Month: February 2018

浅間神社 – Wikipedia

浅間神社(あさまじんじゃ、せんげんじんじゃ)は、「浅間」を社名とする神社。主に富士山に対する信仰(富士信仰/浅間信仰)の神社である。 富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)、または浅間神を記紀神話に現れる木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)と見てこれを祀る神社である。 富士山は古くは「福慈神」[1]・「不尽神」[2] と記載されるような霊妙な神山・日本鎮護の神山であった[3]。しかし奈良時代末から火山活動が活発化し[4]、火山神(浅間神)としての信仰(浅間信仰)として全国に広がった[3]。「浅間(あさま)」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる[4]。「あさま」は古称で、もう1つの称「せんげん」は中世以降から用いられたとされる[5](「富士信仰#浅間の語源」も参照)。 浅間神と木花咲耶姫命が同一視されたのには木花之佐久夜毘売の出産が関係している。中には木花之佐久夜毘売命の父神・大山祇神や、姉神・磐長姫命を主祭神とするものもあり、それらを含めて全国に約1,300社の浅間信仰の神社がある。これらの神社は、富士山麓をはじめとしてその山容が眺められる地に多く所在する。その中でも特に、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。のち、浅間神は神仏習合により「浅間大菩薩」(本地仏:大日如来)とも称された。 祭祀の特徴として、主要な浅間神社は山中に祀られた山宮と麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られることが挙げられる[4]。これは、山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている[4]。また、関東地方を主として多くの神社の境内には富士塚が築かれ、氏子らで富士講が形成された。 名神大社「浅間神社」[編集] 延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』には、名神大社として駿河国と甲斐国に「浅間神社」の記載がある。 駿河国[編集] 「駿河国富士郡 浅間神社」と記載される名神大社。以下の一社に比定されている。 浅間大社は文献上最古から確認されている神社で、仁寿3年(853年)に名神[6]・従三位[7] に叙せられている。これは「浅間神」の初見でもあるが、初めから従三位という高位を授かるとは考えがたく、神名の成立はさらにさかのぼると考えられている[3]。貞観元年(859年)には正三位に叙せられた[8]。 社伝では、垂仁天皇3年とされる創建から大同元年(806年)までは山宮浅間神社で祀られており、同年に現在地に遷座したという。なお、遷座して来るまでの当地には式内社・富知神社が鎮座し、湧玉池を祭祀していた(現在は北方に遷座)[9]。この遷座は、富士信仰が水の神たる「フクチ・フジ」信仰から火の神たる「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事だと解されている[9]。 甲斐国[編集] 「甲斐国八代郡 浅間神社」と記載される名神大社。以下の三社がいずれも古社であることから論社とされ、同様に甲斐国一宮についても論社とされている。 浅間神社(笛吹市) – 旧国幣中社、別表神社

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高額な建築物の一覧 – Wikipedia

ここでは高額な建築物の一覧(List of most expensive buildings)について記す。建築物とは、屋根と壁を持ち、1つの場所に永続的に建っている構造物と定義されている[1]。空港の建設費には滑走路やシステムが含まれるため除外されるが、ターミナルビルは一覧に含まれている。金額の単位は億ドル。 ^ “建築物”. コトバンク. 2021年7月17日閲覧。 ^ “ITER disputes DOE’s cost estimate of fusion project”. Physics Today.

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モントリオール国際会議場 – Wikipedia

モントリオール国際会議場 モントリオール国際会議場の内部 モントリオール国際会議場(仏:Palais des congrès de Montréal)は、カナダ・ケベック州モントリオールにある国際会議場である。2005年11月28日 – 12月9日に気候変動枠組条約の第11回締約国会議が行われた場所である。 目次 1 概要 2 アクセス 3 付近 4 脚注 4.1 出典

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観音寺 (飯能市) – Wikipedia

般若山 長寿院 観音寺(はんにゃさん ちょうじゅいん かんのんじ)は埼玉県飯能市の真言宗智山派の寺院である。 本尊は如意輪観世音菩薩・不動明王ほか。 武蔵野七福神[編集] 武蔵野七福神の1寺であり、不動堂に寿老人が安置されている。 鐘撞き堂には第二次世界戦争中、鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていたが、昭和40年頃に飯能銀座のせんべい店「亀屋」の店主が張り子の象を制作し、のちに観音寺の堂に収められて現在に至っている。公式ページには象にまつわる仏教説話が語られている。。なお飯能周辺にはかつてアケボノゾウが生息していて、入間市と飯能市境の入間川沿いでは化石も産出されている。 漫画・アニメヤマノススメにはこの白象が何度も登場することから、現在ではアニメのシーンを描いた看板が置かれ、絵馬が飾られるスペースもある。寺では各キャラクターを描いた絵馬も販売している。地元の子供だけでなく、この象をめあてに訪れるヤマノススメファンも多い。 飯能鬼子母神[編集] 飯能鬼子母神は鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所と協力して平成19年11月に設置された。寺の東側にあり、顔出し看板なども置かれている。 1867年(慶応4年)の飯能戦争で、智観寺・心応寺などともに、幕府軍(振武軍)が立てこもった寺の1つである。 1950年代まではサーカスが催されていた。 かつて境内には、同寺が運営する昭和28年開園の飯能幼稚園があったが、平成15年に新園舎が建設され北側に移転した。 ギャラリー[編集] 公道より山門を見る(2019年11月2日撮影) 参道(2019年11月2日撮影) 参道(2019年11月2日撮影) 鐘楼(2019年11月2日撮影)

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パルティータ (バッハ) – Wikipedia

6つのパルティータ(クラヴィーア練習曲第1巻)BWV 825-830(Sechs Partiten, Erster Teil der Klavierübung BWV 825-830)[1]は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲したクラヴィーアのための曲集。 イギリス組曲、フランス組曲とあるバッハの一連のクラヴィーア組曲集の集大成にあたり、またバッハの数多くの作品の中で最初に出版された曲集である。「平均律クラヴィーア曲集第2巻」や「ゴルトベルク変奏曲」などと並んでクラヴィーア組曲の最高峰と評価される[2]。 1726年に第1番、1727年に第2番と第3番、1728年に第4番、1730年に第5番と第6番を個別印刷。1731年に修正の上に合本とし「クラヴィーア練習曲集第1巻(第1部)」「作品1」と付した。クラヴィーア練習曲集は第4巻までシリーズ化されたが、作品番号は「第2巻」以降の出版作品には採用されなかった。 楽譜扉には次のような表題がある[3]: クラヴィーア練習曲集。プレリュード、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグ、メヌエット、その他の典雅な楽曲を含む。愛好人士の心の憂いを晴らし、喜びをもたらさんことを願って、ザクセン=ヴァイセンフェルス公宮廷現任楽長ならびにライプツィヒ市音楽監督ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。作品I。自家蔵版。1731年。 なお、「クラヴィーア練習曲集」及び「パルティータ」の名称は、前代のライプツィヒ聖トーマス教会音楽監督(トーマスカントル)、クーナウ(Johann Kuhnau, 1660-1722)の「新クラヴィーア練習曲集(Neue Klavierübung, I: 1689年; II:

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アールト・デ・ヘルデル – Wikipedia

アールト・デ・ヘルデル 生誕 (1645-10-26) 1645年10月26日ドルトレヒト 死没 1727年8月27日(1727-08-27)(81歳) アールト・デ・ヘルデル(デ・ヘルダー、ヘルダー、デ・ゲルダーなどとも。Aert de Gelder, 1645年10月26日 – 1727年8月27日[1])は、オランダの画家。 レンブラントの最後の弟子の一人である。レンブラントの弟子の中でも最も才能のあった一人だけでなく、18世紀に至るまでレンブラントのスタイルを継承したただ一人のオランダ人画家である。 目次 1 生涯 2 主な作品 3 ギャラリー

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バント – Wikipedia

バント(英: Bunt)は、野球、ソフトボールにおける打撃技術(方法)のひとつで、バットをスイングせず、意識的に打球が内野をゆるく転がるようにミートするもの[1]。 球の勢いを殺したゴロをできるだけ守備側の投手や内野手から離れた場所(野手と野手のちょうど真ん中、ファウルライン際など)に転がし、打球処理の時間を稼ぐことによって進塁・出塁を目指すものである。技術的な器用さや集中力だけでなく、野手のポジションや走者との位置関係、投手の投球など広範な知見を持つことが要求され、「バントは10割の成功率がなければならない」と言われる確実性も必要とされる[2]。バントをする場合、打者は体の向きを投手に正対させ、片方の手をバットの太い部分に添えて行う。 通常の打撃なのかバントなのかの判断は審判員によって行われ、また、プレイの結果として犠牲バントを記録するかどうかの判断は公式記録員によって行われる。 バントの種類[編集] 犠牲バント[編集] 犠牲バント、または送りバントは、走者を先の塁へ進める目的で、打者走者がアウトになることを前提にバントを行う作戦である。特に、無死あるいは一死の状況で三塁走者を本塁に還して得点することを目的とするバントを、無理やり得点を絞り出す意味から、スクイズプレイあるいはスクイズと呼ぶ。成功すれば「犠打」が記録され、打数にはカウントされない。 2003年に通算犠打の世界記録を達成した川相昌弘は、投手と一塁手の中間に転がすようにしていた。川相は「周りは100%成功すると思っている」というプレッシャーに勝つことの必要性を述べている[3]。 左打席に立った場合は一塁ランナーの動向を視認しにくいため、送りバントの成功率は右打者の方が概ね高くなるとされる[4]。 セーフティーバント[編集] セーフティーバントは、打者自らが一塁に出塁する目的でバントを行うもので、打者に走力がある場合に取りうる作戦である。ただし極端なシフトに対抗する目的で必ずしも駿足ではない左打ちのプルヒッターが試みるケースも見られる。可否はそのバントの打たれた場所が適当であったか否か、またそのバントが相手にとって意表外のものであったか否かで決まる[5]。特に、左打者が一塁に向けて走り出すのと同時に一塁方向へセーフティーバントを試みることをドラッグバント(英: drag bunt)と呼ぶ。「投手が守備を苦手としている」「一塁手の守備が深い」など、一塁のカバーが上手く行われないことが予測される場合に行うものであり、一塁方向に球を引っ張り投手の向かって右側を抜くようにする[6]。いずれのバントも打数にカウントされる。 「セーフティーバント」という呼称は和製英語である。安全を意味する「セーフティー」という名に反して間に合わなかったり、間に合っても間一髪であることも少なくない。正しい英語においては「bunt for a base hit(安打を狙ったバントの意)」と呼ばれる。 走者があるときにセーフティーバントを試みて、結果として打者はアウトになり走者が進塁した場合、記録員が「セーフティーバントである」と判断すれば犠打は記録されず打数もカウントされる。しかし、日本プロ野球ではこの場合も犠打を記録し、打数をカウントしないのが慣例である[7]。 プッシュバント[編集]

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独立戦車旅団 (ロシア陸軍) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “独立戦車旅団” ロシア陸軍 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年10月) 独立戦車旅団(отдельная танковая бригада ;略称отбр)は、ロシア陸軍の基本的な展開部隊である。戦車大隊を3個大隊、自動車化狙撃大隊(機械化歩兵)を1個大隊、自走榴弾砲大隊を1個大隊、その他いくつかの戦闘支援/後方支援部隊(大隊から小隊規模)を保有する諸兵科連合部隊であり、兵力は約3千人。通常、指揮官は少将である。 現在の独立戦車旅団は、2008年の再編計画のもとで採択された戦闘単位である。ロシア陸軍の再編計画では、従来採用されてきた連隊-師団-軍(軍団)-軍管区という指揮系統が見直され、旅団が戦略単位とされた。 2008年12月、ロシア連邦軍参謀総長により以下の定員表が承認された。 定員表第10/020号 旅団本部 自動車化狙撃大隊 狙撃手小隊 戦車大隊

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桶川市立桶川西小学校 – Wikipedia

桶川市立桶川西小学校(おけがわしりつ おけがわにししょうがっこう)は、埼玉県桶川市下日出谷にある公立小学校。 2007年には創立40周年を迎え、 2017年には創立50周年を迎えた小学校。1979年に児童数が2145名という埼玉県内最大の学校となったことがある。 なお、学校を建設していた際に竪穴式住居跡などを発掘し、高井遺跡と名づけている。 2008年4月当時の全校人数は736人である。 高井遺跡[編集] 高井遺跡(たかいいせき)は、校内・その周辺に存在する縄文時代中期の遺跡である。発掘調査は第1次~第12次まで行われている。 1969年、学校建設の際に発掘された。同年、復元の竪穴住居を作り、1984年に取り壊されているが、昔は子供の遊び場にもなっていた。高学年になると総合の時間にこれを題材とし詳しく調査を行う事もある。地域や学校の特色を生かした授業として、親しまれている。 なお2008年まで、学校そばの駐車場が住宅になるために工事をしており、発掘が行われていた。 1968年4月1日 – 桶川町立桶川西小学校創立。 独立した校舎を持つまでは旧桶川北小学校(現在は桶川小学校)に本校、旧桶川南小学校に分教場を設立して授業をしていた。 1969年2月8日 – 本校舎(現在の北校舎)完成、同日移転。 この日を開校記念日としている。 1969年6月8日 –

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上海市歴史博物館 – Wikipedia

コレクションの一つである結婚式用の乗り物 上海市歴史博物館(シャンハイしれきしはくぶつかん、中: 上海市历史博物馆)は、中国の上海の歴史をテーマにした博物館。 この博物館のコレクションは、1843年の開港から共産党政権が実権を握った1949年までの約100年間の上海の歴史を焦点を当て[1][2]、主にその都市発展の歴史と、政治、経済、文化、市政、社会生活などの分野にまたがっている[3]。現在は自身の施設を持っておらず、コレクションの殆どは倉庫にある。しかし一部は浦東・陸家嘴の東方明珠電視塔の真下にある展示室で公開されており、他のコレクションも上海市内の専門博物館に貸し出されることがある。また時おり、上海図書館などの他の施設で特別展を開くこともある[1]。 上海市文化局は1952年に「上海地志博物館」、1954年に「上海歴史与建設博物館」として博物館の設立を計画したが、上海の他の博物館と展示内容が重複するという理由でいったん撤回された[3]。 その後1983年に、「上海歴史文物陳列館」(上海历史文物陈列馆)としてこの博物館は設立された[1]。1984年5月27日に、虹橋路の上海農業展覧館第五館[3]を使って一般公開が始まった[1]。1991年に宋慶齢陵園内の工場を改築してそこへ移転し[3]、現在の名称となった[1]。1999年に土地再開発のため施設は閉鎖されたが、コレクションの“臨時”展示はその後も各地で行なわれた。2001年5月以降は、東方明珠電視塔の真下に「上海城市歴史発展陳列館」(上海城市历史发展陈列馆)と称して展示スペースを確保し、コレクションから選ばれた品々を一般公開している[1]。 東方明珠電視塔の展示[編集] 東方明珠電視塔の展示は「華亭溯源」、「城廂風貌」、「開埠掠影」、「十里洋場」、「海上旧踪」の5部に分かれている[1]。 コレクション[編集] 共同租界の境界を示す標識 コレクションの総数は3万点を超える[1]。それらのうち18,000点は市の近現代史に関するもので、租界の行政府から譲渡されたものも含まれる[1]。主なコレクションには次のようなものがある[1]。 明代の刺繍の名手・韓希孟による「花卉虫魚冊」(花と虫と魚)。 侯峒曾が書いた掛軸。 七宝寺の金字写経。 「振遠将軍」と呼ばれた青銅製の大砲。阿片戦争で清国の将軍として上海の防衛にあたった陳化成が使ったもの。 太平天国が発行した貨幣「大花銭」。 かつてHSBCビル(匯丰銀行)の玄関に置かれていた一対の青銅製のライオン像。 フランス租界と共同租界の境界を示した標識(1893年)。 上海市歴史博物館は今のところ自身の施設を持っていない。新しい施設の建設を望む声が長年にわたり繰り返しあがっているが、商業的な配慮(東方明珠電視塔の展示施設が塔自体の集客要因になっている)と予算上の制約から実現に至っていない。市政府は施設の再建を再三約束してきたが、具体的な計画は今も発表されていない。最近では、市の2011年度の5ヵ年計画で、5年以内に施設を再建すると改めて表明された[1]。 出典[編集]

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