Month: September 2020

ジョ・バッタ・モラッシ – Wikipedia

ジョ・バッタ・モラッシ (Gio Batta Morassi,1934年7月2日 – 2018年2月27日)は、20世紀後半のクレモナを代表するヴァイオリン製作者、またヴァイオリン製作におけるすぐれた指導者でもあり、多数の後進を輩出した。 1934年7月2日ウディネ県のチェダルキスで木工業を営む一家に生まれる。一家は1942年にヴァル・カナーレのカンポロッソ(オーストリア及びスロベニアとの国境付近)に移り住む。この地でモラッシは小学校に通いつつ、母方の祖父が営む製材所でも働き、タルヴィジオの森林の材木に習熟する。その後、職業専門学校で木工を専攻する。その時の教師が彼に弦楽器製作の道を進める。 1950年、ウディネ商工会議所はクレモーナで弦楽器製作を学ぶための奨学生選抜試験を行い、モラッシが選抜に選ばれる。こうして1951年若かりしモラッシはロンバルディア州のクレモーナにたどり着く。当時のクレモーナはハンガリー人のピーター・タターの(Peter Tatar)工房以外に弦楽器工房は無く、弦楽器製作学校の学生数もわずかで、ジローラモ通りの工業専門学校の校舎に併設されていた。 モラッシは1955年に弦楽器製作学校を卒業した後、教師であったタターのもとで仕事をするようになる。後にタターがアメリカに移住して教壇を去り、1958年後任の公募が出る。当時ローマで活動していたバーニャカヴァッロのジュゼッペ・ルッチ(Giuseppe Lucci)が受かるが、経済的な理由から就任を拒否し、席次2位のピエトロ・ズガラボット(Pietro Sgarabotto)が教鞭をとり、席次3位のモラッシがその助手となる。 ズガラボットの登場よりもモラッシの経歴に大きな影響を与えることになるのが、ミラノの弦楽器製作者ジュゼッペ・オルナーティ(Giuseppe Ornati)とフェルディナンド・ガリンベルティ(Ferdinand Garimberti)が1960年代初旬に修復講座で教えるためにクレモナへ来た事である。二人のマエストロの指導のもと彼は製作技術とニコロ・アマーティやアントニオ・ストラディヴァリの作品をもとに形成された作風に磨きをかける。1963年にストレーザで展覧会が開かれた際、モラッシはガリンベルティの引率で、ストラディヴァリの多くの作品について学ぶ機会を得る。彼はオルナーティやガリンベルティのモデルの多くを受け継ぎ、またミラノ派の弦楽器の柔らかく丸みを帯びたラインを好み、のちに自身の弟子たちにもそれを伝承する。1971年からは主任教授となり、1983年まで教職を続ける。 当初は安定しなかった彼の工房は、1976年にラナイオーリ通りに移転し、弦楽器製作用具(その多くがモラッシ自身による設計)と楽器用木材の販売を拡大したのを機にクレモナ市内で最も重要な工房となる。 モラッシは現役時代にヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを中心に約1000台もの楽器を製作した。またポシェット、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ギター、ヴィオラ・ダモーレ、バリトン、ビウエラといったマイナーな楽器の製作も手掛けた。現在は息子シメオーネと甥ジョバンニ・バッティスタが工房を受け継ぐ。 83歳没[1]。 愛弟子たち[編集] Morassi

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原子力船 – Wikipedia

原子力船(げんしりょくせん)とは、原子炉を動力源として使う船舶である。原子炉で水を沸騰させた蒸気でタービンを動かし、スクリューを駆動して航行する。軍艦の場合には「原子力艦」と呼ばれることもある。 舶用機関としての原子力は、以下のように数多くの利点と欠点を併せ持つ。全般に大規模用途と水中用途に向く機関であり、利点を生かせる用途は軍艦(潜水艦および航空母艦)及び砕氷船に限られている。 舶用機関としての原子力の利点[編集] 大気に依存せず運転できる 供給不安の石油に依存しなくてすむ 長期間燃料補給をする必要がなく、原油価格上昇により経済的損失を蒙るリスクがない。 石油輸入国の場合、艦艇燃料の準自給になり、シーレーン依存度を下げられる。 大型艦/船の場合、航海燃料の容積と重量が浮くメリットがある 原子力機関は大規模なほど出力/重量比が改善する。大型高速船の場合、他の動力機関と「燃料・機関合計」で比べて、重量・容積の割りに出力が大きい分、ペイロードを多くできる[1]。 潜水艦・航空母艦用に向いている 詳細は軍用船舶としての原子力船舶の項参照 舶用機関としての原子力の欠点[編集] 機関取得コストが高額(下記は目安。「むつ」は原子力委員会試算の2-3倍掛かった) アメリカ海軍空母においては28万馬力 (206MW) で通常型と原子力での取得価格差は排水量比例1,782億円(87万円/Kw・8万馬力で509億円) 「むつ」建造時代の原子力委員会の試算では2万馬力 (15MW) の原子力機関で21億円であり、同出力のディーゼル機関より大幅に高価であった。 軍艦であっても数を揃えねばならない駆逐艦やフリゲートでは(原油が高騰した場合を除き)原子力機関の高い取得・保守・廃棄コストは問題とされる。

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銀座久兵衛 – Wikipedia

株式会社久兵衛 種類 株式会社 本社所在地 東京都中央区銀座8-7-6 業種 サービス業 法人番号 9010002019277 外部リンク http://www.kyubey.jp/ テンプレートを表示 銀座久兵衛(ぎんざきゅうべえ)は東京都中央区銀座に本店を構える寿司屋。1935年に今田壽治によって創業され、与志乃、奈加田とともに銀座御三家と称された高級寿司店で、軍艦巻の考案など新しい江戸前寿司のスタイルを提供したことで知られる。今日に至るまで北大路魯山人や志賀直哉、バラク・オバマなど国内外の要人に利用されてきた。また、のれん分けにより鮨かねさかの金坂真次、すし縁の遠藤尚人、鮨竜介の山根竜介、寿し処寿々の藤居陽一郎など多くの寿司職人を輩出した。 目次 1 沿革 2 店舗一覧 3 脚注

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撫順市 – Wikipedia

「撫順」はこの項目へ転送されています。県については「撫順県」をご覧ください。 撫順市(ぶじゅん-し、満州語:ᠸᡠᠰᡞまたはᡶᡠᡧᡠᠨ 転写:fusi/fušun[2])は、中華人民共和国遼寧省に位置する地級市。 撫順の衛星画像。左右(東西)に貫く渾河両岸に市街地があり、その南に2つの楕円形の大きな露天坑が開いている 撫順市は遼寧省北部に位置し、瀋陽市からの距離は約45kmと、省都の衛星都市として機能している。かつての炭鉱都市で、市内には渓谷のように巨大な露天掘り炭鉱跡が現在も残されている。 渾河に沿って伸びる市街地は南北と東を山に囲まれた平野にあり、市域の西側に偏っている。市域の東側は吉林省からつながる山地となっており森林が多い。大陸性気候であり年平均気温は6.6度。 人口の4分の3を漢民族が占め、他に満族を中心に朝鮮族、回族などの少数民族が居住する。 ここは女真族(現在の満州族)が多く住む地であり[3]、高爾山には中国大陸の歴代王朝が城を築いてきた。1384年、高爾山の南麓、渾河の北に撫順城が明によって建てられた。1616年、ヘトゥアラ(現在の撫順市新賓満族自治県)に生まれ、ヘトゥアラを本拠とするヌルハチは後金の建国を宣言[3]。1619年、後金の征伐に派遣された明の大軍に対し、後金の軍は撫順近郊のサルフで対峙し、数で勝る明軍を破った(サルフの戦い)。ヌルハチは1622年に都を遼陽に遷し、ヘトゥアラは1636年に興京と改名された。 満州国時代の露天掘り炭鉱 撫順炭鉱は、七百年ほど前に、高麗人によって採掘された。当時は陶器製造の燃料として使われていたものと伝えられる。その後、清朝は「風水に害あり」との理由から採掘禁止としていたが、1901年、清国政府の許可の下、清国民族資本により採掘が開始された。その後ロシア資本が進出、東清鉄道の南満州支線(ハルビン – 大連間)が建設された後に奉天(瀋陽)-撫順の支線も敷設され、撫順炭田には東清鉄道の「鉄道付属地」(中国の行政権・司法権などが及ばない治外法権地域)が設置された。 日露戦争後の1905年には鉄道及びその付属地は日本の手に渡り、1907年には南満洲鉄道(満鉄)の管理下に移った。炭鉱周辺は広大な鉄道付属地(満鉄附属地)となり、駅と炭鉱の周囲に新市街が建設され、満鉄による行政が行われた。露天掘りによる大規模な石炭採掘が行われるなど満鉄を支える重要な財源となり、撫順の付属地の人口は10万を超え満鉄附属地の中でも最大であった。また撫順の石炭と鞍山の鉄鉱石を組み合わせて、鞍山製鉄所(後の昭和製鋼所)が稼動した。 1940年頃の撫順全景 満鉄施設襲撃するゲリラ活動が激化していたが、満洲国承認日の1932年9月15日にはゲリラによる撫順炭鉱襲撃事件にて、炭鉱側職員が惨殺と施設の焼き討ちされて、操業が一時停止する事態になった。 1945年8月のソ連対日参戦で満州国は崩壊し、同年10月には中国共産党中央東北局が撫順市政府を設立する。撫順の監獄には関東軍捕虜や満洲国官僚、また満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀と皇弟の溥傑と、1950年にシベリア抑留から移送された戦犯約1000人が6年間撫順戦犯管理所に収容された。管理所では強制労働・学習など一切の強制はなく人道的に扱われた。彼らは戦時中の「三光作戦」など虐殺を反省した結果、1956年の特別軍事法廷でが起訴されたのは僅か45人で一人の無期も死刑もなかった。周恩来が死刑も無期もあった判決原案認めず4回も書き直しを命じた結果である。他全員は起訴免除とされ56年に帰国を許され中国帰還者連絡を結成し自分たちの戦争体験(加害の)証言を続けた。この事実はNHKが「戦犯たちの告白」(1989.8.15 NHKスペシャル終戦特番 45分)や、ドキュメンタリー「NHKスペシャル “認罪”~中国撫順戦犯管理所の6年」(2008.11.30 BSハイビジョン特集)でも放送した。 1949年の中華人民共和国の建国後、撫順は遼東省や遼西省などから独立した中央直轄市となったが、1954年8月に遼寧省に統合された。石炭の露天掘りは続けられ、その露天坑の深さは200mを超えた。1962年、中国人民解放軍の模範兵士とされる雷鋒が撫順の輸送部隊に配属されていた頃、倒れたトラックを立て直す作業を指揮していた時に、支える棒が頭を直撃して殉職した。死後、彼は毛沢東により模範的な人物と称賛され、中国全土で『雷鋒に学べ』という大規模なプロパガンダが繰り広げられた。今日でも彼は英雄とされ、故郷の湖南省同様、撫順にも記念館や記念碑が建っている。

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シキザクラ (テレビアニメ) – Wikipedia

『シキザクラ』は、サブリメイション原作・制作の日本のテレビアニメ。オリジナルアニメとして、2021年10月から12月まで中京テレビほかにて放送された[1][2]。 異界から現れ人を襲う『オニ』と彼らに対抗するため特殊なパワードスーツを着用した少年少女のチームが、世界を救う巫女を守るために戦うヒロイックバトルアクションである。 企画・制作[編集] 2017年に若者向けのポップカルチャー事業に取り組もうとした中京テレビが中心となって企画した『ナゴヤアニメプロジェクト!』の一環として制作を開始[3]。テレビアニメがほとんど東京で制作している現状があるために地元で就職できない学生が多いことを踏まえ、地元発のアニメ制作が定着すれば、他の放送局や制作会社が参入[注 1]し、やがて地域産業となることを考慮して進められており、「ビジネスというより、名古屋発のカルチャーを応援したい会社が集まった。名古屋がアニメ好きの人たちの楽しめるエリアになれば」と中京テレビのテレビビジネス推進局の河原理雄が語っている。後に制作に関わるサブリメイションが2016年に名古屋にスタジオを開設したことも後押しになった[3]。 特徴として、東海3県(愛知県・岐阜県・三重県)を舞台にし、作中のキャラクターも方言を使う、キャスト(出演声優)も地元出身など地方が舞台ということにこだわったものになっている。制作当初はロボットアニメとして展開しようとしていた[4]ものの、パワードスーツを着用する案に変更された[5]。また、全編フルCGによる制作でもある。 2018年7月にタイトル発表[6]。当初は2019年度の完成を目指していた[7]が、2020年[8]→2021年と延期に延期を重ねる結果となった。なお、企画制作の過程は『Locipo』[注 2]で配信されている。 2020年6月、ZIP-FMで放送されている『GENZ』とのコラボを発表した。この中で、『GENZ』に出演している野田つばさおよび石井七瀬、さらにZIP-FMナビゲーターの中川大輔が声優として本アニメに出演することが発表された[9]。なお、石井七瀬は『シキザクラ』公式Twitterの中の人を担当している[10]。 あらすじ[編集] 高校生の三輪翔は、世界を救うことのできる巫女の明神逢花と出会い、異世界から現れたヒトを食らうオニとの戦いに巻き込まれる。また、翔はひょんなことから古代の秘術と最新技術が融合したパワードスーツのヨロイを身にまとい、逢花を守るヒーローになるため、パワードスーツをまとう少年少女のチームと共に戦うことになる。 登場人物[編集] 三輪翔(みわ かける) 声 – 野田雄大[11] 本作の主人公。高校生。愛知県出身。 逢花と出会ったことで、彼女を守るヒーローとなる決意を固める。 明神逢花(みょうじん

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芳の里淳三 – Wikipedia

芳の里 淳三(よしのさと じゅんぞう、1928年9月27日 – 1999年1月19日)は、千葉県長生郡一宮町出身で二所ノ関部屋所属の元大相撲力士、日本の元プロレスラー。大相撲時代の四股名は神若淳三、神若順三、芳ノ里 安秀。最高位は前頭12枚目(神若順三の四股名)。身長174cm、体重84kg。本名は、長谷川淳三(はせがわ じゅんぞう)[1]。 子供の頃からスポーツ万能であった[2]。神風正一を頼り二所ノ関部屋に入門、長谷川の四股名で1944年1月場所初土俵。その後、四股名を神若淳三(かみわか じゅんぞう)、神若順三(かみわか じゅんぞう)と改め、1950年1月場所に新入幕を果たす[1]。小柄ながら、下手投げを得意とする技能派力士として頭角を現し、1952年1月場所には四股名を芳ノ里と改め、若乃花、琴ヶ濱とともに「二所の三羽烏」と呼ばれた。 前頭12枚目まで上り詰めるものの、番付運の悪さと部屋の内紛に嫌気が差し、幕内成績39勝51敗の成績を残し1954年9月場所限りで廃業(出場はせず)[1]。9月10日に二所ノ関の先輩・力道山を大阪府立体育館に訪ね、日本プロレス入門を直訴して認められ、当日にデビュー戦を戦う(対渡辺貞三)。日本のプロレス界において、当然1番のスピードデビューである。当初はプロレスラーのトレーニングはもちろんの事、プロボクサーのトレーニングも受けていた[3]。 1954年12月22日、蔵前国技館で行われた昭和の巌流島決戦、力道山vs木村政彦の試合の前座ではプロレスであるにもかかわらず、対戦相手の市川登(全日本プロレス協会所属)に突如不意打ちのセメント(真剣勝負)をしかけ、数十発の張り手を見舞って昏倒させた[4]。市川は脳に重い障害が残り1967年末に死去。この突然の暴挙は、当時絶対的に逆らえない存在であった力道山からの命であり、「市川を殺せ」と食事のたびに何度も繰り返し言われていたという[5]。 1956年10月23日、大阪府立体育館で行われた全日本ウェート別選手権に出場、吉原功(後の国際プロレス社長)を破り初代ライトヘビー級王者となった。 1961年、ジャイアント馬場、マンモス鈴木とともにアメリカ遠征へ出発[3]。丈の短いタイツ、ひざ当て、下駄履きといういでたち(いわゆる田吾作スタイル)で反則攻撃を繰り返すヒールとして活躍。このスタイルは、アメリカマットにおける(テネシー地区では「デビル・サト」のリングネームで悪名を轟かせた)日本人ヒールの伝統となった。 力道山の死後、吉村道明、豊登、遠藤幸吉とともに日本プロレスの経営を担い、1966年1月には3代目の社長に就任、現役引退。後年、力道山OB会&プロレス(レスラーのOB組織)の会長にもなった。また、国際プロレスのテレビ中継『国際プロレスアワー』(東京12チャンネル)の解説者も担当した。 1998年3月11日に脳梗塞で倒れ、1999年1月19日、多臓器不全により死去[3]。71歳だった。 大相撲時代の芳の里 日本プロレスが崩壊した際、夫人に「俺に教育があれば団体を潰すことはなかった。社長よりも2番目が似合い、かつ上と下の意見を取り合うことが向いていた」と語っている[3]。日本プロレスの残務整理が終了した際は、事務所に残っていた日本プロレスの社員バッジをすべて持ち帰ったという[3]。 実現しなかった日本プロレスと新日本プロレスとの合併プランにおいては、会長職が用意されていたという[3]。 全日本プロレスにおいて、1978年に行われた全日本・国際プロレス・韓国軍(大木金太郎派)による三軍対抗戦。この興行で行われたジャイアント馬場対ラッシャー木村戦において、芳の里はレフェリーを務めている。馬場が木村に足4の字固めを仕掛けると、木村は上半身をリング外に出す体勢でロープブレイク。しかし芳の里はなぜかブレイクを認めず、リングアウトカウントを数え始め、ついには木村はリングアウト負けを宣言された。日本プロレス界における「疑惑のレフェリング」として有名。

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三種の神器 – Wikipedia

三種の神器(さんしゅのじんぎ[1]、さんしゅのしんき[2]、他の読み方もある)は、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の総称[3][4]。また、これと同一とされる、日本の歴代天皇が古代よりレガリアとして伝世してきた三種類の宝物を指す。 読みはほかに、大和言葉(和語)で「みくさのかむたから[5]」とその転訛形である「みくさのかむだから」「みくさのかんだから[6]」があり、「みくさのたから[5]」「みくさのたからもの[6][2]」もある。「みくさ」は「三種」を意味する大和言葉。加えて、異表記として「三種の宝[2](さんしゅのたから)」「三種の神宝[2](さんしゅのしんぽう)」「三種の三祇[2](さんしゅのさんぎ)」がある。 特に剣と璽(皇位の印章としての勾玉)を併せて「剣璽(けんじ)」と称するが[7]、「三種の神器」の別称でもある[7]。 天皇の践祚に際し、この神器のうち、八尺瓊勾玉ならびに鏡と剣の形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承される。だが即位の必須条件とはされなかった場合もあり、後鳥羽天皇などは神器継承なしに即位している。 『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の内宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に、天皇と皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。 『古事記』ではアマテラス(天照大御神)が天孫降臨の際に、ニニギ(邇邇芸命)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記され、『日本書紀』には三種の神宝(神器)を授けた記事はなく、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とある。 古代の日本において、鏡・剣・玉の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えられ、仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。また糸島市の平原遺跡、福岡市の吉武高木遺跡、壱岐市の原の辻遺跡や佐賀市の七ヶ瀬遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。 儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。 八咫鏡[編集] 三種の神器/画像は想像図であり、実物は非公開。 八咫鏡(やたのかがみ)は、記紀神話で、アマテラス(天照大神、天照大御神)が天岩戸に隠れた岩戸隠れの際、イシコリドメ(石凝姥命)が作ったという鏡。アマテラスが岩戸を細く開けた時、この鏡でアマテラス自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。のちに鏡はアマテラスがニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けたといわれる。 三種の神器の一つである八咫鏡は、一般に「銅鏡」と解釈されているが、材質が公開されているわけではなく、古事記では、「高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されているので、実際は「鉄鏡」(=黒い鏡)である可能性がある。 天叢雲剣[編集] 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも称される剣の正式名称で、『古事記』では「草那藝之大刀」と記される。記紀神話ではスサノオ(須佐之男命、素戔嗚尊)が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現・島根県安来地方の中国山地側、仁多郡奥出雲町域)で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇)の尾から出てきた剣。のちにヤマトタケル(日本武尊)が譲り受け、移動中、周りを火で囲まれた時、自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたときに帯刀していたとされる。駿河国(現・静岡県中部・北東部)の地名「焼津」はこのとき草を焼いたことに由来するという[8][9]。 八尺瓊勾玉[編集] 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は「八坂瓊曲玉」とも書く。大きな玉(ぎょく)で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。 記紀[編集] 記紀のうち、『古事記』には、神器(神から受け伝える宝器)またはそれに類するものの伝承はあるものの、格別に天皇践祚に際してとなると目に付く記事は無い。しかし『日本書紀』には以下のように記載されている。        ※原文の表記について、文字は旧字体、約物は現代の補足。書き下し文の表記について、文字は新字体、振り仮名は歴史的仮名遣。 《

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