Month: March 2021

北條舒正 – Wikipedia

北條 舒正(ほうじょう のぶまさ、1923年2月1日 – 2021年3月15日)は、日本の化学者。専門は高分子化学。 福岡県戸畑市(現・北九州市戸畑区)出身。1945年大阪帝国大学応用化学科卒業、1949年旧制上田蚕糸専門学校助教授、1960年から1年間ニューヨーク州立大学化学教室で研究に従事し、1962年信州大学繊維学部教授、1975年学部長、1981年学長、1990年長野県短期大学学長を歴任。1991年繊維学会会長。1999年勲二等旭日重光章受章。 「キレート樹脂・イオン交換樹脂」 講談社 1976年 「絹糸の構造 (続)」 信州大学繊維学部 1980年 生体と金属イオン」(白井汪芳, 金子正夫と共著)学会出版センター 1991年 所属アカデミー[編集] 日本化学会会員 イギリス王立化学会終身会員 アメリカ国立地理学会会員

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日本とアイルランドの関係 – Wikipedia

日本とアイルランドの関係または日愛関係(英語: Ireland–Japan relations、アイルランド語: Caidreamh idir Éirinn agus an tSeapáin)は、アイルランドと日本との間の外交関係である。両国は経済協力開発機構に加盟している。 両国の比較[編集] アイルランド人が日本を訪れた最古の記録は、1704年7月に九州沖でアイルランド人船員ロバート・ジャンセンが捕らえられた時に遡る。ジャンセンと5人の仲間は、フィリピンのオランダ東インド会社から脱出し、広東(現在の広州)を目指して小舟で出港した。当初、ヤンセンらはポルトガル人宣教師ではないかと疑われ、1704年11月まで拘束されていたが、最終的に釈放され、オランダ領東インド諸島のバタビア(現在のジャカルタ)行きのオランダ船に合流することが許された[5]。 アイルランドと日本の最初の接触は、1872年12月、イギリス訪問中の岩倉使節団がダブリンを訪れた事から始まった[6]。 明治維新後、アイルランド人男女が日本に移住し、さまざまな分野で活躍した。アイルランドの作家ラフカディオ・ハーン(日本名: 小泉八雲)は日本に移住し、日本についての本を書いている[6]。 明治時代には、何百人ものアイルランドの修道女や司祭が来日、日本で生活し、働き、教育に携わった。また、第二次世界大戦中に日本に残ることを選んだアイルランド人の修道女や司祭もいる[5]。日本軍が英国軍を降伏させたシンガポール陥落の日にはIRAのリーダーがダブリンの日本領事館を訪れて別府節弥領事らと盛大な祝賀をしたほか、スイスのアイルランド大使公邸が極秘部屋を設けて日本から別府領事への送金の仲介をしてくれるなど好意を受けた[7][8]。 1957年3月、アイルランドと日本は正式に国交を結んだ。日本はアイルランドが東アジアではじめて国交を結んだ国である[6] 。同年、両国はお互いの首都に公使を任命した。1964年、日本はダブリンの公使館を大使館に昇格させ、在アイルランド日本国大使館となる。1973年、アイルランドは東京に駐日大使館を開設した[9]。 1983年9月、パトリック・ヒラリー大統領がアイルランドの国家元首として初めて日本を訪問した[6]。 1985年、日本の皇太子明仁親王と美智子皇太子妃がアイルランドを訪問した[6]。 皇太子夫妻はその後、2005年に天皇・皇后としてアイルランドを訪問した[9]。

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リエネ松前風力発電所 – Wikipedia

リエネ松前風力発電所 日本におけるリエネ松前風力発電所の位置 国 日本 所在地 北海道松前郡松前町 座標 北緯41度25分43.3秒 東経140度04分33.3秒 / 北緯41.428694度 東経140.075917度 / 41.428694; 140.075917 (リエネ松前風力発電所)座標: 北緯41度25分43.3秒 東経140度04分33.3秒 / 北緯41.428694度

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藤島桓夫 – Wikipedia

藤島 桓夫(ふじしま たけお、1927年10月6日 – 1994年2月1日)は、日本の演歌歌手。本名:坂本 義明。愛称はオブさん。藤島恒夫と表記されることがあるが誤り。鼻から頭の先に抜けるような独特の高音と渋みのある低音を織り交ぜた歌唱、粋なマドロス姿や着流し姿で多くのファンに愛された。 大阪府大阪市西成区出身。大鉄高校卒業後、大阪府内の電話局勤務を経て、1950年に「あゝ東京へ汽車は行く」でタイヘイレコードからデビュー。1954年、「初めて来た港」がヒット。以後、「かえりの港」「さよなら港」などの港シリーズで一世を風靡。 1956年、「かえりの港」でNHK紅白歌合戦に初出場。紅白歌合戦には7回連続出場している(詳細は下記参照)。 1957年には「お月さん今晩は」がヒットし、マドロス(船乗り)物以外でもヒットが出ることを証明。1960年、設立当時の東芝レコードに引き抜かれる形で移籍した。同年、「月の法善寺横町」が大ヒット。この曲は藤島の最大のヒットとなった。ちなみに実際の地名は「法善寺横丁」だが曲名は「法善寺横町」となっている。その後も長く活躍を続け、1980年にはデビュー30周年記念全国縦断公演を行った。1992年、第34回日本レコード大賞功労賞を受賞。 1994年1月10日に倒れ、2月1日、高血圧性脳出血のため死去。66歳没。同年、勲四等瑞宝章追贈。 「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一 作曲:星幸男(遠藤実)) 1952年 初版レコードには「作曲:清水網雄」と記載されている。その事情については遠藤実#人物を参照。 「たった一言なぜ云えぬ」(作詞・作曲:小池青磁) 1954年 「初めて来た港」(作詞・作曲:豊田一雄) 1954年 「かえりの港」(作詞・作曲:豊田一雄) 1955年 「さよなら港」(作詞・作曲:豊田一雄)

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アンジェラ・磨紀・バーノン – Wikipedia

アンジェラ・磨紀・バーノン(Angela Maki Vernon、1980年3月24日 – )は、女性サーファー、タレント、ヨガインストラクター。 神奈川県横須賀市生まれ東京都育ち。ハワイ在住。 略歴・人物[編集] 神奈川県の横須賀基地で、日本人の母とアメリカ人の父の間に生まれる。兄が2人いる[1]。 16歳からサーフィンを始める。18歳まで日本のアメリカンスクールに通い、大学進学を機にハワイへ移住[2]。サーフィン雑誌のモデルやテレビ番組のパーソナリティ等幅広く活動し、ハワイではプロサーファー・カリスマロコサーファーとして活躍する。 2005年より、ボランティアサーフィンスクール「Ocean’s Love」を主催。また、ヨガのスペシャリストとしても活動。イベント出演や、ワークショップを開催している。 2021年4月4日に結婚式を挙げ[3]、同年10月26日に第1子となる女児を出産した[4]。 テレビ[編集] ALOHA天国(2002年 – 2010年、スカパー)MC Aloha Surf TV(2003年1月 –

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バリオン数生成 – Wikipedia

この項目「バリオン数生成」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:en:Baryogenesis 2020年7月23日 10:51) 修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2020年7月) 現代宇宙論において、バリオン数生成(英語:baryogenesis)は、初期宇宙で起こったと考えられている物理過程であり、バリオン非対称性(英語版)、すなわち観測される宇宙における物質(バリオン)と反物質(反バリオン)の不均衡を生み出したと考えられている。 現代物理学における未解決の問題の1つは、宇宙において反物質よりも物質の方が優勢であることである。宇宙は全体として非ゼロで正のバリオン数密度を持つ、つまり物質が存在するように見える。宇宙論においてはわれわれが見ている粒子は現在われわれが測定している物理学と同じ物理学で作られたと仮定されているため、通常、物質と反物質は同じ量作られており全体のバリオン数はゼロであると予想される。このため、特定の条件下では(反物質ではなく)通常の物質が生成されやすい対称性の破れのメカニズムがいくつか提案されている。この不均衡は非常に小さく、ビッグバン後のほんの数秒後の粒子10000000000 (1010)個につき1つであったであろうが、物質と反物質の大部分が消滅した後に残ったのは現在の宇宙に存在するすべてのバリオン物質とそれよりもはるかに多くのボース粒子であった。2010年にフェルミ研究所で報告された実験では、この不均衡は以前の想定よりもはるかに大きいことが明らかになったようである。一連の粒子衝突実験において、生成された物質の量は生成された反物質の量よりもおよそ1%多かった。この不均衡の理由はまだ分かっていない[1]。 ほとんどの大統一理論では、通常は非常に大きいXボソン(X)または大きいヒッグス粒子(H0)により媒介される反応を起こし、バリオン数の対称性を明示的に破る。これらの事象が生じる速度は、中間のXまたはH0粒子の質量により主に支配されるため、これらの反応が現在見られるバリオン数の大部分の原因であると仮定することにより、現在の物質の存在を説明するには速度が遅すぎる最大質量を計算することができる。これらの推定値は大量の物質はときどきこれまで観測されていない陽子の自発的崩壊が起こることを予測している。したがって、物質と反物質の間の不均衡は謎のままである。 バリオン数生成理論は、基本粒子間の相互作用の異なる説明に基づいている。2つの主要な理論は、電弱時代に生じた電弱バリオン数生成(標準理論)と大統一時代に生じたGUTバリオン数生成である。このような可能性のあるメカニズムを説明するために場の量子論と統計物理学が用いられる。 バリオン数生成に続き原始核合成が起こり、原子核が形成され始める。 相対論的量子力学の発展の一部として1928年ごろにポール・ディラックにより定式化されたディラック方程式[2]は、対応する粒子の予想される解とともに反粒子の存在を予測した。これ以来、既知の種類の粒子すべてに対応する反粒子があることが実験で確認されている。CPT定理では、粒子とその反粒子は同じ質量と寿命を持ち、反対の電荷を持つ。この対称性を考えると、宇宙において物質と反物質の量が等しくないことは不可解である。実際、観測可能な宇宙で有意な濃度の反物質が存在するという実験的証拠はない。 この不均衡には主に2つの解釈がある。宇宙は物質がわずかに多く始まった(宇宙の合計バリオン数がゼロではない)、もしくは宇宙は元々完全に対称的であったが、どういうわけか一連の現象が時間の経過とともに物質がわずかに多くなるように寄与したというものである。後者の観点が好まれるが、どちらかが正しいと示す明確な実験的証拠はない。 初期宇宙の物質形成[編集] 宇宙の普通の物質の大部分は中性子と陽子からなる原子核にある。これらの中性子と陽子はクォークと呼ばれるより小さい粒子で構成される。すべての種類の物質粒子に対して、同じ質量と反対の電荷を持つ対応する反粒子がある。宇宙の最初の少しの間、宇宙はほぼ等量の物質と反物質で構成され、したがってほぼ等量のクォークと反クォークを含んでいたと仮定されている[3]。宇宙が膨張しおよそ2×1012 Kの臨界点まで冷却されると[要出典]、クォークは結合し、通常の物質と反物質となった。反物質は物質と対消滅し、50億分の1の小さな初期非対称性となり、われわれの周りに物質が残る[要出典]。自由で分離した個々のクォークと反クォークは実験では観測されていない。クォークと反クォークは常に3つの組み合わせ(バリオン)で見られる、もしくはクォーク-反クォークのペア(中間子)で束縛されている。 サハロフの条件の下でのGUTバリオン数生成[編集] 1967年、アンドレイ・サハロフはバリオン生成相互作用が物質と反物質を異なる速度で生成するために満たす必要がある3つの必要条件を提案した[4]。これらの条件は、そのころ起きた宇宙背景放射[5]および中性K中間子系におけるCP対称性の破れの発見に触発された[6]。3つの必要な「サハロフ条件」は である。 バリオン数の破れは明らかに反バリオンよりも過剰にバリオンを生成するために必要な条件である。しかし、C対称性の破れも必要であり、これにより反バリオンよりも多くのバリオンを生成する相互作用がバリオンよりも多くの反バリオンを生成する相互作用によって相殺されなくなる。CP対称性の破れも、なければ左巻きのバリオンと右巻きの反バリオンが同数、左巻き反バリオンと右巻きバリオンが同数生成されるため同様に必要である。最後に、相互作用が熱平衡から外れている必要があり、そうでなければCPT対称性によりバリオン数が増減する過程の間の埋め合わせが保証されるためである[7]。 現在、バリオン数の保存が摂動的に破られている粒子相互作用の実験的証拠はない。このことは観測されたすべての粒子の反応が前と後で等しいことを示唆しているようである。数学的には、(摂動)標準模型のハミルトニアンを持つバリオン数量子演算子の交換子はゼロである。 [B,H]=BH−HB=0{displaystyle

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ブルトン語コルヌアイユ方言 – Wikipedia

ブルトン語コルヌアイユ方言 (ブルトンごコルヌアイユほうげん、仏:breton cornouaillais, ブルトン語:brezhoneg Kerne) は,コルヌアイユ (Cornouaille) で話されているブルトン語の方言である (大ブリテン島のコーンウォール (英:Cornwall, 仏:Cornouailles) で話されているケルト語派の一言語であるコーンウォール語と混同されないこと). 方言と地理[編集] ブルトン語コルヌアイユ方言は,ブルトン語の残り 3 つの大方言 (トレゴール方言,ヴァンヌ方言,レオン方言) よりも定義が容易ではない.これは反対に,ほかの 3 つの余りとして定義される方言である. 一方では,コルヌアイユは昔のバス=ブルターニュ司教区でもっとも広くかつもっとも人口が多かった:このことがレオン方言とは違ってコルヌアイユの言語の定義をより困難にしている.コルヌアイユの言葉は,ほとんどその 3 つの隣人と同じ割合でコミューンごとに異なる.その境界が真に意味をもつ唯一の言葉はヴァンヌ方言である.対して,コルヌアイユ方言とトレゴール方言との分離は非常に恣意的である:その境界を定めていたアレー連峰 (monts d’Arrée) 地域はかえって比較的同質である. 他方で,19

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サンフンカイ – Wikipedia

サン・フン・カイ・アンド・カンパニー(英文社名:SUN HUNG KAI & CO. LIMITED/略称:SHK、中文社名:新鴻基有限公司、SEHK: 86)は、中華人民共和国・香港を拠点とする財閥系コングロマリット。現在はAllied Group Limited (アライド・グループ・リミテッド)傘下の多国籍企業である。サン・フン・カイ・プロパティーズ(新鴻基地產發展有限公司、SEHK: 16)とは資本関係、人的関係が全くない別の会社である。 代表者の李成煌(Lee Seng Huang)は実質的オーナー李明治の次男であり、Mulpha International Berhad(マレーシア)等東南アジアのSHK系列の会社の会長も兼任している。 「サンフンカイ(新鴻基)」は、1969年、「新禧公司」を経営する馮景禧(中国語版)(Fung King Hey)氏、「鴻昌行」を経営する郭得勝(中国語版)(Kwok Tak Seng)氏、及び李兆基(中国語版)(Lee Shau

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マックス・ホロウェイ – Wikipedia

マックス・ホロウェイ(Max Holloway、1991年12月4日 – )は、アメリカ合衆国の男性総合格闘家。ハワイ州ホノルル出身。グレイシー・テクニクス所属。元UFC世界フェザー級王者。UFC世界フェザー級ランキング1位[1]。 ハワイ州ホノルルでハワイ先住民とサモア人の血を引く家系に生まれる。父親は麻薬常用者であり、母親を毎日のように虐待し、ホロウェイが11歳の時に蒸発した。高校2年生の時にキックボクシングを始め、その僅か3日後にアマチュアキックボクシングの試合に出場し勝利を収めた[2]。 総合格闘技[編集] 2010年9月11日、プロ総合格闘技デビューを果たし、4戦全勝の戦績を残す[3]。 UFC[編集] 2012年2月4日、UFC初参戦となったUFC 143でダスティン・ポイエーと対戦し、腕ひしぎ三角固めで1R一本負け[4]。キャリア初黒星を喫した。 2013年5月25日、UFC 160でデニス・バミューデスと対戦し、1-2の判定負け。海外のMMAメディアサイトの採点では11人中11人の記者がホロウェイ勝利を支持した[5]。 2013年8月17日、UFC Fight Night: Shogun vs. Sonnenでコナー・マクレガーと対戦し、0-3の判定負け[6]。 2014年1月3日、UFC Fight

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