Month: December 2018

御堂流 – Wikipedia

御堂流(みどうりゅう)とは、藤原北家九条流藤原道長(摂政・太政大臣)の子孫の一門及び彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する(ただし、実際に関白には就任していない)。 道長は兼家の五男に過ぎなかったが、持ち前の強運と政治力によって内覧と一上の地位を兼ねて20年以上にわたって太政官を統率した後に摂政、次いで太政大臣となり、3代の天皇の后妃の父及び2代の天皇の外祖父として摂関政治の全盛期を築いた。その子孫は基実の薨去まで摂関の地位を独占し、基実の没後に御堂流摂家が分裂した後も御堂流の末裔のみがその地位を占めた。御堂流から分かれた主な家としては五摂家及び松殿・醍醐の諸家、中御門流・御子左流・花山院流の諸流などが存在する。 御堂流故実[編集] また、御堂流には九条流から派生した有職故実の流派としての意味も存在する。九条流は道長の祖父である師輔が興した流派であったが、その子供たちは権力抗争を繰り広げており、故実の流派としては振るわなかった。道長は妻の1人である源明子を通じて、明子の父・源高明が著した『西宮記』を相伝した。道長は九条流を継承しながら醍醐源氏の故実を加えることで、独自の流派を形成して口伝秘事として、道長の子頼通・教通に継承されたとされている。その後、教通が小野宮家の藤原公任の娘婿となって公任が著した『北山抄』を相伝した。これによって更に小野宮流の故実を取り込むことに成功して、御堂流故実を形成することになったとされている。 その一方で道長自身は自らが示した新儀(御堂流)の作法を小野宮流など他家の公卿にも強要しようとしていたことが藤原実資の『小右記』(長和5年正月2日条及び治安元年7月25日・26日条など)に記されている。これについて告井幸男は道長は御堂流の手法で公家社会の故実を統一しようとする意図も有していたと解し、末松剛は道長は本来であれば九条流でも傍流[1]に属しており、九条流に拘らず様々な流派の良い点を取り入れてその都度適宜に判断して実践していった「総覧者」であったとする。告井や末松の説は道長は摂関家を御堂流で占めることには意を注いだものの、子孫に継承させるための独自の故実(御堂流故実)を創設する意図はなかった(もしくはできなかった)とする。また、末松は道長が様々な事情から内覧・一上・大臣としての経験は豊富である反面、摂関の地位には1年ほどしかいなかったのに対して、息子の頼通が50年余りも務めたことを重視し、摂関として必要な先例・故実が頼通時代に形成され、御堂流に伝来されたことが同流が摂関家であり続けた理由の1つとみる。摂関に就任する以前の大臣(あるいは一上)としての先例として道長の例が、摂関としての先例として頼通の例が重視されたのである。 やがて、院政期における摂関の地位を巡る内紛を経た忠実の時代には、道長や頼通が行った先例・故実を「御堂流故実」とみなして摂家をはじめとする御堂流一門統合の象徴として尊重していく考え方が高まり、御堂流に属する人物のみが用いる故実とする認識が定着することになった。更に基房によって摂関家の家説として質的にも高められていくことになる。 凡例 太線は実子。      道長      ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      頼通  頼宗  顕信  能信  教通  長家  長信  彰子  妍子  寛子  威子  尊子  嬉子  盛子      ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      通房  覚円  俊綱  師実  定綱  忠綱  寛子      ┏━━━┳━━━┳━━━╋━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      師通  家忠  経実  能実  忠教  忠長  覚実  仁源  覚信  静意  澄真  行玄  尋範      ┣━━━┳━━━┓     

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宇野澤元春 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2021年7月) 人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2021年7月) 他の記事から全くリンクされておらず、孤立しています。(2021年10月)出典検索?: “宇野澤元春” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 宇野澤 元春(うのざわ もとはる)は、歯科医師、医学博士、日本の実業家。株式会社Dental Prediction代表取締役社長。 2009年に日本大学松戸歯学部卒業、2011年千葉大学医学部付属病院口腔外科臨床研修医修了、2014年千葉大学大学院医学研究科を修了し、2017年渡米。 2019年にニューヨーク大学歯学部(NYUCD)Advanced Program in

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夢殿殺人事件 – Wikipedia

『夢殿殺人事件』(ゆめどのさつじんじけん)は、小栗虫太郎の短編探偵小説。改造社の雑誌『改造』1934年(昭和9年)1月号に掲載された、名探偵・法水麟太郎シリーズのひとつ。作者の他の作品と同じく、衒学趣味的な文体が特徴である。 あらすじ[編集] 北多摩の軍配河原にある、あまねく高識な尼僧のみを集めた尼寺・寂光庵。夢殿とよばれる密室にて推摩居士は殺されていた。夢殿の二階へ続く階段前の壁にもたれたその死体は体中の血を全て抜かれており、さらには両肘と両腰にはそれぞれ梵字型の傷が刻まれていた。また、夢殿の二階では一面に金泥がまき散らされた室で尼僧・浄善が殺されていた。頸椎が脱臼するほどの力で絞殺されており、また彼女の死体には奇妙な索痕が残されていた。さらに、三階の孔雀明王の絵から一階までの床には孔雀とおぼしき巨鳥の足跡が残されていた。 住職の盤得娑婆に請われ、事件解決に乗り出した法水。果たして、犯人は? 殺害方法は? その動機は? 本当に絵から孔雀明王が抜け出したのだろうか? 彼の推理はいかに…。 登場人物[編集] 法水麟太郎 前捜査局長にして刑事弁護士。住職の盤得娑婆に請われ本事件の調査に乗り出す。 支倉 検事。 盤得娑婆 寂光庵の住職。齢50過ぎ。本名・工藤みな子。文学博士の肩書きをもつ。事件解決のために法水を呼び寄せる。 推摩居士 本事件の被害者。齢50程。自身を龍樹の生まれ変わりと称し、諸菩薩の口寄せや不可思議な法術をも行い、奇跡行者として名を高めていた。日独戦争にて両下腿を失い、以後は義肢をつけていた。自身が法術を行う際に使う「夢殿」と呼ばれる室で殺されているのを発見される。全身の血液を全て抜き取られており、また両肘と両腰にはそれぞれ梵字型の傷が刻まれ、その死体は夢殿の二階へと続く階段の壁にもたれるようにして置かれていた。 浄善 本事件のもう一人の被害者。夢殿の二階にて頸椎の脱臼が起こるほどの力で絞殺されていた。また、彼女の死体には奇妙な索痕が残されていた。 智凡尼

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野田樹潤 – Wikipedia

野田 樹潤(のだ じゅじゅ、Juju Noda、2006年(平成18年)2月2日 – )は、日本の女性レーシングドライバー。通称「Juju」。東京都出身、岡山県美作市育ち。マネージメントはNODAレーシング。父は、元F1ドライバー 野田英樹。 概要・略歴[編集] 国内レース時代[編集] 2006年、F1ドライバーであった野田英樹の次女として誕生。3歳よりキッズカートを乗り始め、4歳でレースデビュー。6歳以降からレーシングカートの上位クラスで多くの優勝タイトルを獲得する。本来はクラスの出場規定年齢に達しておらず、実績から特例を認められての結果であった[2]。さらには9歳の時点(当時の世界最年少)でFIA-F4仕様のフォーミュラカーを運転し[3]、10歳時には現役レーサーと遜色ない好タイムを記録して非凡な才能を示している。 2017年、11歳で「フォーミュラU17チャレンジカップ」(F4相当)に初参戦。翌2018年からは同シリーズのF3マシンクラスに転向し[4]、2019年まで出場したレース11戦を全て優勝で飾った[5]。 海外レース進出[編集] 2020年[編集] 14歳という年齢制限がある中で、更なるステップアップのためにフル出場できるレースを模索し、唯一可能であった「デンマークF4選手権」に参戦を表明[6]。同6月の初戦をポール・トゥ・ウィンで制し[7]、大きな話題となった[8]。シーズンは、世界的に流行した新型コロナウイルス感染症の拡大を受け当初のレース数を短縮されていたが、10月に予定していた最終2ラウンド(全6戦。最終ラウンドをスウェーデンで代替開催する計画もあったが、コロナ再発により直前渡航中止[9])も中止になり不完全燃焼のまま終了[10]。本人はホームディシジョン的な不利もあって個人総合6位の結果に終わるが[11]、開催したラウンドは全てポールポジションを獲得し(予選は各ラウンド初戦のみ)、1台のみで挑んだチームもランキング2位の好成績を残した。 10月、FIA主催のフェラーリ(FDA)若手女性ドライバー育成プログラム「FIA Girls on Track Rising Stars」の選考キャンプに参加し、1次通過した8名に残るも[12]、最終選考には進めず[13]。

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キリル・コンドラシン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “キリル・コンドラシン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年11月) キリル・コンドラシン キリル・ペトローヴィチ・コンドラシン(ロシア語: Кири́лл Петро́вич Кондра́шин, ラテン文字転写: Kirill Petrovich Kondrashin、1914年3月6日 – 1981年3月7日)は、旧ソ連出身の指揮者。

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ブレント・クツレ – Wikipedia

ブレント・マイケル・クツレ(1985年8月3日生まれ)は、カリフォルニア州・ファウンテンバレー出身のアメリカ人ミュージシャン、多楽器奏者、作詞家、レコーディング・プロデューサー、映画音楽家。彼はポップ・ロックバンド、ワンリパブリックのメンバーの一人。 ワンリパブリックのリードボーカル、ライアン・テダーと同じように、ブレントもまたビヨンセ、マッチボックス・トゥエンティ、エリー・ゴールディング、コブラ・スターシップ、レオナ・ルイス、ケリー・クラークソン、アイランド、ヴァーミアー、オーガスティン、ディスアラー、モナーク、ヴェナスインファーズ、ジェシカドブソン、ケビンマックスなど、音楽業界におけるアンダーグラウンドからメインストリームに渡り活躍する様々なミュージシャンと共に作詞、演奏をしてきた[1]。 ブレントは2017年からジャッキーレスリーと結婚している。 生い立ち[編集] 幼少期[編集] 彼はイーサン.B.アレン小学校へ通い、13歳のときには、カリフォルニア州ウェストミンスターに位置するサラ・マクガービン学校に入学した。彼はまた、ウェストミンスターにあるラ・キンタ高校、リバーサイドのカリフォルニアバプテスト大学、コスタメサのバンガード大学にも行った。[2] クツレは教会のオルガン奏者で、ピアノ講師であった母親、ピアニストで1984年のロサンゼルス夏季オリンピックのオープニングセレモニーにおける84名のピアニストのうちの一人であった父親とともに幼い頃からピアノを弾き始めた。 チェロにおける競争はヴァイオリンよりもはるかに少ないものであったため、クツレは父親にそれを2つ目の楽器として取り掛かるよう勧められた。クツレはクラシックの教養を受けた作曲家である。[3] 映画の出演[編集] クツレは、ジェシカ・アルバが主演を務める2008年の映画、ザ・アイで特別出演を果たした。彼はオープニングシーンでオーケストラのメンバーとしてチェロを弾いて登場した。また、彼の弾くチェロは2006年に公開された同名のインディペンデント映画におけるタイトルトラック、”ソングス・ライク・レイン”でも聞くことができる。 2014年、クツレはいくつの楽器を演奏することができるのかと聞かれ、彼は「大学時代にできたほど多くはないが、ほんのわずかってところだよ」と答えた[4]。クツレは、活動家のフレイザーカーショーを主演として起用した2016年の国際的映画、「ビハインド・ザ・ウォーター」のサウンドトラックを採譜した[5]。 ワンリパブリック[編集] クツレは、バンドの元ベーシストがソロのキャリアを追うために脱退した後、2007年の早期にワンリパブリックに加わった。彼は小学4年生の頃からチェロを演奏しており、自身にチェロを演奏することを許さないバンドでは決して演奏することはないとコメントしている。 クツレはロックバンドのためにディレイ、リバーブ、ループエフェクトを使用して、チェロのサウンドを変えてきた。彼はワンリパブリックのデビューアルバム”ドリーミング・アウト・ラウド”内の、全編を通して繰り返される特徴的なチェロのサウンドがベースとなったトラックである、”オール・フォール・ダウン”で有名となった。 チェロとベースを演奏することに加え、クツレは、同バンドメンバーのザック・フィルキンス、フロントマンであるライアン・テダーと共にバンドのために作詞・作曲を行っている。 バンドのセカンドアルバム”ウェイキング・アップ”におけるリードシングル”オール・ザ・ライト・ムーブス”、シングルの”グッド・ライフ”などを含む多くの曲は彼らのサードアルバム”ネイティブ”のシングル、”フィールアゲイン”・”イフ・アイ・ルーズ・マイセルフ”などと同様に、クツレも作詞・作曲に関わっている。 コンサートでは、彼がベース、チェロ、ピアノ、ギター、パーカッションなどを演奏し、また同バンドメンバーのザック・フィルキンス、エディー・フィッシャー、ドリュー・ブラウン、ブライアン・ウィレットなどとともにバックグラウンドボーカルを行う姿を見ることができる。 ディスコグラフィー[編集]

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マット・ウィンチェスター – Wikipedia

マット・ウィンチェスター(Matt Winchester、1978年7月21日 – )はアメリカ合衆国のプロレスラー。ウィスコンシン州ウォキショー出身[1]。 2001年、プロレスラーデビューを果たす。地元であるウィスコンシン州を拠点とするBCW(Brew City Wrestling)を中心にディンティ・ムーア(Dinty Moore、Dinn T. Moore)のリングネームでインディアナ州のEWF(Extreme Wrestling Federation)、イリノイ州のTTW(Totally Tool Wrestling)などアメリカ中西部のインディー団体で活動[2]。 2005年、ハーリー・レイスが主宰するWLW(World League Wrestling)にてトレーニングを開始。2006年1月28日、WWEがサウスカロライナ州での公演の際に出場する機会を得てSmackDown!の前座番組であるVelocityに出場。ハーリー・レイスの息子であるリーランド・レイスと組んでジムナイ(ジェイク & ジェシー)と対戦するがリーランドが捕まると一方的に攻められ最後にスカイリフトスラムを喰らい敗戦[3]。 2007年1月14日、WWE・RAWの前座番組であるHEATにてダニエル・クロスと組んでハイランダーズ(ロビー・マカリスター

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ケヤッキー – Wikipedia

ケヤッキーは、おいでよ宮城の公式キャラクターである[1]。 宮城県の県木[注釈 1]である欅をモチーフにしており、かつては2001年に開催された第56回国民体育大会並びに第1回全国障害者スポーツ大会の公式キャラクターであった[2]。 宮城県のイラストレーター樽井純生によってデザインされ、1997年9月に国体県準備委員会によって発表された。二十一世紀を担う若者たちをイメージしており、緑や黄土色の色彩は宮城の豊かな四季の彩りを表現し、頭上の小鳥にはゆとりと潤いある社会への願いが込められている [3]。2001年宮城国体のPRに県内外で活躍し、国体終了後も宮城県のPRをしていたが、現在は県の管理を離れて代わりにむすび丸が宮城県の観光PRキャラクターとして活躍している。 約10年間表舞台に出なかったケヤッキーだが、人気Twitterアカウントおいでよ宮城がアイコンに使うことで話題になり、2017年にはおいでよ宮城公式キャラクターに就任[4]。様々なコラボグッズが作られ、着ぐるみも新調された[5]。 初期ケヤッキー 5頭身ケヤッキー(旧ケヤッキー) 簡易型5頭身ケヤッキー 新ケヤッキー ケヤッキー像[編集] 2001年のみやぎ国体では、会場などに高さ1.5mほどの彩色されたケヤッキーの像が設置された。この像は大会後民間に払い下げられるなどして、現在も宮城県各地で見ることができる。現在判明している設置場所は以下。[20] 仙台市障害者福祉センター 私立仙台大学附属明成高校倉庫 セキスイハイムスーパーアリーナ キューアンドエースタジアムみやぎ 利府町立利府小学校 私立仙台大学 登米市 登米祝祭劇場のケヤッキー像

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ツイ・ハークのゴーストホーム/13日の金曜日の妻たちへ – Wikipedia

『ツイ・ハークのゴーストホーム/13日の金曜日の妻たちへ』(原題:黑心鬼)は、1987年の香港映画。ツイ・ハークが特撮を担当している[1]。 ストーリー[編集] 心優しい金持ちの老人は落下してくる看板から子供を救うため、身代わりで看板の下敷きとなり命を落としてしまう。冥土へと送られた老人ともう1人の男は、そこで閻魔の従弟から生前に良い事ばかりして悪い事を一度もやっていなかった2人が、自然のバランスを崩した罰として天国へ行けず妖怪にされることを知らされる。さらに閻魔の従弟は2人が天国に行ける条件として、良い事と悪い事のバランスを整えるために妖怪になって200年俗世界を彷徨い、その期間に人間9人を呪い殺すことを命じ2人を俗世界にキョンシーとして送り返す。 香港で日本人向けの観光ガイドをしているチャン・ホンタイは、彼を尻に敷くギャンブル好きの妻チョイ・ファとデート資金を無心するチャンの弟シン・スンのせいで節約生活を強いられていた。チャンは金を得るためリベートに手を付けていたが、それがツァン社長に見つかってクビにされそうになる。弟に責任を全部なすりつけてクビを回避したチャンは、自宅で林未亡人、ミス・ゴ、ミセス・ロビンソンと一緒に麻雀をしていたチョイから部屋に行くよう命令され、ささやかな抵抗で麻雀牌を一つ取り上げて寝室に向かう。その夜シンは下宿を家賃滞納で追い出され、さらに恋人にも振られてしまう。土砂降りのなか困ったシンは、チャンに電話してしばらく泊まらせてくれるよう頼む。チャンの家に着いたシンは姉チョイに瓜二つの亡き妹ランの幽霊をチョイだと思い込み、出迎えた彼女に迷惑をかけないようにすると伝えて家に入れてもらう。普段のチョイと様子が違うことに戸惑いながら、シンはソファで一夜を過ごす。 翌朝、昨夜と態度が正反対のチョイに叩き起こされたシンは、彼女に不法侵入で訴えると言われる。そこにチャンが出てきてシンの事情をチョイに説明するが聞く耳を持たなかったため、夫婦の愛について語って何とかチョイの言いつけを全てやることを条件にシンの同居を認めさせる。リベートの分け前についての相談で贋物ばかりを扱っている骨董品店オーナーのウーを訪ねたチャンは、相談の途中で尿意をもよおし用を足すためウーから古代の尿瓶を貸してもらう。だが小便の音がしないことを不思議に思ったチャンは、尿瓶の中がとても広い空間であることを発見する。そしてそこから声が聞こえたと感じた瞬間、小便まみれの老人が飛び出てくる。200年振りに俗世界へ来たという老人は、天国にも地獄にも行けない赤妖怪というものだと自己紹介し、チャンは赤妖怪から願い事を3つだけ叶えてやると言われる。1つ目として現金をねだるが使えない紙幣で、2つ目に宝くじの当選券を望む。願いを叶えた後で赤妖怪は尿瓶に戻り、チャンはいつでも呼び出せるよう尿瓶を持ち帰る。一方シンの前にはランが連日現れ、彼の気を引こうとしてくる。 キャスト[編集] スタッフ[編集] 注釈[編集] ^ a b 王晶(ウォン・ジン)は香港の映画監督・プロデューサーであり、日本語圏に限り「バリー・ウォン」として知られる。日本語圏以外(中国語圏含む)で「バリー・ウォン」として知られる香港の映画脚本家、黄炳耀(ウォン・ピンユー)とは別人である。 ^ a b 本作における王晶のクレジット表記は「バリー・ウォン」となっているが、ウォン・ジンは「バリー・ウォン」と自ら名乗ったことは一度もなく、日本語版VHSビデオ発売元の大映の手違いによるものと見られる。詳細は王晶 (映画監督) と黄炳耀の各項目を参照。 出典[編集] 外部リンク[編集]

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