Month: August 2020

名鉄キハ10形気動車 – Wikipedia

キハ10形気動車(キハ10がたきどうしゃ)は、かつて名古屋鉄道(名鉄)で使用された、LE-Carタイプの気動車(レールバス)である。 本項ではキハ10形の改良型であるキハ20形気動車、LE-DCタイプのキハ30形気動車についても記述する。また、上記3形式の他社譲渡後の動向についても扱う。 レールバス導入の顛末[編集] 名鉄は、戦前から戦中の企業統合によって愛知県・岐阜県にまたがる広大な路線網を有するようになったが、その中には閑散線区も多く含まれており、モータリゼーションの進展で利用者が著しく減少する区間も目立ってきた。名鉄ではその打開策として当時富士重工業で試作中だったLE-Carに目を付け、電化設備撤去による設備費の削減を検討し始めた。 名鉄は全線が電化された電鉄会社であったものの、国鉄高山本線に直通する特急「北アルプス」に充当される気動車の運用実績があり、運転士の操縦免許や気動車の保守に対する社内の抵抗感はさほどなかった。現場が不安視したのはLE-Carの輸送力や一軸台車の乗り心地、性能不足からダイヤが維持できるかどうかといった点であり、運行コストも電車の単行運転とした方が有利という声も上がった。当時の会社上層部は「新車が入ればお客様に喜んでもらえる」とレールバス導入に乗り気だったが、車両課の柚原誠(後の名鉄副社長)は発注の条件として八百津線(八百津支線)で試作車の走行試験を行うことを提案した。 富士重工業の試作車であるLE-CarIIの走行試験を八百津線で実施した結果、運転時分は電車よりもかかるがその所要時分によるダイヤの維持は可能と判断された。乗り心地に関しては長周期のヨーイングが観測されたものの、上層部は一軸台車である以上ある程度はやむを得ないものとし、総合して八百津線へのレールバス導入に決定的な問題点はないと結論付けた[注釈 1]。 こうしてレールバスの発注が決まり、1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)に投入されたのがキハ10形である。その後の1987年(昭和62年)には二軸ボギー台車に変更したキハ20形が、1995年(平成7年)にはキハ10形の置き換えを目的にキハ30形が導入された。運行区間は試験を行った八百津線を皮切りに広見線(新可児駅 – 御嵩駅間)、三河線(西中金駅 – 猿投駅間、碧南駅 – 吉良吉田駅間)と拡大し、広見線を除く各線区の電力供給設備を撤去して経費削減を図った。 しかしそれでも乗客数減少の歯止めをかけることはできず、2001年(平成13年)10月には八百津線が、2004年(平成16年)3月には三河線西中金駅 – 猿投駅・碧南駅 – 吉良吉田駅間が廃止され、役割を失ったレールバスは全車が運用を離脱した(広見線新可児駅 –

Continue reading

こうもり (オペレッタ) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “こうもり” オペレッタ – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月) 『こうもり』(ドイツ語: Die Fledermaus)は、ヨハン・シュトラウス2世が1874年に作曲し、同年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演された全3幕のオペレッタである。 原作:ロデリヒ・ベンディックスの喜劇『牢獄』(1851年)に基づいて、アンリ・メイヤックとリュドヴィック・アレヴィが書いた喜劇『夜食』(1872年) 台本:カール・ハフナーとリヒャルト・ジュネがメイヤックとアレヴィの原作を手直しした 作曲時期:1874年 初演:1874年4月5日、アン・デア・ウィーン劇場 数あるウィンナ・オペレッタの中でも最高峰とされる作品で、「オペレッタの王様」ともよばれる。ヨハン・シュトラウス2世特有の優雅で軽快なウィンナ・ワルツの旋律が全編を彩り、その親しみやすいメロディーは全世界で愛されている。なお、台本には日付の設定はないが、ウィーンをはじめドイツ語圏の国々の歌劇場では大晦日恒例の出し物となっている。 歌手の歌の配分が比較的均等であり、合唱の活躍場面も比較的多いため、華やかにオールスターを並べることが可能である。ソロパートは8人だが、歌の上では軽い役であるフランク所長を高名なベテランが歌うことが慣例化しており、おおむね7人までスターが並ぶ。三重唱を1曲歌うだけのブリント弁護士のみは脇役専門のブッフォテナーの持ち役だが、ここに往年のスター歌手を起用した例もある。また、ドラマ上は脇役のアデーレに最も多くソロが用意されているため、主役級のロザリンデよりも格上のスターがあてられるケースが珍しくない。 ウィーン国立歌劇場では毎年年末年始に公演が組まれており、大晦日の国立歌劇場の『こうもり』と年始のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のウィーンフィル・ニューイヤーコンサート(大部分がシュトラウス作品)がウィーンでの恒例行事となっている。オーケストラは各70人前後の二手に分かれて、二つのシュトラウス・プログラムに従事する。ドイツ圏の他の歌劇場またそれ以外の歌劇場でもこれにならっているところがある。 もっとも、かつてのウィーン国立歌劇場(ウィーン宮廷歌劇場)は格式を重んじてオペレッタの上演は原則的に行わなかった(それ以前にはシュトラウスの『騎士パズマン』をオペラという名目で初演)ため、『こうもり』については、初演20年後の1894年にシュトラウスのデビュー50周年を記念して、宮廷歌劇場の年金機関運営委員会の主催で上演されたのが初めてである。その後、1897年に当時の宮廷歌劇場総監督グスタフ・マーラーによって正式にレパートリーとなった。

Continue reading

旧国名 – Wikipedia

「旧国名」のその他の用法については「国名」をご覧ください。 旧国名(きゅうこくめい)は、令制国(これに準じて取り扱われる国も含み得る)名を指す明治以降の呼称。 令制国が行政体として機能しなくなってからも、その名称と区画は地理区分として長く用いられてきたが、明治以降は、戸籍や郵便などの地名表記から外されたため、急速に廃れることとなった。 現代では、離れたところにある同じ地名を区別する際に用いられる他、府県名が郡名や都市名に由来するものが大半であるため、それで呼ぶことを嫌う場合や地域において用いられている。たとえば、長野県を県庁所在地である長野市が所在する北信地方以外では意識的に「信濃」あるいは「信州」と呼ぶケースがある。 「旧」と付くが、それに代わる新しい国名というものがあるわけではない。国家としての国名との混同を避ける、もしくは戸籍や郵便などの地名の表記において、府県名が令制国名に代わるもののように使用されたために、そう呼ばれているだけである。ちなみに府県は藩に代わるものである(廃藩置県)。 また、法令によって廃止・禁止されたわけでもないので、現在も当然使用可能であり、「旧」と付ける必要もない。住所の表記としては、明治から昭和初期頃まで「神奈川県相模国三浦郡横須賀町」のように、道府県名と郡名の間に旧国名を入れる(従来の表記の頭に道府県名を付ける)表記方法が残存していた[1]。 旧琉球王国の領域は、1879年に沖縄県が設置された後も、「琉球国」との地名が旧国名と同様に用いられた。 旧国名対応表[編集] 現都府県名と旧国名の対応表。なお、現在の県境と完全には一致しないこともある。 東北地方[編集] 関東地方[編集] 中部地方[編集] 近畿地方[編集] 中国地方[編集] 四国地方[編集] 九州地方[編集] 地方区分(畿内+七道)[編集] 畿内[編集] 摂津+河内+和泉+山城(山背)+大和 東山道[編集]

Continue reading

イルファン・カフヴェジ – Wikipedia

イルファン・カフヴェジ(İrfan Kahveci 、1995年7月15日 – )は、トルコ・アヤシュ(英語版)出身の同国代表プロサッカー選手。フェネルバフチェSK所属。ポジションはMF。 クラブ経歴[編集] アンカラ郊外の町アヤシュで生まれ育ち、アンカラに本拠地を置くゲンチレルビルリイSKの下部組織でプレーを始めた。2012年4月のカイセリスポル戦でトップチームデビューを果たした[1]。 2016年12月26日、イスタンブール・バシャクシェヒルFKと4年半契約を結んだ[2]。2020年12月2日、UEFAチャンピオンズリーグのRBライプツィヒ戦でハットトリックを達成した(試合は3–4敗北)[3]。 2021年1月31日、フェネルバフチェSKに移籍[4]。契約は4年半で移籍金は700万ユーロ[5][6]。 2016年8月にトルコ代表初招集[7]。2018年3月23日、アイルランド代表とのフレンドリーマッチでトルコ代表デビューを果たした[8]。 2021年5月、UEFA EURO 2020参加メンバーに選出された[9]。グループステージ3戦目のスイス代表戦で、大会を通じてのチーム初得点となる代表初ゴールを決めた[10]が、チームはグループステージ最下位で大会を終えた。 代表戦での得点[編集] タイトル[編集] イスタンブール・バシャクシャヒル ^ “KAYSERISPOR VS. GENÇLERBIRLIĞI

Continue reading

加賀義二 – Wikipedia

かが よしじ 加賀 義二 生誕 1940年2月??日 日本 東京都世田谷区 出身校 慶應義塾高等学校慶應義塾大学経済学部 職業 テレビプロデューサー 雇用者 日本テレビ放送網 加賀 義二(かが よしじ、1940年2月[1] – )は、日本のテレビプロデューサー。慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業[1]。 目次

Continue reading

バミューダの旗 – Wikipedia

バミューダの旗 用途及び属性 ? 縦横比 1:2 制定日 1910年10月4日 使用色 青、赤、白、緑、ほか バミューダの旗(バミューダのはた)は、1910年10月4日に制定された。イギリスの商船旗レッド・エンサインを基にしたもので、左上(カントン部)にはユニオンジャックがあり、右の赤地の中央にはバミューダの紋章が描かれている。1999年までは紋章部分は現行の旗よりも若干小さかった。 紋章は赤いライオン(英国を表す)が盾を持って前を向いており、盾には嵐の中の難破船が描かれている。これは1609年にイギリス南西部のプリマスを出てバージニア植民地のジェームズタウンへ向かったバージニア会社の旗艦シー・ヴェンチャー号を表す。同船は大西洋横断の途中、ハリケーンらしき大嵐に遭って破壊され、バミューダに漂着した。シー・ヴェンチャー号に乗っていた船員や移民には嵐による死者はなく、島の木材とシー・ヴェンチャー号の廃材で新たな船を建造しバージニアへと向かった。これが、バミューダへのイギリスの植民の始まりであった。 イギリスの海外領土の旗の多くは政府の旗であるブルー・エンサインをもとにしているが、バミューダの旗は商船旗であるレッド・エンサインをもとにしている点が珍しい。同様にレッド・エンサインをもとにした旗を制定した海外領土や植民地には、1965年にメイプルリーフ旗を制定する以前のカナダ、および1910年から1928年までの間の南アフリカ連邦がある。バミューダの総督は、他のイギリス海外領土の総督旗と同様、バミューダの紋章を中央に配したユニオンジャックを総督旗として使用する。 バミューダ総督旗 バミューダ政府旗 歴史的な旗[編集] ?1875年から1910年まで用いていた旗 ?1910年から1999年まで用いていた旗 ?1910年から1999年まで用いていた政府旗 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、バミューダの旗に関連するカテゴリがあります。

Continue reading

ジュラシック・パーク/ラプター – Wikipedia

『ジュラシック・パーク/ラプター』(Jurassic Park: Raptor)とは映画『ジュラシック・パーク』のシリーズのコミック作品の一つ。。スティーブ・エングルハートによって描かれた。全2冊からなるストーリー構成になっている。Topps comicsから出版された。 続編として『ジュラシック・パーク/ラプターズ・アタック』、『ジュラシック・パーク/ラプターズ・ハイジャック』と続く。総集編の「Classic Jurassic Park Volume 2: Raptors Revenge 」にも収録。また『リターン・トゥ ジュラシック・パーク』にもストーリーが繋がっているところもある。 あらすじ[編集] イスラ・ヌブラル島のジュラシック・パーク事件のすぐ後に物語が始まる。 生き残ったイアン・マルカム博士は本土に戻り、病院で入院し、ジョン・ハモンドと孫のレックスとティムもハモンドの財産に戻った。アラン・グラント博士とエリー・サトラー博士はインジェン社はアメリカの企業なので、アメリカ陸軍のブラッドフォード・ウェスト将軍による独自にイスラ・ヌブラル島の状況を把握と調査をする為、ヴェロキラプトルに詳しい軍のベテラン恐竜の専門家ジェレマイア・フィッシャー博士らと共に軍のアドバイザーとして雇われ島に向かった。 しかし軍の真の活動の狙いは島にいるとされるヴェロキラプトルを全て殺し、卵を捜して、動物の科学的な実験を行って動物を取り戻すことであった。軍は島でティラノサウルス・レックスを見つけ戦車で包囲しようとするが、ティラノサウルスに追い払われる。グラントとエリーとウェスト将軍とフィッシャー博士との間で議論が起きるが、別々に行動し、グラントとエリーの2人は軍と離れて車でラプトルの巣自体を捜しに行くことにし、洞窟を見つけ、ジョージ・ラワラと言うBiosyn社に雇われ恐竜を捕獲しようとしていた男を発見するが、議論の末、彼は洞窟の奥に逃げ、若いラプトルの5匹を捕まえようと追う。5匹の若い子供のラプトルの母ラプトルに攻撃されるもラワラは母ラプトルを殺し、子供のラプトルの5匹を何とか捕らえケージに入れ貨物船で逃げ、グラントとエリーは後を追う。 その頃、ウェスト将軍とフィッシャー博士は2人が失踪に事に気づき、捜索の連絡を取る。中央アメリカにある港に着いたラワラは捕まえた暴れる若いラプトルの5匹を何とか貨物飛行機に乗せ輸送しようとする。グラントとエリーも飛行機に乗り込み、上空でケージが外れ暴れるラプトルに対応しようとするが、ラプトルが乗り乗組員を殺す。5匹中、2匹殺すが3匹のラプトルを乗せた飛行機はグラントとエリーにより何とか南米のコロンビアのジャングルに飛行機を不時着させる。 登場人物[編集] アラン・グラント博士

Continue reading

コールマン・ホーキンス – Wikipedia

コールマン・ホーキンス[1](Coleman Hawkins、1904年11月21日 – 1969年5月19日)は、アメリカ合衆国ミズーリ州出身のジャズ・サックス奏者。スウィング・ジャズ世代のミュージシャンとしては珍しく、第二次世界大戦後はビバップの分野で活躍し、サックス奏者に限らず、多くの後進ミュージシャンに影響を与えた。 1922年にニューヨークに進出し、当初はブルースの分野で活動。1923年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に加入。翌年、この楽団にルイ・アームストロングが加入。ニューオーリンズ・ジャズに根ざしたアームストロングのスタイルに影響を受け、ホーキンスも、荒々しさと洒落っ気を兼ね備えた演奏スタイルを確立。やがてフレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板奏者に成長していった。 1934年からはヨーロッパに渡り、ジャンゴ・ラインハルトやステファン・グラッペリとも共演。1939年に帰国すると、バンド・リーダーとして、後にスタンダード・ナンバーとなる「ボディ・アンド・ソウル」等を録音。 1940年代には、ビバップという新しいジャズが登場。ホーキンスもこの流れに注目し、セロニアス・モンクやマックス・ローチ等の若手を育てる。1957年、教え子的存在であるセロニアス・モンクのリーダー・アルバム『モンクス・ミュージック』に、ジョン・コルトレーンやアート・ブレイキーと共に参加。 1958年には代表作でもあるアルバム『ハイ・アンド・マイティ・ホーク』を、古くから親交のあったハンク・ジョーンズらと録音。 1960年前後には、トミー・フラナガン等と結成したレギュラー・カルテットで活動し、また、マックス・ローチやバド・パウエルのアルバムにも参加。1962年にはデューク・エリントンと共演。1963年には、ホーキンスの信奉者として知られるソニー・ロリンズと共演。 1960年代後半は活動が停滞し、1969年に肺炎で亡くなる。 ディスコグラフィ[編集] リーダー・アルバム[編集] 『ザ・ホーク・リターンズ』 – The Hawk Returns (1954年、Savoy) Timeless Jazz

Continue reading

九十七角形 – Wikipedia

九十七角形(きゅうじゅうしちかくけい、きゅうじゅうななかっけい、enneacontaheptagon)は、多角形の一つで、97本の辺と97個の頂点を持つ図形である。内角の和は17100°、対角線の本数は4559本である。 正九十七角形[編集] 正九十七角形においては、中心角と外角は3.711…°で、内角は176.288…°となる。一辺の長さが a の正九十七角形の面積 S は S=974a2cot⁡π97≃748.48261a2{displaystyle S={frac {97}{4}}a^{2}cot {frac {pi }{97}}simeq 748.48261a^{2}} 関係式 x1=2cos⁡2π97+2cos⁡72π97+2cos⁡70π97×2=2cos⁡10π97+2cos⁡28π97+2cos⁡38π97×3=2cos⁡50π97+2cos⁡54π97+2cos⁡4π97×4=2cos⁡56π97+2cos⁡76π97+2cos⁡20π97×5=2cos⁡86π97+2cos⁡8π97+2cos⁡94π97×6=2cos⁡42π97+2cos⁡40π97+2cos⁡82π97×7=2cos⁡16π97+2cos⁡6π97+2cos⁡22π97×8=2cos⁡80π97+2cos⁡30π97+2cos⁡84π97×9=2cos⁡12π97+2cos⁡44π97+2cos⁡32π97×10=2cos⁡60π97+2cos⁡26π97+2cos⁡34π97×11=2cos⁡88π97+2cos⁡64π97+2cos⁡24π97×12=2cos⁡52π97+2cos⁡68π97+2cos⁡74π97×13=2cos⁡66π97+2cos⁡48π97+2cos⁡18π97×14=2cos⁡58π97+2cos⁡46π97+2cos⁡90π97×15=2cos⁡96π97+2cos⁡36π97+2cos⁡62π97×16=2cos⁡92π97+2cos⁡14π97+2cos⁡78π97{displaystyle {begin{aligned}x_{1}=&2cos {frac {2pi }{97}}+2cos

Continue reading

津別森林鉄道 – Wikipedia

津別森林鉄道(つべつしんりんてつどう)は、北海道網走郡津別町内にあった森林鉄道。 1925年(大正14年)の国鉄相生線の全通を受け、他の北海道内の森林鉄道各線と同様、北海道庁拓殖部林務課によって建設が計画された。 計画当時、津別町の域内には28,000ヘクタールもの広大な国有林が存在し、良質なカラマツ材を産出したが、適切な輸送手段を欠いていた。 本鉄道はその問題を解決すべく計画されたもので、1926年(大正15年)5月に着工、翌1927年(昭和2年)に完成した。 管轄・運営は当初は網走営林区署津別森林監守駐在所が担当し、1947年(昭和22年)の林政統一後は林野庁北見営林局津別営林署が設置されて担当した。 路線は国鉄相生線津別駅に隣接して設けられた津別貯木場[1]から津別川に沿って津別国有林内に至る延長21.4kmの本線と、国有林内に展開された延長22.4kmの本線延長区間、それに作業軌道などで構成され、軸配置Cの10t級タンク式蒸気機関車が開業時に2両[2]、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)にかけて3両[3]、それぞれ導入され、戦後の無煙化まで使用された。 本鉄道は開業以来国有林の豊富な森林資源を背景として順調に運行されていたが、戦後、1954年(昭和29年)5月と同年9月に北海道を襲った低気圧および台風15号によって、本鉄道を取り巻く状況は一変した。 これらの災害により、道内、特に北見営林所管内の森林を中心に伐採適齢期の高齢木が大量になぎ倒され、当該各地域の森林鉄道はその風倒木処理とその輸送に本鉄道はフル稼働を強いられたのである。 この風倒木処理の過程では、1955年(昭和30年)以降北見営林局管内の森林鉄道各線について、協三工業製10t級ディーゼル機関車が本州の各営林署からの応援分も含め大量導入された。本鉄道についても1956年(昭和31年)にディーゼル化され、1957年度(昭和32年度)には開業以来の蒸気機関車が全廃されるなど、近代化が急速に進展した。 しかし、倒木処理が一段落付いた後は津別国有林内の伐採可能な高齢木が皆無に等しくなったため輸送量が激減し、1963年(昭和38年)5月にトラック輸送への転換の上で全線廃止された。 廃止後の状況[編集] ほとんどが畑・道路になっている。ごくわずかに橋脚が残る。 なお、本鉄道で使用された協三工業製ディーゼル機関車の内1両は、本鉄道の廃止後1964年(昭和39年)4月に北見営林局津別営林署から長野営林局上松運輸営林署へ移管され、No.141として1975年(昭和50年)5月30日の王滝森林鉄道廃止まで在籍した。 その後は同年12月をもって車籍抹消されたが、群馬県沼田市の林野庁森林技術総合研修所林業機械化センターに収蔵・展示され、現在は修復作業中に判明した新造時の塗色と見られる濃紺一色の姿に復元の上、保存されている。 ^ 1928年(昭和3年)設置。 ^ ドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル社製サイド・ウェルタンク機関車。 ^ 北海道内の中山鉄工所およびその後身の中山機械製サイドタンク機関車。ただし内2両は1938年(昭和13年)に上札鶴森林鉄道へ転属、さらにその内1両が戦後、本鉄道へ復帰している。

Continue reading