Month: May 2018

石川県立歴史博物館 – Wikipedia

石川県立歴史博物館Ishikawa Prefectural Museum of History 博物館外観 石川県立歴史博物館の位置 金沢市街の地図を表示 石川県立歴史博物館 (金沢市) 金沢市の地図を表示 施設情報 正式名称 石川県立歴史博物館 愛称 いしかわ赤レンガミュージアム 前身 石川県立郷土資料館 専門分野 石川県の歴史

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東筑紫学園高等学校・照曜館中学校 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年4月) 東筑紫学園高等学校・照曜館中学校(ひがしちくしがくえんこうとうがっこう・しょうようかんちゅうがっこう)は、福岡県北九州市小倉北区清水四丁目にある私立高等学校・中学校、理事長は宇城照燿、校長は五十棲錠二。 北九州市をはじめ、行橋市などの京築地域ほか山口県下関市や大分県中津市から通学する生徒も少なくない。 1936年 – 筑紫洋裁女学院として開校[1] 1947年 – 東筑紫技芸学校が東筑紫女子中学校となる[1] 1948年 – 東筑紫高等学校開校。[1] 1963年 – 東筑紫短期大学附属中学校・高等学校に改称。[1] 1986年 – 東筑紫短期大学附属中学校を東筑紫学園中学校に改称。[1] 1989年 –

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ボライ – Wikipedia

ボライ(モンゴル語: Булай тайш、中国語: 孛来太師、? – 1465年)とは、15世紀における北元の部族長の一人。ハラチン部の人間であり、オイラトのエセンの死後に東モンゴリアの諸勢力を統制して強勢となった。エセンと同様に太師淮王と自称しており、このためモンゴル年代記ではボライ=タイシとして記される。 ボライの前半生は不明瞭ではあるが、少なくともエセンが1453年にタイスン・ハーン(トクトア・ブハ)を殺してハーン位に即いた頃にはハラチン部の有力者としてエセンに仕えていたようである。同年2月にはエセンによって7万の大兵力と共に遼東方面に派遣されており、エセンの信任を得ていたことが窺える[1]。1454年エセンがアラク・テムルの急襲を受けて殺された際に、エセンの坐右に侍していた嗔孛羅平章は哈剌嗔(ハラチン)の孛羅平章(ボライ=ビンジャン)の事ではないかと推測されている。エセンが殺されるとモンゴリアは混乱状態に陥ったが、その中でボライはエセンを殺したアラク・テムルを撃ち破ってその玉宝・エセンの母妻を奪い取った。前後してボライはオンリュート部のモーリハイと協力しエセンに殺されたタイスン・ハーンの幼子を擁立してマルコルギス・ハーンとし、ドチン・モンゴル(明朝における韃靼部)を復興させてその実権を握った。翌1455年夏4月にはマルコルギス・ハーンらと共に明朝に使者を派遣している[2]。 1457年、英宗が天順帝として復位するとボライは使者を派遣し、「宝璽(伝国璽)」を献上しようという旨を伝えたが、これはその真偽を疑った明朝側に拒絶されている。また、この際に初めて「太師(タイシ)」と称している[3]。これ以後、明朝が朝貢の拡大を抑制したこと、モンゴリアの情勢が一時的に安定したこと、モンゴリアで飢饉が起こったことなどの理由によってボライによる明朝攻撃が頻発するようになる[4]。ボライは洪武帝の時代より明朝が勢力下に置いていたオルドス地方に1458年ころ進出し、1459年よりここを拠点に陝西方面への出兵を始めた。天順年間(1457年 – 1464年)を通じてボライはオルドスに潜在して黄河が凍結するとこれを越え、明朝の城市を寇掠することを繰り返した[5]。また、1459年にはモンゴリア東方の勢力であるウリヤンハイ三衛への侵攻も計画しているが、明朝が使者を派遣して三衛に助力することを告げたため、三衛への侵攻は一時控えられた[6]。これと並行してボライは明朝との交渉も続けており、1461年8月には明朝はボライに譲歩する形でその要求を受け容れる勅諭を出し、この際にボライは「太師淮王」と称されている。 この明朝との交渉との直後、同1461年9月にマルコルギス・ハーンはボライを殺そうと万余の兵を動かしており、またモーリハイは数万の大軍で以て明を寇掠し、このために明朝はボライの朝貢を警戒するようになった。これらはボライと明朝との接近をモーリハイらが快く思わなかったためと推測されている[7]。このためか、1461年ボライは使者を派遣し、マルコルギス・ハーンを差し置いて「己は韃靼国の王であり」、「賜物が他の者と同じなのは納得がいかない」との旨を伝えており、これに対して明朝礼部は「君臣の行為ではない」と評している[8]。同1461年よりボライは東方への侵攻を始め、まずはウリヤンハイ三衛を屈服させ、後には建州女直まで兵を進めた[9]。しかし、この女直遠征の後、成化年間初期(1465年 – 1466年)にボライは以前より対立を深めていたマルコルギス・ハーンと衝突し、遂にはこれを弑逆したものの、その直後にモーリハイの攻撃によってボライ自身も殺された[10]。ボライの勢力はほぼそのままモーリハイに吸収され、オルドス地方からの明朝への侵攻も引き継がれた[11]。 モンゴル年代記における記述[編集] 『蒙古源流』を初めとする年代記にはボライの事蹟について殆ど何も記されておらず、エセンがチンギス・ハーンの末裔を殺戮しようとした際に、バヤン・モンケ(ダヤン・ハーンの父)を脱出させるのに協力した者の一人として名前が挙げられているのみである[12]。一方、マルコルギス・ハーンの擁立に関してはその母である小ハトン・サムル太后が尽力した事が記されている[13]が、サムル太后について明朝側には全く記載がない。これは、自身もまたボルジギン氏である著者サガン・セチェンが敢えて太后の功績を特筆することで、ハーンを傀儡とし権力を握ったボライの功績を故意に貶めようとしたためであると推測されている[14]。ダヤン・ハーンの即位について、マンドフイ・ハトンの功績を特筆しイスマイル・タイシの役割を述べないのも同様の理由であると見られる[15]。 関連項目[編集] ^ 和田 1959,367-368頁 ^

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張安楽 – Wikipedia

この記事は中国語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2022年1月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 中国語版記事の機械翻訳されたバージョンを表示します(各言語から日本語へ)。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|zh|張安樂}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 張 安楽(ちょう あんらく、ジャン・アンル、Zhāng Ānlè 1948年3月13日 – )、別名白狼 ( バイラン、Bái Láng)は、台湾の政治家、実業家。台湾最大の黒社会組織(暴力団)である竹聯幇の元総護法(理事長)。中華人民共和国主導の中国統一を掲げる中華統一促進党の設立者。 暴力団員として[編集] 竹聯幇(暴力団)の元総護法(理事長)して名高い[1]。

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寺門ジモン – Wikipedia

寺門 ジモン(てらかど ジモン、本名:寺門 義人〈てらかど よしひと〉、1962年(昭和37年)11月25日 – )は、日本のお笑いタレント、俳優、映画監督であり、ダチョウ倶楽部の説教(ダメ出し)担当、Youtuber。太田プロダクション所属。兵庫県川西市出身。 兵庫県川西市出身。本人曰く家が山の頂上付近にあったため、2歳頃から毎日自然と戯れていた自然児で、朝起きるとクワガタなどの昆虫を捕まえていた。4歳頃から市街地の幼稚園に電車を乗り継ぎして通園し、他の子供より精神的に自立していたため周りから変人扱いされており、幼稚園での集団生活は合わなかったとしている。また、この頃から舌が異常に敏感だったため、母の料理が不味かったときはダメ出しし、この時から料理の腕は母よりも上だったという。 父親が都市銀行員であり、東京と大阪を頻繁に転勤していたという。このため、出生地と戸籍は兵庫県だが、家庭環境の都合で日本各地を転々としてきたことで、関西弁を殆ど話さない。室町幼稚園(池田市)、箕面市立箕面小学校、中野区立桃丘小学校、中野区立第九中学校を経て東京都立鷺宮高等学校を卒業。 その後、役者を目指しテアトル・エコー附属養成所に所属したが、将来に不安を感じお笑い芸人に転身することを決意。同期であり、コンビを組んでいた上島竜兵と共にテアトル・エコーの先輩・渡辺正行に会いに行き、渡辺から肥後克広、南部虎弾を紹介される。これがダチョウ倶楽部の出発点となった。 2014年10月、“旨い”を追求する会員制グルメサイト『食べマスター』を開設[1]。 射手座。身長166cm、体重67kg。B107/W87/H99。生まれたとき、胸の周り・顔・足の裏・手の甲以外の全身に約10cmの原因不明の体毛が生えていたが、生後1週間で抜けた。実家が裕福であり、50歳を超えた今でも、母親から仕送りをもらっている。本人曰く今でも母親の事を「ママ」と呼んでいる。 足が短い、顔が大きい、体を異常なまでに鍛えているなどの特徴が相まって今田耕司に「体のバランスがおかしい」と言われている。東野幸治など番組共演者の中には、何ものにも属さず他の追随を許さない孤高の精神に敬意を払う者も多い。 ダチョウ倶楽部で唯一の独身。アウトドア愛好家やグルメなど多趣味なうえに、どれもかなりのマニアであることから、肥後と上島はこれらの話題について行けず、プライベートで3人集まることは滅多になく、寺門のみ竜兵会の会員ではない[2]。また、メンバーからは、「絡みづらい」と言われ酒も飲めない為、テレビ出演や志村けん達との飲み会では肥後と上島だけでいることが多い。ただし、これらはあくまでネタの範疇であり、実際にはプライベートでもよく3人で食事をしている。 しかし2022年現在ではその多趣味が冠番組や映画原作・映画監督などの仕事に繋がっており、メンバーからは一目置かれている。有吉弘行は「事務所みんなから嫌われてるけど結構な稼ぎ頭だから」とジョークを交えつつ太田プロダクション内でも相当な稼ぎ頭である事を示唆している。 メンバー内では一番持ち芸が少ないが、実は1番面白いというのが浅草キッドの評。有吉弘行に付けられたあだ名は、「短足天狗」と言われているが、実際はダチョ・リブレの番組内でノッチ(デンジャラス)が「短足天狗」と命名した。そこで有吉が命名したのは「ポリバケツ」であり、安田和博(デンジャラス)が「偽グルメ」、土田晃之が「うそつき」というあだ名を考案した。 芸名の「ジモン」は姓の音読み(「山門」に対する「寺門」)[3]。 グルメ[編集] グルメとして知られ、取材拒否の店・寺門ジモンの常連めし〜奇跡の裏メニュー〜・ダチョ・リブレ・寺門ジモンの肉専門チャンネルなど、自らがMCをつとめる番組にて、寺門自身が常連として通っている飲食店を紹介している。 アンジャッシュの渡部建によれば、「間違いなく芸能界では一番、美味いものを食べている人」だという。渡部も当初は「ジモンさんがいくらグルメだといっても肉くらいで、他はたいしたことないだろう」と思っていたところ、渡部がイタリアンでもフレンチでも寿司であっても、いかなる料理の名店に足を運んでも、「必ずジモンさんが既に通って」おり「どのルートから名店を辿っていっても必ずジモンさんにぶつかる」と言い、そして「俺がいくときとジモンさんがいくときでは(裏メニュー等のせいか)出るものが違う」とのことで、寺門の凄さに気づいたという。実際、名店と呼ばれるようなグルメの世界で、寺門に面識のない人物を探すことは極めて困難だという。食に関しては尊敬すると述べている[4][5]。

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農林水産技術会議 – Wikipedia

日本の行政機関 農林水産技術会議のうりんすいさんぎじゅつかいぎAgriculture,Forestry and Fisheries Research Council 組織 上部組織 農林水産省 概要 所在地 〒100-8950東京都千代田区霞が関1-2-1 ウェブサイト 農林水産技術会議 テンプレートを表示 筑波事務所(茨城県つくば市) 農林水産技術会議(のうりんすいさんぎじゅつかいぎ、Agriculture,Forestry and Fisheries Research

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島原市立湯江小学校 – Wikipedia

島原市立湯江小学校(しまばらしりつ ゆえしょうがっこう)は、長崎県島原市有明町湯江丙(へい)にある公立小学校。 歴史 1874年(明治7年)に創立。2014年(平成26年)に創立140周年を迎えた。 学校教育目標 この節の加筆が望まれています。 校章 桜の花弁を図案化したもの。 校歌 1965年(昭和40年)に制定。作詞は渡辺金男、作曲は岡山直による。 校区 島原市有明地区(旧・有明町)の「浜東、浜西、神木、池田、川原、久原、戸切、森岡、平山、枦山、舞人堂、庄司屋敷、城ノ尾、釘崎、沖ノ尾、温泉屋敷、野田、向ノ原 [1]」。中学校区は島原市立有明中学校。 1871年(明治4年)- 廃藩置県により、旧島原藩領地は島原県に属することとなる。間もなく島原県は長崎県に統合される。 1872年(明治5年)8月 – 学制が頒布される。 1874年(明治7年)– 高来郡湯江村[2]に以下の小学校が「第五大学区

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モジャモジャヤマトガイ – Wikipedia

モジャモジャヤマトガイ(もじゃもじゃ大和貝、学名 Japonia shigetai [1]) はヤマタニシ科のヤマトガイ属に分類される陸産の巻貝の一種。トカラ列島に分布する日本の固有種。殻表に多数の毛状突起がありこれが和名の由来となっている。種小名 shigetai は本種のタイプ標本を採取した重田弘雄への献名。 トカラ列島: 口之島(タイプ産地)、中之島、平島、悪石島[1]。 貝殻は殻高、殻径とも5mm前後、殻高が殻径よりもわずかに低い円錐形。殻質は薄く殻表に毛状突起が発達する。殻色は赤褐色であるが、生時は透視される軟体の色や殻表に付着した土などによって黒っぽく見える。 胎殻は2層で平滑、かすかに光沢がある。螺層は胎殻を入れて5.5層ほどあり、螺管の断面はほぼ円形で各螺層はよく膨むため縫合は深く顕著。殻皮は一定間隔で薄板状の縦褶をつくり、それぞれの縦褶は先端がスプーン状に広がった毛状突起を4本もつ。この構造が連続することで全体には螺状に並ぶ4列の毛状突起列を形成する。4列の内訳は、周縁に1列、その上下にそれぞれ1列、殻底に1列である。各毛状突起列の間には3-4本の螺条がある。ただし老成した個体や死貝では毛状突起が失われていることが多い。 殻口縁は成貝でも薄く単純。臍孔は明瞭に開き殻径の1/5程度の大きさ。 蓋は円形で薄いキチン質の多旋型[1][2]。 照葉樹林を中心とした樹林内に生息し、落葉層が厚くやや湿った林床の落葉層中や落葉下の岩の間などに見られる[2]。ヤマタニシ科の貝類は一般に植物遺骸などを食べ、雌雄異体、交尾して産卵する。 原記載 Japonia shigetai Minato, 1985, Venus

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サンダー・ヴァン・ドーン – Wikipedia

サンダー・ヴァン・ドールン (Sander van Doorn、1979年2月28日 – ) はオランダの 音楽プロデューサー であり DJ。2006年世界人気DJランキング100に初めてニューエントリーし、第32位に順位を付けた。その後順位は、2008年に第13位に、2009年に第10位に、2010年に第12位に、2012年に世界第18位にランクインを果たした[1]。 2007年まで[編集] スペイン領イビサ島のジャッジメント・サンデーやロンドンのザ・ギャラリーなどのクラブでの活動経験を得られたことは、彼のキャリアにおいて最初の大きな業績となった。2007年7月、BBCラジオワンのエディ・ハリーウェルズ=ショーで紹介された。2007年から2008年にかけて、自主作成しリミックスなどを行う彼のプロダクションは、一般的な電子音楽産業界から歓迎され、世界50カ国以上のラジオ局に支持された。 彼がリミックスを手掛けた注目すべきアーティストたちには、シーア、ザ・キラーズ、スウェディッシュハウスマフィア、デペッシュ・モード など数多くの人たちがいる。さらに、ロビー・ウィリアムズとのコラボレーションも行った。 2008年[編集] 2008年3月3日、スピニン・レコードのもと、アーティストとして初めてのアルバム「Supernaturalistic」をリリースした。アルバムには13曲が収録されている。 その3月にサンダーは、2008年ウィンター・ミュージック・コンフェレンスカンファレンス(Miami Winter Music Conference)におけるワールドダンスミュージックアワードで、カルヴィン・ハリス、Deadmau5、Axwellらを抜いて「世界で最も躍進を遂げたDJ」として受賞された。彼の曲「Riff」もまたノミネートをし、注目を受けた[2]。

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トライトン (原子力潜水艦) – Wikipedia

トライトン(USS Triton, SSRN/SSN-586)はアメリカ海軍の原子力潜水艦である。同型艦はない。同名の米軍艦(USS Triton)としてはタンバー級潜水艦4番艦(SS-201)以来4代目。 艦名の“Triton”とはギリシャ神話の海神、トリートーンの英語表記/読みである。 就役(1959年11月10日)から1961年2月28日までの約1年4ヶ月弱はレーダー哨戒潜水艦(SSRN)、1961年3月1日からは、1969年5月3日の予備役編入を経て、1986年4月30日の除籍まで約25年間は攻撃型潜水艦(SSN)に分類されていた。 第二次世界大戦末期、日本の特攻攻撃に悩まされた米海軍は、レーダー哨戒潜水艦(radar picket submarine)という艦種を整備することを決定した。この艦種は、強力な対空捜索レーダーを搭載し、空母機動部隊に先行して対空警戒を行うことを任務とした。すなわち、水上艦では進出困難な海域まで単独で先行し、航空機による襲撃を探知すると、空母機動部隊に警報を発すると同時に潜航して難を逃れ、あるいは、空母機動部隊から出撃した味方艦載機部隊を誘導する。[1] この任務の特性上、トライトンには、強力な対空レーダーとCIC機器が装備された。空母機動部隊に随伴する必要があることから、原潜としては異例の水上高速力が要求され、原子炉2基を搭載するという設計が採られた。この結果、当時としては大型艦となり、特にオハイオ級の就役まで、本艦の全長をしのぐ潜水艦は米海軍にはなかった。しかし上述の変化により、1961年3月1日には攻撃型潜水艦に種別を変更された。その後、核戦争時の最高首脳部の移動指揮所に改装する案も検討されたが実現を見ることはなく、1969年5月3日に予備役へ編入された。 マゼラン作戦[編集] 大航海時代の航海者フェルディナンド・マゼランにちなんで命名されたこの作戦は、潜水艦が一度も浮上することなく世界周航することと、どの海中からでも核攻撃を可能とするアメリカ海軍の「ポラリス計画」の能力試験だった。ただし、3月5日にホーン岬付近で、急病人を巡洋艦に移すため浮上し、1.5メートルほど水面に姿を見せている[2]。 航程[編集] 1960年2月15日、初代艦長エドワード・L・ビーチ・ジュニア(英語版)中佐[3]の指揮のもと、コネチカット州ニューロンドン基地を出航した本艦は、同日ニューヨーク州沖合いで潜航し、航海に旅立った。以後、2月24日にセントピーター・アンド・セントポールズ岩礁付近で赤道を越え、かつてマゼランの船団が航過したコースをほぼなぞるように航海を続けた(潜水艦が潜航して通過出来ない場所は除く)。続く3月7日、ホーン岬を回って太平洋に到達、3月23日には日付変更線を通過、4月1日にはフィリピン領マクタン島のマゼラン湾内で潜望鏡でマゼラン記念碑を確認、4月17日には喜望峰を回ってふたたび大西洋に到達し、2ヶ月前と同じセント・ピーター・アンド・セント・ポールズ岩礁付近で赤道をふたたび越えた。この時点で、26723浬を60日と21時間、平均速力18ノットで完走し、潜航での世界一周を達成した。 5月2日にはセイル頭部のみを海面上に露頂して米駆逐艦と会合、スペイン政府に贈る銘盤を引き渡した(この後、銘盤はスペイン政府に贈られ、マゼラン船隊の出発地・帰港地であるサンルカル・デ・バラメダ市の政庁に飾られている)。5月10日、デラウェア州沖で本艦は浮上、この時点での記録は連続潜航時間83日9時間54分、航海距離35979浬に及び潜航時間の世界記録を樹立した(これは赤道付近での自己記録の更新でもある)。5月12日、母港に帰投の時点で、36335浬、84日19時間8分の無寄港無補給最長記録も樹立した。 長期作戦の「限界」[編集] この作戦にはさらに別の目的が含まれてもいた。それは原潜の「限界」を知ることである。原潜は機械的には無限に近い動力を持つが、人間はそうではない。原潜の長期行動の限界を画するのは人間がどこまで「もつ」かであるとは、気付かれてはいたものの、実際にどこに限界があるかは確かめられていなかった。この航海には海軍の心理学者が同行し、長期にわたる閉鎖環境に置かれ、変化のない日々の中でルーチンワークをこなさなければならない乗員の士気を調査した。この調査によると60日を境に、士気は低下の一途をたどっている。この数字は、平時における原潜の哨戒期間の上限の決定において参考にされたものと考えられている[4]。 脚注・出典[編集] 参考文献[編集] 鎌田

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