Month: September 2019

常野物語 – Wikipedia

「エンド・ゲーム」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「エンドゲーム」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “常野物語” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年2月) 『常野物語』(とこのものがたり)は、恩田陸の小説シリーズである。常野シリーズとも。『光の帝国』『蒲公英草紙』『エンド・ゲーム』の3作が刊行されており、『光の帝国』はテレビドラマ化された。 特殊な能力を持つ「常野」の人々を描いている。 全て集英社。(最初の)単行本は四六版ハードカバー、文庫は集英社文庫。文庫版の表紙はシリーズタイトル「常野物語」が先であるかのようなデザインになっているが、後に来るのが正しい。 光の帝国 常野物語 (1997年10月 ISBN 408774292X、文庫:2000年9月 ISBN 4087472426)

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品川女子学院中等部・高等部 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “品川女子学院中等部・高等部” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) 品川女子学院中等部・高等部(しながわじょしがくいんちゅうとうぶ・こうとうぶ)とは、東京都品川区北品川三丁目にある私立女子中学校・高等学校。完全中高一貫校。 1925年(大正14年)、衆議院議員、全国町村長会会長を務めた漆昌巌品川町長の娘、漆雅子により創立。 1991年(平成3年)、校名を「品川女子学院」に変更。中高一貫教育を開始する。 戦前から続く女子学校ではあるが、「世の中に貢献できる女性を育てる」[1]という理想の下、近年廃校の危機が取り沙汰されるほどの状態から偏差値、進学率を高めた学校として、学校再生の観点でも注目されている[2]。 ミッション「私たちは世界をこころに、能動的に人生を創る日本女性の教養を高め、才能を伸ばし、夢を育てます」[3]を打ち立て、このミッションから生まれた、卒業後の人生を見据え、社会で働き続けるための力を身につけることを意図した教育方針である「28project」を行っている[2]。 また、ミッション達成のためには生徒を育てる時間が3年間では不十分として、高校での募集を取り止めている[3]。完全中高一貫校 なお、学業優先を条件として芸能活動も許可している[4]。 教育の特色[編集] 28project[編集] 品川女子学院の教育方針。上記の通り、同校のミッションから生まれたものである。「大学進学をする18歳の時ではなく、28歳の時に社会で生き生きと活躍できる女性を育てることを目指し、未来から逆算してその土台づくりをしていく」[2]ことを目的としている。28歳を目安としているが、これは女性が28歳の頃が「仕事、結婚、出産といった自身の将来を考える上でのターニングポイントとなる」という考え方による[2]。 「ライフデザイン教育」[編集]

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赤すいか黄すいか – Wikipedia

『赤すいか黄すいか』(あかすいかきすいか)は、大島弓子による日本の読み切り漫画作品。初出は集英社『月刊セブンティーン』1979年11月号[1][2]。 本作を原作として映画化されており、1982年5月1日に公開された[3]。 ストーリー[編集] 女子高校生の庭野千草(にわの ちぐさ)は、父母と3人で新しい庭付き一戸建てに暮らしている。普段は明るい性格で、学校では親友のメリやサチと仲良く過ごしているが、月経が近づくと些細なきっかけで気分が落ち込み、頭痛がして食欲がなくなり、欲しくもない物を衝動買いしたりする。また友達とも楽しく会話ができなくなり、普段は仲の良い父母に対しても嫌悪感を抱いてしまう。 千草は月経中に文具店で衝動買いしたクリップを、後でこっそり店の売場に戻しに行くが、店内でそれを見かけたクラスメイトの瀬戸内(せとうち)は千草が万引きしたと誤解する。千草は購入時のレシートを見せて誤解を解くが、瀬戸内は千草の奇妙な行動が理解できず、彼女を気にかけるようになる。 千草はある日、夏にすいかを食べたときに吐き捨てた種が庭で芽吹いているのを見て喜ぶが、母からすぐに枯れてしまうと言われたことから一気に落ち込み、やがてひどい生理痛に見舞われる。いっそ猫のように避妊手術をして月経をなくしたいと母に打ち明けるが、当然のごとく猛反対される。 とりあえず孫をひとり産んであげれば母も納得するのではないかと考えた千草は、瀬戸内に「子作りに協力してほしい」と頼むが、真面目な性格の瀬戸内は体を硬直させながら拒否する。庭のすいかの芽も雹に打たれて倒れてしまう。 生理痛のつらさに耐えきれなくなった千草は、貯金を持ち変装して家を出て、遠い街の小さな病院でこっそり手術を受けようとするものの、結局怖くなって全速力で走って逃げ帰る。やがて元気になった千草は、病院から逃げ出して走っていたときは生理痛を感じなかったことを思い出し、月経期間中はジョギングをすることにする。庭では倒れたすいかの芽が再び立ち上がっていた。 千草は子作り依頼の件で瀬戸内に謝罪するが、彼はますます混乱する。一か月後、学校を休み雨の中でジョギングする千草を見かけた瀬戸内は傘を差し出し、彼女の奇行の数々を理解できないまま、心の中で「また明日学校でな!」と呼びかける。そこで物語は終わる。 書誌情報[編集] この節の加筆が望まれています。 関連項目[編集]

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東永谷 – Wikipedia

東永谷(ひがしながや、英: Higashinagaya)は、横浜市港南区の町名。現行行政地名は東永谷一丁目から東永谷三丁目。住居表示実施済み区域[5]。 港南区北部に位置し、元来は農村地帯であったが、1960年代前半から宅地開発が始まり、住宅街が広がっている[6]。 面積[編集] 面積は以下の通りである[1]。 丁目 面積(km2) 東永谷一丁目 0.149 東永谷二丁目 0.145 東永谷三丁目 0.208 計 0.502 沿革[編集] 住居表示実施に伴い、1丁目と2丁目は1978年(昭和53年)7月31日に下永谷町と上永谷町の各一部から、3丁目は1983年8月8日に下永谷町の一部から新設された。 町名の変遷[編集] 実施後 実施年月日

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My Birthday – Wikipedia

『My Birthday』(マイ バースディ)は、実業之日本社から発売されていた、10代女性をターゲットにした月刊誌(休刊)。定価390円(税込み)。通称「マイバ」。略称「MB」又は「M.B」。占い、心理テスト中心の記事が多い、という特徴があった。編集は創刊から説話社が担当。 1979年4月創刊。毎月8日が発売日だった。 ティーンズ誌の場合モデルが表紙を飾る事が多いが、マイバは創刊以来の伝統によりイラストが表紙を飾っていた。なお、表紙イラストレーターは創刊時のまつざきあけみ以降数回の交代をしており、休刊直前はTAMMY(イトウタミコ)だった。  キャッチコピーは『愛と占いの情報誌』。初のティーンズ向け占い情報誌として創刊された。毎月・毎日の星占いと各月の誕生星座の詳細な星占いを連載し、各種の占いや心理テスト、おまじない、白魔術の特集を組んだ誌面で戦後第3次占いブームの波に乗り公称40万部の人気雑誌となった。[1] 占い、おまじないのみならず、ティーンズファッション、ビューティーケア、ダイエットなどの10代女性が関心を持つ事項も扱っていた。 有料制の読者会員制度を有していた(後述)。 2006年12月号をもって無期休刊(事実上の廃刊)。 2006年3月21日よりMyBirthdayHappyWeb(マイバースデイハッピーウェブ)として復活。 2010年3月通信販売でのみでMyBirthdayファンブックを販売(1,890円) ファンブックのふろく「ケントナカイの2010年星座読本」、「海のしずくペンダント」、「開運!お札シール」 主な連載[編集] 人気指数ランキング  読者アンケートによる著名人の人気ランキング。 ココロ・スイッチ   様々な場面の『きっかけ』を飯野賢治が書いたコラム。題字は毎回読者から募集している。  オフバースディ  読者が文通相手等を募集する。  日本の夜明け 

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結婚披露宴 – Wikipedia

結婚披露宴のメインテーブル(高砂) 結婚披露宴(けっこんひろうえん)は、結婚を披露するため、親戚・知人・友人らを招いて催す宴会である。結婚を広く地域・社会に知らせ、皆で祝う結婚披露宴を催す習俗は、世界各地に古くから見られる。結婚披露宴は、宗教的色彩の濃い儀式としての結婚式(婚礼)と併せて開かれることが多く、結婚式と結婚披露宴を一体として結婚式(婚礼)ということもある。 古くは、結婚披露宴をもって結婚の成立とした。その後、宗教の組織化と社会制度の整備により、宗教的儀式たる結婚式が重視され、結婚式をもって結婚の成立とみなすようになり、結婚披露宴はそれに付随する宴となった。現代では、多くの国で結婚(婚姻)は単に民事契約とされるものの、結婚式の宗教的色彩は色濃く継承され、結婚披露宴も広く行われている。儀式としての結婚式の詳細は「結婚式」の項を参照のこと。 日本における結婚披露宴[編集] 歴史[編集] 『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版 日本の結婚形態は、古代から中世、中世から近代、現代と、大きく3期に分けてその変遷が説明される。結婚披露宴も、結婚形態の変遷に伴ってその意味合いを変えてきた。 古代から中世(鎌倉時代)初期までは、夫が妻の元に通う妻問婚が広く行われた。当人同士の恋愛から始まり、男が女の家に通って夫婦関係を発生させる。結婚を認めるのは女性側の親であり、一種の婿取り婚とされる。女性親は男がすぐに帰ってしまわないよう男の履物を抱いて眠ったという。男が三日三晩通ったところで女性親は結婚を認め、婿を歓待するため多くの飲食物を饗じ、親戚らを招いて婿を披露する宴会を催した。これを所顕・露顕(ところあわらし)といった。平安時代には、披露宴の前に「三日夜の餅」など現代の結婚式に通じる儀式も生じていた。 中世から近代(戦前)に至る時期には、嫁入り婚が広まった。嫁入り婚では、嫁が男性側の家の一員となる嫁入りによって結婚が成立し、夫婦の生活も婿方でされることが多い。結婚は家と家との結びつきの端緒という側面が重視され、男性側の家に両家の親族らを招いて結婚披露宴が催された。嫁入り婚は、武家に見られる父権家族制度の現れであり、その成熟に伴って武家以外の社会にも定着していった。封建社会組織が確立してくると、お見合いや婚約・結納、儀式の日取り、結婚披露宴の式次作法も整備され、小笠原流や伊勢流など、儀礼の流派まで誕生した。明治時代に制定された旧民法の家制度、それに基づく戸籍制度でも、嫁入り婚を基本的な結婚形態として構築されている。 戦後、1946年に公布された日本国憲法(特に14条、24条など)と、これに基づいて改正された現行民法(家族法)の規定により、結婚と夫婦・家族に関わる制度と認識が大きく変わった。現代では、結婚は、一方が他方の家に入るという形ではなく、「両性の合意」のみに基づいて、新しく独立した夫婦・家族を形成するという認識が強い。そのためお見合いは減少し、恋愛結婚が重視される。また生活の実態としても、夫婦とその子だけで生活する核家族が多い。そのため、結婚式・結婚披露宴は、夫婦の家やその実家で行われることが少なくなり、ホテルや結婚式場、レストランなどで行われることが多くなった。もっとも、家と家の結びつきという側面は、現代の結婚式・結婚披露宴にも随所に見られる。大仰な宴席や家意識を敬遠して、レストラン等で新郎新婦の両親や兄弟姉妹、親しい友人・知人のみで簡素に祝う、いわゆるジミ(地味)婚も多くなっている。 現代の結婚披露宴[編集] 結婚披露宴の準備[編集] 結婚披露宴の会場 現代の日本の結婚式は、神前式(神道式)またはキリスト教式で行われることが多く、結婚披露宴はホテルや結婚式場、レストランで行われることが多い。このため、神社に結婚式場を併設したり、ホテル・結婚式場に神道の祭壇やキリスト教のチャペルを設けて、結婚式と結婚披露宴を1か所で併せて行うことが多い。近年はオリジナル性を持たせたパーティースペースやゲストハウスで行われることがあり、挙式の参列者全員を立会人として結婚を誓う人前式で行われることもある。 結婚式・結婚披露宴の招待客 結婚式・結婚披露宴への招待は、新郎新婦の連名か、新郎新婦の父親の連名で行われることが多い。結婚式は、神前式の場合には新郎新婦の親族のみ招待することが多く、キリスト教式では親族のほか親しい友人・知人なども招待することが多い。これは、神前式の式場はチャペルに比べて狭いことが多く、「両家親族固めの杯」に見られるように両家の結びつきのための儀式という色彩が濃いことによる。 結婚披露宴は、新郎新婦の親族、親しい友人・知人のほか、恩師や職場の上司・同僚、両親の友人・知人なども招待される。特に、恩師や上司は、結婚披露宴の主賓とされ、会場最前列(新郎新婦と対面する位置)に席が用意される。 結婚式・結婚披露宴の衣装・服装 紋付羽織袴と色打掛・角隠し 結婚式の衣装について、神前式の場合、新郎は紋付羽織袴、新婦は白無垢打掛に綿帽子、あるいは色打掛に角隠しであることが多い。キリスト教式の場合、新郎はモーニングコート(昼間)かタキシード(夜間)、新婦はウェディングドレスを着る。多くの結婚披露宴では、お色直しとして新郎新婦が中座し、和装から洋装へ、あるいはウェディングドレスから有色の華やかなカクテルドレスへ着替える。

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市民プラットフォーム – Wikipedia

市民プラットフォーム(しみんプラットホーム、Platforma Obywatelska)は、ポーランドの政党。略称:PO(ペー・オー)。党首はドナルド・トゥスク。 欧州連合(EU)の立法機関である欧州議会(EP)では中道右派の欧州人民党に所属している。 2000年大統領選挙で次点となったオレホフスキ(Andrzej Marian Olechowski)を支援したグループを基盤として、オレホフスキとトゥスク(Donald Tusk)、プワジンスキ(Maciej Płaźyński)の3人によって2001年1月に結成された(政党登録は2002年3月5日)。自由連合(UW)から旧自由民主会議(KLD)系の大部分と「連帯」選挙行動(AWS)内の保守キリスト教系組織である保守人民党(SKL)の主要メンバーがPOに参加、中道右派穏健主義の立場を採っている。支持層は大都市の高学歴層、中・高所得者層、西部・北部地域の住民が主体で経済界、金融、企業家等の支持が厚く市場寄りとされる。 同時期に結成された他の党(右翼政党の「法と正義」および極右政党のポーランド家族同盟)に比べて支持をのばした。2001年の議会選挙では得票率 12.68 % で第2党となり、その後2005年の議会選挙では「法と正義」に敗れたものの、続く2007年の議会選挙では得票率 41.5 % を獲得して第1党となり、政権の座についた(ポーランド農民党との連立政権)。以来、自由に立脚しながらも社会とのバランスを重視する穏健な中道右派政党として、国民より絶大な支持を集めている[3]。 地方議会においても、2010年11月に行われた統一地方選挙の結果、県議会と郡議会および市議会のいずれも当選者総数が第一党となった。県別でみた場合では、西部から中部に及ぶ13県議会で最大議席を確保、連立パートナーである農民党も含めると16県議会全てで過半数を確保している[4]。 2011年10月、任期満了に伴って実施された議会選挙では下院にて前回より得票率で2%余、議席数は2議席減となったものの、第1党を維持することに成功した。また上院では6割を上回る議席数を獲得して圧勝した。与党第2党である農民党との合計で下院の過半数を上回ったことから、民主化以降のポーランドでは初めて与党の政権続投を確実にした[5]。11月19日、下院で内閣信任決議が承認され、第2次トゥスク内閣が正式発足した[6]。 2013年8月、約4万2千名の党員の直接投票による党首選挙が行われ、首相で党首のトゥスクが八割近い得票を集め、対立候補のゴヴィン(元法相)を退けて再選を果たした[7]。敗れたゴヴィンはトゥスク首相が進める社会保険庁や年金改革に対する不満を理由として9月、POを離党した[8]。 2015年10月25日のポーランド議会選挙(英語版)で法と正義が上院・下院ともに過半数を獲得[9]し、POは8年ぶりに下野することとなった。翌2016年1月、スヘティナ(Grzegorz Schetyna)が党首に就任した[10]。 一貫した穏健主義の理念[編集] 中道右派と称され、伝統と自由のバランスを重視した、穏健主義である。本来の意味での保守主義といえる。左右どちらに関わらず一切の急進主義(過激主義)を排除することが党の綱領に明記されている。その主張にはキリスト教民主主義とリバタリアン保守主義の両方の要素がみられるが、そのどちらにも一方的には与せずあくまでバーク的な穏健主義の方針を貫く政党である。党首のドナルド・トゥスクは、「政治において最も大事なことは『信用(Trust)』である」と言い切る。そのための基本的理念が穏健主義である。ノーラン・チャートでは右下の保守主義にあたる。この場合の保守主義(conservatism)は穏健主義(moderatism)や漸進主義(gradualism)と同義であり、守旧派であることを意味しない。これは奇しくもエドマンド・バークの求めた保守主義と全く同じで、ポーランドではポーランド・リトアニア共和国の「黄金の自由」やポーランド分割期の「有機的労働」運動という政治的経験を通じてバークと同様の穏健保守思想がイギリスとは別個に発達していた。このポーランドの穏健保守思想はヨーロッパ最初の成文民主憲法である「ポーランド1791年5月3日憲法」の思想的基礎ともなっている。

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九四式二号丙無線機 – Wikipedia

九四式二号丙無線機(きゅうよんしきにごうへいむせんき)は、大日本帝国陸軍が開発した遠距離通信用の無線機である。これは機械化部隊相互の通信を行うための車載型無線機で、九六式六輪自動貨車に搭載され、走行しながら通信を行えた。通信距離は電信が行動間120km、停止間300km、無線電話が行動間24km、停止間24km以上とされた。全備重量は4.8tである。また傍受に備え、電波を暗号化する秘密通話装置が標準装備されていた。 この自動車無線機が審査を開始したのは昭和6年からである。昭和6年から7年にかけ、通信自動車について研究が行われ、通信自動車に二号無線機材、または一号無線機材を搭載して使用することが模索された。研究の要点は車室と空中線設備とされた。 昭和8年6月、自動車無線機の用途と通信距離について関係諸方面と協議し、移動間送受信を行う通信専用の自動車を新規開発するのではなく、当時審査中だった機材を応用して利用すること、審査開始に際しては、通信距離を自動車部隊の行動半径を基準として策定することが策定された。そこでまず、二号無線機を自動車に車載して研究を進め、用途に応じて具体策を練り、必要に応じて特殊通信専用自動車を研究するものとした。昭和8年9月には第一回試作機が試験された。このときには自動車の機関に無線遮蔽を施すことが求められた。10月、電気系統と機関を改修した車輌を試験。搭載無線機に飛二号級無線機を使用し、自動車が相互に行動している間に通話を実施し、通信距離20kmを達成した。また二号級無線機と対向した際にはさらに通信距離が増大した。11月、試験結果を踏まえて車上装備を改良、第一師団秋季演習に試用した。試験では師団司令部と自動車部隊、騎兵部隊の間で有効な連絡ができることを実証した。 昭和9年、審査方針が修正された。修正点は酷寒試用に耐えること、また路外運行可能な自動車に搭載すること、必要時には卸下して使用できることである。また標準的な通信距離にも変更が加えられ、電信が行動間120km、停止間300km、電話が行動間24km、停止間24km以上とされた。試作に際して関係諸方面からの意見を参考とし、昭和9年9月から10月にかけて試験が行われた。試験後に部分的改修と秘密通話装置を追加、11月には昭和九年度特別大演習に試用された。12月、機械化砲兵部隊演習に参加し、砲兵部隊内の指揮と連絡、機械化兵団の他部隊相互の連絡を実施した。結果、構造が堅牢で取扱いが容易、所期の通信能力を発揮できると判定された。ただし特殊通話装置の改修と完備を速やかに行う必要があるとされた。 昭和10年1月、機材の第二次試作を開始。10月に昭和十年度師団対抗演習に試用し改修を加えた。昭和11年1月、満州北部での冬期試験を実施した。結果、零下25度まで通信が可能であり、機械化部隊用無線機として実用に適すると評価された。 昭和11年11月、第二次試作機材に改修を加え、また短期間に製造が可能であることを確認した。陸軍技術本部に構造・細部等に対し意見を求めたところ異論はなく、仮制式制定の上申が行われた。 通信機、電源、空中線材料、自動車、属品と材料で構成される。通信機は送信装置と受信装置、秘密通話装置からなっている。 送信装置内容 送信機・水晶制御または主発振によって電信送信を行うほか、電話送信が可能である。周波数の範囲は900から6,675キロサイクル毎秒である。 付属品・電鍵と送話器等 予備品・交換用部品 他材料 受信装置内容 受信機・拡大および検波性能を持つ。周波数範囲は140から15,000キロサイクル毎秒 付属品・受話器等 予備品・交換用部品 他材料 秘密通話装置・この装置は通話電波に干渉するもので、送信時に通常の受信機のみで電波を受け取っても解読できなくするものである。解読するには秘密通話装置を介して受信する必要があった。 電源内容 電動発動機・定格出力2馬力、定格電圧96ボルト、定格電流10アンペア、3,000回転毎分

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ドン・オール – Wikipedia

ドン・オールDon Ohl 引退 ポジション SG/PG 基本情報 愛称 Waxie 生年月日 (1936-04-18) 1936年4月18日(85歳) 国籍 アメリカ合衆国 出身地 イリノイ州マーフィーズボロ 身長(現役時) 190cm (6 ft 3 in) 体重(現役時) 86kg (190 lb) キャリア情報

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