ヘンリー・ウィリアムズ=ウィン – Wikipedia

サー・ヘンリー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィン(英語: Sir Henry Watkin Williams-Wynn KCB GCH PC、1783年3月16日 – 1856年3月28日)は、イギリスの外交官。

第4代準男爵サー・ワトキン・ウィリアムズ=ウィン英語版の三男として[1]、1783年3月16日に生まれた[2]。母はシャーロット・ウィリアムズ=ウィン英語版(旧姓グレンヴィル、イギリス首相ジョージ・グレンヴィルの娘)。チジックで家庭教師による教育を受けた後、1796年から1798年までハーロー校に在学した[2]

1799年4月、母方の叔父にあたる初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの外務大臣在任中に外務省の秘書官に就職した[2]。グレンヴィル男爵はウィリアムズ=ウィンをトマス・グレンヴィル英語版(グレンヴィル男爵の弟)の秘書官に任命して、2人をベルリンに派遣するが、2人は間一髪で海難死を逃れるという危険に遭った[1]。その後、グレンヴィル男爵は1801年2月1日にウィリアムズ=ウィンを自身の秘書官に任命したが、わずか3週間のうちにグレンヴィル男爵自身が辞任したため、ウィリアムズ=ウィンも1801年2月20日に外務大臣付き秘書官を退任した[1]

1803年6月、在ザクセン特命全権公使英語版に任命されたが、ザクセン首都ドレスデン滞在中の1806年10月にはフランス軍の進軍によりテプリッツ英語版、ウィーン、ケーニヒスベルクへと退避、やはり間一髪で海難死を逃れて帰国した[1]。その後、1,500ポンドの年金を与えられ、1807年1月にはミッドハースト選挙区英語版で庶民院議員に当選した[2]。同年4月に議会で一度投票したが、直後の解散総選挙で議員を退任した[2]。1810年にグレンヴィル男爵がオックスフォード大学学長英語版に就任すると、ウィリアムズ=ウィンは同年7月6日にD.C.L.英語版の学位を授与された[2]

議員退任以降も「グレンヴィル男爵が与党に復帰するとその秘書官になる」「親族の援助を借りて議員に返り咲く」「ジョージ・カニング(1808年)やカースルレー子爵(1815年7月)に外交職への任命を求める」など多くの噂や動きがあったがいずれも実現せず、1821年にウィリアムズ=ウィン家が首相リヴァプール伯爵と和解してようやく在スイス特命全権公使英語版(1822年2月)に任命されたが[1]、この任命は1822年3月に貴族院で、5月に庶民院で批判を受けた[2]。1823年2月に在ヴュルテンベルク特命全権公使英語版に、1824年9月に在デンマーク特命全権公使英語版に転じた[2]

1825年9月30日に枢密顧問官に任命され、1831年にロイヤル・ゲルフ勲章英語版ナイト・クランド・クロスを、1851年3月1日にバス勲章ナイト・クランド・クロスを授与された[2]

1853年初に在デンマーク特命全権公使を退任、1856年3月28日に死去した[2]

1813年9月30日、ヘスター・フランシス・スミス(Hester Frances Smith、1854年3月5日没、初代キャリントン男爵ロバート・スミス英語版の娘)と結婚、3男3女をもうけた[2]。子女のうち1男がクリミア戦争中の1854年に戦死した[2]

  1. ^ a b c d e

    Thorne, R. G. (1986). “WILLIAMS WYNN, Henry Watkin (1783-1856), of Llanforda, Salop.”. In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年5月31日閲覧

  2. ^ a b c d e f g h i j k l Courtney, William Prideaux (1900). “Wynn, Henry Watkin Williams” . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). 63. London: Smith, Elder & Co. pp. 256–257.