(Arraona/Arrahona)と呼ばれる町となった。その後、別の集落がリポイ川の対岸に建設された。この第二の集落は平野部に位置し、サバデイと呼ばれた。サバデイは拡大し、1378年には人口600人、152世帯を数えた。サバデイは壁で囲まれていたが、16世紀には人口が増加し、いくつかの住宅が壁外に建てられた。当時、最初の織物工場が町に登場し、特に羊毛を用いた衣類をつくるのに貢献した。羊毛工業は続く数世紀に渡って成長、そして1800年時点の町の人口はおよそ2,000人であった。19世紀には町に2つの重要な発展がもたらされた。1856年に鉄道路線が開通、1877年には町から市へと昇格した。1897年の調査では、市人口は23,044人であった。市はスペイン国内で最も重要な羊毛衣類生産地となり、これらの製品が世界的な名声を獲得した。 20世紀[編集] アールヌーヴォーと関連したモデルニスモ運動が、1900年代初頭の都市の建築に重要な影響を及ぼした。モデルニスモの建築として、スイス・ホテル(1902年)、ユック邸(1908年)、サバデイ貯蓄銀行(1915年)、給水塔(1918年)、中央市場(1930年)などが挙げられ、これらは20世紀半ばまでに建てられた。 20世紀初頭、タラサとサバデイは最高水準の織物業都市であった。これが天然資源に乏しい土地を推進する力となり、繊維産業、機械製造業や経済の近代化といった産業を押し上げた。この経済活動のため、サバデイは1950年代から1970年代初頭にかけ、スペイン国内から移民の波が押し寄せ、都市圏拡大を管理できず、カ・ノリアクやトーレ=ロメウのような新たな近隣居住区の創設を促した。 産業と人口の拡大は重要な労働者運動の発生の土壌となった。カタルーニャ愛国者、社会主義者、無政府主義者の政党がスペイン内戦(1936年-1939年)の動乱まで非常に影響力を持っていた。内戦がファシスト側勝利になり、サバデイは退行の段階となった。しかし、1950年代に産業は復活しさらに成長していった。産業は労働者を必要とし、多くの人々がアンダルシア、ムルシア、エストレマドゥーラ、カスティーリャといったスペイン各地から織物産業と機械産業に従事するため集まった。再び、新たな労働者運動とカタルーニャ愛国運動が発生した。これは、カトリック教会の支援を受け、反フランシスコ・フランコ独裁の背景があった。サバデイは、共産主義者、社会主義者、カタルーニャ愛国者、カトリック、その他反フランコ派が集まって多様な党派が組織したカタルーニャ議会の開催地となった。1973年のオイルショック、1975年のフランコの死は、スペインそしてサバデイにおける重要な変化を意味した。経済危機により、経済活動の多様化が進んだ。新たな商業施設、そしてレクリエーション地域(Eix Macià)が伝統ある工場の隣に現れ、市の重要な経済発展を牽引している。 主要道路で都市と結ばれている。バルセロナからの所要時間は約20~30分 市内の鉄道路線はバルセロナ近郊区間に含まれ、レンフェ及びカタルーニャ公営鉄道(FGC)でバルセロナと直結している。バルセロナからの所要時間は30~45分 レンフェR4線(市内には南・中央・北の3駅がある)

Continue reading

超いきものばかり〜てんねん記念メンバーズBESTセレクション〜 – Wikipedia

『超いきものばかり〜てんねん記念メンバーズBESTセレクション〜』(ちょういきものばかり てんねんきねんメンバーズベストセレクション)は、いきものがかりのベストアルバム。2016年3月15日にエピックレコードジャパンから発売された。 2006年3月15日の1stシングル「SAKURA」リリースによるメジャー・デビューから丁度10年となる日に発売された、通算3作目のベストアルバム。タイトルの「てんねん記念」は、「10年記念」の10の部分を英語の「ten」と読み換えたもので[3]、他にも吉岡の風貌に似ているとされるカワウソが天然記念物に指定されていたことにも掛けている[注 1]。 初回生産限定盤には通常盤のCD3枚に加えて、カップリング曲とメンバーがセレクトした3曲が収録されたボーナスディスク「超B面ばかり+メンバー泣きの三曲」のほか、カードやステッカーなど全10種類の特典が付属[4]。 2010年発売のベストアルバム『いきものばかり〜メンバーズBESTセレクション〜』と同様に、これまでにリリースされた作品からメンバー自身が選曲した楽曲に、新曲5曲(「いこう」、「翼」、「Sweet! Sweet! Music!」、「真夏のエレジー」、「ぼくらのゆめ」)を含めた全45曲(初回限定盤は60曲)を収録。なお、ボーナスディスクに収録されているカップリング曲は、「ホットミルク」を除く全曲がアルバム初収録となり、これらの楽曲が収録されたことによって、「ラストシーン」を除く、メジャー・デビュー以降本作発売までに発表された全てのオリジナル曲がアルバムに収録されることとなった。 本作発売時点でシングルA面曲としてリリースされた36曲のうち、「HANABI」「流星ミラクル」「青春のとびら」「青春ライン」「ホタルノヒカリ」「ハルウタ」の6曲は収録されなかった[注 2]。また、「ノスタルジア」は歌詞を変更したバージョンにした上で、ボーナスディスクのみの収録となる。アルバム初収録曲も多数ある。 チャート成績[編集] 発売初週に約13.7万枚を売り上げ、2016年3月28日付オリコン週間アルバムチャートで初登場1位を獲得。同チャートでの1位獲得は、2008年リリースの3rdアルバム『My song Your song』から8作連続となり、自身が記録を保持する男女混成グループの連続1位獲得記録も更新した。累計売上は30万枚を超えた[5]。 DISC1[編集] DISC2[編集] DISC3[編集] DISC4(初回限定盤のみ)[編集] 既発表曲はリンク先の記事も参照。

Continue reading

ジョン・クロスビー (第2代グランドア伯爵) – Wikipedia

第2代グランドア伯爵ジョン・クロスビー(英語: John Crosbie, 2nd Earl of Glandore PC (Ire) FRS FSA、1752年5月25日 – 1815年10月23日)は、アイルランド王国出身の貴族、政治家。1776年から1781年までクロスビー子爵の儀礼称号を使用した[1]。 初代グランドア伯爵ウィリアム・クロスビーと1人目の妻セオドシア・ブライ(Theodosia Bligh、1723年頃 – 1777年5月20日、初代ダーンリー伯爵ジョン・ブライの娘)の次男(長男モーリスは1749年に夭折)として、1752年5月25日に生まれた[1]。1768年6月7日ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学、1771年にB.A.の学位を、1772年にM.A.の学位を修得した[1]。 1775年から1776年までアスボイ選挙区(英語版)の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた後、1776年の選挙でアルドフェルト選挙区(英語版)とトラリー選挙区(英語版)の両方で当選、前者の代表として1781年まで議員を務めた[2]。 1781年4月11日に父が死去すると、グランドア伯爵位を継承、1782年4月16日にアイルランド貴族院議員に就任した[1]。その後、1785年1月15日にアイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命され、同年から1815年までケリー県首席治安判事(英語版)を務めた[1]。また、1801年から1815年までアイルランド貴族代表議員を務め、その在任中の1812年にカトリック解放に賛成票を投じた[1]。 1789年から1801年までアイルランド大法官府裁判所記録長官(英語版)(Master

Continue reading

ガイウス・ホスティリウス・マンキヌス – Wikipedia

ガイウス・ホスティリウス・マンキヌス(ラテン語: Gaius Hostilius Mancinus、生没年不詳)は、紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前137年に執政官(コンスル)を務めた。 マンキヌスはプレブス(平民)であるホスティリウス氏族の出身。この氏族は紀元前2世紀になって高位官職の人物を出すようになった[1]。マンキヌスのコグノーメン(第三名、家族名)は、第二次ポエニ戦争中の紀元前217年、独裁官クィントゥス・ファビウス・マクシムスの隷下で騎兵分遣隊を指揮し、カンパニアで戦死したルキウス・ホスティリウス・マンキヌスが、資料で確認できる最初の例である[2]。このルキウスにはおそらく同名のルキウスとアウルスの二人の息子がおり、ルキウスの息子が紀元前145年の執政官で第三次ポエニ戦争の英雄ルキウス・ホスティリウス・マンキヌスである。一方、アウルスは紀元前170年に氏族初の執政官となったが、このアウルスがマンキヌスの父である[3]。 マンキヌスにはアウルスという名前の兄がおり、紀元前151年にアエディリス・クルリス(上級按察官)を務めている[3]。 19世紀のドイツの歴史学者テオドール・モムゼンは、マンキヌスを「あまり知られていない男」としているが、これはローマの上流階級との交流が少なく、出世が遅れたためである[4]。 初期の経歴[編集] マンキヌスの政治歴に関する記録は、紀元前140年代初頭に遡る。紀元前150年から紀元前147年の間に、プラエトル(法務官)を務めた。この職権をもって、マンキヌスがテッサリアの都市国家ナフラキオンとメリテヤの問題を解決するよう、元老院を招集している。マンキヌスは首都担当法務官(プラエトル・ウルバヌス)として、不在の執政官に代わって首都ローマの最高責任者であった[5]。 父と同様、マンキヌスも法務官から執政官まで10年以上を要した(ウィッリウスでは最低3年)[5]。ようやく紀元前137年になって執政官に就任する。同僚執政官はパトリキ(貴族)のマルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナであった[6]。マンキヌスがケルティベリア人との戦争のためにヒスパニア・キテリオルに派遣されることとなり、ポルキナはローマに残った。その後のポルキナの行動から、軍事作戦実施の方が価値が高いとの認識があったと考えられるため、現代の研究者はこの任務分担はくじ引きによるものであったと考えている[7] 第二次ケルティベリア戦争(ヌマンティア戦争)[編集] 執政官に就任すると、マンキヌスは直ちにヒスパニアに出立した。クァエストル(財務官)にティベリウス・センプロニウス・グラックス(グラックス兄)がいた[8]。新たな軍の編成は行われず、マンキヌスはプロコンスル(前執政官)マルクス・ポピッリウス・ラエナスがそれまで指揮していた軍を引き継いだ[7]。古代の作家達は、マンキヌスがヒスパニアに赴く途中での、不吉な前兆を報告している[9][10][11]。マンキヌスが神々に生け贄を捧げようとした時、鳥が檻から飛び出してきて、ヘラクレス港で船に乗り込むと、「マンキヌス、ここに留まれ」[12]、あるいは「マンキヌス、明日にせよ」[13]との声を聞いた。このためマンキヌスは陸路を使ってヤヌアまで行った。さらに彼の船で巨大な蛇が発見された[12]。このようなことがあったにも関わらず、マンキヌスは任地に到着し(ウァレリウス・マクシムスによると、マンキヌスは狂ったような粘り強さを示した[12])、ラエナスから軍を引き継いだ[14]。 ヌマンティアの遺構 マンキヌスはは、前年には何度もローマ軍を撃退していたヌマンティアに対して直ちに軍事行動を開始した。古代の資料はヌマンティア兵4,000に対して、ローマ軍は20,000[5]、30,000[13]あるいは40,000[15][16]の兵力を有していたとする。現代の研究者は40,000は誇張であると考えているが[17]、何れにせよローマ軍の戦闘力は低かった[18]。さらにマンキヌスの指揮能力も低く[19]、ローー魔軍は戦えば負けるという状態だった。プルタルコスは、いくつかの大きな戦闘に関する敗北を書いているが[8]、ルキウス・アンエウス・フロルスはヌマンティアが「継続的に待ち伏せ攻撃と反撃を繰り返してマンキヌスを疲弊させ、ついには誰もヌマンティア人の姿や声にさえ耐えられない程になった」と記している[20]。 さらにカンタブリ族とワッカエイ族も救援にかけつけるとの噂が流れ、ローマ軍の士気は崩壊した。マンキヌスは夜中に野営地から脱出したが、殿の軍は大損害を被った。ローマ軍はクィントゥス・フルウィウス・ノビリオルが紀元前153年に建設していた古い砦に入ったが、食料は無く、敵が再度攻撃してきたら撃退することは不可能であった[21]。古代の資料は、マンキヌスは絶望的な立場にあったとしている。全滅を避けるために、マンキヌスはヌマンティアとの交渉を開始した。ヌマンティアは財務官のグラックスを交渉相手に指定してきた。彼の父ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルは第一次ケルティベリア戦争後の戦後処理で、ヒスパニアでの評判が良かったためである[22]。 おそらく[17]、グラックスはヌマンティア側の条件のいくつかを軟化させることに成功した。締結された講和条約によれば、ローマ軍の自由な通行は認めるが、財産と武器は全てヌマンティアに引き渡すこととなった[23]。エウトロピウスは「カウディウムの屈辱」を再現するかのように、ローマ兵はくびきの下を一人ひとり屈んでくぐらされたとしているが[24]、これは憶測に過ぎない[25]。政治的条件に関する記録はない。紀元前151年にマルクス・クラウディウス・マルケッルス が結んだ条約を確認したとの説もあるが、その場合ヌマンティアの独立を認めたこととなる。ヌマンティアとしてはローマに不信感を抱く十分な理由があったため、合意内容はマンキヌスだけでなくグラックスおよびトリブヌス・ミリトゥムの署名後、封印された[17]。 降伏後[編集] マンキヌスが実質降伏に近い講和条約を締結したとの報告は、ローマでセンセーションを巻き起こした。元老院はこの出来事に激怒し、直ちにマンキヌスを指揮官から解任し、尋問のためにローマに召喚した。マンキヌスがヌマンティアの特使とともにローマに到着すると、この条約をどうするか、また批准を拒否した場合には、条約に署名した人々をどうするか(批准されない場合、ヌマンティアに引き渡されることになっていた)について、活発な議論が展開された。同様のことが紀元前139年にも生じていたが、その時のスキャンダルの原因は、クィントゥス・ポンペイウスであったが、ポンペイウスはヌマンティアと条約を締結していないと主張した。しかし、マンキヌスの場合には疑問の余地はなかった[26]。 マンキヌスは、全軍を救うには降伏することが唯一の方法であり、この条約はローマの損失を意味するものではないと主張した。彼は敗北の原因をポンペイウスのせいにしようとした。マンキヌスは元老院議員たちに、ポンペイウスの行動のために自分の軍隊は戦闘不能状態にあり、その敗北はポンペイウスが結んだ条約を批准しなかった当然の帰結であると語った[27]。さらに、条約が批准されていないにもかかわらずポンペイウスがヌマンティアに引き渡されなかったという事例は、マンキヌスに有利となる可能性があった。しかし、マンキヌスはこの状況から利益を得ることができなかった。ポンペイウスは自分を正当化し、有力な元老院議員のグループは条約を批准することはできないと主張し、マンキヌススが責任を負うべき唯一の人物としてヌマんティアに引き渡されるべきとした。また、この条約は紀元前321年のカウディウムの屈辱を思い起こさせた。このてき元老院はサムニウムとの条約を破り、再度サムニウムに攻め込んだ[28]。

Continue reading

ネイサン・ファーガソン (2000年生のサッカー選手) – Wikipedia

その他の人物については「ネイサン・ファーガソン」をご覧ください。 ネイサン・ファーガソン 名前 本名 ネイサン・ファーガソンNathan Ferguson 基本情報 国籍 イングランド ジャマイカ 生年月日 (2000-10-06) 2000年10月6日(21歳) 出身地 バーミンガム 身長 180cm 体重 76kg 選手情報

Continue reading