十七人の忍者 – Wikipedia

十七人の忍者』(じゅうしちにんのにんじゃ)は、1963年の日本映画[1]。主演:里見浩太朗、監督:長谷川安人。脚本:池上金男。東映京都撮影所製作、東映配給。モノクロ。

「東映集団抗争時代劇」のはしりとされる一作[5]。当時の映画界では忍者ブームによって製作されたと見られた[6]

あらすじ[編集]

生命より使命が大切という怖るべき忍びの者が幕閣の密命を受け、幕府に反乱の疑いある駿河大納言の連判状を狙い続けるが、敵方にも忍びの者があってお互い秘術を尽くして最後の一人まで斗う[6]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

  • 監督 : 長谷川安人
  • 企画 : 天尾完次
  • 脚本 : 池上金男
  • 音楽 : 鏑木創
  • 撮影 : 鷲尾元也
  • 美術 : 富田治郎
  • 照明 : 増田悦章
  • 録音 : 藤本尚武
  • 編集 : 堀池幸三

企画[編集]

本作の企画クレジットは天尾完次であるが、実際の企画者は、自身で発案者と話す当時の東映企画部次長・渡邊達人とされる。また本作を皮切りに「集団時代劇」路線を敷いたのも渡邊。渡邊は「企画者として天尾完次を選んで脚本を渡した」、「天尾に現場指揮を任せて同路線を牽引させた」と述べている。天尾は本作が本格的なプロデューサーとしてのデビュー作。

池上金男が書いた本作の脚本タイトルは最初は『謀反』だった。第二東映の廃止で映画の製作が減り、池上の優先本数契約の未消化分が発生した。当時渡邊は東映本社の芸文課に勤務していた。1962年秋に池上は渡邊に「薄いのでいいから何でもいいから書いてくれ」と頼まれ、池上は5日ぐらいで一人で本作の脚本を書いた。渡邊はそれを読みもせず、封筒から出さず芸文課の書棚の上に乗せていた。渡邊がそれら脚本の山を泊懋に「映画にならなかったものは題名書き出して破棄しろ」と指示した。暇だった泊は昼休みに本作の脚本を読み、「これは面白い」と渡邊に薦め、これを読んだ渡邊が芸文課で脚本読みにかけた。すると芸文課一致で「京都(東映京都撮影所、以下、東映京都)に送って映画化を図るべき」となった。ところが渡邊が「それはダメだ。オレが預かる」とカバンに入れた。渡邊は東京渡辺銀行の御曹司で[13]、家が没落していなければ銀行頭取になっていたかもしれない人だった[13]

1962年の終わり頃、東映京都の企画部次長・中村有隣が過労で倒れ、その穴埋めとして1963年1月、当時の坪井与(與)東映企画本部長の命により、黒住盛太郎企画部長と共に東映京都に渡邊が企画部次長として派遣された。渡邊は「今度京都に赴任した渡邊です」と黒住企画部長のところに挨拶に行って「時にオレは目を付けてたものがある。実はかねがね腹案があって、私の独断で池上に脚本を書かせた。ちょうど間に合ったから持って来たけど、これはどうだろうか」と本作『十七人の忍者』の脚本をオミヤゲとして差し出した。「これは面白い」となり映画化が決まった。

渡邊は企画会議で「東宝の『用心棒』によって東映の時代劇はリアリティが感じられない絵空ごとになった、従って時代考証を基にしたストーリィの立て方に腐心し、新しい殺陣を考案する、中村錦之助、大川橋蔵は一人で一本の作品を支えるだけの人気を保持しているが、片岡千恵蔵、市川右太衛門は下降線であるので、若手と組ませてマスの力で人気保持に努める、従って集団劇の企画を考えていかなくてはならない」などの大綱を述べた。渡邊は「池上金男とひそかに二人でアメリカ映画『ナバロンの要塞』をヒントに企画したのが本作」と述べているが、池上は先述のように単独で脚本を書いたと話しており、渡邊の証言とは食い違う。渡邊が『柳生武芸帳 片目水月の剣』でデビューした長谷川安人に監督を託した。

脚本[編集]

本作の脚本を西脇英夫は「集団の密室ドラマとして完璧に近いドラマ構成を持っており、 池上金男の群を抜いた職人的技術は『十三人の刺客』によって一挙に爆発した」と評している[15]

キャスティング[編集]

後に中島貞夫の監督デビュー作『くノ一忍法』で有名になる三島ゆり子は長谷川の抜擢。鬼頭右馬之介役の毛利清二は、後に刺青絵師として有名になった。

同時上映[編集]

『警視庁物語 十代の足どり』

東映集団抗争時代劇[編集]

「集団抗争時代劇」「集団時代劇」の名称の由来は[5]、東映の社史に「後年”集団時代劇”と呼ばれるようになった」と説明されており、リアルタイムではなく、東映自身かジャーナリズムかは分からないが、後年そう呼ばれるようになったもの。同じく東映の社史では本作『十七人の忍者』から『十三人の刺客』『大喧嘩(おおでいり)』『忍者狩り』『十一人の侍』などを「集団時代劇」と呼んでいる。『ポスターでつづる東映映画史』には「”集団時代劇”なる名称は、特に会社側がキャッチフレーズとして打ち出したものでもなく、またこれらの作品群を意図的に売り出そうとしたわけでもない。ただ、時代劇王国を誇っていた東映が、年間いろんな種類の時代劇を無差別に作っていた中で、次第に特定のジャンルとして定着して来たものである」などと書かれており、同書では原型は『七人の侍』で、同じ黒澤明監督の『用心棒』や『椿三十郎』などの影響を受けて、始まったのが「東映集団時代劇」で、その始まりを五味康祐原作・近衛十四郎主演による『柳生武芸帳』(1961年3月公開、監督:井沢雅彦、脚本:結束信二、高田宏治)を第一作とする「柳生武芸帳シリーズ」に置いている。品田雄吉は東映発行の『東映映画三十年』で、1963年3月封切りの『五人のあばれ者』(監督:小沢茂弘、主演:片岡千惠藏)を「集団時代劇路線」第一作としている。

渡邊も著書で一度も「集団抗争時代劇」「集団時代劇」という言葉は使わず「私が推し進めた『新時代劇路線』」などと説明している。『映画時報』1963年11月号に「時代劇復興に力こぶを入れている東映では、今度時代劇に”数字シリーズ”を採用することになり、これを”集団映画路線”と名付けている」と書かれ[21]、準備中の作品として『十三人の刺客』(片岡千恵蔵主演)『十一人の賊軍』(松方弘樹主演)『九人の反逆児』(山本周五郎原作、『砦山の十七日』より)『二十一人の眼』(里見浩太朗主演)『三十七の足跡』(松方弘樹主演)が発表された[21]。辻野力弥東映企画室長は「『ナバロンの嵐』や『大脱走』など、最近の洋画のヒット作を見ても分かるように、魅力あるスターを混えての集団の活躍が多くのファンに喝采を浴びている。東映時代劇は、この集団の魅力に数字のインネンを加えて新しく”数字シリーズ”製作を決定した」などと話しており[21]、時代劇だけ”集団もの”を路線化したわけではなく、当時の映画界の趨勢を受け、東映全体で取り入れた”集団もの”の一つに時代劇があったと見られる。岡田茂が東映東京撮影所(以下、東映東京)所長時代に路線化した「ギャング路線」にも”集団劇”が取り入れられており[22]、東映東京で『暗黒街の顔役 十一人のギャング』(1963年1月公開)や『ギャング対Gメン 集団金庫破り』(1963年2月公開)を撮った石井輝男は「その頃、会社からスターを揃えた集団劇にしてくれ」と発注があった」と証言している[22]

1964年8月に『集団奉行所破り』という映画が公開され、”集団”という語をタイトルに初めて使用した命名者は、当時の東映京都所長・岡田茂とされているため[25]、会社もこの頃には「集団時代劇」というジャンルを明確にしていたものと見られる。岡田は企画部を所長直属にし、全権を自ら負い、新しい時代劇をどんどん作らせた[26]。岡田は前任の東映東京で上手くいった若手での東映京都改革を目指していた[26]。特に本作以降、「サスペンスフルな集団忍者アクションが面白い」という風潮が撮影所内に広がり、岡田も「企画書なんて出さなくてもエエから、いい考えがあったら口で言え!」と企画部員に伝え、忍者ものを中心とした「集団時代劇」が大量に生産された。

「集団時代劇」が製作されたのは1963年~1967年頃までの4~5年間とされており[15][27]、製作当時にそれらの映画を紹介する文献には「集団路線」[28]、「集団剣劇路線」[29]、「集団刺客サスペンス」などと書かれている[30]。山根貞男は「『集団時代劇』といっても、そんなジャンルが明確にあるわけでも、ちゃんとした定義があるわけでもない。ときには『集団抗争時代劇』とも『集団残酷時代劇』と呼ばれることがある。1963年12月、工藤栄一監督『十三人の刺客』が出現したとき、ラストのえんえんと長い凄惨な殺陣が多くの人に衝撃を与え、ジャーナリズム上にそうした呼称が生まれたのであろう」と論じている。

本作に次いで渡邊の指揮による本作と同じ脚本・池上金男、監督・工藤栄一による『十三人の刺客』が1963年12月7日に『わが恐喝の人生』(佐伯清監督)と併映で封切られた。興行は失敗に終わったが、これが「集団時代劇」の白眉となり、「集団時代劇」はシリーズ化された。但し、興行的には目立ったものはなく、時代劇の頽勢は挽回できぬ状況になった。1964年2月、東映東京を再建した岡田茂が、大川博東映社長から東映京都の合理化と時代劇改革の指揮権移譲を受けて[31]、東映京都所長に復帰した。岡田は東映京都の全ての企画の決定権を握った[34][35]。東映東京の撮影所長時代から、東映京都の時代劇はもうダメだろうと考えていた岡田であったが[36]、「任侠路線」へ全面切換えを決意する前は[39]、時代劇復活の望みを持っており[26]、リストラ対策に呼応して[41]、一人のスターにたよらない集団劇を方針の一つとして挙げていたため[42]、任侠路線を敷く準備をしながら、当初は「集団抗争時代劇」は継続させた。「集団抗争時代劇」は、東宝の『用心棒』や松竹の『切腹』などに触発され、東映の明朗時代劇に陰りが見えたことから、他社の時代劇の対抗策として作られた。しかし任侠路線が大当たりを続けたことで「集団時代劇」を含む時代劇の映画での製作は終了させ[44]、時代劇はテレビに移していった[44][47]

「東映集団時代劇」は、東映時代劇の衰退期に、次の方向を模索する中で、リアルな表現と大人向きのテーマを内包する事によって一時的に人気は得たものの、それが逆に、従来の明朗時代劇のウソを暴露する事ともなり、時代劇自体の人気(幻想)を急速に衰えさせる結果になった。抬頭した任侠路線によって、東映映画の主流はそちらに向かい、やがて任侠映画が時代劇にとって代わる日本映画の看板になっていった。しかし「集団時代劇」が描いたリアルな殺陣は、任侠映画に引き継がれ、やがては集団時代劇の数々の秀作を書いた池上金男によって、日活ニューアクションの元祖となった「無頼シリーズ」を生むに至る。政治の谷間で死んでいく下層の若者群像は、日活ニューアクションにも描かれ、そのテーマは、後の東映実録路線に受け継がれた。その歴史的存在意義は大きい。 

永田哲朗は「パターンの中に自己を見失っていた東映時代劇が、特定のヒーローではなく、集団ないしはグループ、組織が主人公だという新しい考え方を打ち出し、従来の善悪というような図式化された対立ではなく、組織対組織の抗争を描いた点は評価できる。しかし新しい方向へ進むかに見えた東映の集団リアリズム路線は、その後は”大”路線を作ることになって、リアリティも人間性も感じられない、いつもの東映調に後退させた」などと評している。

西脇英夫は1976年の映画誌の時代劇特集で「『集団抗争時代劇』は多くの新人作家を一本立ちさせ、時代劇に新しい境地を開いた。その後、彼らのほとんどは映画界からテレビ界へ移行して時代劇を作り続けている。しかし映像の小さいテレビにそのエネルギーがどこまで反映したかはなはだ疑問である。シリアスで残酷な時代劇は茶の間向けではないのだろう。もはや彼らの熱気をテレビで伺い知ることはできない。あの4年間の東映集団抗争時代劇とは一体何だったのだろう。任侠映画、実録やくざと、変貌し続けた東映の戦国乱世時代のスタートを飾る胎動期であったのか。あの誠実な時代劇作りの精神は時代劇作家の最後のいなおりだったのか。いずれにしろ、その結論を出すのはもうしばらく控えよう。再び時代劇映画の伝統と革新がスクリーンの上に数々の作品となって甦るその日を待って」などと論じている[15]

東映京都の脚本同人グループの中核メンバーだった鳥居元宏は、天尾完二プロデューサーから忍者映画の企画を持ち込まれ、「それまでにない忍者映画の脚本」を自負する脚本を書いて[49]岡田茂所長に提出。助監督仲間が次々監督デビューする中、取り残されていた鳥居は、岡田から「監督は誰がええやろうな」と言われたため、絶好のチャンスとばかり「そりゃあ僕でしょう」と自薦した。監督デビューは承認されたが、岡田から「タイトル決まったで!『十七人の忍者 大血戦』や」と言われた。「十七人も出てきませんよ」と反撥したが、岡田から「ええわ。新人監督の映画やから、題名を続編みたいにした方が売りやすいやろ」と全く関係のない本作の続編にされた。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]