長井頼重 – Wikipedia
長井 頼重(ながい よりしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての人物、鎌倉幕府の御家人。 系図類では、長井泰重の子で、長井貞重の父[1][2]となっており、鎌倉幕府第5代執権の北条時頼が北条氏得宗家当主であった期間(1246年-1263年)内に元服[注釈 1]して、時頼より偏諱を受けた[3][注釈 2]人物とみられる。母は海東忠成の娘[6]。 長井氏一族は、嫡流である長井泰秀の系統が関東に住したのに対し、庶流であった泰秀の弟・泰重の系統は京都に住して六波羅探題の下で評定衆を務めるなど重要な地位を占めた[7]。また、この系統は備後国守護職を世襲しており[8][9]、頼重も六波羅評定衆や同国守護[2][10]、そして父と同じく因幡守になった[11][12]と伝わる。 弘安5年(1282年)、南都(興福寺)の強訴によって越後国に配流された [13][注釈 3]が、ほどなく処分は撤回されたようで、その後の弘安9年(1286年)の段階では頼重が備後守護となっており[10][15][16]、子の貞重・貞頼も六波羅評定衆となっている[17][15][16]ことが確認されている。 以後の活動は没年も含め不詳である。 注釈[編集] ^ 元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年も(幅は広いが)1230年代~1250年代の間であったと推定することができる。 ^ a b 長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記』元徳3年(1331年)2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と長井貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年~1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時と烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重が泰時、頼重が時頼、貞重が貞時、高広が高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える。 長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[4]、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられる[5](→北条氏#北条氏による一字付与について)。 ^
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