山内作左衛門 – Wikipedia

山内 作左衛門(やまのうち[1] / やまうち さくざえもん、1836年9月1日(天保7年7月21日) – 1886年(明治19年)3月21日)は、江戸時代の幕臣、明治時代の実業家。名は信恭。

江戸において、旗本伊奈氏家臣の山内豊城(徳右衛門)の息子として生まれる[2]。1865年(慶応元年)、29歳の時に江戸幕府がロシア語通詞・志賀親朋と箱館駐在の露国領事ヨシフ・ゴシケーヴィチの勧請を容れて、初めてロシアへ留学生を派遣することになり、当時、箱館奉行支配調役並の作左衛門は目付役として、10代の市川文吉、緒方城次郎、大築彦五郎、田中次郎、小沢清次郎と9月16日に、ロシアの軍艦「ポカテール」号で箱館を出帆した。長崎、香港、シンガポール、バタビア(現ジャカルタ)、ケープタウン、セント・ヘレナ、イギリスのプリマス経由で、フランスのシェルブールに上陸、汽車でパリ、ベルリンを経由して、翌1866年(慶応2年)4月1日に、サンクトペテルブルク到着。

到着後にロシア外務省アジア局に出頭し、橘耕斎と合流、サンクトペテルブルク大学東洋語学部長で中国学者ワシーリエフ教授下でロシア語を学ぶが、留学先で初めてロシアが後進国であることを知る。結果的に、榎本武揚ら1862年に開陽丸で向かったオランダ留学組、1866年のイギリス留学組、1867年のフランス留学組のように最新の技術や知識を習得出来ずに帰国することになり、維新後の活躍の舞台で不利に働くことになった。

帰国後、新選組に助力したため、新政府軍によって投獄されたが、維新後は実業家に転身、横浜や東京日本橋で陸軍御用の薬種商を営んだ。1884年には、欧州留学時に知り合った森有礼と東京外国語学校の改廃問題に関わっている。

  • 弟・山内堤雲(鹿児島県知事)
  • 弟・山内徳三郎(地質学者。開拓使御用掛時代にベンジャミン・スミス・ライマンから地質、測量学を授けられ「福岡佐賀長崎三県下炭坑巡回報告書」を執筆。)
  • 妻・ふさは佐藤泰然の四女。林洞海、松本良順、林董とは義兄弟にあたる。洞海の娘婿が榎本武揚。
  • 孫の玉枝は海軍少将・森電三(黒野義文の二男)の妻。
  1. ^ 『日本人名大辞典』1988頁。
  2. ^ 『幕末維新大人名事典』下巻、632頁。

参考文献[編集]

  • 內藤遂、山內作左衛門「幕末ロシア留学記」(雄山閣)、 1968年-
  • 西村庚「黒野義文に関する聞き書きその他」『文献』(特殊文庫連合協議会)第10号、1965年、pp. 5-15 (『ユーラシア』1、1971年、pp. 73-85 に再掲)
  • 倉沢剛「幕末教育史の研究」 第2巻(吉川弘文館)、 1983年
  • 関榮次「遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督」(PHP研究所)、1996年
  • 伊藤隆「日本の内と外」(中央公論新社)、2001年
  • 渡辺雅司『明治日本とロシアの影』東洋書店〈ユーラシア・ブックレット〉、2003年
  • 野中正孝(編著)『東京外国語学校史 – 外国語を学んだ人たち』不二出版、2008年
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。