Month: September 2019

Do 18 (航空機) – Wikipedia

ドルニエ Do 18 Do 18 は第二次世界大戦の開戦前にドイツ空軍で使用された飛行艇である。開戦時には旧式化していたが、洋上偵察や海難救助任務に使用された。 Do18はDo.Jの後継機としてルフトハンザ社の海外路線用に、ドルニエが設計・製造した飛行艇である。 支柱で胴体よりも高く配置された、パラソル式支持の主翼を持ち、水上での安定を図るためのスポンソンと呼ばれる小翼を胴体側面に配しており、2基のエンジンが、主翼の上に縦列に置かれているのが外観上の特徴。この構造は1920年代に開発されたDo.J以来のドルニエの得意とする手法であるが、Do 18は当時最新の空力設計と、高度な工作技術により、スマートな機体に仕上がっている。エンジンはクルップのアイディアをユンカースが進化させた、上下対向式(ダブルアクティング)の高出力2サイクルディーゼルエンジンが搭載されている。Jumo 205型と呼ばれるこのエンジンは、直列6気筒ながら、12のピストンと、ギアトレーンで結ばれた2本のクランクシャフトを持ち、シリンダーヘッドは存在しない。 1934年にはルフトハンザ社が大西洋横断定期郵便事業を展開するための機体の開発をドルニエ社に依頼した。すでにルフトハンザはDo Jを使い、リスボンから南大西洋を横断してブラジルへ行く連絡飛行を行っていた。しかし、北アメリカルートにはもっと航続距離の長い機体が必要であった。 Do18の初飛行は1935年3月15日であった。1936年9月にはハンブルクからアゾレス諸島沖で待機する補給船を経由してニューヨークまで4,460kmを22時間15分で飛んだ。ルフトハンザは「世界初の西廻り大西洋横断定期郵便飛行に成功した」と発表した。また、1938年3月にイングランドのデボン州からブラジルまでの8,391kmをノンストップ43時間で飛行し、当時の水上機による飛行距離世界記録を樹立した。 この機の長い航続距離に目をつけたドイツ空軍が偵察機として正式採用し、1936年から導入され1940年までに約100機が製造された。しかし第二次世界大戦開戦時にはすでに旧式化しており、1942年には後継のブローム・ウント・フォス BV 138に置き換えられ、全機が偵察任務からはずされ、もっぱら海難救助任務に当てられ終戦まで使用された。 Do18は第二次世界大戦で初めて英国に撃墜されたドイツ空軍機という不名誉な記録が残されている。1939年9月26日、北海上空において英国海軍の空母アーク・ロイヤル所属のブラックバーン スクア艦上爆撃機によりドイツ空軍第2沿岸飛行大隊所属のDo18が撃墜された。 スペック[編集] 全長:

Continue reading

トカゲ特撮 – Wikipedia

トカゲ特撮(トカゲとくさつ)とは、本物のトカゲ[1]やワニに作り物の角やヒレをつけ(あるいはそのまま)、恐竜などといった巨大生物に見せかけて撮影する方法。バッタや猫、人間などをセットや写真上に配置し巨大生物に見立てるという、バート・I・ゴードンが好んで使用した技法のバリエーション。同じセット撮影でも人形アニメに比して、質はともかく撮影期間が短く済む場合があるというメリットがある。 着ぐるみや人形アニメと並ぶ恐竜映画などを製作する手法の1つ。安上がりなため1940~70年代初頭まで欧米で制作された。『ロボット・モンスター』など『紀元前百万年』の流用作品が多いため、実質的には『大蜥蜴の怪』など映画を4本視聴すれば制覇したも同然と眠田直は主張している。現在は動物愛護の観点から、まず使われることのない技術である[2]。 トカゲ特撮を使用あるいは流用している作品[編集] 先史時代 (1914)[3] ザ・シークレット・オブ・ザ・ロッホ (1934) 紀元前百万年(1940年) ターザン砂漠へ行く (1943)[4] 有史前の女 (1950) 本物の鳥を翼竜に見立てている 失われた世界 (1951) 映像は紀元前百万年の流用 燃える大陸(1951年)一部のみトカゲ特撮で後はモデル 美人島の巨獣(1952年)映像は紀元前百万年の流用 ロボット・モンスター (1953)

Continue reading

超解像技術 – Wikipedia

超解像技術(ちょうかいぞうぎじゅつ、Super-resolution)とはテレビなどに関わるデジタルでの画像処理技術の一つで、入力信号の解像度を高めて出力信号を作る技術を指し、具体的な製品では入力された動画や静止画の信号を高解像度化して出力したり、高解像度の画像を表示したりするものである。超解像技術は、半導体露光装置や共焦点レーザー顕微鏡などのイメージングレーダーや光学顕微鏡でも使用されている。 「超解像」は主に従来の動画の変換で用いられている「アップコンバート」に近い用語として企業の商品宣伝に使われている。超解像技術は、通常は、入力信号の解像度が表示画面の解像度に満たない場合に、それを補うための解像度補間技術を指し、例えば、標準解像度のビデオソフトやワンセグ放送をフルHDの大画面テレビで観る場合に、超解像技術を備えた映像機器によって足りない画素を補間することでよりリアルな映像を楽しむことができる。また、解像度の低い携帯動画をオリジナルより画素数を増やすことで見やすくする場合にも超解像技術が使われる。 超解像技術は、言葉からも解像度、つまり、画素数のみの増加を示しており、色深度やダイナミックレンジ、動画では時間当たりのフレーム数といった画像の美しさを決めるほかの要素は考慮されていない。 この技術そのものは2000年以前から研究されていたが、2000年代なかごろから始まった平面パネルを持つテレビ画面の大画面化競争とその価格低下や、標準解像度程度の映像ソフト資産の存在、半導体技術の向上などによって、一般消費者が居間の映像機器によって高解像度化処理を行なうことが現実的になった。また、業務用途のものも基本的にリアルタイム処理であり、たとえば手持ちの旧映像を長時間かけて高解像度化するといった非リアルタイム処理の研究は不思議なほど発表されていない。 2009年現在では、日本の家電メーカーのように映像機器を製造している企業が、例えば、DVD映像の720×480画素や日本の地上デジタル放送の1440×1080画素をフルHDの1920×1080画素に高める技術を新製品に搭載して販売している[1]。今後はフルHDの1920×1080画素を4096×2160画素[2]や3840×2160画素にも変換できる製品を開発する予定である[3]。 2020年現在、SONYの「BRAVIA」[4]やPanasonicの「VIERA」[5]など多くの4Kテレビにこの技術が「アップコンバート機能」などと称して搭載されている。 動画の解像度を向上させるには、単純なフレーム内処理と、それをさらに高度化したフレーム間処理の2つの方法がある。2009年前半現在は、映像機器に搭載する演算処理用半導体のコストが考慮されて、演算能力と必要メモリがそれほど求められないフレーム内処理だけが製品化されているが、半導体の抗力向上と価格低下、及び購入者の要望の高まりによって、将来は高機能なフレーム間処理へと使用技術が移って行くことが予想される。 フレーム内処理[編集] フレーム内処理では、静止画での画質向上と同様に、簡単に1フレームごとに輪郭補正やドットノイズ消去といった処理を行ない、動画特有の時間軸方向での演算処理は行なわれない。主に輝度信号での処理を行なう。もっとも、単純に線形フィルタをフレーム内の全画素に当てはめると、得られる高解像度画像は新たな画素が元画素の間で平均化されただけのぼんやりした画質となってしまい真の高解像度とはいえない。このため、例えば、元となる画像を、細部が細かく変化するテクスチャ部、テクスチャ部の輪郭部、画素の変化が乏しい平坦部の3つに分けて、テクスチャ部には何らかの画質改善処理をほどこし、輪郭部はエッジ強調処理を、平坦部はそのままにするという異なる操作を行なうことで遠近感を高める工夫をするようなこともある。 フレーム間処理[編集] フレーム間処理では、処理対象となる1つのフレームが持つ画素情報だけでなくその前後のフレームが持つ画素情報を参照することで、対象フレームに含まれるノイズを効果的に除去しながら対象フレームの輝度情報を大幅に向上出来る。動画であるため、前後フレーム間は複数の対象物が複雑に移動するが、当面のフレーム間処理ではフレーム全体での2軸の移動量のみを考慮するにとどめる。 フレーム間処理は必要な演算処理量が多く、またフレーム保存用のメモリが多く必要になる。こういった処理すべてを、動画映像が流れる実時間内ですべて処理する必要があり、かなり強力な演算能力が求められる。 半導体露光装置における超解像技術[編集] 半導体露光装置(ステッパー)では光源の波長によって最小線幅が決まる。この限界を打破するために位相シフトマスクや変形照明などの超解像技術が使用される[6][7]。 詳しくは超解像フィルタを参照。 イメージングレーダーにおける超解像技術[編集] イメージングレーダの分野では、圧縮センシングに基づくアルゴリズムが有効であると考えられ、ドップラー・レーダーの通常の解像度限界を超える超解像画像を得ることが可能である。 このアプリケーションのために、SAMV (アルゴリズム)[8]などの最近の技術が開発されている。 その他の分野における超解像技術[編集]

Continue reading

ホワイト・プリンセス エリザベス・オブ・ヨーク物語 – Wikipedia

『ホワイト・プリンセス エリザベス・オブ・ヨーク物語』(原題: The White Princess)は、2017年に放送されたアメリカ合衆国のテレビドラマシリーズ。2013年にBBCで放送された『ホワイト・クイーン 白薔薇の女王』の続編で、フィリッパ・グレゴリー(英語版)の小説『The White Princess(英語版)』を基に製作された。本作は前作と異なり、BBCではなくアメリカのStarzによって製作されている[1]。全8話のミニシリーズで、アメリカでは2017年4月から6月にかけてStarzで放送された[2]。日本では、2020年4月からSTARZPLAYで日本語字幕・吹き替え版が配信された[3]。 2019年には、本作のスピンオフとなる『スパニッシュ・プリンセス キャサリン・オブ・アラゴン物語』が放送された。 2013年のテレビシリーズ『ホワイト・クイーン 白薔薇の女王』は多くの賞にノミネートされるなど成功を収めた。しかし2013年8月20日、第2シリーズの計画があったにもかかわらず、BBCは続編を製作しないことを発表した[4]。 2013年10月、Starzが続編のミニシリーズを計画していると報じられた[5]。2014年1月、StarzのCEOであるChris Albrechtは『ホワイト・クイーン 白薔薇の女王』の脚本家Emma Frostとプロジェクトに取り組んでいることを発表した[6]。StarzはBBCの関与なしに本作を制作することになった[7]。 『ホワイト・クイーン 白薔薇の女王』の続編ではあるが、キャストはセシリー公爵夫人を除いて一新されている[注釈 1]。 あらすじ[編集]

Continue reading

神の国 (エルガー) – Wikipedia

『神の国』(かみのくに、The Kingdom)作品51は、エドワード・エルガーが作曲した複数の独唱者、合唱と管弦楽のためのオラトリオ。 初演は1906年10月3日のバーミンガム音楽祭において行われ、作曲者自身が指揮するとともに、独唱者としてアグネス・ニコルズ、マリエル・フォスター、ジョン・コーツ、ウィリアム・ヒグリーが舞台に立った。曲はA. M. D. G.[注 1]へと捧げられている[1]。 『ゲロンティアスの夢』や『使徒たち』に続き、バーミンガム・トリエンナーレ音楽祭は1906年の音楽祭へ向けてエルガーに新しいオラトリオの作曲を委嘱した。こうして生まれた『神の国』もまた、イエスの弟子たちの説話を扱った作品となった。内容は初期の教会組織、ペンテコステとその後の数日間に関するものである。 エルガーは、十二使徒を想像を超えた出来事に呼応する普通の人間として描くという構想を、数年来温め続けていた。このアイデアはひとつの作品のうちに収まりきらなかった。『神の国』は『使徒たち』に続くものとして書かれており、エルガーは後年この2作品を三部作の最初の2つの部分であると考えていた。すなわち『神の国』は緩徐楽章に相当する部分ということになる。三部作の完結作としては『最後の審判』が計画されていたものの[2]、これが完成されることはなかった。 音楽としてのスケッチが開始されたのは1902年のことであり、一部は『使徒たち』よりも早く完成していた。1906年からは真剣な作曲作業が開始され、自信をもって一気に書き上げられた。 エルガー自身の指揮による初演は成功を収め、続く11月にはロンドン初演も行われた。指揮者のユリウス・ブーツはドイツ語へと翻訳を行っている。 この作品は『ゲロンティアスの夢』ほどの頻度ではないにせよ、特にイングランド国内では優れた合唱団体に歌われ続けている。エイドリアン・ボールトなどのエルガーの熱心な擁護者の中には、この作品が『ゲロンティアスの夢』すらも凌ぐほどの首尾一貫した質の高さを有する、エルガーの合唱作品における最高傑作であると考える者もいた。 エルガーはアマチュアの化学者であったため、この作品の草稿原本は彼の自宅の実験室で調製された化学物質で染色されている。 楽器編成[編集] 大規模な管弦楽団、2群の合唱、小合唱、独唱4(ソプラノ:聖母マリア、アルト:マグダラのマリア、テノール:聖ヨハネ、バス:聖ペトロ) 曲は5つの部分から成り、前奏曲に始まり連続して演奏される。テクストは使徒言行録からエルガーが抜粋したものであるが、福音書をはじめとする他の資料から採られている部分もある。 In the Upper Room

Continue reading

桑田芳蔵 – Wikipedia

桑田 芳蔵(くわだ よしぞう、1882年7月11日 – 1967年10月10日)は、日本の心理学者(民族心理学専攻)。東京帝国大学名誉教授、大阪大学名誉教授。 鳥取県生まれ。貴族院議員・桑田藤十郎の四男。兄は桑田熊蔵、弟は桑田六郎(宇野哲人長女の婿)。1905年東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業。1906年同助手、10年同大学院中退、留学、12年帰国、1913年東京帝大講師、1917年助教授となり民族心理学を講じる。1921年「霊魂崇拝と祖先崇拝」で文学博士。26年文学部教授、35年評議員、文学部長。41年東京大学東洋文化研究所初代所長。43年定年退官、名誉教授、48年大阪大学法文学部長、教授、49年定年退官、名誉教授。日本心理学会会長など歴任。 1951年 日本心理学会名誉会員[1]。 『霊魂信仰と祖先崇拝』 心理学研究会出版部、1916年 『ヴントの民族心理学』 文明書院、1918年 『宗教心理』 日本青年館、1924年 『心理学』 文信社、1927年 「表情の原則に就て」 『哲学雑誌』 第23巻 (通巻

Continue reading

コンビナトリアルケミストリー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “コンビナトリアルケミストリー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年11月) コンビナトリアルケミストリー あるいはコンビナトリアル化学(コンビナトリアルかがく、英語:combinatorial chemistry)とは、化合物誘導体群(ケミカルライブラリー、化合物ライブラリー)の合成技術と方法論に関する有機化学の一分野である[1]。すなわち組み合わせ論に基づいて列挙し設計された一連のケミカルライブラリーを系統的な合成経路で効率的に多品種合成する為の実験手法とそれに関する研究分野である。言い換えると、一般的な合成化学は特定の目標化合物を合成する為に最適な合成方法を探究することに主眼が置かれるが、コンビナトリアルケミストリーでは一連のケミカルライブラリー全てを合成する為に最適な方法を探究する。 広義には計算化学の手法を応用し、実際に化合物を作らずに全てコンピューター上で自動発生させた構造式から成るケミカルライブラリー(バーチャルライブラリー)をシミュレーション評価(in silico実験)する場合も含む。それをバーチャルスクリーニングともいう。 組み合わせ論に基づいた分子合成を行うことで、すばやく多種の分子を生成することができる。例えば、3ヶ所(R1, R2, and R3)で誘導体化が可能な分子の場合、それぞれ NR1{displaystyle N_{R_{1}}}

Continue reading

おーしゃんさうす – Wikipedia

おーしゃんさうすは、かつてオーシャントランスが運航していたフェリー。 東京港 – 徳島港 – 新門司港(北九州市)航路に1996年に就航。全客室が2等寝台、レストランを廃止し飲食は自販機のみとした合理化型船「カジュアルフェリー」の第一船となる。 2013年10月16日に新造船投入が発表され、本船は2016年7月13日の新門司港到着をもって引退。 その後、売船のため、GOLDEN BIRD 9と改名してモンゴル船籍となり、インドネシアへ回航された。さらに2017年に再売船されインドネシア船籍となる。 航路[編集] オーシャン東九フェリー 5階・B甲板 エントランスホール 売店・案内所 自動販売機コーナー「スナックコーナー」 イートインスペース「オーシャンプラザ」 2等洋室(20室) 前方展望室「フォワードロビー」 6階・A甲板

Continue reading

デニス・ジョンソン – Wikipedia

フロリダ・フレイム デニス・ジョンソン(Dennis Wayne Johnson、1954年9月18日 – 2007年2月22日)は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。カリフォルニア州サンペドロ出身。ディフェンスの名手として知られ、NBAオールディフェンシブチームに6度選ばれて、80年代のボストン・セルティックスの黄金期を支えた。 NBAキャリア[編集] シアトル・スーパーソニックス(1976-80) ペパーダイン大学出身。1976年のNBAドラフト2順目29位指名と、下位指名でシアトル・スーパーソニックスに入団した。入団3年目の1978年のプレーオフで1977年優勝のポートランド・トレイルブレイザーズとデンバー・ナゲッツを破り、NBAファイナルに進出した。ファイナルの対戦相手であるワシントン・ブレッツはウェス・アンセルドとエルビン・ヘイズを擁したベテランチームで、ソニックスは3勝4敗で惜しくも敗れた。翌年の1978-79年もNBAファイナルに進み、再びブレッツと対戦して4勝1敗で優勝し、ジョンソンはファイナルMVPを受賞した。しかし、チームにおけるジョンソンの評判は悪化し、自己中心的なプレーヤーとして監督のレニー・ウィルキンスからも「ジョンソンはチームのガンだ」と言われた。 フェニックス・サンズ(1980-83) 1980年にフェニックス・サンズに移籍した。ジョンソンは、選手として更なる名声を高めて主にシューティングガードとして活躍し、ソニックスでは2番手か3番手の選手だったがフェニックスではチームの主な得点源になった。 ボストン・セルティックス(1983-90) ボストン・セルティックスは、プレイオフで何度かフィラデルフィア・セブンティシクサーズに敗れていた。セルティックスのゼネラルマネージャーだったレッド・アワーバックは、ジョンソンのデフェンス能力を高く評価しており、サンズから獲得した。セルティックスは、ラリー・バード、ケビン・マクヘイル、ロバート・パリッシュ、ダニー・エインジを擁して黄金期を築き、1984年と1986年に優勝した。 バードは常々「DJは一緒にプレーした中で最高の選手だ」と語っており、2人のコンビプレーは見る者を楽しませた。特に1987年のプレイオフ、対ピストンズ戦でみせた残り5秒からの奇跡の逆転劇は伝説となっている。また、1984年のNBAファイナルでは前半こそ調子をおとしていたが、4戦以降目覚ましい活躍をみせ、得点はディフェンスでマジック・ジョンソンを苦しめ、優勝に大きく貢献した。 セルティックスのスカウトやアシスタントコーチを務めた。その後NBAデベロップメント・リーグのオースティン・トロスでヘッドコーチとなったが、2007年2月22日に練習後、駐車場へ向かう最中に突然倒れ亡くなった。死因は心臓発作であった[1]。 プレースタイル[編集] ジョンソンは非常にディフェンスに優れた選手だった。スティールがうまく、相手がスティールされたことに気づかないこともしばしばあった。またガードについては、背が高く、腕が長かったためリバウンドも得意とした。攻撃においては、初期は無理にペネトレートしたり、あまり得意ではないジャンプシュートを撃つこともあったが、ボストンに移ったころには攻撃の起点として見事なアシストをみせ、チームプレーに徹していた。また決して足は速くなかったが、独特なステップ(相手からウサギのダンスのようだと言われた)でペネトレートし得点、あるいは相手のファールを誘った。接戦に強いことでも知られ、それまで不調でも4クォーターになると多くのシュートを成功させた。大学ではフォワードであったこともあり、ポストプレーもうまかった。また競争心が強いことで知られるラリー・バードをして「DJは俺より競争心が強い」と言わせるほどの負けず嫌いだった。 主な受賞[編集] ファイナルMVP(1979) オールNBAファーストチーム(1981)

Continue reading