Month: August 2020

謝淵 – Wikipedia

謝 淵(しゃ えん、? – ?)は、中国三国時代の呉の武将。字は休徳[1]。揚州会稽郡の人。 若いときから徳行につとめた。みずからも耒耜をとって農耕に従事したが、そのような境遇にも悲しむような顔つきもみせず、また将来への志を変えることもなく、そうしたことから謝淵の名が人々に知られるようになった。孝廉に推挙され、やがて建武将軍にまで昇進した。 赤烏初年頃、謝淵や謝宏らは、それぞれに時務についての対策を上陳し、国家が中心となって経済活動を盛んにするため、制度の改革を行うようにと願い出た。このことについて孫権が陸遜に下問すると、陸遜は「国家の根本は民衆であり、国家の強大さは民力を背景とし、財貨も民衆の手によって生み出されるのでございます。そもそも民衆が豊かでありながら国が弱いとか、民衆が痩せ衰えていながら国が強いといった例は、これまでにもございませんでした。それゆえ、国を治める者は、民衆の心を得れば国は治まり、その心を失えば国は乱れるのであって、民衆たちに利を分け与えずにおいて、しかも彼らの力を十分に引き出して役立たせようとするのは、まったく困難なことでございます。だからこそ『詩経』(大雅・仮楽篇)には[民に宜しく人に宜しければ、禄を天より受く]と賛嘆しておるのでございます。どうかご聖恩をお垂れくださり、万民たちの安寧をお計りくださいますように。数年のうちには、国家の財政もいささかは豊かになりましょうから、そのうえでもう一度、計画をご検討くださいますように」と述べたため、謝淵や謝宏らが薦めた経済活動のための制度改革はひとまず保留となった[2]。 謝淵は軍旅の中にあっても、有能な人物を見出すことに心をくだいた。駱統の子の駱秀という者がいたが、一族の者たちから謗りを受け、人々の評判もそれに惑わされて、誰も駱秀の潔白を証明してやれる者がいなかった。謝淵は、このことを聞くと嘆息していった。「公緒(駱統)どのが若くして死なれたとき、同盟国(蜀)の者までがその死を悲しんだものであった。聞けば、そのご子息は、志ある行動と立派な議論の才をそなえておられながら、愚昧な連中の謗りを受けておられるとのことだ。立派な方々がそれにきっぱりと白黒をつけてくださるものと願っていたのに、みな心を決めかねている。期待外れもいいところだ」駱秀は、結局無実であることが明らかになり、それ以後、その行動に非難すべきところもなく、ついには名の通った人物となったが、それには謝淵の力があずかっていたという[3]。 参考文献[編集]

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キビヒトリシズカ – Wikipedia

キビヒトリシズカ (吉備一人静、学名: Chloranthus fortunei) は、センリョウ科チャラン属に属する多年草の1種である。茎の先端付近にふつう4枚の葉が輪生状につき、中央から白いブラシ状の花序が1本伸びる。花は花被を欠き、細長い3本の雄しべの葯隔が白く目立つ。日本を含む東アジアに分布する。ヒトリシズカに類似するが、雄しべの葯隔がより長い。日本では初めに岡山県 (吉備国) で発見されたため、「キビヒトリシズカ」の名がつけられた[3]。有毒であるが、中国では薬用に利用されることがある[3][4]。日本では絶滅危惧II類に指定されている (2020年現在)。 短い地下茎から、数本の茎が直立する多年草であり、高さ 15–50 cm[3][5]。茎の下部3–4節には三角形の鱗片葉がつき、上部の2節 (ときに3節) に大型の葉が十字対生する[3][5] (下図1a)。大型の葉がつく節間はふつうごく狭いが、ときに 1–6 cm になる[5]。葉の葉柄は 1–2.5 cm、葉身は広楕円形から卵状楕円形、5–13 ×

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院政期文化 – Wikipedia

院政期文化(いんせいきぶんか)は、平安時代末葉の11世紀後半から、鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、貴族の衰退と武士の伸長という過渡期であり、文化面でも新しい動きがみられた。 「皮聖」と呼ばれた平安時代中期の聖、行円 院政期は、治天の君による日本仏教保護政策などによって寺社の世俗化が大いに進展した時期であったが、その反面、この状況をきらって特定の寺院に属さない「聖」や「上人」とよばれる民間布教者があらわれ、とくに浄土教の教えを京の外まで広めていった時期である。 京と琵琶湖岸の要津坂本とをつなぐ白河の地には六勝寺が建ち並び、北野神社とその周辺、さらにまた、多くの離宮が建てられた鳥羽周辺の京都南郊もまた宇治川や淀川と結びついて新たな都市的空間となりつつあった。当時の京都は、このように全体として新都市の様相を呈しており[1]、そこでは王権の強化にともなう各種の美術品の創作がみられた。院は、古代国家の復活を願ったところから、その芸術には復古的な傾向がうかがわれ、離宮や御所の宝蔵には国内外の宝物が集められ、王権はさまざまな形で表現された[2]。地方の文物はかつてないほど都に流入していったのである。 中央の文化も広く地方へ伝播していった。それはおもに奥州平泉の中尊寺金色堂、陸奥の白水阿弥陀堂、伯耆の三仏寺投入堂、豊後の富貴寺大堂など、寺院建築の遺構にその傾向が顕著にうかがえる。また平清盛ゆかりの安芸の厳島神社も当時の地方の文化水準の高さを物語る。 没落しつつある貴族層の関心が、庶民や新興階級である武士に向かったのも院政期であった。それは、軍記物の執筆や説話集の編纂、また、新しい絵画ジャンルである絵巻物の画題などにもよくあらわれている。さらに、後白河法皇による『梁塵秘抄』の編纂や、芸能化され貴賤問わず大流行した田楽のように、貴族と庶民の文化交流も広汎にみられた。その一方で『栄花物語』など懐古的傾向をもつ歴史物語もつくられた。和歌にも新傾向がみられる。 日本語の上でも平安中期とは違いが見られる。山田孝雄は平安時代のうちから院政期を分け、むしろ鎌倉時代と違いがないとし、「院政鎌倉時代」という言語上の時代区分を設け[3]、それは現在広く受け入れられている。日本の国語教育の「古文」で教えられる古典文法の活用体系や係り結びの法則、47文字の仮名の区別は平安中期のものを基準としているが、院政期はこれらが崩れてくる時期ととらえられる。「お」と「を」の間に音韻上の区別がなくなったのも11世紀末頃と考えられている[4]。 院政期文化は総じて、貴族の文化的関心が都での現実生活から、地方、庶民、過去(歴史)へと向かう傾向が顕著であり、また、武士・庶民文化の萌芽もみられる点を大きな特色としている。 仏教の動向[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “院政期文化” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) 末法思想の広がりと浄土教[編集] 仏教では釈迦の没後を、正法・像法・末法の3時代に区分している。末法思想とは、こうした時代区分にもとづく仏法衰滅を説く宿命的歴史観であり、平安時代中葉には、日本仏教で正法・像法各千年説が有力となって永承7年(1052年)が末法の初年と考えられた。

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ね、がんばるよ。 – Wikipedia

「ね、がんばるよ。」は、KinKi Kidsの19枚目のシングル。2004年1月15日発売。発売元はジャニーズ・エンタテイメント。 本作は初めてロケでのPV撮影が行われておらず、楽曲の映像が放送される際には、2003年12月から2004年1月1日まで開催されたコンサート「KinKi Kids 24/7 G Tour」での初披露のライブ映像を中心に、CD音声を組み合わせ、映像加工などを施したものをPVとして放送していた。このPVは2011年発売のアルバム「K album」の初回限定盤DVDに収録された。 初回盤と通常盤ではジャケット違い、収録曲違いがある。本作は初回盤には堂本光一と堂本剛のそれぞれのボーカルを抜いたカラオケが収録されている。これは初めての試みであり、通常のカラオケは存在していない。通常盤には代わりに新曲を収録している。 チャート成績[編集] オリコン週間ランキングで、初週22.3万枚を売り上げ、初登場1位を獲得した。CD累計売上は32.7万枚(オリコン調べ)を記録した[1]。 初回盤[編集] ね、がんばるよ。 (作詞:吉田美和 / 作曲:吉田美和・中村正人 / 編曲:Ike Nelson・中村正人 /

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ヒイラギ科 – Wikipedia

ヒイラギ科 タイワンヒイラギ Eubleekeria splendens 分類 英名 PonyfishSlipmouthSlimy 属 7属・44種(本文参照) ウィキスピーシーズにヒイラギ科に関する情報があります。 ヒイラギ科 Leiognathidae は、スズキ目・スズキ亜目の下位分類群の一つ。強く側扁した体型・退化的な鱗・口の伸出・発音・発光・各鰭の棘条の発達などを特徴とする、インド太平洋産の沿岸魚のグループである。これまでに7属・44種ほどが分類されている。 成魚の全長は数cmほどのものから30cmに迫るものまで種類によって異なる。体は左右から押しつぶされたように側扁し、広葉樹の葉状、もしくは円盤状になる。体はほぼ銀白色だが、種類によって体側に縞模様や斑点が出る。鱗は退化的で小さく、頭部や体の前半部に鱗が無い部分をもつ。無鱗部の区域がどこまで広がるかは同定のポイントにもなる。鱗は発達しないが体表には粘液が分泌され、ヌルヌルしている。英名の一つ”Slimy”はここに由来する。 背鰭と腹鰭の基底は長く、尾鰭の直前まで体の後半部を縁取る。背鰭・腹鰭・尻鰭の前端部にある棘条はどれも鋭く発達し、種類によっては角状に長く伸びる。 口は小さいが、唇は前方に筒のように伸ばすことができる。普段は口内に折り畳んであるが、餌を捕る時は大きく前に突き出して餌を吸い込む。英名の”Slipmouth”(滑る口)、”Ponyfish”(ポニーの魚)はこの口の形状に由来する。また、前上顎骨と額骨を摩擦して発音する。 食道周辺に発光バクテリアを共生させ、暗所で発光する。発光層の周囲には反射層とレンズもある。発光バクテリアによる発光をする魚は光の明滅ができないものもいるが、ヒイラギ科魚類は明滅ができる。 生態[編集] 全種がインド太平洋の熱帯・温帯海域に分布する。地中海で1種類 Equulites

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諫早市立上諫早小学校 – Wikipedia

諫早市立上諫早小学校(いさはやしりつ かみいさはやしょうがっこう)は、長崎県諫早市本明(ほんみょう)町にある公立小学校。 歴史 1907年(明治40年)に開校した「丸尾尋常小学校」を前身とする。2017年(平成29年)に創立110周年を迎える。 学校教育目標 「やさしく、かしこく、たくましく」 校章 太陽[1]と2つの勾玉を組み合わせたものを背景にして、中央に校名(略称)の「上小」の文字(縦書き)を置いている。 校歌 作詞は田島日路樹、作曲は池田松洋による。歌詞は3番まであり、両番に校名の「上諫早」が登場する。 校区 住所表記で「諫早市」の後に「本明町、目代町」が続く地域。中学校区は諫早市立北諫早中学校[2]。 前史 旧・下本明尋常小学校 1874年(明治7年)10月29日 – 下本明村の「下本明小学校」が正式に長崎県によって「第五大学区長崎県管下第一中学区の小学校」として認可される[3]。 1886年(明治19年)9月 – 小学校令の施行により、尋常科(修業年限4年)を設置の上、「尋常下本明小学校」に改称。

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ミシェル=リー・アイ – Wikipedia

ミシェル=リー・アイMichelle-Lee Ahye リオデジャネイロオリンピックにて 選手情報 国籍 トリニダード・トバゴ 競技 陸上競技 種目 100 m, 200 m 生年月日 (1992-04-10) 1992年4月10日(29歳) 生誕地 トリニダード・トバゴ ポートオブスペイン 居住地

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ロバート・ディグビー (第3代ディグビー男爵) – Wikipedia

第3代ディグビー男爵ロバート・ディグビー(英語: Robert Digby, 3rd Baron Digby、1654年4月30日 – 1677年12月29日)は、イングランド王国の政治家、アイルランド貴族。1677年に庶民院議員に当選したが、一度も登院しないまま同年に死去した[1]。 第2代ディグビー男爵キルデア・ディグビーと妻メアリー(Mary、旧姓ガーディナー(Gardiner)、1692年12月23日没、ロバート・ガーディナーの娘)の次男(長男ロバートは1653年4月22日に生まれ、7月11日に夭折)として、1654年4月30日に生まれた[2]。1661年7月11日に父が死去すると、ディグビー男爵位を継承[2]、同時にコーゾル(英語版)の地所やアイルランドでの領地(両者合わせて年収約3,500ポンドを得られる)を継承した[1]。1670年11月6日にオックスフォード大学モードリン・カレッジに入学した[3]。1673年から1676年まで海外を旅した後[1]、1676年7月11日にM.A.の学位を修得した[3]。 1677年5月、第5代ブルック男爵フルク・グレヴィルの支持を得てウォリック選挙区(英語版)から出馬、当選を果たした[4]。しかし、ディグビー男爵は議会に一度も登院しないまま[1]、1677年12月29日に死去、コーゾルで埋葬された[2]。生涯未婚であり、弟サイモンが爵位を継承した[2]。 ^ a b c d Mimardière, A. M. (1983). “DIGBY,

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三宅則義 – Wikipedia

三宅 則義(みやけ のりよし、1899年6月19日[1] – 1979年9月3日[2])は、日本の税理士、政治家。衆議院議員(1期)。 目次 1 経歴 2 著作 3 脚注 4 参考文献 愛知県出身[2]。1923年日本大学商学部卒[2]。計理士、税理士、司法書士の業務に就く[2]。全日本計理士協会理事、日大学士会理事長、東京都立第五実業学校高等科講師、日大講師、日本監査協会理事長、東京税理士会副会長、日本税理士会常務理事、全国計理士会議長を務める[2]。 1943年の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが[3]、落選した。1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知2区(大選挙区)から日本自由党公認で立候補するが次点で落選[4]。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において愛知4区から日本自由党公認で立候補するも落選[5]。1949年の第24回衆議院議員総選挙で民主自由党から立候補して当選した[5]。この間民主党政調会決算部長、総務委員を務めた[2]。1952年の第25回衆議院議員総選挙で落選[5]。1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から立候補して落選した[5]。 このほか東京、日本各税理士会会長、自由民主党前国会議員会常務理事、日本監査協会会長を務めた[2]。1979年死去。 『三宅会計学講義 : 誰れにも、わかる実際と応用』東京泰文社、1934年。 ^

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