Month: March 2018

旭川市国保料訴訟 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年6月) 旭川市国保料訴訟(あさひかわしこくほりょうそしょう)とは、旭川市国民健康保険の一般被保険者である杉尾正明が、平成6年度分から平成8年度分の保険料について、条例で保険料率を定めず、これを告示に委任することが、租税法律主義を定める憲法84条またはその趣旨に反するなどとして、賦課処分の取消しを求めるとともに、同市の条例が恒常的に生活が困窮している者を保険料の減免の対象としていないことが生存権を定める憲法25条や法の下の平等を定める憲法14条に違反するとして、減免非該当処分の取消しを求めた訴訟である。最高裁大法廷は、平成18年3月1日原告の主張を退け、憲法に違反しないとした。 法令の定め[編集] 旭川市国民健康保険条例(本件条例)における保険料率の定め方は、具体的な保険料率の定めは市長の告示に委任されていて、具体的な保険料率は条例においては規定されておらず、その代わり保険料率の算定方法を定めるのみであった。 事件の経緯[編集] 被告である旭川市は平成6年7月14日、原告である杉尾正明に対し平成6年度分の国民健康保険料納付通知書を送付した。原告は、平成6年8月、自らの平成5年の収入は生活保護基準以下の収入であったことを理由に平成6年分の保険料の減免を申請したが、同月10日付で非該当の通知がされた。原告は、その後不服申立て手続等を経て、旭川地方裁判所に対し、平成6年度分から平成8年度分の保険料の賦課処分の取消しを主位的に求めるとともに、保険料の減免非該当処分の取消しを予備的に求めた。第1審(森邦明裁判長)は、本件条例は憲法92条及び84条に違反するとして賦課処分を取消したが、控訴審の札幌高等裁判所(濱崎浩一裁判長)は、租税法律主義を定めた憲法84条が国民健康保険料には直接適用されず、その趣旨にも反せず、また、減免非該当処分も憲法25条に違反しないとして、原告の請求を退けた(平成7年度分については不服申立てを経ていないとして訴えを却下)。 これに対し、原告が最高裁に上告及び上告受理申立てを行い、平成18年3月1日最高裁大法廷が以下のような判決を言い渡した。 判旨(最高裁平成12年(行ツ)第62号、同年(行ヒ)第66号平成18年3月1日大法廷判決)[編集] 全員一致。上告棄却。 租税条例主義の適用について[編集] 国又は地方公共団体が、課税権に基づき、その経費に充てるための資金を調達する目的をもって、特別の給付に対する反対給付としてではなく、一定の要件に該当するすべての者に対して課する金銭給付は、その形式のいかんに関らず、憲法84条に定める租税に当たる。 市町村が行う国民健康保険の保険料は、被保険者において保険給付を受け得ることに対する反対給付として徴収されるものであるから、憲法84条の規定が直接に適用されることはない(国民健康保険税は形式が税である以上憲法84条の規定が適用される)。 租税以外の公課であっても、賦課徴収の強制の度合い等の点において租税に類似する性質を有するものについては、憲法84条の趣旨が及ぶ。 その場合であっても、賦課要件が法律又は条例にどの程度明確に定められるべきかなどのその規律の在り方については、当該公課の性質、賦課徴収の目的、その強制の度合い等を総合考慮して判断すべきである。 市町村が国民健康保険の保険料も、憲法84条の趣旨が及ぶが、条例において賦課要件をどの程度明確に定めるべきかは、賦課徴収の度合いのほか、社会保険としての国民健康保険の目的、特質等をも総合考慮して判断する必要がある。 本件条例は、保険料率算定の基礎となる賦課総額の算定基準を明確に規定したうえで、その算定に必要な費用及び収入の各見込額並びに予定集能率の推計に関する専門的及び技術的な細目にかかわる事項を、市長の合理的な選択にゆだねたものであり、上記見込額の推計については国民健康保険事業特別会計の予算及び決算の審議を通じて議会による民主的統制が及ぶものということができるから、本件条例が、保険料率算定の基礎となる賦課総額の算定基準を定めた上で、市長に対し、同基準に基づいて保険料率を決定し、決定した保険料率を告示の方式により公示することを委任したことが憲法84条の趣旨に反するということはできない。 賦課総額の算定基準及び保険料率の算定方法は、本件条例によって賦課期日まで明らかにされており、恣意的な判断が加わる余地はなく、賦課期日後に決定されたとしても法的安定性が害されるということはできないから、市長が各年度の賦課期日後に保険料率を告示したことは憲法84条の趣旨に反するとはいえない。 憲法25条違反の主張について[編集] 国民健康保険法は恒常的に生活が困窮している状態にある者を生活保護法による医療扶助等の保護を予定しているなどの事情の下で本件条例が恒常的に生活が困窮している状態にある者を保険料の減免の対象としていないことは、著しく合理性を欠くということができず、経済的弱者について合理的な理由なく差別をしたものということができないから、憲法25条、14条に違反しない。 個別意見[編集]

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サンヒルズ町田山崎 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “サンヒルズ町田山崎” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月) サンヒルズ町田山崎 サンヒルズ町田山崎(サンヒルズまちだやまざき)は、東京都町田市にあるサンヒルズ山崎自主管理組合管轄の中層分譲マンション。 住居表示は東京都町田市山崎1丁目。西に町田市木曽西5丁目、東京都道47号八王子町田線を隔てて東にUR町田山崎団地2街区及び3街区、団地いちょう通りを隔てて南にJKK東京町田木曽住宅イ街区と隣接、同一区画内に3棟が並んで建てられており10階建てで総戸数305戸。 1968年‐1969年にかけて日本住宅公団(当時)町田山崎団地の造成に伴い、同団地内の分譲棟として当初は5階建ての集合住宅が9棟建てられ、同団地の1街区に編入された。平成の初頭だった1989年、住民から建て替えの要望が出始め、1992年には建て替えを決議したが、いざ建て替えるとなった際にURとの交渉が難航、区分所有法第70条による自主建替の道を模索し始めた。最終的に2009年、山崎団地建替事業プロジェクトを発足した上で町田山崎住宅マンション建替組合を設立し自主建替を選択、9棟あった5階建集合住宅を10階建中層マンション3棟に集約し、余った用地は戸建住宅や商業施設等の用地に転用、完成と同時に「サンヒルズ町田山崎」に名称変更し町田山崎団地から独立した上で管理者もURからサンヒルズ町田山崎自主管理組合に移った。2021年現在は隣接する町田山崎団地とは別地区扱いとなっている。独立の際、町田山崎団地は区割りを変更しなかった為、現在同団地に1街区はない。過去の経緯からか町田山崎団地2街区とは現在も歩行者用の陸橋で繋がっており徒歩での行き来が可能である。 隣接する町田山崎団地や木曽住宅、近隣の境川住宅や町田木曽住宅は建て替えられる事もないまま人口が減少しつつあり空き部屋も目立つ様になってきたが、サンヒルズ山崎は現在の所空室もなく入居希望者も少なからずいる。 町田山崎団地に見られる様な同年代に建てらてた集合住宅は全国に多くあり、その殆どが建替の時期が迫っているが、現実には中々進んでいないのが現状である。そんな中でのサンヒルズの自主建替は事実上の成功に終わり、これまでにはない新たな試みとして業界からも非常に注目される事となり、これを契機にサンヒルズを新たな例として建て替えが促進されるのではないかと期待が寄せられている。 主な施設[編集] 公園[編集] 山崎みどりの原公園 学校等[編集] 町田市立山崎保育園

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池田政和 (オートレース選手) – Wikipedia

池田 政和(いけだ まさかず、1973年2月11日 – )は、日本のオートレース選手。埼玉県鳩ヶ谷市(現在は合併されて川口市)出身、23期。元船橋オートレース場所属、2016年4月より川口オートレース場所属。呼名(所有車)は「ミオン / マンティス / カイザー / カイザー2 / ヤマセンコー / マツシバ 」。 選手データ[編集] 戦歴 通算優勝回数:69回 グレードレース(SG,GI,GII)優勝回数:26回

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田中アキラ – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “田中アキラ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年12月) 田中 アキラ(たなか あきら、1974年2月19日生)は、山梨県中巨摩郡昭和町出身の演歌歌手である[1]。本名は田中 愛彦(たなか よしひこ)。血液型はO型。キャッチコピーは「魅惑のヴォイス」 14歳…山梨県警愛唱歌「こころはればれ」尾形大作とAB面にて発売。 16歳…元読売巨人軍 木田優夫投手応援歌「野球星」(テイチクレコード) 25歳…愛川けんじ、として「ぬくもり平野」作詞:下地亜紀子 作曲:弦哲也(キングレコード) 31歳…田中アキラ、アクターズプロモーション(当時社長阿知波信介)に所属、霧が流れる夜だから/俺と一緒にいかないか「第38回日本有線大賞新人賞受賞」(徳間ジャパンコミュニケーションズ)

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戸田建設 – Wikipedia

戸田建設株式会社TODA CORPORATION 本社が入居するTODA BUILDING 種類 株式会社 市場情報 略称 戸田建[1] 本社所在地 日本〒104-8388東京都中央区京橋一丁目7番1号 TODA BUILDING 設立 1936年7月10日 業種 建設業 法人番号 6010001034874 事業内容

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カールスルーエ – Wikipedia

紋章 地図 基本情報 連邦州: バーデン=ヴュルテンベルク州 行政管区: カールスルーエ行政管区 地域連合: ミッテラー・オーバーライン地域連合 郡: 郡独立市 標高: 海抜 115 m 面積: 173.46 km² 人口: 308,436人(2020年12月31日現在)

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チチブシロカネソウ – Wikipedia

チチブシロカネソウ(秩父白銀草、学名:Enemion raddeanum)は、キンポウゲ科チチブシロカネソウ属の多年草。草質で軟らかい[3][5]。別名、オオシロカネソウ、チョウセンシロガネソウ、マンシュウシロガネソウ[1][5]。 根茎は丈夫で短く、径5mm、長さ1-3cmで、水平から垂直に伸び、根茎の下から多数のひげ根が出る。根出葉は無いか1-2個あり、葉柄は長さ-13cmになりまばらに毛が生える。2回3出複葉で、長さ6-8cm、幅7-10cm、各小葉は卵状菱形になり、長さ2.5-3.5cm、幅1.5-2.5cm、3中裂してさらに切れ込んで、縁は卵形の鋸歯になり、幅2-5mmになる。茎は細く、直立し、高さ20-35cmになり、上部で1-2回分枝し、基部は褐色で膜質の鱗片に覆われる。茎の中部につく葉は、1-2回3出複葉で、長さ4-11cm、幅3-14cm、葉柄は長さ1-2cmで短毛が生え、基部に托葉がある。茎の上部につく葉は無柄で輪生する[3][5]。 花期は5-6月。花は白色で、茎先に散形状花序に3-6個つき、まれに単生し、上向きに咲く。花柄は長さ1-2cmになり、無毛。花弁状の萼片は4-5個あり、倒卵状楕円形で長さ6-7mm、幅3-4mmになり、先は鋭形で平開する。花弁は無い。雄蕊は10個以上あり、葯は円形で長さ0.3mm、黄色で、花糸は長さ2-4mm、下部は線形になるが上部は広がる。雌蕊は小型で、心皮は3-5個ある。果実は袋果で3-5個あり、楕円形で長さ3-5mmになり、背側に竜骨があり、腹側の縫合線にそって開裂する。種子は卵形で長さ2mmになり、赤褐色になる[3][5]。 分布と生育環境[編集] 日本では、本州の岩手県、群馬県、埼玉県、山梨県、長野県に分布し[6]、山地の落葉広葉樹林の林内や林縁に生育する。石灰岩地や蛇紋岩地に見られることが多い[3][5]。 世界では、日本のほか、朝鮮半島、中国大陸東北部、ロシア沿海地方に分布し、温帯から亜寒帯の落葉広葉樹林内に生育する[5]。 名前の由来[編集] 和名チチブシロカネソウは、「秩父白銀草」の意で、シロカネソウ属に似て、埼玉県秩父地方で知られたことによる。矢田部良吉 (1892)による命名である。 種小名(種形容語)raddeanum は、ドイツのシベリア植物研究者グスタフ・ラッデへの献名。 種の保全状況評価[編集] 環境省レッドデータブックでの選定はない。都道府県のレッドデータブックカテゴリは次の通り[6]。 岩手県 Aランク 栃木県 絶滅 群馬県 絶滅危惧ⅠB類

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江口保 – Wikipedia

江口 保(えぐち たもつ、1928年〈昭和3年〉7月17日 – 1998年〈平成10年〉6月16日[1])は、日本の平和運動家[2]。長崎県長崎市出身で、長崎市への原子爆弾投下による被爆者の1人[1]。 公立中学校で教員として勤務していた時代に、被爆地である広島県への修学旅行を実現させ、平和学習としての修学旅行の先駆けとなった。退職後も単身で広島に住み、日本全国の学校から広島や長崎への修学旅行を助力し、平和運動に貢献した。 1945年(昭和20年)、当時の勤務先である旧制長崎県立瓊浦中学校(後の長崎県立長崎西高等学校)で被爆[2]。親友と死別し、自身も重傷を負って死線をさまうなど、苦境に遭いながらも被爆地を生き延びた[3][4]。 1951年(昭和26年)に上京し、東京都の地方公務員の教員となった。1975年(昭和50年)、当時の勤務先である葛飾区立上平井中学校での修学旅行に際し、被爆地である広島県行きを提案し、現地の被爆者との交流による平和学習を計画した。これには、山陽新幹線が博多まで開通し、東京の公立中学の修学旅行は72時間以内という規制がとれたことが背景にあった[6]。被爆者と連絡が困難なこと、過去の辛い記憶を話したがらない被爆者[7]、子供に残酷な事実を見せたがらない風潮などの困難を乗り越え、これを実現させた[8]。 これにより、慰霊碑の前で被爆者たち自身から体験を聞く「上平井方式」という言葉が生まれ[2][7]、広島への修学旅行のモデルケースとなった[2]。修学旅行で広島へ行きたいという学校が増え、日本全国から江口のもとへ問い合わせがあった[7]。多くの被爆者たちが証言者として修学旅行生の前で口を開くきっかけにもなった[7][9]。 1986年(昭和61年)、転勤先の中学校で修学旅行の広島行きを拒否されたため、定年を前に退職。単身で広島へ転居し、江口1人のみで「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰[4]。広島や長崎を訪れる修学旅行生の受け入れ態勢の整備、子供たちに生命の尊厳と平和の尊さを学ばせる活動のため、証言者としての被爆者たちの世話、各学校の教員たちの相談役などを請け負った[2][10]。江口の手引きにより、沼田鈴子、坂本文子、佐伯敏子といった著名な被爆者・平和運動家たちが、語り部として修学旅行生たちに被爆体験を語った。 後に、学校の教員たちが勉強を怠って修学旅行を旅行会社任せにしていること、被爆者の証言が次第に画一化されること、広島の表面上が美化されて原爆の痕跡が消えることに失望し、1996年(平成8年)に東京へ戻った[10]。この教員たちの問題については、広島原爆の被爆者でもある平和運動家の沼田鈴子も同感の意を表している[12]。 広島を捨てきれないという思いから、翌1997年(平成9年)に再び広島へ転居するが、翌月には病気により東京帰りを余儀なくされ、翌1998年4月に入院。病床で半生記『いいたかことのいっぱいあっと』を執筆し、前述のような広島の事情に加え、証言者(被爆者)が金銭を要求し始めたことなどを痛烈に批判した[10][13]。 同1998年6月16日、死去。没年齢69歳。死因は新聞発表では慢性腎不全とあるが[4]、夫人の手紙では原爆症による急性骨髄性白血病とされている[12]。生涯に修学旅行の助力をした学校はのべ千校、生徒数は20万人以上に昇り[4]、葬儀には全国の小中学校から多くの弔電が寄せられた[3]。同1998年10月26日、財団法人ヒロシマ・ピース・センターから、平和への貢献者を対象とした谷本清平和賞が贈られた[14]。 葬儀では、中学教諭としてともに修学旅行を続けた詩人の石川逸子が「たった一人から出発して、大きな大きな平和の種をたくさんの人の心にまき、いきいきと芽吹かせて下さった江口さん。本当にありがとう[15]」と弔辞を述べた。 遺稿となった『いいたかことのいっぱいあっと』の出版元であるクリエイティブ21の代表・林雅行は「ダイヤのようには光らないけれど、ぬくもりのある石ころ。そんな人でした[16]」と語った。一方で『いいたかことのいっぱいあっと』における証言者たちへの批判に対しては、ボランティア活動を基本とする証言者側から、一部だけを見た不当な批判との反発の声も上がっている[13]。

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大山即席斎 – Wikipedia

大山 即席斎(おおやま そくせきさい、1959年 – )は、元イラストレーター、即席麺評論家。東京都練馬区出身。東京都立石神井高等学校、群馬大学工学部卒。本名は大山正弥である。 学生時代に明星中華三昧の美味さに触れインスタント麺のうまさに目覚める[1]。 年間600食以上のインスタントラーメンを食す、インスタントラーメン界の第一人者[2]。 インスタント麺はパッケージをコレクションしており、これまでに約6000点ほど収集している[3]。 毎日インスタント麺ばかりを食べて1万食を超える[4]。 「好きな激辛カップラーメンランキング」の1位として、「セブンプレミアム 蒙古タンメン中本 辛旨味噌」を挙げている。[5] エピソード[編集] マツコの知らない世界に出演し、札幌円山動物園 白クマ塩ラーメンを紹介。当初の8倍の売上の100万食以上の売り上げをあげる[6]。 サブカル雑誌「ビックリハウス」の中期における常連投稿者の一人であり、文化功労賞(年間の投稿採用数をポイント化したランキング1位に与えられる)を受賞。また、読者投票(ただし組織票可)による「ジャパベン(日本勉強協会)合衆国」コーナーの大統領(二代目)に就任。コーナー内では“魔夜王(まやおう)”(※大山の逆読み)を名乗った。 2015年6月14日放送の「アッコにおまかせ!」で一番美味いカップ麺として「産経新聞大阪ラーメン」を紹介した。この番組を見た産経新聞大阪社会部が記事として取り上げている[2]。 2017年にはアイドルグループのです。ラビッツと共同で、「世界一のインスタントラーメン」を開発するプロジェクトを立ち上げている[4]。 メディア出演[編集] 2001年

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