株式会社山形屋(やまかたや、英称:YAMAKATAYA Co., Ltd.)は、鹿児島県鹿児島市に本社を置く日本の百貨店。南九州地域(鹿児島・宮崎両県)で5店舗を展開している。 山形屋の創業は1751年(宝暦元年)[1]、百貨店化は明治時代中頃、近代的なデパート建築(清水組による施工)となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西における百貨店第1号である。 百貨店の共同仕入機構であるA・D・Oに加盟している。 以前、1号館1階には山形屋バスセンター(鹿児島交通・三州自動車のバスターミナル)を併設していたが現在は閉鎖、鹿児島市内及び薩摩半島中南部を中心とした広域エリアから集客に貢献していた。 本店舗[編集] グループ企業運営店[編集] きりしま国分山形屋 山形屋グループ百貨店は、上記のとおり、それぞれ独立した企業として運営されている。したがって、厳密には「山形屋」とは株式会社山形屋が運営する鹿児島市の旗艦店のみを指す。 かつては、島津氏の勢力圏そのままに、熊本県人吉市や沖縄県那覇市(沖縄山形屋)にもグループ百貨店が存在した。 現在、山形屋グループは、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)において、上記のグループ百貨店をはじめ、スーパー部門子会社の山形屋ストア、山形屋ショッピングプラザなどの企業を展開している。 山形屋の北海道物産展。売上高は全国トップである 電車通りに面した1号館は1999年(平成11年)に昭和初期のルネサンス調の外観に復元され、夜間には美しくライトアップされる。建物内部も曲線をもつ柱や梁などが復元されており、1号館1階は高い天井とシャンデリア、柱には大理石の化粧貼りが施されている。 今では珍しくなった大食堂が健在である。山形屋子会社のベルグ(旧・山形屋食堂)が1943年(昭和18年)7月に運営を開始し、1972年(昭和47年)から現在の7階で営業している。他の百貨店では複数の専門店から構成されるレストラン街に移行したところが多いが、山形屋では大食堂が盛況を維持し、視察に来た他店の関係者が驚くという。名物は1958年(昭和33年)から出している「焼きそば」で、揚げ麺に野菜たっぷりのあんかけをかけたものである。安価に設定されているものの、年間13万食が提供され、このメニューだけで大食堂の売り上げの半分を占める[3]。屋上には遊園地の「山形屋ファミリーランド」[4]が2015年(平成27年)1月8日まで存在した。また、無料給茶機や個別空調を完備した休憩室も設けられている。 山形屋の「北海道の物産と観光展」(北海道物産展)は1964年(昭和39年)12月1日に第1回が開かれ、2013年(平成25年)で50回目を迎える鹿児島の秋の風物詩である。2012年(平成24年)の売上高は8億9700万円で、北海道が主催する物産展としては13年連続で日本一を記録している。山形屋の北海道物産展では、同社のバイヤーが直接北海道入りし、仕入れ交渉や商品開発の運営まで担う特徴がある。商品の例としては、鹿児島向けに甘い醤油が使用されたいくらしょうゆ漬けや松前漬けが開発されている[5]。2013年の第50回展では記念式典が開催され、高橋はるみ北海道知事から山形屋に感謝状が送られた[6]。この第50回展では、通常は商業施設の催事などは取り上げることがないNHKも全国放送で生中継を実施した(「情報まるごと」)。担当したのは、当時NHK鹿児島放送局に勤務していた、山形県出身の大石真弘アナウンサーだった。 店内放送のチャイム(山形屋グループ百貨店共通)として「アルプスの牧場」[7]が使用されている。 創業は1751年(宝暦元年)。創業者は近江商人の血を受け継ぐ現在の山形県庄内地方の北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て開業した鹿児島城下唯一の呉服商が現在の山形屋の前身といわれる(1号館の壁面に山形屋呉服店のレリーフが掲げられている)。 大正時代には、1912年(大正元年)に山形屋に先んじて「明治屋呉服店」というデパート風の商店が近くに開業した。ルネサンス風の3階建ての壮観な建物を持ち、店員150人、年間売上200万円に上るなど、鹿児島随一の店舗とされていた。しかし、この頃、鹿児島市電(当時は民営の鹿児島電気軌道)の建設計画が進んでいた。その路線計画は、現行の電車通りより海側の当時の繁華街であった広馬場を通るものであった。広馬場周辺の商店主は、電車を通すために必要な道路拡幅で店舗用地を削られることを嫌って反対し、計画は難航していた。そこで当時の山形屋の当主であった岩元信兵衛は早速電車会社に対して用地提供を申し出、そのために必要な店舗建物の撤去費用も自分で負担するとした。電車会社としても、広馬場周辺の商店主としてもこれに異論はなく、こうして現在の電車通りに路面電車が通ることになった[8]。 折から山形屋は本格的な百貨店へと新築工事を進めていたが、本来の計画では西側に正面を向けることになっていた。しかし、東側の通りが電車通りとなったことから設計が変更され、電車通りに正面を向けて華やかなショーウィンドウを備えた建物となった。路面電車の運行によって人の流れが変わり、従来の繁華街広馬場から山形屋のある金生町周辺がメインストリートへと変貌した。この流れに抗することができず、明治屋も1931年(昭和6年)に電車通り沿いの高見馬場に移転することになったが、結局第二次世界大戦時の鹿児島大空襲により焼失してそのまま閉店した[8]。
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