Month: December 2020

ホセ・ビジェガス・コルデロ – Wikipedia

ホセ・ビジェガス・コルデロ(José Villegas Cordero、1844年8月26日 – 1921年9月9日)はスペインの画家である。歴史画や風俗画を描いた。 セビリアの理髪店の経営者の息子に生まれた。16歳になった1860年にセビリアの展覧会に出展して、作品のひとつが2,000リアルで売れたことから、家族も画家になることを応援するようになり[1]、ビジェガス・コルデロは画家のホセ・マリア・ロメロ・ロペス(José María Romero López: 1815-1894)の弟子になり、2年後セビリアの王立美術学校に入学した。美術学校ではエドゥアルド・カノ・デ・ラ・ペーニャに学んだ[2]。 1867年にマドリードに移り、フェデリコ・デ・マドラーソの工房で働いた。マドリードのプラド美術館で17世紀の画家、ディエゴ・ベラスケスの作品を模写して修行した。当時人気のあったオリエンタリズムの画家、マリアノ・フォルトゥーニに影響を受けて、モロッコに旅し、スケッチを描きためてきた[3]。 1868年末、友人たちとローマに留学し、スペイン出身の画家エドゥアルド・ロサレスの工房に滞在した。ローマで最初の風俗画を描き、人気になり、モロッコから持ち帰ったスケッチをもとにオリエンタリズムの作品も描き、さらに資料をあつめるために短期間モロッコを再訪した。オリエンタリズムの絵画に人気は高まり、画商の手によって広範囲に宣伝された。 1877年からは、しばしばヴェネツィアで活動し、裕福なアメリカ人の顧客に気に入られるような作品を描き[2]、商業的に成功し、1887年までに邸を建てて、邸には上流階級の人々が集まるようになった。 1878年に、スペイン上院から装飾画を描く依頼を受けたことから歴史画も描くようになった。 1901年にプラド美術館の館長に任じられて、ローマのスタジオを閉じてマドリードに移った。1918年まで館長を務め、肖像画家としても働いた[1]。 アンダルシアの踊り子 (1893) マエストロの死 (1884) 参考文献[編集]

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千苅ダム – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “千苅ダム” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年4月) 千苅ダム(せんがりダム)は兵庫県神戸市北区にある、二級河川・武庫川水系羽束川に建設されたダム。 神戸市が管理する高さ42.4mの「重力式粗石モルタル積ダム」で、神戸市への上水道供給を目的とした市内最大のダムである。 堰堤は1919年(大正8年)竣工で、17門のスライドゲートは日本最古。国の登録有形文化財に登録されているほか、土木学会の「日本の近代土木遺産~現存する重要な土木構造物2000選 」や厚生労働省の「近代水道百選」にも選定されている。このダムからは神戸水道を通じて神戸市までの送水管(水道)で結ばれており、神戸市民へ供給されている。また1967年(昭和42年)からは武庫川沿いに建設された千苅浄水場にも送水されており(画像中央の導水官は千苅浄水場への専用送水官)神戸市北区などの飲料水として供給されている。ダムによって形成された人造湖・千苅水源池(せんがりすいげんち)周辺は、観光地として親しまれている。 羽束川と波豆川がダム湖で合流しダムの2km下流で武庫川に注ぐ。ダムは神戸市北区に位置するが、ダム湖は宝塚市・三田市にもおよび、ほとんどは宝塚市に属する。 神戸市の上水道不足を受け、布引五本松ダム、立ヶ畑ダムに続いて建設された。 1906年(明治39年)羽束川の千苅が候補に挙がる。 1909年(明治42年)建設が神戸市会を通過。 1910年(明治43年)水没地区の大半を占める川辺郡西谷村(現:宝塚市)の波豆集落が反発。 1911年(明治44年)神戸市が予備工事着工。 1912年(明治45年)波豆集落が神戸市水道拡張対抗対抗委員を結成、堰高の半減による水没地区の縮小を神戸市に陳情。

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