荒木村重 – Wikipedia

荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。

池田・織田家臣時代[編集]

天文4年(1535年)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)[1]の嫡男として池田[5]に生まれる[6]。荒木氏は波多野氏の一族とされ[7]、先祖は藤原秀郷である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。

最初は池田勝正(長正の次の当主)の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正(長正の長男)と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。

その後、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。

一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。

天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。

翌年には有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして同郡を平定する。

村重は細川政権・三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城・越水城の両城を廃して有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築した。

天正3年(1575年)には宇喜多直家に離反された浦上宗景を支援し、「宇喜多端城」(所在地不明)に浦上宗景を入城させる。

以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。この間、従五位下摂津守に任ぜられる。

謀反[編集]

天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまった[8][9][10]

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。

12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。この事は

百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。 — 『信長公記』

と記されている。12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を、

かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。 — 『立入左京亮宗継入道隆佐記』

と記している。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。

しかし肝心の村重本人は息子・村次と共に、親戚の荒木元清がいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる[11][12]

茶人として復活[編集]

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住する。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し[13]荒木道薫(どうくん)となった[14]

天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。

謀反の理由[編集]

村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではない。ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われている(『信長公記』、『フロイス日本史』など)。

  • 村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉と播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、前掲2者の意向を受けての謀反だったのではないかという説。(幕府奉公衆の小林家孝が有岡城に入城して連絡係を務めていた)
  • 村重の家臣(中川清秀と言われる)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。
  • 信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。同書では秀一が村重に対して小便をひっかけたとしている。これは竹中重治と同じ逸話であり信頼性は乏しいが、信長の側近衆と何らかの対立があったとみる説がある。
  • 天正元年(1573年)、村重は信長を近江国の瀬田で出迎えたが、この時に信長が刀の先に突き刺して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わわさせられたという怨恨説(後述の『絵本太閤記』二編巻之禄六「荒木村重が餅を食らう」場面を謀反の理由に関連づけたもの)。
  • 黒田孝高(当時は小寺孝隆)と相談の謀略説。信長暗殺のため(後に成功した本能寺のように)手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったという。そのため信長の遺産を継いで天下人となった豊臣秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説。実際、信長は孝高を村重方に寝返ったと決めつけ、人質としていた孝高の子・松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を秀吉に命じている。
  • 将来に希望が持てなくなったからという説。石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもあったが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといわれる。
  • 摂津国内では信長勢力の進出まで国衆や寺内町・郷村などが比較的独自の支配体制を築いてきたが、信長はこうした勢力を統制下に置こうとしたために織田政権への反発が強まり、その矛先が村重に向けられつつあった。村重は国衆や百姓からの突き上げに追い込まれた結果、却って信長に叛旗を翻して彼らの支持を受けた方が摂津支配を保てると判断したとする説。実際、村重の反逆の直後にこれまで石山本願寺の目の前にありながら石山合戦に中立的であった摂津西部の一向一揆が蜂起し、尼崎城や花隈城の戦いではむしろ彼ら百姓主導による抵抗が行われて、信長軍も西宮から須磨の村々を焼き討ちにして兵庫津では僧俗男女の区別なく皆殺しにしたと伝えられている[15]

太平記英雄伝[編集]

「太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重」(落合芳幾作)

歌川国芳画の「太平記英雄伝廿七 荒儀摂津守村重」や、落合芳幾画の「太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重」で描かれている場面は、『絵本太閤記』二編巻之禄六「荒木村重が餅を食らう」の話を基にして描かれたものである。

嘉永期になると幕府の規制が緩み、太閤記関連の版本が多く出るが、それでも江戸時代の武者絵の通例で名前をもじって記載している。

『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明であるが、これによると、織田信長に拝謁した時に、村重は「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前につき出した。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を村重に任せたという。

村重はこの時38歳。信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞して、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないか、とも想像できる逸話である。

池田市の伝・荒木村重の祠
  • 江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫の一人とされている[16]
  • 荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた[17]
  • 現在の大阪府岸和田市荒木町には、伊丹城陥落時に村重の子の岩楠が乳母と共に当地へ逃れ来て、吉井村の荒地だった当地を開墾して土着し、後に荒木村が成立したという伝承がある[18]
  • 熊本藩に息子・荒木村勝の子・荒木克之の系統が仕官している。
  • 荒木流拳法は創始者を村重の孫・荒木夢仁斎源秀縄としている[19]

主な家臣[編集]

(*有岡城の戦いで村重が没落するまでの家臣。従属者も含む。)

荒木村重を題材とした作品[編集]

  1. ^ a b 異説として荒木高村(たかむら)を父とするものもある。『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』では高村は義村の父、すなわち村重の祖父としている。
  2. ^ a b c 『系図纂要』より。
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』より。
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』では嫡男・村次の母とされる。だしがこの北河原三河守の女ではないかとする説もあるが、今のところだしと村次が年齢が近いということになっているため有力とは言えない。
  5. ^ 現:大阪府池田市。
  6. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 60頁。
  7. ^ 『荒木略記』『寛永諸家系図伝』
  8. ^ ただし、これは闇雲に逃走したわけではなく、毛利軍の将・桂元将の詰めていた尼崎へ援軍要請に向かった為である。現にその後も西へ逃亡することなく半年以上も尼崎に留まり抗戦している。
  9. ^ [1]天野忠幸氏は、自身の書籍にて、乃美文書には村重は御前衆数百騎と共に織田方の包囲網を突破する形で尼崎城に向かったと記されていることを主張している。
  10. ^ 小川雄は著書『水軍と海賊の戦国史』の中で通説で言われるような恐慌からくる敵前逃亡ではなく第二次木津川口の戦いや中川・高山の降伏により補給路を絶たれたため、まだ毛利方(村上水軍)が補給路を確保していた尼崎城・花隈城を確実に抑える事で、本願寺・毛利方との連携を維持するための戦略的撤退だったとする見方をしている
  11. ^ 「軍師官兵衛」にも登場、荒木村重しのび茶会 : ニュース : 新おとな総研- 読売新聞[リンク切れ]
  12. ^ 中国新聞 2014年2月28日12面
  13. ^ 『完訳フロイス日本史』
  14. ^ はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。
  15. ^ 天野忠幸「荒木村重の摂津支配と謀反」『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1 P130-136
  16. ^ 『岩佐家譜』など。近年『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図を根拠に、又兵衛は村重の末子ではなく、村次の長男で村重の孫とする説もある(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。
  17. ^ 熊本藩細川家の家譜『綿考輯録』(『細川家記』)巻五(『出水叢書一 綿考輯録 藤孝公』所収、出水神社 ISBN 978-4-7629-9323-7)
  18. ^ 岸和田市:市史史料目録「荒木家文書」
  19. ^ 荒木流拳法”. 日本古武道協会 (2010年1月19日). 2010年1月19日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]