青木昆陽 – Wikipedia
青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698年6月19日〉 – 明和6年10月12日〈1769年11月9日〉[1])は、江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。名は敦書(あつのり、あつぶみ)[2]、字は厚甫(原甫[2]とも)、通称は文蔵、昆陽と号した。 大岡忠相による抜擢[編集] 江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。 浪人として京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学ぶ[3]。江戸町奉行所与力・加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。 サツマイモの普及[編集] 享保17年(1732年)に起きた享保の大飢饉は日本全土に被害をもたらした[4]。しかし、享保期に薩摩国では既にサツマイモが伝来して農耕作物として普及定着していたと推測されており、サツマイモの栽培は飢えから人々を救っていた[4][5]。 昆陽は京都で学んでいた頃に書物によって甘藷(サツマイモ)が救荒作物として重要であることを知ったとされる[5]。昆陽は甘藷を栽培して救荒食とすべきことを江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に上書し、これが認められて甘藷試作地として下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)、小石川薬園(小石川植物園)、上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)が選定された[5]。昆陽が江戸へサツマイモを伝えたのは享保19年(1734年)のこととされている[4][5]。享保20年(1735年)には『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表。元文元年(1736年)には薩摩芋御用掛を拝命し、身分が幕臣となった。 寛保3年(1743年)には幕府から甘薯栽培の奨励を行っている[4]。昆陽は後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとして祀られている。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。 古文書研究[編集] 元文4年(1739年)には御書物御用達を拝命した。昆陽はサツマイモ栽培から離れた。 寺社奉行となっていた大岡忠相の配下に加わり、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・三河(愛知県)など徳川家旧領の古文書を調査し、在野の家蔵文書を収集して由緒書を研究。昆陽は収集した文書を分類して書写し、『諸州古文書』としてまとめた。昆陽の研究に使われた原本は所有者に正しく返却され、返却の際には家蔵文書の重要性を説き保存を諭している。 蘭学[編集] のち紅葉山火番を経て1747年には評定所儒者となった昆陽は、1740年に将軍吉宗から野呂元丈とともに蘭語学習を命じられ、オランダ語の習得に努めた。短期間ではあるがオランダ人や蘭語通詞のいる長崎に修学のために赴いている。「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」などの入門書や辞書を残し、野呂と共に日本の蘭学の先駆者となった。最晩年の弟子には『解体新書』で知られる前野良沢がいる[7]。 明和4年(1767年)書物奉行を命ぜられた。 明和6年(1769年)流行性感冒により死去、享年72。 著書に『蕃薯考』『和蘭文訳』『和蘭文字略考』『経済纂要』『昆陽漫録』『草盧雑談』など。『国家金銀銭譜』は本邦初の金銀古銭の目録である。
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