Month: November 2017

コンチリアトーレ – Wikipedia

コンチリアトーレ Il Conciliatore 1818年のコンチリアトーレの表紙。薄青の紙が特徴的。 ジャンル 文学・政治 刊行頻度 週二回 発売国 ロンバルド=ヴェネト王国 言語 イタリア語 編集長 シルヴィオ・ペッリコジョバンニ・ベルシェ 刊行期間 1818年9月3日‐1819年10月17日 テンプレートを表示 コンチリアトーレ(イタリア語: Il Conciliatore)は、1818年9月3日から1819年10月17日の間にオーストリア帝国支配下のロンバルド=ヴェネト王国で刊行されていたロマン主義文学および政治を扱う雑誌である。ビブリオテーカ=イタリアーナから脱退したシルヴィオ・ペッリコやジョバンニ・ベルシェが創刊した。

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広島県立広島皆実高等学校 – Wikipedia

広島県立広島皆実高等学校 過去の名称 広島県広島有朋高等学校広島県広島皆実高等学校 国公私立の別 公立学校(県立) 設置者  広島県 校訓 勤勉・強行・責任・自由 設立年月日 1901年(明治34年)12月28日 共学・別学 男女共学 課程 全日制課程 単位制・学年制 単位制 設置学科 普通科衛生看護科体育科 専攻科

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冷たい風と片思い/ENDLESS SKY/One and Only – Wikipedia

『冷たい風と片思い/ENDLESS SKY/One and Only』(つめたいかぜとかたおもい/エンドレス・スカイ/ワン・アンド・オンリー)は、モーニング娘。60枚目のシングル。「モーニング娘。’15」(-ワンファイブ)名義で2015年12月29日に発売された。[4] 9期メンバー鞘師里保の卒業シングル[5]。 リリース[編集] 初回生産限定盤A・B・C・通常盤A・B・Cの6形態で発売。 初回生産限定盤A・B・CにはDVD同梱。 初回生産限定盤A・B・Cはイベント抽選シリアルナンバーカードが封入。 初回仕様通常盤A・B・Cはトレーディングカード(通常盤A:「冷たい風と片思い」衣裳のソロ13種+集合1種よりランダムにて1枚、通常盤B:「ENDLESS SKY」衣裳のソロ13種+集合1種よりランダムにて1枚、通常盤C:「One and Only」衣裳のソロ13種+集合1種よりランダムにて1枚)が封入。 また、mora(レーベルゲート)にて96kHz/24bitのハイレゾ音源(ファイルはFLAC形式)の配信が行われている[6]。 2016年5月11日、同作品をアナログ・シングルで発売。『冷たい風と片思い』ニュー・バージョンであるTYPE Bがアナログシングル限定で収録[注釈 1]。 冷たい風と片思い 元々鞘師のソロの予定で作曲された楽曲[4]。 センターは鞘師里保、メインボーカルは鞘師里保、譜久村聖、佐藤優樹、工藤遥、小田さくら、野中美希。

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ワサビノキ – Wikipedia

ワサビノキ(学名:Moringa oleifera Lam.[3])は、ワサビノキ科唯一の属であるワサビノキ属の1種であり、本属で最も広く栽培されている。属名のモリンガで呼ばれることもあり、日本で食材として扱う事業者やその商品名でも「モリンガ」と称することが多い[4]。フィリピンでは、カムンガイ、カモンガイ、マルンガイと呼ばれる。 英語では「モリンガ」の他、果実の形態から「ドラムスティックツリー」、根の味から「ホースラディッシュツリー」、種子からとれる油に注目して「ベンオイルツリー(ベンゾイルツリー)」の名がある。本種は木本であり、生長が速く旱魃に強い。インド北西部のヒマラヤ山脈南麓を原産とし、熱帯・亜熱帯地域で広く栽培されている。栽培地域を中心に若い果実や葉が野菜として食される他、浄水や手洗いに用いられ、時に薬用植物とされる。 属名のモリンガ(Moringa)はタミル語のムルンガイ(murungai、「捻じれた莢」の意)に由来する[5][6]。種小名の oleiferaは「油を持つ」を意味し、搾油できる特徴による。 ワサビノキは、成長が速い樹木であり、環境に応じて常緑性または落葉性を示す。成木は高さ10~12メートル[7]、直径45cmにまで達する[8]。樹皮は白みがかった灰色で、厚いコルク層に覆われている。若い芽は、紫や緑がかった白の毛むくじゃらの樹皮を持っている。樹冠は開けており、枝は脆く垂れやすく、葉は3回羽状複葉。 花は両性で、長さ約1~1.5センチメートル、幅は約2センチメートルで、香りがある。花弁は不同で、薄い縞模様のある黄色がかった白色。長さ10〜25センチメートルほどの広がった垂れやすい円錐花序につく。花梗は細く、有毛。花は植えて6カ月以内に咲き始める。開花は涼しい地域では4月~6月に見られ、気温や降水がより安定した地域では1年に2度あるいは1年中見られる[7]。 果実は三角柱型の蒴果で3室、長さ20~45センチメートル、茶色に熟し、ぶら下がる。種子は直径約1センチメートル、球形で黒褐色、3枚の白みがかった薄い翼を持ち、風または水によって散布される[8]。 栽培下では、葉や果実が手の届く範囲につくよう、高さ1~2メートルに手入れされることが多い[9]。 ワサビノキは、アメリカ合衆国農務省ハーディネスゾーン9と10に対応する、半乾燥・熱帯・亜熱帯地域で主に栽培される。広い範囲の土壌環境下で生育可能であるが、中性から弱酸性で、水はけの良い砂質土壌を好み、水はけが悪いと根腐れしやすい。日光や高温を好み、凍結や霜には弱い。乾燥地域に特に適しており、コストがかかる灌漑技術を使わずとも、雨水で成長させることができる。 ワサビノキの栽培条件 要素 条件[10] 気候 熱帯や亜熱帯で最も育つ 標高 0 – 2000

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タトラK3R-NT – Wikipedia

タトラK3R-NTは、チェコの路面電車であるプルゼニ市電で使用されている路面電車車両の1形式。既存の車両を改造した、車内にバリアフリーに適した低床部分が存在する3車体連接車である[3][4][5]。 2004年以降、チェコの都市・プルゼニ市内で公共交通機関を運営するプルゼニ市交通会社(チェコ語版)は欧州連合からの資金援助を受けプルゼニ市内における交通網の大規模な近代化や再編を実施した。その一環として、輸送力増強とバリアフリー化の促進を目的に導入が行われたのがK3R-NTである[3][4][5]。 K3R-NTは新造車両ではなくチェコスロバキア時代に導入された路面電車車両であるタトラT3を改造したものであり、車体の一部を改造・切断した2両のタトラT3と新たに作られた中間車両を組み合わせる形で組成された3車体連接車である。改造に際しては電気機器の大規模な更新も実施しており、制御装置にはデジタル制御、双方向ネットワークシステム「CAN」、制御システム「CECOM」等を備えた「TVプログレス(TV Progress)」が搭載されている他、運転室には冷房装置が備えられている。集電装置についてもシングルアーム式パンタグラフへの交換が行われている[2][3][4][5]。 車内についても改装が行われ、座席や車内照明の交換、車内情報案内装置の設置が実施されている他、新造された中間車体は中央部の床上高さを下げた低床構造となっており、扉の下部には収納式のスロープも搭載され、バリアフリーに適した構造となっている[2][3][4][5]。 一連の改造は2005年から2006年にかけて行われ[注釈 1]、2021年現在は4両(301 – 304)が在籍する。そのうち最初の2両については運行開始に合わせて地元の「ドミノ子供の家(Dětského domova Domino)」の子供たちにより「タンポポ(Pampeliška)(301)」「スパゲッティ(Špagetka)(302)」と言う愛称が付けられ、車内には子供たちの絵画の展示も実施されている[1][3][4][5]。 乗降扉は車体右側にのみ存在する(2017年撮影) プルゼニ市交通会社の広告塗装(2014年撮影) ウィキメディア・コモンズには、タトラK3R-NTに関連するカテゴリがあります。 注釈[編集] 出典[編集]

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チャールズ・マリク – Wikipedia

チャールズ・ハビブ・マリク(Charles Habib Malik[注釈 1]、アラビア語: شارل مالك‎、1906年2月11日 – 1987年12月28日)は、レバノンの外交官、政治家、神学者、哲学者である。国際連合でレバノン代表、人権委員会議長、総会議長、世界人権宣言の起草委員を務め、国内では教育・芸術担当、外務・移民担当の国務大臣を務めた。 若年期と教育[編集] マリクは、レバノンのBtourramで1906年に生まれた。両親ともに学者で、劇作家のファーラー・アントン(英語版)は大叔父にあたる。 ベイルート・アメリカン大学で数学と物理学の学位を取得した。1929年にカイロに移り、そこで哲学に興味を持った。ハーバード大学でアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドに師事し、1932年にはドイツのフライブルク大学でマルティン・ハイデッガーに師事した。しかし、1933年にナチスが政権を取り、その政策を好まなかったマリクはすぐにドイツを離れた。1937年、ハーバード大学で哲学のPh.D.を取得した。その後、ハーバード大学やアメリカ国内のいくつかの大学で教鞭を執った。レバノンに戻ったマリクは、母校のベイルート・アメリカン大学に哲学科を設立し、文化研究プログラム[4]を開設した。1945年に駐米大使兼国連大使に任命されるまで、この職にとどまった。 国連での活動[編集] マリクは、国際連合を設立するためのサンフランシスコ会議にレバノン代表として参加した。1947年と1948年に経済社会理事会議長を務めた。またこの年には、人権委員会の議長であるアメリカ代表のエレノア・ルーズベルトと共に世界人権宣言の起草に貢献した。その後、ルーズベルトの後を継いで人権委員会議長に就任した。また、1955年までレバノンの駐米大使兼国連大使を務めた。マリクは、国連総会の議論に率直に参加し、しばしばソ連を批判した。1958年、第13代国連総会議長に就任した[5]。 レバノン国内での活動[編集] 一方、マリクはレバノンの閣僚にも任命されていた。1956年と1957年には国民教育・芸術担当大臣、1956年から1958年までは外務大臣を務めた。閣僚時代の1957年には国民議会議員に選出され、3年間務めた。 1975年にレバノン内戦が勃発すると、マリクはキリスト教の大義を守るために、「レバノンの自由と人間のための戦線」(後の「レバノン戦線(英語版)」)の設立に協力した。ファランヘ党創設者のピエール・ジェマイエル(英語版)や、元大統領で国民自由党(英語版)のリーダーであるカミール・シャムーンら、レバノン戦線のトップリーダーの中で、ギリシャ正教の信徒であるマリクは唯一の非マロン派であった。レバノン戦線において、マリクは頭脳であり、他の政治家は腕力であると広く評価されていた。 マリクは神学者としても知られており、東方正教会、ローマ・カトリック、福音派など、宗派を超えて支持されていた。マリクは、聖書や初期の教父たちの著作に関する数多くの注釈書を執筆した。マリクは、当時の正統派神学者の中では数少ない、福音派界でも広く知られた神学者だった。福音派のリーダーであるビル・ブライトはマリクを高く評価し、その文章を引用した。1967年から1971年まで世界キリスト教教育協議会会長、1966年から1972年まで聖書協会世界連盟副会長を務めた。 マリクは、同じレバノンの外交官で哲学者のカリム・アズクール(英語版)との共同研究でも有名である[6][7][8]。ポストコロニアル理論の創始者のエドワード・サイードとは姻族関係にある[9]。 1948年12月の国連の会議で、マリクはレバノンについて次のように述べている。 わが国の何世紀にもわたる歴史は、まさに思想と良心の真の自由を維持し強化するためにあらゆる困難に立ち向かった小国の歴史である。数え切れないほどの迫害された少数民族が、時代を超えて、最も理解のある避難場所を我が国に見出してきた。我々の存在の根幹は、意見や信念の違いを完全に尊重することである。

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ケアマネジメント – Wikipedia

ケアマネジメントとは、主に介護等の福祉分野で、福祉や医療などのサービスと、それを必要とする人のニーズをつなぐ手法のこと。 名称の由来[編集] この用語は、日本では2000年4月から導入された介護保険制度により一般的となった。それまでは、社会福祉学者から「ケースマネジメント」や「ケアマネジメント」、看護学者から「ケアコーディネーション」と、同様の言葉が乱立し・提案されていたが、それぞれが同様の意味であることから、厚生省(当時)が「ケアマネジメント」の用語を採用し、その従事者をケアマネジャー(介護支援専門員)と呼ぶようになった。 ケアマネジメントのプロセスーその概要ー[編集] 通常は、①インテーク[サービスの受理面接]→②アセスメント[生活課題の分析]→③プランニング[サービス計画の立案]→④サービスの実施→⑤モニタリング[サービスの進行中における中途の評価]→⑥サービス評価[エヴァリュエーション:最終的なサービスの評価]→⑦フィードバックないし上述の②から再び上述のプロセスを経る。何らかの理由でサービスの中止に至った場合、終結となる。 日本の介護保険[編集] 現行の制度(2007年4月現在)において、介護保険のサービスを利用する場合、以下の方法がある。 利用者、または家族でサービス計画(ケアプラン)を策定し、自己管理でマネージメントする場合(俗称でセルフケアプランという) 介護支援専門員に依頼してサービス計画(ケアプラン)策定に基づくサービスマネジメントを依頼する場合 ただし、現行の制度が複雑であり、法規にさえ明記されていない細かいルールが存在し(これは厚生労働省からの「通知」という形で示される場合がほとんどである)、介護報酬のレセプト管理も煩雑で複雑なこと、さらに医療知識や介護保険以外の社会資源の知識も要求されることから、介護支援専門員にサービス計画策定の依頼を行うことがほとんどである。もっとも、2007年上述の1.のセルフケアプランによる方法をとるケースが若干増えたという[1]。 ケアマネジメントとサービス計画策定の依頼[編集] ケアマネジメントを介護支援専門員に依頼する場合、居宅(在宅)の場合と施設入所の場合とに大別される。 居宅(在宅)の場合 介護給付相当(要介護1〜5)/都道府県が介護保険法上の指定を行った指定居宅介護支援事業者に依頼を行う。指定居宅介護支援事業者所属の介護支援専門員が、ケアマネジメントを行う。 予防給付相当(要支援1・2)/居住地域内(住民票がある地域)の地域包括支援センターの保健師または経験ある看護師が予防給付対象者のためのケアプランを策定し、ケアマネジメントを行う。ただし委託の方法で、指定居宅介護支援事業所にケアマネジメントを行わせることも可能である。 施設入所の場合 当該の介護保険施設(指定介護老人福祉施設、介護老人保健施設、指定介護療養型医療施設)に入所契約し、実際に入所した場合、施設勤務の介護支援専門員がケアマネジメントを行う。なお、要介護1〜5の利用者が入所できるので、予防給付の者は原則として入所できない(ただし旧措置制度による現入所者で、一定の移行期間に要支援1・2と判定された者も例外的に入所継続が可能であったが、この措置は平成21年3月をもって終了した)。 関連項目[編集]

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富田常雄 – Wikipedia

富田 常雄(とみた つねお、1904年(明治37年)1月1日 – 1967年(昭和42年)10月16日)は、日本の小説家。柔道五段。東京府生まれ。明治大学商学部卒。初め心座文芸部に入って新劇運動に参加したのち、『姿三四郎』が大変な人気を呼んで流行作家となる。戦後『面』『刺青』で直木賞受賞。映画化、ドラマ化された作品も多く、大衆文学の大家として人気を博した。 柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。永田町小学校(現千代田区立麹町小学校)、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、明治大学商学部[1]。在学中、詩誌『感情革命』を創刊する。1928年、河原崎長十郎らの心座文芸部に参加する。他のメンバーに舟橋聖一、村山知義らがいた。 『姿三四郎』(1942年)で流行作家となる。戦後、『刺青』『面』(1949年)で第21回直木三十五賞受賞。大衆小説の大家として知られ、生前は長者番付の作家部門では常連として名を連ね続ける程の人気を誇った。 数多くの作品が映画化・テレビドラマ化されており、人気を博している。1965年(昭和40年)度の日本レコード大賞受賞曲である美空ひばりの『柔』は富田原作の同名ドラマ[2] の主題歌であった。『姿三四郎』は1943年、黒澤明監督、藤田進主演で初映画化され、戦後もたびたび映画化・ドラマ化され、1986年には「弁慶」を原作としてNHKで連続ドラマ『武蔵坊弁慶』が放送されている。 1950年代以降は馬主として競走馬を走らせており、所有馬には姿三四郎に因んで「スガタ」という冠名を付けていた。主な所有馬にはダイヤモンドステークス優勝など通算10勝を挙げたミネノスガタなど。 1967年10月16日、食道腫瘍の為に死去[3]。63歳没。 作品の著作権は2018年元日に終了し、パブリックドメインになっている。 『富士に歌ふ』新作讀物刊行会 1937 『現代の英雄』博文館 1940 『男性街道 とんかつ大将物語』博文館 1940 『西郷隆盛』大日本雄辯會講談社

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孔安国 – Wikipedia

孔 安国(こう あんこく、生没年未詳)は、前漢の学者。字は子国。孔子10世の孫。父は孔忠。兄は孔武。 呉音で「くあんごく」とも読む。 魯国曲阜の人。魯の人・申公について『魯詩』[1]、兒寬について『尚書』を学ぶ[2]。漢の武帝の時に諫議大夫に任ぜられ、博士となり、臨淮の太守へと進む[3]。景帝時代の末年に、魯の共王が宮殿拡張のために孔子の宅をこわし、壁の中から『尚書』『礼記』『論語』『孝経』などの古いテキスト数百編を発見した。それらは蝌蚪文字で記されており、安国は古文『尚書』を今字によって読解し、古文の学を起こした[4]。 安国は「古文」を都尉朝・司馬遷・倪寛に伝え、都尉朝から庸生・胡常・徐敖へと伝え、徐敖は王璜・塗惲に伝え、塗惲の弟子に賈徽・桑欽があり、賈徽は賈逵・許慎へと伝えた。この学流は、同様に後から発見され、古文で記されていた『周礼』『春秋左氏伝』などと接近し、いわゆる「古文学」の勃興へと繋がった。 『尚書』孔安国伝との関係[編集] 『五経正義』『十三経注疏』を通して現在に伝わる『尚書』の「孔安国伝」は、東晋の梅賾によって献上されたものである。長きに渡って、これが本物の『尚書』並びに「孔安国伝」であるとして受容されてきたが、清代の閻若璩によって、これが梅賾の偽撰であることが示された[5]。ほか、丁晏は梅賾以前に成立した証拠を挙げて魏の王粛の偽撰であるとし、また日本の武内義雄は王粛の門人である孔晁の字が安国であることから、孔晁の作であるとするなど[6]、作者には諸説あるが、いずれにしても、現在では『尚書』孔安国伝は孔安国の作ではないと結論付けられている。 同様に、『論語集解』に引かれる孔安国伝、『古文孝経』孔安国伝も、魏晋から六朝期にかけて作られた偽作とされる[7]。 ^ 『史記』儒林傳「申公,魯人也。…弟子為博士十餘人,孔安國至臨淮太守。」 ^ 『史記』儒林傳「伏生教濟南張生及歐陽生,歐陽生教千乘兒寬。兒寬既通尚書,以文學應郡舉,詣博士受業,受業孔安國。兒寬貧無資用,常為弟子都養,及時時閒行傭賃,以給衣食。」 ^ 『史記』儒林傳「弟子為博士者十餘人:孔安國至臨淮太守,周霸至膠西內史,夏寬至城陽內史,碭魯賜至東海太守,蘭陵繆生至長沙內史,徐偃為膠西中尉,鄒人闕門慶忌為膠東內史。」 ^ 『史記』儒林傳「孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。逸書得十餘篇,蓋尚書滋多於是矣。」 ^ 閻若璩『古文尚書疏証』 ^

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