Month: September 2021

ヴィルヘルム・ビットリヒ – Wikipedia

ヴィルヘルム・ビットリヒ(ドイツ語: Wilhelm Bittrich、1894年2月26日‐1979年4月19日)はドイツの軍人。ドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の武装組織武装親衛隊(Waffen-SS)の将軍。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)。 アルンヘムの戦いの勝利で戦史に名を残す[1]。愛称はヴィリー(Willi)[2]。 第一次世界大戦終結まで[編集] 1894年2月26日、帝政ドイツ領邦プロイセン王国ザクセン県(ドイツ語版)に属するハルツ山地・ヴェルニゲローデに生まれる。父は代理商フーゴ・ビットリヒ(Hugo Bittrich)。母はその妻ルイーゼ・ヘレーネ・アウグステ(Luise Helene Auguste)(旧姓ボーデ(Bode))[3]。 小学校(Volksschule)と中学校(Mittelschule)を出た後、体育の教官になるためのトレーニングを受けていたが、その最中の1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発した[4]。 急遽トレーニングを中断して7月30日にナウムブルクに基地を構えていたプロイセン陸軍(ドイツ語版)の猟兵大隊に志願兵として入隊した。その後、第77歩兵連隊に配属され、1914年12月にはカルパチアの戦闘で負傷した。ウォセグス(Vosges)での戦闘において突撃隊(Stoßtrupp)の作戦に参加し、その際の功績で1915年10月15日に予備役少尉(Leutnant d. R.)に昇進した[4]。 1916年に飛行部隊へ移籍し、トレーニングを受けた後、第27野戦飛行隊(Feldfliegerabteilung 27)やA266飛行隊(Fliegerabteilung A 266)や第37飛行中隊(Jagdstaffel 37)などに属してパイロットとして出撃した。1917年から1918年5月までエルンスト・ウーデットが指揮する第37飛行中隊(Jagdstaffel

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松田幸起 – Wikipedia

まつだ こうき松田 幸起 本名 松田 幸起 生年月日 (1982-04-01) 1982年4月1日(40歳) 出生地 日本 福岡県北九州市 身長 180 cm 職業 俳優・ものまねタレント 事務所 ホリプロコム 公式サイト

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鹿児島のベルナルド – Wikipedia

鹿児島のベルナルド(かごしまのベルナルド、? – 1557年3月)は、16世紀の日本人キリシタン。日本人初のヨーロッパ留学生であり、またローマ教皇とも対面した。 鹿児島出身。イエズス会の記録にベルナルドという洗礼名のみ記録され、日本名は知られていない。 1549年8月15日に日本に到来した宣教師のフランシスコ・ザビエルは鹿児島で宣教を行ったが、ベルナルドはザビエルが最初に洗礼を授けた日本人であった。以降2年間、ベルナルドはザビエルに同行してその活動を支え続けた。 1551年11月5日にザビエルが日本を離れると、他の4名の日本人の一人として帯同した(他は大友義鎮の家臣といわれる上田弦佐なる武士と、日本名不明のマテオ(山口出身)、ジョアン、アントニオという青年)。一行はマラッカからコチンをへて、1552年2月にポルトガルの東洋における拠点都市ゴアにたどりついた。同年4月、中国入国を目指すザビエルはベルナルドらと別れてゴアを出帆、上田もこれに同行した。残ったベルナルドとマテオの2人はゴアでイエズス会学校に学んだが、マテオは病死し、他の2人もその後の消息は不明となった。 一人残されたベルナルドは、1553年3月にポルトガルに向けてゴアを出発し、同年9月にリスボンに到着した。長い航海の疲れからベルナルドは病床に伏したが回復し、1554年2月からコインブラの修道院で暮らした。イエズス会員としての養成を受けることになったベルナルドの様子については、長上からローマのイグナチオ・デ・ロヨラのもとに書簡で報告されていたが、ベルナルドの強い信仰心と真摯な姿を聞いたロヨラはベルナルドをローマへ招いた。 ローマ行きの指示を受けたベルナルドは、コインブラを発って1554年7月17日にリスボンを出発、陸路スペインを抜け、バルセロナから船でイタリアにわたった。慣れない土地での長旅はベルナルドの体に負担を与え、ベルナルドは再び体調を崩した。シチリアからナポリを経由したベルナルドがようやくローマに到着したのは1555年1月のはじめであった。ローマにおいてロヨラと対面しただけでなくローマ教皇パウルス4世への謁見をも許された。なお、ローマにおいてロヨラは常にベルナルドの健康を気遣っていたという。 1555年10月18日、ローマを離れたベルナルドは海路スペインに向かい、そこから陸路をとってリスボンに戻ったのは1556年2月12日であった。再びコインブラにやってきたベルナルドはコインブラ大学などで学んでいたが、積年の疲労から再び床に就き、そのまま衰弱して1557年3月のはじめの四旬節に死去した[1]。東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えた。 銅像・記念碑[編集] 1999年にザビエル来日450周年を記念して鹿児島に新しいザビエル像が建立されたが、ザビエルの隣りに建てられたのが、ザビエルに愛された青年ベルナルドの像であった。所在地:鹿児島市、ザビエル公園内(画像参照)。 参考文献[編集] Pasquale M.D’ Elia S.J., 本田善一郎訳「ローマを訪れた最初の日本人ベルナルド(1555年)」『キリシタン研究』第5輯、吉川弘文館、1955年、3-31頁。 根占献一『東西ルネサンスの邂逅-南蛮と禰寝氏の歴史的世界を求めて』東信堂、1998年、97 – 100頁。

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王煜輝 – Wikipedia

王煜輝 プロフィール 出生: (1976-06-14) 1976年6月14日(45歳) 出身地: 中華人民共和国北京市 職業: 囲碁棋士 各種表記 繁体字: 王煜輝 簡体字: 王煜辉 拼音: wángyùhuī ラテン字: Wang Yuhui 和名表記:

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テンゲン (お笑いコンビ) – Wikipedia

テンゲンは、かつてワタナベエンターテインメントに所属していたお笑いコンビ。2008年4月結成。ワタナベコメディスクール7期生。コンビ名は、囲碁用語で碁盤の中心の点「天元」に由来し、自分達が芸人の中心に立つことの意味を込めて付けた[1]。2015年に再結成しフリーとして活動再開。 メンバー[編集] 上簗 裕尚(かみやな ひろたか、1986年3月22日 – ) ツッコミ担当、立ち位置は右。本名は芸名と同じ。難読姓からか平仮名の「かみやなひろたか」を芸名に用いることがある。 静岡県出身。文教大学人間科学部卒。 血液型はAB型。身長170cm、体重64kg。B78cm、W68cm、H85cm。 静岡県高校囲碁団体戦で優勝。全国高校囲碁選手権団体戦でベスト16進出。 大学生時代はサッカー部所属、兼・体育会会長。ボディビルの学生選手権大会で5位になっている[2]。 現在、ハマカーンの浜谷健司と共に暮らしており、家賃も折半している[3]。 新宿二丁目で「芸Bar H&M 新宿店」の雇われ店長をしている。 マサ ナカジマ(1983年8月30日 – )

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佃煮 – Wikipedia

佃煮(つくだに)は、醤油と砂糖で甘辛く煮付けた日本の食べ物である。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを煮染めたものをこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある。牛肉の佃煮も目にする。ご飯と一緒に食べると美味とされる。 佃煮の由来[編集] 江戸時代、徳川家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせた(東京都中央区佃島[1])[2][4]。佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた[2][5]。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる[5][4]。 なお、以上の説に対しては異説もある。 1858年(安政5年)に青柳才助が創始したとする説[7]。なお才助は佃島の塩煮から「佃煮」と名付けたとされる。 1862年(文久2年)に浅草瓦町の鮒屋佐吉が創始したとする説[7]。なお佐吉は、それまで塩煮であった佃煮を独自な改良(種類ごとの素材に分け、当時高級であった醤油を初めて使用するという斬新な発想)のもと現在の佃煮の原型を創り出した。[8] 日本橋の伊勢屋太兵衛が創始したとする説[7]。 大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた(醬油煮説と塩煮説がある)[2]。このことから、住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来するという説[7]。 1877年(明治10年)の西南戦争の時には、政府軍から軍用食として多量の佃煮製造が命じられた。1894年(明治27年)の日清戦争でも、多量の佃煮製造が命じられ、多量生産が行われるようになった。戦後、帰宅した兵士は戦場で食べた江戸前佃煮になじんでおり、これは一般家庭の副食となり日常食となっていった。 現代では、佃煮の素材や味付けの種類が増えると共に、包装の工夫により販売や保存が楽になったことから、消費は益々ふえていった[9]。 各地の産地[編集] 今では全国各地に佃煮の産地がある。小豆島は、醤油の産地でもあり佃煮が多く作られている。特に昆布の佃煮が全国一となるなど佃煮産業が盛んである。広島市でも佃煮製造が行われており、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡となった事から軍需に支えられていたという背景があり、1898年(明治31年)に楠原政之助が広島市中区にて漬物佃煮の缶詰を製造し販売された[10][11]。焼津市は鰹の佃煮生産高が高く、地域によっては特徴のある製品が製造販売されている。 現在一般に市販されている佃煮は、うす味、甘口で保存性は以前ほど高くは無い。真空包装の物や、要冷蔵の佃煮が多い。増粘安定剤などが加えられていることがある。 本来の江戸前佃煮は、夏の常温下でおにぎりや弁当に入れても傷まない辛口のものが安心で重宝されてきた。現在も数軒だが、職人の手造りで旧来の味付けの佃煮も受け継がれている。 主な材料[編集] ギャラリー[編集] ご飯のおかずとして載せられたイカナゴ佃煮 静岡市 桜エビの佃煮(2017年9月20日撮影) ハゼの佃煮(2017年12月29日撮影)

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風の電話 – Wikipedia

地図 風の電話(かぜのでんわ)は、岩手県上閉伊郡大槌町の海(三陸海岸)を見下ろす丘にある「ベルガーディア鯨山」内に置かれた私設電話ボックス[1][2][3]。 「風の電話」と呼ばれる電話ボックス内には、電話線が繋がっていないダイヤル式の黒電話である「風の電話」とノートが1冊置かれており、来訪者は電話で亡き人に思いを伝えたり、ノートに気持ちを記載したりできる。電話機の横には次のように記されている。 風の電話は心で話します 静かに目を閉じ 耳を澄ましてください 風の音が又は浪の音が 或いは小鳥のさえずりが聞こえたなら あなたの想いを伝えて下さい 風の電話は、太平洋が見える風景を気に入って移住した庭師の佐々木格(ささき いたる)[4]が、2010年(平成22年)に死去した従兄ともう一度話をしたいとの思いから、海辺の高台にある自宅の庭の隅に白色の電話ボックスを設置したことに始まる。電話ボックスはパチンコ店から譲り受けた物、筆で書かれた詩は従兄が書いたものである[5]。 2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災の際、自宅から見える浪板海岸を襲った津波を目にした佐々木は、生存した被災者が震災で死別した家族への想いを風に乗せて伝えられるようにと敷地を整備し、祈りの像や海岸に向かうベンチを置いて「メモリアルガーデン」を併設した上で開放した。 2012年(平成24年)4月には2階建て約40m2の建物を増設し、「森の図書館」として開館した。「森の図書館」には全国から約4,000冊の本が寄贈され、完全予約制になっているが入館できる[1][3]。2014年(平成26年)2月には、絵本『かぜのでんわ』(いもとようこ作・絵、金の星社)が刊行された。同年7月時点での来訪者は10,000人を超えた[3]。 2014年(平成26年)9月、東日本大震災から3年半を迎え、「風の電話」設置者の佐々木自らが作詞したCD『風の電話』が制作された。「被災地の最大の危機は忘れ去られることにあると言われている。被災地では忘れさられるべきではない多くの被災者の生活があることを忘れずにいたい。忘れて欲しくない」という想いを、風の電話と同様に言葉を口にする、歌を口ずさむということにより心の負担を軽くし、一日も早く被災者が日常生活を取り戻せるよう願いを込められた内容となっており、風の電話が設置されているベルガーディア鯨山にて販売されている。 2015年(平成27年)1月8日、電話ボックスが強風で飛ばされていたのが発見された[6]が2日後、支援者らによって元の場所に再建された[7]。2018年(平成30年)8月18日には、老朽化していた木製ボックスが全国からの寄付金によりアルミ製に更新された[8]。 2017年(平成29年)8月24日には、風の電話の成り立ちから現在までの活動を佐々木が綴った書籍『風の電話:大震災から6年、風の電話を通して見えること』が風間書房より刊行された。 〒028-1101:岩手県上閉伊郡大槌町浪板9-36-9(以前は吉里吉里第11地割64-10だったが、住所整理により現在は浪板9-36-9に変更。) 交通アクセス[編集] この節の加筆が望まれています。 佐々木格

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森之翼 – Wikipedia

森之 翼(もりの つばさ 2000年6月 – )は、日本の野菜ソムリエ、発酵食研究家。 目次 1 経歴 2 メディア活動 2.1 テレビ番組 3 脚注 4 外部リンク 野菜ソムリエを取得する前の2010年2月に、CBCふるさと市民エコジャーナリスト(環境問題に関するレポートのコンテスト)でグランプリを受賞している。[1] その年の4月に野菜ソムリエの資格を9歳で取得[2]、14歳の2015年2月には野菜ソムリエプロを一発合格。いずれも当時は最年少で取得していて、9歳での最年少取得記録は7年間破られなかった。 野菜ソムリエプロだけでではなく、18歳で発酵ライフ推進協会が認定している発酵ライフアドバイザー、20歳には発酵ライフアドバイザープロフエッシュナルを、それぞれ最年少で取得している。 メディア活動では、テレビ出演では10歳から現在まで50回以上放映され、ラジオや新聞、雑誌など多数のメディア活動も行い、野菜のお役立ち情報や旬の野菜料理を発信している。新聞では朝日小学生新聞に「親子クッキングレシピ」を連載した。

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