Month: April 2020

メルシャン – Wikipedia

メルシャン株式会社は、東京都中野区中野四丁目に本社を置く、酒類の製造販売をおこなう企業である。キリンホールディングス傘下の国内最大手ワインメーカー。 ワインブランド「メルシヤン」(のちのメルシャン)は1949年(昭和24年)に日清醸造によって立ち上げられた。日清醸造は、1944年(昭和19年)に山梨県東山梨郡勝沼町(現在・甲州市勝沼町)に設立された日本連抽株式会社を前身とするワイナリーである。現在でもこの場所にメルシャンの工場がある。「メルシヤン」の名前はフランス語の「Merci(メルシー)=感謝する+an(アン)=人」が由来で、ワインの原料を育てる自然への感謝の想いが込められていた[2]。 一方で、味の素の創業者として知られる鈴木三郎助の次男・鈴木忠治が、化学調味料製造の際に発生する大豆粕を原料にアルコール・合成清酒製造を目的として1934年(昭和9年)に「昭和酒造株式会社」を設立。川崎に工場を竣工し、合成清酒「三楽」の製造を開始。その後は合成清酒や焼酎を製造する傍ら、飼料や抗生物質なども生産。有するブランド「三楽」を冠し、世に製品を送り出してゆく。1949年には「三楽酒造株式会社」と社名変更。 三楽酒造は1961年(昭和36年)に日清醸造を買収し、同社が有していたブランド「メルシヤン」を傘下におくと、これを契機にワイン事業に参入。翌年には長野県北佐久郡御代田町(広義の軽井沢地域)でウイスキーの製造を行っていたオーシャン(大黒葡萄酒)を買収し、事業を拡大。同社のブランド「オーシャン」も傘下に置くと、サントリーを追随する形で総合洋酒メーカーに転身。1970年にはワイン「シャトー・メルシヤン」を発売し、ワインを専門分野とする一方、1980年代は酎ハイブームの到来と共に、サワー系飲料、また「ピーチツリーフィズ」などのカクテル製品を今日まで生産を続けており、この分野での知名度も高い。味の素傘下時代には、「メルシヤン」と「ヤ」も大きく表記していた。 1990年には社名を現在の「メルシャン株式会社」に変更。 長年に渡り、味の素の創業者である鈴木一族が筆頭株主だったこともあり、同一族の影響の強かったが、1997年の総会屋への利益供与事件に伴い、当時の味の素の社長だった江頭邦雄が「脱鈴木体制」を掲げたことから、同社もそれに追随する形で体制を改善、強化すると共に、2006年11月、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)との資本・業務提携を発表。同年11月17日から31日間実施された麒麟麦酒(以下「キリンビール」)による友好的TOB(取締役会賛同の株式公開買付け)により、キリンビールの連結子会社となった。翌2007年7月1日、旧・麒麟麦酒が持株会社に移行し、メルシャンはキリングループのワイン事業の中核となった。なおTOBには主要株主として、同根企業の味の素も参加している。 かつては酒類、加工用酒類に加え、医薬・化学品、飼料も扱っていたが、現在は撤退して酒類カンパニーに特化している(沿革欄参照)。 また、2013年1月1日のグループ再編に伴い、キリンホールディングス傘下として設立された綜合飲料会社(中間持株会社)であるキリン株式会社の傘下に移行し、ワイン・焼酎・梅酒事業を担う事業会社となっている。 だが、2019年7月1日にキリンホールディングスがキリンを吸収合併したため、キリンホールディングスの直接子会社となる。 1934年(昭和9年) – 昭和酒造株式会社創立、本社を東京に置く。 1935年(昭和10年) – 川崎工場竣工、アルコール製造開始。 1939年(昭和14年) – 八代工場創業、焼酎製造開始。 1941年(昭和16年) –

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カール・オリヴェクローナ – Wikipedia

カール・オリヴェクローナ(Karl Olivecrona、1897年10月25日 – 1980年)は、スウェーデンの法学者、弁護士。 1915年から1920年にかけてウプサラ大学で学び、ウプサラ・リアリズム法学の創始者であるアクセル・ヘーガーシュトレームに師事。デンマークのアルフ・ロスと並んでスカンジナビア法理論におけるリアリズム法学的潮流を作り上げた[1]。 法を心理的事実に還元することで、その実在性を否定する、というのが北欧のリアリストの基本的主張である。テオドール・ガイガーやロスが、法の拘束力ないし妥当性は経験的事実に還元して把握できるとしたのに対して、オリヴェクローナは、法の拘束力は違法行為に制裁が課せられるという事実と同一ではなく、人々の心の中の観念としてのみ存在する心理的事実であって、それに対応する事実は現実世界に存在しないとした[2]。 彼の主張は、師ヘーガーシュトレームの「共同幻想論」をより洗練させたもので、法の文言が感覚器を通じて反復されることで内面化されれば、人は強制を伴わずとも法に服従する、といった心理的メカニズムによって法の拘束力を説明するものであった[3]。 主な著作[編集] Law as Fact (London: Oxford University Press, 1939) England eller Tyskland (1940)

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朴東完 – Wikipedia

朴東完(朝鮮語: 박동완、1885年12月27日 – 1941年2月23日)は 韓国のメソジスト牧師・独立運動家。雅名は槿谷。 京畿道楊平郡楊西面道谷里[1]または京畿道抱川市の比較的富裕な박형순の末息子に生まれて近代教育の恩恵を受けながら育った。五歳の時まで漢文を学び、小学校に入学、その後漢城中学校を経て漢城外国語学校で英語を専攻してから1911年学校が閉鎖されると培材学堂大学部に転入した。培材学堂在学中プロテスタントに入門した。貞洞第一教会のメソジスト教会伝道師として働きながらメソジスト教会と長老派教会が一緒に設立した基督교신보사書記及び《基督新報》(1915年12月7日創刊)編集委員を務めた。その頃朝鮮中央YMCA委員などで活動した。 1919年2月下旬朴熙道の勧誘で三・一運動に参加し、2月27日に開かれた基督交界代表者会議で民族代表33人の一人に選定された。3・1運動には貞洞第一教会の牧師李弼柱とともに民族代表33人で参加した。この事件で逮捕して保安法及び出版法違反懲役2年刑を宣告されて服役した。彼の年は当時35歳で、朴熙道・李甲成・金昌俊と一緒に青年代表格であった。 出所後には新幹会の幹事を引き受け、《基督新報》主筆、《新生命》主幹として言論事業に主に携わった。1925年4月《新生命》が廃刊されると興業クラブ組織に参加した。その後政治方面で活動してから1927年1月李商在・安在鴻と一緒に新幹会発起人で参加して本部常任幹事を引き受けた。 1927年12月9日中国満州に居住する韓人が中国官憲から帰化を強いられ迫害を受けると在満同胞擁護同盟結成に参加して、中央常務執行委員に任命された。その後1928年1月奉天省と吉林省一帯を回って在満同胞の状況を察した。 1928年中盤ハワイ州に派遣され、現地のオアフ島で12年間牧師を務めつつ《韓人基督교보》を創刊するなど牧会活動をしながら教会敷設、ハングル学校を拡張して韓国の歴史と文化を教えた。 1941年初、病気にかかり、同年2月23日死んだ。翌月に死体が韓国に帰って来て、咸台永牧師の元で忘憂里共同墓地に鞍された。大韓民国政府は1962年建国勲章大統領章を追贈したし、1966年現在の国立大田燎忠園愛国志士墓地へ改葬された。 3・1運動以後日本と同じ時間を使わないために時計を30分先送りして使うほどに反日意識が強かったという逸話がある。 参考文献[編集] ^  

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