Month: April 2021

ニューイヤーズデイ – Wikipedia

ニューイヤーズデイ(New Year’s Day、2011年4月22日 – )は、アメリカ合衆国生産のサラブレッドの競走馬・種牡馬。2013年のブリーダーズカップ・ジュヴェナイルに優勝したが、その後怪我により引退に追い込まれた。その後種牡馬として、マキシマムセキュリティなどを出している。 馬名は日本に輸入されるまでは、「ニューイヤーズデー」と表記されることがあった。 ケンタッキー州のクリアスカイファームで生産されたサラブレッドの牡馬である。父はドバイワールドカップなどに勝ったストリートクライ、母ジャストウィッスルディキシーはダヴォナデールステークス(G2)などの勝ち鞍がある馬であった。ニューイヤーズデイは2012年のキーンランドのイヤリングセールに上場され、ベン・グラスの仲介のもと、425,000ドルでウェスト夫妻に落札された[2]。 ボブ・バファート調教師のもとで競走馬として馴致された。そして2013年8月18日のデルマー競馬場で行われた9頭立ての未勝利戦(ポリトラック5.5ハロン・約1105メートル)でデビューを迎え、ギャレット・ゴメス騎手のもとで3着に入った[6][7]。2週間後、ニューイヤーズデイは同じくデルマーで行われた未勝利戦(8ハロン・約1609メートル)に出走し、単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持され、それに応えるように1馬身3/4差をつけて初勝利を挙げた[8][7][注 1]。 ニューイヤーズデイ陣営が3戦目に選んだのは、この年はサンタアニタパーク競馬場で行われるブリーダーズカップ・ジュヴェナイル(8.5ハロン・約1709メートル)で、鞍上をマルティン・ガルシアに乗り替えて登録された。同年のこの競走にはシャンペンステークス勝ち馬のハバナや、ホープフルステークス勝ち馬ストロングマンデートなどが出走しており、ニューイヤーズデイは単勝オッズ11倍と穴馬扱いであった。ゲートが開くとコンクエストタイタンという馬が先手を取り、それにハバナやストロングマンデートなどが後ろにつけて追いかけ、ニューイヤーズデイは中団に位置する展開になった。6ハロンが過ぎて第3コーナーに差し掛かる頃合いでハバナやストロングマンデートらが先頭を奪おうと動き出していた。ニューイヤーズデイとガルシアも進出し始めるが、ガルシアはこのペースで争うのはニューイヤーズデイに得策ではないと判断し、チャンスが来るのを慎重に待っていた。内側と前方で壁ができて、前が開かない状況のまま直線に入っていったニューイヤーズデイであったが、残り1ハロンを迎えたときに、内側の馬が後退したその瞬間を見計らってすり抜け、ハバナとストロングマンデートの2頭を交わしてゴール、2着のハバナに1馬身1/4差をつけて優勝を手にした[7]。 しかし、同年のクリスマスイヴの頃の調教中に怪我し、左後肢の種子骨が欠けてしまった。このため12月26日に引退を発表し、ヒルンデールファームで種牡馬入りすることとなった[9]。翌年の年初にエクリプス賞の投票が行われ、ニューイヤーズデイも最優秀2歳牡馬の候補となったものの、同年無敗で連勝を重ねたシェアードビリーフに敗れて受賞はならなかった[10]。 種牡馬入り後[編集] 2014年よりケンタッキー州のヒルンデイルファームで種牡馬となり、初年度の種付け料は12,500ドル[11]、翌年2015年には7,500ドル[12]に設定されていた。 2018年、ニューイヤーズデイはブラジルのオーナーブリーダーであるルイス・フェリペ・ブランドン・ドス・サントスによって購入され、同氏の持つエテルナメンテリオ牧場へと輸出された[4][5]。2019年5月、アメリカの競馬情報誌ブラッド・ホースはニューイヤーズデーが日本の牧場から購入されたと報じた[4][5]。その後10月18日に北海道安平町の社台スタリオンステーションに到着、同地で繋養されている[13]。 主な産駒[編集] 2016年産 血統背景[編集] 母 Justwhistledixie は現役時代にG2を2勝した活躍馬[16]。母としては今までに送り出した5頭中4頭(ニューイヤーズデー含めて)がグレードレース勝ち馬という非常に優秀な繁殖成績を収めている[17][18][19]。

Continue reading

ハンス・メムリンク – Wikipedia

ハンス・メムリンク(Hans Memling, 1430年/1440年頃 – 1494年8月11日)は、15世紀フランドルの画家。 15世紀後半にブルッヘで活躍した画家。ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンに続く世代の北方絵画を代表する画家である。宗教的な主題を、華麗な色彩と、北方絵画特有の細部までゆるがせにしない徹底した写実表現をもって描いた。 ドイツのフランクフルト近郊ゼーリゲンシュタットの生まれだが、主にフランドルのブルッヘで活動している。生年ははっきりしていない。父はHamman Momlingen、母はLuca Stirn、両親は1451年ごろに死去した。ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業したと推定され、1465年にはブルッヘの市民権を得ている。1470年には「雪の聖母兄弟団」(Gilde van Onse LieveVrouwe van der Snee)[1]に入団。1480年ごろに, Sint Joris 街に邸宅を購入。1480年 ブルッヘの富家227人の一人として皇帝マキシミリアンに戦時税を支払った。1487年  妻 Tanna逝去。財産を子供3人Hannekin, Neelkin, Claykinと分割した。1494年8月11日 逝去 ブルッヘの聖ヒーリス教会に埋葬。2006年現在、墓石は行方不明。

Continue reading

さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト – Wikipedia

さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト(さがみこリゾート プレジャーフォレスト、Sagamiko Resort Pleasure Forest)は、神奈川県相模原市緑区若柳にある自然に親しむことをコンセプトとしたレジャーランド。アウトドアスポーツなどの施設がある。 プロレスラーの力道山が、かつてこの地に広大なゴルフ場「レイクサイド・カントリークラブ」の建設を計画した。土地を買収し、ゴルフ会員権も販売した後、建設にも取りかかったが、1963年の力道山の死に伴い未完に終わった。その後土地が売却・転売され、この施設が建設された。 旧称は「さがみ湖ピクニックランド」。現在の運営会社は、富士急行の子会社・相模湖リゾート株式会社である。なお、キャンプ場の運営は株式会社ピカ(旧株式会社フジヤマ・クオリティ)が行っている。 2018年11月より運行を開始したパディントンタウンラッピングが施された富士急バス。普段は都内と河口湖駅を結ぶ路線で運用されている。(新宿駅前にて撮影) 2013年(平成25年)、富士山が世界文化遺産に登録されると、富士急ハイランドのある山梨県富士吉田市では景観規制が導入されることになり、富士急行はハイランドに新設する予定だった絶叫マシンを一部当地に建設する意向を示した。この方針に基づく第一号のアトラクションが2014年に開業した「大空天国」である。以後、2016年にはハイランドの同種アトラクションと同日に開業した「極楽パイロット」が導入されたが、2017年以降はアジア初となる大型アスレチック「マッスルモンスター」や子供向けアスレチック「ハッスルスパイダー」、世界初の吊り橋型絶叫アトラクション「風天」といったアスレチック施設を中心に導入を続けている。その一方で富士急ハイランドでは、2017年にドドンパをリニューアルした「ド・ドドンパ」が開業した他、2022年には新規大型ローラーコースターが開業予定となっている。 イメージキャラクターにくまのパディントンを採用しており、一部のアトラクションやキャンプ場に使用されている。 主な施設[編集] 遊園地エリア[編集] この節の加筆が望まれています。 パディントン タウン 世界初のパディントンベアのテーマパークとして2018年7月21日にオープン。 ハッスル スパイダー 20種類のアクティビティが用意されている空中アスレチック。ネットで覆われている為、ハーネスを装着せずに楽しめる[1]。

Continue reading

本圀寺 – Wikipedia

本圀寺(ほんこくじ)は、京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山(霊跡寺院)であり六条門流の祖山である。山号は大光山。 本寺は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝える。貞和元年(1345年)に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した[1]。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれている。その後、本末解体による六百旧末寺の離散や多数の訴訟と借財により、本圀寺は荒廃して六条堀川での創建の地を売却して山科に移転した。68世久村日鑒貫首の発案で、金色の鯱や龍、仁王像に大梵鐘、その他金色ずくめの装飾を施した寺院となったが、104世伊藤日慈貫首晋山後、旧に復されている。 旧塔頭は現在も六条の旧地に十六院残っている(松林院、瑞雲院、一音院、詮量院、了円院、勧持院[2]、松陽院、林昌院、本妙院、智妙院、本實院、真如院、了光院、智了院、智光院、久成院)。 六条の旧地にある本圀寺墓地は現在、旧地にある塔頭寺院が管理している。 最近、旧末寺寺院、縁故四法縁(莚師法縁、奠師法縁、親師法縁、達師法縁)の中に六条に本圀寺を復興させようとする動きがある。復興の暁には山科は奥之院となる。 2021年、107世・早川日章貫首(飯田市長源寺から)が晋山。 本圀寺寺紋の三つ紅葉は、公達日忠聖人の出身の公家菊亭家の家紋を授かった経緯がある。 中世[編集] 寺伝によれば建長5年(1253年)日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源と伝える[3]。なお、松葉ヶ谷の草庵(法華堂)の所在地については複数の説がある。日蓮が伊豆国(現伊東市)への配流(伊豆法難)から戻った後、弘長3年(1263年)に法華堂は再興され、本国土妙寺と改称された[3]。寺では日蓮を高祖、弟子の日朗を二祖と位置づけている。 本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)のことである。同年、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた[4]。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けた。応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている[4]。 天文5年(1536年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺の成就寺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)、六条堀川の旧地に再建された。 永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌永禄12年(1569年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条城建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条城に運ばれて再組み立てされたという[5]。さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られた。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた[4]。天正19年(1591年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により西本願寺造立のため、寺地のうち二町を割譲した。 近世[編集] 元和元年(1615年)、徳川家康は本国寺の寺領を安堵[4]。水戸藩主徳川光圀が当寺にて生母久昌院の追善供養を行い、貞享2年(1685年)に光圀の名から一字を下され本圀寺と改称した[6]。 正徳元年(1711年)には徳川家宣の襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の宿舎となっている。天明8年(1788年)の天明の大火では経蔵(現存)を除く伽藍が焼失した。 文久3年(1863年)には鳥取藩士による本圀寺事件が起き、また水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室や徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。 近代[編集] 1872年(明治5年)、学制発布により、求法檀林は廃檀した。1921年(大正10年)、本圀寺は明徳女学校を設立。同校は京都市西京区に移転し、京都明徳高等学校となっている。 1969年(昭和44年)、宗門特選で札幌の本龍寺伊藤日瑞住職が63世貫首に就任、係争中訴訟の解決を図った。伊藤貫首のもと、本圀寺は六条堀川の旧地から京都市郊外の東山区山科(現・山科区)へ移転することになる。1971年(昭和46年)、山科移転第一期工事(本師堂、客殿)が完成し落慶法要が営まれた。以後、第二期、第三期工事が順次完成し山容を整える。

Continue reading

アミティヴィル・アサイラム – Wikipedia

アミティヴィル・アサイラム The Amityville Asylum 監督 アンドリュー・ジョーンズ 脚本 アンドリュー・ジョーンズ 原作 ジェイ・アンソン『アミティヴィルの恐怖』 製作 アンドリュー・ジョーンズ 製作総指揮 アンドリュー・ジョーンズ 出演者 ソフィア・デル・ピッツォリー・ベインジャレッド・モーガン 音楽 アンドリュー・ジョーンズ 主題歌 Burnout’アイリーン・デイリー

Continue reading

通盛 – Wikipedia

通盛(みちもり)は、能楽作品のひとつである。作者は室町時代の井阿弥。公達物で、修羅能と呼ばれる二番目物の能である[1]。 あらすじ[編集] 阿波の鳴門で、ここで亡くなった平家一門の霊を毎夜弔う僧がいた。従僧といっしょに今夜も読経していると、静かな白波のなかに楫の音が聞こえてくる。一方船の上では、年をとった漁翁[注釈 1]の夫婦が、希望もなにもない悲嘆にくれた会話をしながら、櫓をこぎ漁をしている。そこに読経の声が聞こえてきたため,船を漕ぐのをやめて聞き入っていた。 僧は、その老漁翁夫婦を磯に招き、漁の蘆火をたよりにさらに経を開いて読誦した。そしてここの海で亡くなった平家一門のことを漁翁に尋ねた。それに応えて女が小宰相の局の話を始めた。小宰相は須磨の浦で敵に襲われ、遠く阿波の鳴門まで追われてしまい、乳母に、通盛も討たれて頼むべき人もいないのでここで入水すると言い、乳母は泣きながら小宰相に取りすがるが、小宰相はそれを振り切って海に飛び入ったのですと言いつつ、女も漁翁も海の底に消えてしまった。 僧は、この教えを聞く者で成仏できない者はいないといわれる法華経の方便品を唱えはじめた。すると読経に導かれて武士の姿をした越前の三位通盛と、美しい姿の小宰相が波の上に現れた。そして通盛は、悲惨な一の谷での合戦のこと、悲しい小宰相との別れのことを語りはじめた。最後は、せめて名のある武士に出会って討ち死にせんと思い、木村源五重章と刺し違えて修羅道の苦を受ける事になったと語り、憐れと思い弔ってくださいと願うのであった。そして、読誦の声を聞く時は、悪鬼も心を和らげ、菩薩は忍辱慈悲の姿で来迎し、私達も成仏得脱の身となることができるのですと感謝するのであった。 登場人物[編集] 作者・典拠[編集] 『申楽談儀』で『通盛』の作者であると明記された井阿弥は、将軍足利義満の周辺で活動していた役者であったという説があるが、詳細は不明である。申楽談儀に「通盛、言葉多きを、切り除け切り除けして能になす」とあるため、『通盛』は世阿弥による改訂版であると言われている。世阿弥は本曲を直ぐなる能[注釈 2]と評価していることからも、主に削除を中心に改作したのではないかとする説が有力である[1]。 『通盛』は『平家物語』を典拠にしているが、世阿弥作の他の修羅能の作品と違って『平家物語』の内容と異なる部分が幾つか見られる。平家物語では一の谷で命を落とした通盛を、小宰相とともに鳴門に登場させているのもそのひとつだが、これは夫婦の絆を主題に据えたかったため、とする見方もある[1]。 注釈[編集] ^ 漁民の長 ^ 主題や構成が明確な能 出典[編集] ^ a b

Continue reading

トラベラーズチェック – Wikipedia

トラベラーズチェック(英: traveller’s cheque、米: traveler’s check)とは、海外渡航に際して発行される外国旅行者向けの小切手。日本では旅行小切手(りょこうこぎって)とも称し、「TC」「T/C」「Cheque」と略称される。日本国内では2014年3月31日にアメリカン・エキスプレスによる発行が終了した後、2020年7月現在、正規に発行している事業者はない。 海外渡航中に現金の盗難や亡失などを回避する手段として、T/C発行元の保証により紛失時に再発行可能な小切手として用いられる。渡航前に所要金額分のT/Cを購入し、行先国で額面の現金として支払う。所定の手続を踏んでおけば紛失や盗難などの亡失時にリファンド(再発行)される。 この点では、決済資金が小切手発行者(金融機関等)にデポジットされ、小切手発行者に事故が無い限り支払保証がされている点で、自己宛小切手・預金小切手との類似性が認められる。 1772年にロンドン信用取引社[1] がヨーロッパの90の主要都市で通用する最初のトラベラーズチェックを発行した。19世紀末にトーマス・クック社が現在と同様のものを発行し、ヨーロッパ域内であっても行先国によって治安環境が異なる旅行者の不安を払拭させることに成功した。のちに世界で旅行事業の拠点を有するアメリカン・エキスプレスが参入し、後年に開始したクレジットカード(アメリカン・エキスプレス・カード)サービスによる金融部門で発展し、現在のT/C取扱高は首位である。 T/Cの購入や売却時の外国為替相場為替レートは、外貨預金の預け出しや外貨建海外送金に使われる「対顧客電信相場」 (TTS, TTB) が適用される。外貨現金への両替は、対顧客相場に現金取り扱い手数料[2] を加味した「現金売買レート」[3] が適用されて1通貨当たりの交換比率が劣ることから、利点のひとつとなる。日本円とオーストラリア・ドル間は、対顧客相場と現金建てのレートが三菱東京UFJ銀行で10パーセント前後乖離しているため、T/Cの発行手数料を加味しても現金両替と比べて5パーセント程度は得となる。これをエピソードにしたアメリカン・エキスプレス日本支社のテレビCMなどが2003年に展開された。 日本では2010年代前半まで銀行など金融機関窓口、ワールドカレンシーショップ、トラベレックスなどの両替商、旅行代理店、セシールなど非金融業が販売したが、2014年に日本国内は終売した。 昭和30 – 40年代の国内電信為替が未発達な時代には、地方銀行の共通商品として国内旅行用トラベラーズチェックがOKチェックの名称で販売された。 2014年3月31日に日本国内の販売は終了したが、発行済み券は利用可能である。過去の購入手段を下記する。

Continue reading

獣の奏者 – Wikipedia

『獣の奏者』(けもののそうじゃ)は上橋菜穂子のファンタジー小説、およびそれを原作とした作品群である。 概要 「リョザ神王国」と呼ばれる異世界の地を舞台とするファンタジー巨編。運命に翻弄される少女・エリンを軸に人と獣の関わりを描く。『I 闘蛇編』『II 王獣編』『III 探求編』『IV 完結編』の全4巻から構成される。 2006年(平成18年)11月に講談社から『闘蛇編』と『王獣編』が二冊同時刊行。上橋にとって物語の結末は『王獣編』のラストシーンが究極のものであり、これ以上物語が続くことはないと考えていたため、本来はこの全2巻で完結したはずだった。しかし、周囲から「続きを読みたい」という声が数多く寄せられ、またアニメの制作に関わったこともあり、自身も物語の中で描ききれなかった謎への決着を付けたいという思いが生まれた結果[1][2]、2009年8月に続編となる『探求編』と『完結編』が、2010年9月には『獣の奏者 外伝 刹那』が刊行された。 「守り人シリーズ」と共に海外での出版も予定されている[1][注 1]。 本作は「決して人に馴れぬ孤高の獣と、それに向かって竪琴を奏でる少女」という上橋の心に浮かんだワンシーンが執筆のきっかけとなっている。この構想は何年も前に心に浮かんだがそこから発想を膨らませることがなかなか出来なかったという。しかし、ある日、ふと手に取った養蜂に関する本を読み進めていくうちに、生命の不思議に心震わす少女のイメージが浮かび上がり、こうして仕上がった作品が本作である[3]。 あらすじ I 闘蛇編 獣ノ医術師である母とともに、闘蛇衆たちの村で暮らす少女エリン。彼女の母ソヨンはその優れた医術の腕を買われ闘蛇のなかでも特に強いの世話を任せられていた。ある日、村で飼っていた全てのが突然死んでしまい、母はその責任を問われ処刑されることとなった。エリンは母を助けようと必死に奔走するも失敗、母と引き離され天涯孤独の身の上となってしまう。その後、蜂飼いのジョウンに助け出されたエリンは彼と共に暮らすうち、山奥で天空を翔る野生の王獣と出会う。その姿に魅せられたエリンは母と同じく獣ノ医術師になることを決意し、ジョウンの昔なじみでもあるエサルが教導師長を務めるカザルム王獣保護場の学舎へと入舎する。 II 王獣編 王獣保護場で傷ついた王獣の仔・リランに出会ったエリンは、リランを救いたい一心で献身的に治療にあたり、その成り行きで王獣を操る術・を見つけてしまう。4年の月日が流れたある日、エリンは母の一族である霧の民から『「決して人に馴れない獣、決して人に馴らしてはいけない獣」である王獣を操ることは、大いなるを招く』と警告を受ける。警告を甘く考えていたエリンだが、やがてその理由を身をもって知ることとなる。王国の命運を賭けた争いに巻き込まれていく中、エリンは真王の護衛士の一人・イアルと心を通わせていく。

Continue reading

第69回国民体育大会陸上競技・男子100m – Wikipedia

第69回国民体育大会陸上競技・男子100mは、2014年10月18日に少年男子A、10月19日に少年男子Bと成年男子が長崎県の県立総合運動公園陸上競技場で行われた。 成年男子[編集] 記録[編集] 大会前の主な記録は次の通り 競技日程[編集] 日 時 ラウンド 2014年10月19日日曜日 11:30 予選 14:45 準決勝 16:50 決勝 競技結果[編集] q 記録による通過 Q 順位による通過

Continue reading

邪教 – Wikipedia

邪教(じゃきょう)は、邪(よこしま)な教えのこと。淫祠邪教(いんしじゃきょう)や邪宗(じゃしゅう)ともいわれる。他宗教を非難するときや、国家権力や統治者等が特定の宗教を、敵性宗教であるとみなし弾圧目的で使用する用語である[1]。 鎌倉時代[編集] 鎌倉中期に日蓮が立正安国論の中で、法華経を鎌倉幕府の政治運営の精神的中心として受け入れなければ国家国民は安泰にならないという考え方を述べた。この際に、正法である『法華経』を信仰しない他宗派はすべて邪法であり、邪教に惑わされている宗派とそれを許している政府を強く非難した(四箇格言)。中でも念仏信仰を柱とする浄土宗は開祖法然も含め、名指しで攻撃を受けた[2]。 しかし、得宗北条時頼は、『立正安国論』を政治批判であるとみなし、日蓮を伊豆に配流した。 江戸時代[編集] 安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、その前の室町末期に日本へ流入したキリスト教に対して太閤豊臣秀吉と続く初代将軍徳川家康が警戒感を示すようになる。秀吉は死の直前の1597年(慶長元年)、フランシスコ会の布教を挑発的として宣教師、信徒ら26人を死刑に処させる「二十六聖人の殉教」を起こした。 江戸幕府発足後、2代将軍徳川秀忠の世だった1612年(慶長17年)に出された禁教令を皮切りに、キリシタン(隠れキリシタン)を邪教の徒として弾圧した[3][4][5]。転向(棄教)に応じた元キリシタン(転びキリシタン)も、最高6世代の後まで監視されるなど弾圧は苛烈を極めた。 一方、日蓮宗不受不施派は民こそが国の主役であると考え、正義を重視するという考えから徳川幕府の出す命令に対して非服従を貫き、幕府は「邪宗門」と位置づけた。また宗門改などを通じた宗教統制に入らなかった民間宗教、新宗教なども邪宗門に分類された。 1690年(元禄3年)、寛永寺座主(輪王寺宮)に公弁法親王が就くと、それから10年ほどの間に玄旨帰命壇、立川流が共に邪教とされ完全に断絶。どちらも性交渉によって本尊と一体化することを柱とした教義だったため、これをきっかけにして淫祠邪教(いんしじゃきょう)という言葉が確立した。 また、幕府としては容認されたものの藩レベルでは一向宗を邪教とみなし禁止したところもあった。この際に隠れキリシタンと同様、信仰を守るため神道ないしは修験道と融合した新たな宗派が生まれた例もある。 明治時代[編集] 1868年(明治元年)、江戸幕府は崩壊し明治政府に生まれ変わるが、明治政府は五榜の掲示の第三札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ、若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ヘ可申出」と記し、引き続きキリスト教および不受不施派の信仰は禁止された。このうち、不受不施派の禁教は1871年(明治4年)の寺請制度廃止により、またキリスト教の禁止は1873年(明治6年)2月24日付太政官布告「禁制高札の撤去」[6]で、それぞれ事実上解除される。 こうして長年邪とされていたキリスト教はようやく日本に認められ、隠れキリシタンも表に出てくることができたが、一方で明治政府は神道の国教化を目指し国家神道の体系を整備していく。この過程で、神道と仏教の厳格な分離を求めたことに伴う仏教側の排撃が行われた。また、神霊の憑依やそれによって託宣を得る行為、性神信仰などを低俗なものや迷信として否定、それらを信仰の中心においていた教派を淫祠邪教として取り締まる政策を進めた。これにより修験道・陰陽道など神仏習合系教派が軒並み禁止となり、修験系講団体の中には教派神道へ移行したものもある。大日本帝国憲法第28条において表向き信教の自由が認められた後も、取り締まりは続いた。 1894年(明治27年)、コレラの治療として神水を配布した蓮門教が淫祠邪教として徹底的に批判され衰退した[7][8]。1901年(明治34年)には内務省宗教局が淫祠邪教の取り締まりを強化すると発表した[9]。1911年(明治44年)には、政府は大逆事件で幸徳秋水を処刑するが、その一方で、幸徳の遺作である『基督抹殺論』をキリスト教抑圧のため典拠として利用した。 大正・昭和初期[編集] 1921年(大正10年)、内務省は、複数の宗教団体を邪教淫祀とみなし、そのひとつである大本教の神殿を全て取り壊す決定を行った。同時に祭神不明の一千余りの神社を廃止することを決定した[10][11]。 1925年(大正14年)に治安維持法が成立。当初は日本共産党、朝鮮共産党などの共産主義勢力を標的としたが、1928年(昭和3年)の改正以降、類似(新興)宗教の弾圧にも多用されるようになった。1933年(昭和8年)8月、神道天津教が邪教であるとされ、本部が警視庁から閉鎖を命じられた(第一次天津教弾圧事件)[12]。 1935年(昭和10年)には、再び大本が淫祠邪教とされて政府から弾圧を受け、全国紙でもそのように断定して批判、報道された[13][14][15]。この時、刑法第74条「皇室に対する罪」の適用に加えて、治安維持法も適用された[16]。 遠藤高志の論文では、「1936年(昭和11年)には「類似宗教」「邪教」と銘打った書籍の出版が集中した[17]」と書いてある。同年には宮内省の女官長が邪教にまつわる不敬被疑により検挙された[18]。文部省は、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)の調査により、神がかり、呪い、祈祷などで人心を魅惑し、迷信に引きずり込んだ邪教が約150種に及ぶと発表した[19]。さらに、天津教が二度目の大規模な強制捜査を受ける(第二次天津教弾圧事件)。 1937年(昭和12年)の日華事変勃発後は、再び淫祀邪教が蔓延しているとされ、警視庁特高部の発表によれば、事変発生前の10倍以上となったとされている[20]。同年、PL教団の前身、ひとのみち教会が邪教として解散させられた。翌1938年(昭和13年)に入ると、天理教の分派団体である天理本道が結社禁止となり、天理教自体も邪教のレッテルを貼られることを免れようとして、軍部と戦争への全面協力体制を決める。

Continue reading