Month: March 2020

マラッカ事件 – Wikipedia

マラッカ事件(マラッカじけん)は、1945年9月5日から6日にかけて、日本軍降伏後の治安悪化に備えてマラッカに進駐し、警備にあたっていた日本軍の警備隊が、共産党員を含む現地住民14名を逮捕し、マラッカ付近で10名を殺害、4名を負傷させたとされる事件。1946年にBC級戦犯裁判(イギリス軍クアラルンプール裁判)で裁かれた。[1] 1945年8月末、マラッカ州マラッカに、日本軍降伏後の治安悪化に備えて日本軍の第29軍第94師団歩兵第256連隊(羽生連隊[2]、クアラルンプール警備隊)第3大隊が進駐し、警備にあたっていた。 大西 (1977, p. 172)は、警備隊はマラッカで共産党員を含む現地住民十数名を逮捕し、近くの島嶼において殺害、第29軍のマラッカ憲兵隊・大本少尉らがこれに協力した、としている。 本田 (1989, p. 67)は、逮捕されたのは共産党員と目される華僑10名で、うち2名が殺害され数名が負傷、被害者は憲兵隊が使っていた密偵で、秘密が露見することを恐れて殺害したともいわれている、としている。 戦後のイギリス軍クアラルンプール裁判の起訴理由によると、警備隊は、1945年9月5-6日にマラッカ付近で、現地人14名中11人を殺害し、3名を負傷させた、とされている[6]。 羽生連隊では、第3大隊をマラッカから撤収させ、代りに第1大隊の一部を派遣した。英軍の命令で、第1大隊長以下100名が治安の維持に当り、その余の兵力はマラッカ市から20キロの外に撤退することになり、第1大隊は1945年9月9日夜にマラッカに入った。第1大隊の進駐時には、事件をおそれて華僑の店はほとんどが大戸を下ろし、終戦後に林立した赤旗や青天白日旗も見えず、しんと静まり返っていたが、数日後には店舗も再開し始め、明るさが戻ってきた、とされている。 第3大隊はクアラルンプール、セレンバン、ゲマス(英語版)、ジュアセ(英語版)などに分かれて作業に従事し、大隊本部は1945年12月にジュアセからゲマスへ移った。亀沢大尉の後任として、大隊長には幹部候補生出の水口賢治少佐が着任した。 殺害を指揮したのは第3大隊の大隊長・亀沢大尉とマラッカ憲兵隊の大本少尉で、この2人と、第3大隊の矢頭俊一中尉以下9人の関係者が戦犯容疑で英軍に召喚された[10]。 なお、事件発生後、第29軍の憲兵隊長・児島正範少将は、マラッカ憲兵隊の大本少尉らを日本軍の軍法会議に付そうとしたが、(英軍の戦犯裁判の開始まで日時がなかったため)軍法会議にはかけられなかった。 1946年7月6日にイギリス軍クアラルンプール裁判で、大本少尉と亀沢大尉に絞首刑、ほか9人に10年の有期刑の判決が下った。確認の結果、2人は判決通り死刑とされ、矢頭中尉は5年の有期刑、他の8人は無罪に減刑された[12]。 2人の絞首刑は1946年9月5日に執行された。 関連項目[編集] ^ この記事の主な出典は、本田 (1989, pp. 67–68,

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ペドロ・コスタ (フットサル選手) – Wikipedia

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はダ・シウヴァ、第二姓(父方の姓)はダ・コスタです。 ペドロ・アレシャンドレ・ダ・シウヴァ・ダ・コスタ(Pedro Alexandre da Silva da Costa、1978年12月18日 – )は、ポルトガル出身のフットサル選手・フットサル指導者。2016年から名古屋オーシャンズ監督。ポルトガル代表。一般的にはペドロ・コスタ (Pedro Costa) またはコスティーニャ (Costinha) と呼ばれる。ポジションはフィクソ/アラ/ピヴォ。 クラブ歴[編集] 1999年にスポルティングCPよりデビュー。2002年から2005年、2006年から2011年にSLベンフィカに在籍し、8年間で15のタイトルを獲得。2008年から2011年にはキャプテンを務め[1]、UEFAフットサルカップ2009-10で優勝し、2010-11で準優勝した。ベンフィカではリカルジーニョとチームメイトで、ポルトガルで開催されたFIFAインターコンチネンタル・フットサルカップ2011では名古屋オーシャンズと対戦している[2]。 2011年7月、Fリーグの名古屋オーシャンズに加入。名古屋は2011 AFCフットサルクラブ選手権で優勝したばかりであり、6月にはリカルジーニョが福島第一原子力発電所事故の影響を危惧して名古屋オーシャンズからCSKAモスクワに期限付き移籍していた。2013-14シーズンと2014-15シーズンには2シーズン連続でベスト5に選ばれた[3]。 2015年にはキャプテンに就任したが[4]、外国籍選手がキャプテンに就任するのはFリーグ史上初である[5]。2015-16シーズンにはリーグ優勝(9連覇)を達成。2016年1月、2015-16シーズン限りでの現役引退と2016-17シーズンの名古屋オーシャンズ監督就任が発表された[1]。同年3月、北原亘と合同で引退試合を行った。 代表歴[編集]

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ジェイ・P・モーガン – Wikipedia

ジェイ・P・モーガン(Jaye P. Morgan、1931年12月3日 – )は、アメリカ合衆国の元ポピュラー音楽歌手・女優・ゲーム番組パネリスト。 生い立ち[編集] コロラド州最南西のモンテズマ郡マンコスで生まれる[1][2]。ハイスクール時代に一家はカリフォルニア州に転居。モーガンには5人の兄弟と1人の姉妹がいる[1]。1940年代後半、ロサンゼルスタジャンガのヴェルデューゴ・ヒルズ・ハイスクール在学中はクラスの会計係を務めていたので、銀行家ジョン・ピアポント・モーガンにちなんでジェイ・P (Jaye P.) とあだ名を付けられた[1]。また学内の集会で兄弟のギターを伴奏に歌っていた[1]。 1950年代[編集] モーガンだけでなく3人の兄弟も歌手になった。上からディック、デューク、チャーリー、ジェイ・P。1959年出演の「ジミー・ディーン・ショー」より。 1950年、ハイスクールを卒業した1年後にダービー・レコード(英語版)にて、かつてビルボードヒットチャートで全米トップ10入りを果した名曲「人生は一籠のサクランボ(英語版)」をレコーディングし、1954年にポップスチャート26位を記録した。程なくRCAビクターと契約を結び[3]、ヒットチャート3位を記録し最大のヒット曲となった「That’s All I Want from You」など1年間で5曲をヒットさせた[4]。他の著名なヒット曲としては 「The Longest

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グナエウス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前141年の執政官) – Wikipedia

グナエウス・セルウィリウス・カエピオ(ラテン語: Gnaeus Servilius Caepio、生没年不詳)は紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前141年にコンスル(執政官)、紀元前125年にケンソル(監察官)を務めた。 グナエウス・カエピオはパトリキ(貴族)系であるセルウィリウス氏族・カエピオ家の出身である。セルウィリウス氏族はアルバ・ロンガからローマに移住した六氏族の一つとされている[1]。カエピオのコグノーメン(第三名、家族名)を名乗ったのは、紀元前253年の執政官グナエウス・セルウィリウス・カエピオが最初である。 紀元前169年の執政官グナエウス・セルウィリウス・カエピオには息子が3人おり、グナエウス・カエピオはその真中である[2]。長男は第二次ポエニ戦争の英雄クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ウェッルコスス・クンクタートルの孫に養子に入り、クィントゥス・ファビウス・マクシムス・セルウィリアヌスと名乗った[3]。弟クィントゥス・セルウィリウス・カエピオは紀元前140年に執政官を務めている。三兄弟が連続して執政官に就任したことは共和政ローマの歴史においても異例のことであった[4]。 グナエウス・カエピオに関する最初の歴史資料は、紀元前141年に執政官に就任したことである[5]。しかし、当時のウィッリウス法の規定から、遅くとも紀元前144年にはプラエトル(法務官)を務めたはずである[6]。 グナエウス・カエピオの同僚執政官は、プレブス(平民)のクィントゥス・ポンペイウスであった。元老院特別令により、ポンペイウスはヒスパニア・キテリオルに派遣されることとなり、グナエウス・カエピオの担当地域はイタリア本土となった[7]。ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』は、この年(紀元前141年)に関しては概要が残っているのみだが、マケドニア属州でローマ軍がスコルディスキ族に敗北したと記されている。このローマ軍の司令官がグナエウス・カエピオであったとする説もあるが、歴史家F. ミュンツァーはその可能性は低いとしてる[5]。 この頃、グナエウス・カエピオは兄弟であるセルウィルアヌス、クィントゥス・カエピオと共に、元老院内の「反スキピオ派」を率い、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌスとその支持者に対抗していた[8]。グナエウス・カエピオの同僚執政官であるポンペイウスは「スキピオ派」であり、カエピオ兄弟はポンペイウスのヒスパニア派遣に反対したと思われる[7]。後にはポンペイウスを告訴しているが、その正確な理由は不明である[9]。このときポンペイウスは無罪となったが、キケロもウァレリウス・マクシムスも、「告訴側は有能、高貴で、国への貢献も大きかったが、欲望と敵意に対する疑いによってその信頼性が損なわれていた」と述べている[5][10][11]。 紀元前125年、にグナエウス・カエピオは政治歴の頂点に達した – ケンソル(監察官)に就任したのである。同僚はプレブスのルキウス・カッシウス・ロンギヌス・ラウィッラであった[12]。監察官として、アルバ山からカピトリヌスの丘に水を供給するテプラ水道を完成させた[13]。さらに、グナエウス・カエピオとロンギヌスは、カエピオの政敵であるマルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナを贅沢が過ぎると処罰した。ウェッレイウス・パテルクルスはこれを道徳の進化の一例としてあげており、パテルクルスが生きたローマ帝国初期では、このような豪華な家の持ち主を元老院議員と考える人はほとんどいなかったということを指摘している[5][14]。 グナエウス・カエピオには同名の息子おり、紀元前104年頃にクァエストル(財務官)となったが、海難事故で死亡した[15]。その娘が紀元前54年の執政官アッピウス・クラウディウス・プルケルの妻である可能性があり、その場合はマルクス・ユニウス・ブルトゥスの義理の母ということになる[16]。 ^ Geiger J., 1973, p.143. ^

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紺屋町 (姫路市) – Wikipedia

紺屋町(こんやまち)は、兵庫県姫路市の町名。住居表示未実施。郵便番号は670-0924[3]。 町域北部は、呉服町に接する。南部は亀井町に接する。 この節の加筆が望まれています。 江戸期は姫路城下の1町で、町人地だった。東・西に分かれていた[5]。呉服町の南裏である[5]。町名の由来は、紺屋が居住したことによる。昔、播磨藍が其の名高く、藍染川で搗染めにした[5]。よって飾磨搗染といった[5]。家老河合寸翁(1767年-1841年)の時、西紺屋町に相生屋井上勘右衛門がいた[5]。勘右衛門は高砂染を製出して、藩命により一手専売とした[5]。 この節の加筆が望まれています。 世帯数と人口[編集] 2021年(令和3年)12月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。 世帯数と人口の遷移[編集] 『姫路市統計一斑 明治31-33年』(1902年印刷・発行)によれば、戸数、人口(1898年)は、東紺屋町54・145、西紺屋町120・431である[6]。『姫路誌』(1912年印刷・発行)によれば、東紺屋町41・126、西紺屋町118・408である[7]。 小・中学校の学区[編集] 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。 店・企業 アンド 岩井コスモ証券姫路プラザ 伊予製麺姫路みゆき通店 うめおか小溝筋店 お菓子のデパートよしや姫路御幸通り店 おの姫路革細工本舗 お仏壇の浜屋

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ハマユウ – Wikipedia

ハマユウ(浜木綿、学名: Crinum asiaticum)は、ヒガンバナ科の多年草。(クロンキスト体系ではユリ科)。花の様子は、コウゾなどの樹皮を細く裂いて作った繊維から作った布と似ており、神道神事で用いられる白い布をゆう(ゆふ)と呼ぶ。別名のハマオモトは、肉厚で長い葉がオモト(万年青)に似ることから。 水はけが良く日あたりの良い場所を好み、主に温暖な海浜で見られる(海浜植物)。道ばたや公園、庭に植えられることもある。日本に自生するのは亜種 C. a. var. japonicum (Baker)。宮崎県の県花となっている。 草姿は太い円柱状の幹のようなものの上から昆布のような葉が周囲に広がる態を成す。この幹のようなものは真の茎ではなく、葉の付け根が多肉質の筒状に重なったもので偽茎と呼ばれ、ヒガンバナやタマネギの鱗茎とほぼ相同なものである。茎はこの偽茎の基部に、短縮した円盤型のものがある。ヒガンバナ科の中でもヒガンバナ属(Lycoris)に縁が近く、ヒガンバナと同じリコリンというアルカロイドを、特に偽茎に多く含み、食べると吐き気や下痢を催す。 花[編集] 花期は夏で、葉の間の真ん中から太くてまっすぐな茎を上に伸ばし、先端に多数の花を散形につける。花序ははじめ苞に包まれ、開花時にはこの苞は下に垂れる。花は短い柄の先にあって白く細長い6枚の花被を持ち、花弁の根本の方は互いに接して筒状、先端部はバラバラに反り返る。花は日没前後から強い芳香を発するようになり、大型のスズメガ科のガが吸蜜に訪れて花粉を媒介する。 種子[編集] 受粉が成立すると、花被筒と融合した子房が肥大して歪な球形の果実となり、熟すと裂開して丸くコルク質の厚い種皮に覆われた種子を数個落とす。この種子は海上を何ヶ月も生きたまま漂流する能力があり、海流によって現在の分布域に広がったと考えられている。種子は水がなくても発芽し、机の上などに放置した状態で発芽するのを観察できる。自然状態では海岸に漂着してから潮上帯の砂や砂礫の上で発芽し、雨が降って周囲に水が供給されたときに速やかに根を伸ばすものと考えられている。 東アジアから南アジアにかけて温暖な地域に分布する。日本では、房総半島南部、三浦半島、伊豆半島南岸、渥美半島、紀伊半島南岸、四国太平洋岸、山口県南西岸、九州沿岸、壱岐など、主に黒潮に直面した沿岸部の砂丘で自生している。ハマオモトは、黒潮の影響を受けて南方から侵入する生物の典型的な分布域を示していると考えられ、その分布北限は年平均気温15℃の等温線および年最低気温の平均-3.5℃の等温線とほぼ一致する。小清水卓二は1938年にこれを一つの分布境界線と見なし、ハマオモト線(Crinum Line)と呼んだ[1]。イネの害虫・サンカメイガの分布北限より提唱された分布境界線である本州南岸線も年最低気温の平均-3.5℃の等温線とほぼ合致しており、ハマオモト線と本州南岸線はほぼ同一のものと見なされている。この、年最低気温の平均-3.5℃の等温線を分布の北限とする植物としては、ナチシダ、イヌガシなどが知られている。 市町村の花[編集] 以下の市町村で市の花・町の花に指定されている。 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、ハマユウに関連するメディアがあります。

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コノテガシワ – Wikipedia

コノテガシワ(側柏、学名:Platycladus orientalis)は、ヒノキ科の植物の1種[5]。コノテガシワ属唯一の現生種である。 和名コノテガシワは、「児の手ガシワ」の意で、葉を子供が手のひらを垂直に立てたような形に見立てて名付けられたものである。また「カシワ」は、米を蒸して調理する上下に組み合わさる壷状の道具から、上にのせられた穴あきの壷に入った米が、湯を沸かす下の壷に落下しないように、上の壷穴にコノテガシワの葉を詰める用として使われたことによる[7]。「カシワ」の語源は、炊(かしぐ)葉という意味で、昔はこの葉で料理を盛り付けたり、蒸したりするときに使われたことに由来する[7]。 中国植物名(漢名)は側柏(そくはく)。ヒノキ科の植物であるが、和名の中にブナ科の「カシワ」が使われているのは、漢名に「柏」の字が使われているからではないかとする説も言われている[9]。中国では、「柏」はヒノキのなかまを意味する語である[7]。 中国北部の原産といわれ、韓国、中華人民共和国北部に分布する。庭木、生け垣、鉢植えなどでよく見かける。 常緑針葉高木または低木で、高さは高いもので10メートルほどになる。枝は密に出てほぼ直立し、枝葉はヒノキによく似た形であるが、手のひらを立てたようなつきかたをして、葉の表も裏も同じ緑色で、表裏の区別が無い[注釈 1]。雌雄異花で、花期は3 – 4月頃。花は目立たず、雌花は淡紫緑色、雄花は黄褐色である。5月ころになる球果は目立ち、角のある独特の形で淡灰青色になる。根の発達は良好で、風の強い地域でも倒伏しがたい[11]。成長も早く安価で流通する[11]。葉は、冬は赤銅色に染まり、春になると黄金色となる。芽吹く力が強いのが特徴で、幹だけになるような強い剪定をしても再び芽吹くことが知られている[11]。 日本ではこんもりと丸みを帯びた樹幹の小低木となる園芸品種のセンジュ(千手)が広く普及しており、公園木、庭木としてよく栽培されている。病害虫に強く、鉢栽培でも独特の姿が楽しめる[11]。挿し木はやや困難[11]。日光と水分を好むが、日陰と寒冷は好まない[11]。庭や生け垣などでは、樹形を整えるために年に1 – 2回ほど刈り込まれる。 園芸品種[編集] Platycladus orientalis’Collen’s Gold'(‘Collens Gold’)’コレンス・ゴールド(コリンズゴールド) – 高さ6-8m程度までに成長するが[5]、横幅は1m程度に収まる細長い品種[11]。鉢栽培にはあまり向いていない[11]。新芽は黄金色で、冬でもあまり変色しないがやや茶色を帯びる[5]。 Platycladus

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平成26年台風第19号 – Wikipedia

平成26年台風第19号(へいせい26ねんたいふうだい19ごう、アジア名:Vongfong、命名:マカオ、意味:スズメバチ、フィリピン名:Ompong[1])は、2014年(平成26年)10月3日に発生した台風であり、各地で風雨による影響が出た。 9月30日にマーシャル諸島付近で形成が始まった低圧部が熱帯低気圧へと成長し、10月2日に合同台風警報センター(JTWC)によって低気圧番号19Wを与えられた。19Wは成長を続け、3日21時(協定世界時3日12時)にマーシャル諸島の北緯8度55分、東経157度35分で台風となり[2]、アジア名ヴォンフォン(Vongfong)と命名。太平洋上を北西に進んだ台風は5日から6日にかけてグアムとマリアナ諸島に大雨と強風をもたらした[3]。 台風は7日から8日の24時間で気圧を65ヘクトパスカル低下させるなど急速に勢力を強め[4]、中心気圧900ヘクトパスカル、中心付近の最大風速60メートル、最大瞬間風速85メートルまで成長した[5]。この急発達は平成25年台風第28号以来である。7日にはフィリピンの監視エリアに達したため、フィリピン大気地球物理天文局(PAGASA)によってフィリピン名オンポン(Ompong)と命名された[6]。台風は9日頃から進路を北寄りに変え、わずかに勢力を弱めながら時速10〜15キロ程の速度を維持したまま沖縄諸島に接近、12日0時半頃に沖縄本島付近を通過した[7]。12日夜から進路を東寄りに変えた台風は速度を上げながら13日8時半頃に鹿児島県枕崎市付近に上陸[8]。その後、同日14時半頃に高知県宿毛市付近に再上陸して[9]、四国を横断。19時半頃に兵庫県淡路島を通過。20時過ぎに大阪府泉佐野市付近に再上陸。日本列島上を東進して14日早朝に福島県南相馬市から太平洋上に抜けたのち[10]、同日9時(協定世界時14日0時)に三陸沖の北緯39度・東経143度で温帯低気圧になった[11]。 気象状況[編集] 内閣府の資料[12]を基に作成する。 大雨[編集] 沖縄・奄美と西日本から北日本にかけての太平洋側を中心に大雨や暴風となり、海上は猛烈なしけとなった。 1時間雨量 兵庫県洲本市(洲本):83.0ミリ(10月13日18時54分まで) 大阪府田尻町(関空島):79.0ミリ(10月13日19時23分まで) 24時間雨量 沖縄県国頭村(国頭):514.0ミリ(10月13日19時23分まで) 宮崎県美郷町(神門):498.0ミリ(10月13日19時23分まで) 暴風[編集] 最大瞬間風速 沖縄県南城市(糸数):49.7m/s(10/11日10時01分) 沖縄県うるま市(宮城島):48.3m/s(10/11日14時53分) 最大風速 沖縄県うるま市(宮城島):35.1m/s(10/11日14時39分) 沖縄県南城市(糸数):33.3m/s(10/11日13時32分)

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エドアルド・ペッシェ – Wikipedia

エドアルド・ペッシェEdoardo Pesce 2014年撮影 生年月日 (1979-09-12) 1979年9月12日(42歳) 出生地 イタリア ローマ 職業 俳優 ジャンル 映画、テレビ 活動期間 2006年 –   受賞 ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞助演男優賞『ドッグマン』(2019年) ナストロ・ダルジェント賞主演男優賞(イタリア語版)『ドッグマン』(2018年(イタリア語版))

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インハウスローヤー – Wikipedia

インハウス・ローヤーあるいは組織内弁護士・企業内弁護士 (英語: In-house lawyer) (単にインハンスとも)とは、企業・官公署等の公私の事業体(弁護士法人を除く。)において役職員として勤務する弁護士をいう。特に、企業に所属するものを企業内弁護士と、行政庁に所属する者を行政庁内弁護士という。 日本には2019年12月現在、約2600名のインハウスローヤーが存在する[1]。インハウスローヤーが自ら設立運営する日本組織内弁護士協会という任意団体が存在し、日本におけるインハウスローヤーの普及促進活動を行っている。 インハウスローヤーが最も普及しているアメリカには約18万人弱のインハウスローヤーが存在し、そのうち9万人が連邦政府や州政府、市役所などに、約8万人が企業に所属しているとされている[2]。アメリカのインハウスローヤーによって組織されている組織は複数あるが、最大のものがACC (Association of Corporate Counsel、企業内弁護士協会) であり、この団体には約15,000人のインハウスローヤーが会員登録している。 アメリカにおいては企業の法務のトップが弁護士ではないことはあり得ないとされ、企業法務担当役員(英語: Chief Legal Officer, CLO)も弁護士が務める[3]。 企業内弁護士[編集] 企業内弁護士(きぎょうないべんごし)は、企業の社員、または役員として当該企業の法務に従事する弁護士の総称。企業内では法務部といった特定部署に所属することが多い。 アメリカの企業における法務部(Legal

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