Month: May 2021

篠原一由 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年5月) 篠原 一由(しのはら かつよし、? – 慶長20年4月26日(1615年5月23日)[1])は、江戸時代初期の加賀藩士。人持組頭・篠原別家(篠原出羽守家)初代当主・篠原一孝(17000石)の嫡男(長男)。通称は主膳。別名に貞秀。月江院殿宗心居士。墓所は高野山奥の院・前田利長墓所内篠原家墓地。 正室は清妙院(保智姫。前田利家の九女。母は芳春院の侍女で後に側室となった隆興院)、清妙院殿華萼貞香大禅尼(清妙院殿華萼貞香大姉)。子(嫡男)は岩松。 「書き物進上申し候。 仰せられ候は このように候や。 失念せしめ候。  恐惶謹言 二十八日  光悦(花押)  封 篠主膳様人々御中  光悦[2]」 篠原一孝(豊臣一孝)の長男として生まれる。母は一孝の継室・松齢院(青山佐渡守の娘)とされるが、前室・円智院(前田利家の養女、実弟・佐脇良之の娘)と考えられる。家臣筆頭、藩の中枢中の中枢に位置する父を持ち、前田利家の実娘を室に迎え、男子(岩松)も誕生、本阿弥光悦等一級の文化人とも交流を持つなど、順風満帆の船出であった。 岩松に関しては、芳春院の消息(手紙)が残されている。一通は、千世(春香院)宛で「一筆申しまいらせ候。おほちするすると誕生の事にて、ことにわもじにてひとしおひとしお満足申しまいらせ候。…祝をこしらえ候わんか、…」(保智の岩松出産を祝い、篠原家への祝儀の品を指図したもの)であり、今一通は、前田直之の乳母宛で「一筆申し候。まずまずほうはさいさいわずらい申し候由、…毒を食い申し候故と思いまいらせ候。…岩松はひきかえ息災と申し候。心安く思いまいらせ候。…おほちは月があしくて笑止と思いまいらせ候か。…」(直之の病質を毒でも飲ませられているのではないかと案じ、引きかえに岩松の息災と保智の体調を懸念したもの)である。恵まれ過ぎた環境にあった一由であるが、そこに落し穴が存在した。配流されたのである。福井藩主・松平忠直(徳川家康の孫)に慮外(無礼)があって、越前吉崎へ遠流(「諸氏系譜」)になったとも、酔狂によって姫君(保智)を打擲し、(保智)が出産せずになくなり、能州に謫せられた(「本藩歴譜」)とも言われるが、配流先も異なり、真相は不明である。前田宗家から迎え、大切に遇した姫(保智)を打擲したとは考えにくいし、岩松は誕生しているのである。真相は加賀藩の当時の状況に暗示される。前田利常(母は芳春院の侍女で後、側室となった寿福院)の家督相続で、新興勢力の台頭があり、譜代勢力との対立、さらが有力家臣間の暗闘が起こる中、一由が一方(譜代勢力)の旗頭に担がれそうになる。妻である保智姫は、禁教令下キリスト教に傾倒していき、そこを若い嫡子、一由はつけ入れられたのである。一由の母であるが、松齢院とすると、年齢的に矛盾が生じる。松齢院は、「前田利家の遺言状」(慶長4年(1599年))によって、一孝の後妻となったのである。したがって、一由の誕生は慶長5年(1600年)以降(因みに保智は文禄4年(1595年)生)となり、岩松の誕生(1612年前後か?)や文化人との交流、政争に巻き込まれるなど、年齢的に不自然である。高徳公(前田利家)御女保智姫の夫(一由)が配流・早世では不都合なのであろう、「諸氏系譜」では保智を一由の弟で第2代当主篠原一次の室とし、岩松を一次の実子・虎之助として操作を行っている。同様の理由から前田宗家からの輿入れとなる円智院を一由の実母とすることができなかったものと推察できる。 篠原一由は、慶長20年(1615年)4月26日、死去(早世)。死因については不明。実子・岩松は弟の篠原一次の継嗣となるが、家臣間の暗闘の燠が燻る中、元和7年(1621年)に一次が早世し、数年後には岩松も14歳の若さで早逝(急死)した。篠原別家は、篠原出羽守家としては、万石以上の家禄とともに一旦は断絶する(名族・芳春院実家・篠原氏の勢力削減には都合が良かったのかもしれない)。一由の菩提寺は不明。墓所は、高野山・前田利長墓所内篠原家墓所。一由の墓の施主は、織田信長の四女で前田利長の正室・永姫(玉泉院)である(高野山天徳院文書)。 ^ 「高野山天徳院文書」では慶長19年月日不明となっている。 ^ 「光悦書状」(小松茂美、1980年、三玄社)『篠原出羽守家代々記』篠原一宏・篠原美和子、2007年、p.130。 参考文献[編集] 『加能郷土辞彙』(改訂増補・復刻版)日置謙、北國新聞社、1973年。 「加賀藩-諸氏系譜」(巻之十九)、金沢市立玉川図書館近世史料館。 『芳春院没後400年記念 増補改訂

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dポイントクラブ – Wikipedia

dポイントクラブ(ディーポイントクラブ、d Point Club)は、NTTドコモが提供している入会金・年会費無料のポイントプログラム[1]。法人向けの同様のサービスでドコモビジネスプレミアクラブがある。以前の名称はドコモプレミアクラブ(docomo Premier Club)だった。 1998年11月にスタートした「Club DoCoMo」(クラブドコモ)が前身。当初は入会条件は無く、ポイントサービスもClub DoCoMo会員のみであった。会員証提示により提携店舗で割引等のサービスが受けられた。2001年4月より同社の携帯電話の契約者全てを対象とした「ドコモポイントサービス」の開始にあたり、「1回線当たり直近2ヶ月の利用額が月額8,000円以上」もしくは「一括請求もしくはファミリー割引を利用していて、5回線以上契約している」という入会条件ができた。差別化のため、ドコモポイントサービスでは「500ポイントで1,000円割引」だったのに対し、Club DoCoMoでは「500ポイントで2,000円割引」とした(ポイント付与条件はどちらも利用額100円毎に1ポイント)。2004年4月1日より入会条件を撤廃の上、ドコモプレミアクラブとしてリニューアル。Club DoCoMo会員は原則としてドコモプレミアクラブ会員へと移行させた。ドコモのPC上のユーザーサイトである、My docomoサイトから入会の申込や、ポイントの確認ができる。 FOMA、Xi、ワイドスター、パケット通信の個人利用者が対象で、ポイント優遇や入会者限定サービスの提供を行っている。入会金・年会費は無料で、入会条件はない。入会は任意であるが、特に申し出がない限り、新規契約と同時に入会となっている場合が大半である。法人向けサービスに「ビジネスプレミアクラブ」というものもある。 2015年12月1日に、ドコモポイントからdポイントへの改称に伴い、本サービスもdポイントクラブへ名称が変更。インコ(オウムという説もある[2])の兄弟キャラクター「ポインコ兄弟」(声はロッチの2人)のみ、もしくは中条あやみ、もしくはドコモの事を取材している記者役としてCM出演している人の内の誰かと共に出演する、dポイント・dカードのテレビCMシリーズも始まった[3][4]。 2016年6月10日に、本サービスで使用されるポイントカードがおサイフケータイに対応し、対応機器を設置した加盟店においては、スマートフォン等をかざすことでポイントの取得や利用が可能となった。おサイフケータイでポイントを取得した際には、「ピポ」というポイント取得音が鳴動する[5]。 2019年7月29日から、訪日外国人や海外在住者にも登録対象を拡大した(後述の通り、既に一部の提携海外ポイント事業者との間では、ポイント相互交換を行っていた)。 2012年10月31日、登録者を対象に「全国世論調査 衆議院選挙」のアンケート調査を行った。 dポイント[編集] 旧称ドコモポイント。1ポイント1円(消費税込)で換算し、100ポイント(108円)単位で携帯電話機や付属品の購入等に充当できる。会員は、各種商品(トラベルコース、エンターテイメントコース、グルメコース、リビンググッズコース、ドコモオリジナルコース)との交換もできる。 会員は前年の利用実績に応じてステージポイント (SP)

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国の擬人化 – Wikipedia

国の擬人化(くにのぎじんか)とは、国家(政府)や地域を人物として擬人化すること。 擬人化は対象に人間のような内面・心理を設定することで、世界を認知するための方法である[1]。社会的な存在である国家や地域を人として表すことは、メッセージを受け取る側と送る側にとっても関係性を強化することにつながり[2]、政治的パンフレットや美術作品などで伝統的に広く用いられていた。古代都市国家のアテナイは女神アテーナーを象徴としている。またアメリカ合衆国をあらわすアンクル・サム、ドイツをあらわすゲルマニア、フランスのマリアンヌが知られる[2]。 伝統的に用いられる国の擬人化[編集] これらは非公式・公式を問わず、表現として用いられた国家の擬人化である。 ギャラリー[編集] 大衆文化における擬人化[編集] インターネット・ミームの一つとなったポーランドボールも諸国家を人格を持った「カントリーボール」として表現している。これらは国家名がそのままキャラクター名となっている。 現代の日本においては社会的な者や言語・非生物など、あらゆるものが擬人化、キャラクター化されている[2]。各都道府県や自治体などが、地域を擬人化したキャラクターを制作している[6]。 参考文献[編集] 関沢英彦「父さんは犬 : 広告における擬人化 (林龍二教授退任記念号) (PDF) 」 『コミュニケーション科学』第35号、東京経済大学 コミュニケーション学会、2012年、 19-47頁、 NAID 120005281415。 関連項目[編集]

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永作芳也 – Wikipedia

永作 芳也(ながさく よしなり、1955年9月27日[1]– )は、元・将棋棋士[注釈 1]。棋士時代は加藤恵三八段門下であり、棋士番号は139であった[3][注釈 2]。茨城県行方郡麻生町(現・行方市)出身[1][4]。 将棋は小学校2,3年で覚えたが、プロを志したのは高校2年生になってからだった[3]。奨励会入会は18歳で6級と非常に遅いスタートであった[3][注釈 3]。1年余りで5級に昇級すると、その後2年で初段(入品)。初段・二段を半年あまりで通過して1977年11月に三段となる。三段では2年あまり指し、1979年10月3日に良い所取り13勝3敗で四段昇段を決めた[5]。 努力家で、いつも棋譜並べをしていたことから、奨励会の先輩からは半ば揶揄気味に「盤を耕す田吾作」と評されていた[3][6]。 四段昇段後の翌年の若獅子戦では、準決勝進出も大島映二に敗れる。順位戦C級2組では、1982年の41期に開幕から2連敗スタートながら8連勝し、10戦全勝の脇謙二と塚田泰明に次ぐ成績を上げるも、順位差で同星の児玉孝一に頭ハネを食らう。1位で開幕を迎えた42期は6勝4敗に終わり、1988年の引退まで順位戦C級2組の昇級に絡むことはなかった[7]。 1982年5月18日、オールスター勝ち抜き戦で谷川浩司と対局し、追い詰めるものの敗れる[8](谷川は6連勝で優勝)。同年には師匠の加藤恵三八段が死去している[7][8]。 1986年5月9日、棋聖戦1次予選3回戦で森下卓に勝利し、勝数規定により五段昇段[9][8]。 1987年度NHK杯テレビ将棋トーナメントで本戦出場を果たし、1回戦で羽生善治と対戦。熱戦の末敗れる[3][8]。 1988年、現役を引退すると同時に日本将棋連盟を退会し、棋士の身分を放棄した[3][注釈 4]。最終対局は小阪昇との順位戦C級2組の最終局で、これに勝利し3勝7敗で終えたが、順位差で降級点がつかず、降級点なしでの引退であった。当時は「名人になるため棋士となったが、自分の実力では名人になれないと悟ったので棋士を辞めた」と伝えられたが[12]、実際は理由はほかにもあり、将棋界以外にも興味があった旨を2017年の取材で答えている[4][8]。退会後、将棋界とは完全に連絡を絶ったため、奨励会同期でプロ入り後も親しくしていた小野修一が2008年に早逝していたことも2017年の取材で初めて知ったほどであった。 2017年現在は潮来市に住み、保険代理業を営んでいる[3]。2017年7月に、行方市内の公共施設で子供向けの将棋教室を開講した[13]。棋士を辞してから30年間、将棋と離れていたが、藤井聡太の活躍に触発されるところがあったためという[4][8]。2018年11月の時点では、行方市内の他に神栖市内などを加え、茨城県内の4か所で将棋教室を開いている[14]。 2018年11月1・2日に第31期竜王戦第3局が、永作の居住地からほど近い鹿島神宮で行われた際、2日目に関係者控室を訪れた[14]。対局前日(10月31日)の前夜祭にも顔を出し、旧知の仲である羽生(竜王)や中村修(対局立会人)らと久々に顔を合わせた[14]。 昇段履歴[編集] 注釈[編集] ^

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マルチレベルモデル – Wikipedia

マルチレベルモデル(Multilevel model; MLM)は、階層線形モデル(Hierarchial linear model; HLM)、線形混合効果モデル、混合モデル、ネステッドデータモデル、ランダム係数、ランダム効果モデル、ランダムパラメータモデル、分割プロットデザインとも呼ばれ、複数のレベルで変化するパラメータの統計モデルである[1]。個々の生徒の成績と、生徒が属する学級の成績からなる生徒の成績のモデルが、一例として挙げられる。線形モデル(特に線形回帰)の一般化と見なすことができるが、非線形モデルにも拡張できる。これらのモデルは、十分な計算能力とソフトウェアが利用できるようになってから、より一般的になった。 マルチレベルモデルは、参加者のデータが複数のレベルで編成されている研究デザイン(ネステッド・データ)に特に適している[2]。分析の単位は通常、個人(下位レベル)であり、文脈的・集合的単位(上位レベル)の中で入れ子になっている[3]。マルチレベルモデルの最低レベルは通常、個人だが、個人の反復測定を調べることもできる。このように、マルチレベルモデルは、反復測定値の単変量または多変量分析の代替となるタイプの分析を提供する。成長曲線の個人差を調べることができる。さらに、マルチレベルモデルは、従属変数のスコアを共変量(例:個人差)で調整してから治療の差を検定する ANCOVA の代替としても使用できる[4]。マルチレベルモデルは、ANCOVAで必要とされる回帰係数の均一性を仮定せずに、これらの実験を分析できる。 マルチレベルモデルは、多くのレベルを持つデータにも適用できるが、この記事の残りの部分では、最も一般的な 2レベルモデルのみを扱う。従属変数は、最も低いレベルでの解析で検討する必要がある[1]。 レベル 1 の回帰方程式[編集] レベル 1 の独立変数が 1 つある場合、レベル 1

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ゲジ – Wikipedia

この項目では、動物について説明しています。食品については「ゲジ (食品)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ゲジ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年2月) ゲジ(蚰蜒、ゲジ類、House centipede)は、ムカデ綱のゲジ目(学名: Scutigeromorpha)に属するムカデの総称、またはそのうちの1種Thereuonema tuberculata を指す和名である。本項目は主に前者について扱う。 伝統的にはゲジゲジと呼ばれるが、「ゲジ」が現在の標準和名である。天狗星にちなむ「下食時(げじきどき)」から「ゲジ」となった説や、動きが素早いことから「験者(げんじゃ)」が訛って「ゲジ」となったという語源説がある。 ゲジの口器I:大顎II:第1小顎III:第2小顎IV:顎肢 複眼と長い脚や背面の大きな気門などにより徘徊生活に特化している。ムカデではあるが、脚と触角は細長く、胴部は比較的短いため、見かけは一般のムカデからは随分異なっている。 成体の胴部は背板がある程度まで融合し、背側は11節に見えるが、腹側の腹板と解剖学的には計18節あり、気門も他のムカデのような胴体の両側で対になるものではなく、11枚の背板のうちに発達した8枚(2枚目から9枚目)の後縁中心に1個ずつ配置される[1]。

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仙台南インターチェンジ – Wikipedia

仙台南インターチェンジ(せんだいみなみインターチェンジ)は、宮城県仙台市太白区にある東北自動車道のインターチェンジ (IC) である。 東北自動車道と仙台南部道路を直結させるジャンクション (JCT) ともなっている。 本ICは、太白区の長町副都心や秋保温泉とのアクセス、また仙台南部道路、常磐自動車道(仙台東部道路)経由で、仙台港や仙台空港、三陸自動車道を経由して松島・石巻方面の観光ルートとしても利用されている。かつては国道286号が仙台市都心部へアクセスするメインルートであったため、当ICが仙台の玄関口として機能していたが、仙台西道路の開通により都心部へは仙台宮城ICの方が利便性が高くなっている。 開設当初は国道286号と接続するのみのICであり、当時は国道286号の道路幅員が非常に狭く、交通渋滞が頻発する危険性があったことから、郡山IC – 白石ICが開通し関東方面と直接結ばれた1975年4月1日から泉ICへ延伸開通した同年11月28日まで、国道4号と接続する白石ICにて、仙台以北に向う車両を強制的に流出させる、本線直進禁止規制が行われていた[1][2]。 2001年8月1日に宮城県道路公社の自動車専用道路である仙台南部道路とも接続し、ICとJCTを兼ねる形態となった。2004年2月23日までは乗り継ぎの場合であっても料金所を通る必要があり、当ICで東北道の料金精算・通行券受取、山田TBで南部道路の通行券受取・料金精算を行っていたが、仙台南ICの改修と山田TBの廃止により、現在ではノンストップで乗り入れることが可能である。 東北道利用の場合 一般道及び仙台南部道路との連絡が可能。 仙台南部道路利用の場合 東北自動車道との連絡が可能。一般道との連絡は不可。東北道より乗り換えて最初の一般道出口は長町IC(一般道と仙台南部道路の連絡には山田ICの利用がある。ただし山田ICは仙台東部道路方面にのみ接続するハーフICのため、東北道方面から一般道への下車不可)。 一般道利用の場合 東北自動車道との連絡が可能。仙台南部道路との連絡は不可(東部道路方面からの一般道最終出口は山田IC)。 接続する道路[編集] 高速道路 一般道

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夕焼けの松ちゃん浜ちゃん – Wikipedia

『夕焼けの松ちゃん浜ちゃん』(ゆうやけのまっちゃんはまちゃん)は、1990年12月1日から1991年9月21日まで朝日放送(ABCテレビ)で放送されていたダウンタウン主演の公開コント番組。放送時間は毎週土曜 16:00 – 17:00 (日本標準時)。 この項目では、1991年10月6日から1992年3月29日まで同局日曜正午の『日曜笑劇場』で放送されていた『松ちゃん浜ちゃんの純情通り三番地』(まっちゃんはまちゃんのじゅんじょうどおりさんばんち)についても触れる。 吉本新喜劇とほぼ同様の進行形式であり、収録もなんばグランド花月で行われていた。新喜劇と違う点は、メインキャストの役柄とセットが固定されており、一話完結の連続ドラマのような形式で行われていたことである。舞台はダウンタウンの2人が生まれ育った兵庫県尼崎市で、主人公・浜田(演:浜田雅功)の実家であるコンビニエンスストアの店内と店先で物語の全てが繰り広げられていた。コンビニの前には東野(演:東野幸治)の家のビデオ屋がある。 オープニングには、ダウンタウンの2人が新喜劇の芸人や一般人を舞台に上げていじるミニコーナーがあった。本番組のオープニングテーマ「17才はBreeze」は所ジョージが作詞・作曲したもので、歌唱は浜田が担当していた。この曲は、ダウンタウンのミニアルバム『GOBU-GOBU』に収録されている。 『夕焼け』当時、朝日放送では土曜午後にテレビ朝日系列 (ANN) のゴルフ中継がよく編成されていた。そのため、放送休止になることも多かった。 番組はその後、1991年秋の改編で4年半ぶりに編成された『日曜笑劇場』へ移動。同時にタイトルが『松ちゃん浜ちゃんの純情通り三番地』に変更され、放送枠が45分に短縮された。また、オープニングテーマもザ・ワイルドワンズが歌う曲に変更された。この『純情通り三番地』の終了後、土曜深夜の新番組として『摩訶不思議 ダウンタウンの…!?』がスタートした。 キャスト[編集] 浜田:浜田雅功 尼崎にあるコンビニ「浜田屋」の息子。両親は既にいない。姉2人と妹に囲まれ、いつも仕事を押し付けられている。 松本:松本人志 浜田の幼馴染。プー太郎。金に意地汚く、毎回トラブルを起こす。 花子:山田花子 松本の妹。ブサイクキャラ。

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バディ・ジャネット – Wikipedia

ハリー・エドワード・”バディ”・ジャネット (Harry Edward “Buddy” Jeannette, 1917年9月15日 – 1998年3月11日) は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手、指導者。身長180cm、体重79kg。ポジションはガード。1994年にバスケットボール殿堂入りを果たした。 ジャネットは大学卒業後に当時存在したプロリーグのNBLでプレーし、3度のリーグ優勝や4度のオールNBL1stチーム選出などスター選手として活躍した。1946年にABLのボルティモア・ブレッツに加入し、選手とヘッドコーチを兼任した。 ブレッツは1947年にBAAに加盟した。1年目となる1947-48シーズン、ジャネットはチームを率いて28勝20敗の成績を残し、自身はフィールドゴールとフリースローの成功率でリーグ1位を記録してオールBAA2ndチームに選ばれた。ブレッツはファイナルに進出し、前年王者のフィラデルフィア・ウォリアーズを破ってリーグチャンピオンに輝いた。選手兼ヘッドコーチとしてチームを優勝に導いたのは、NBA史上ジャネットとビル・ラッセルのみである。 ジャネットはブレッツで1949-50シーズンまでプレーし、139試合の出場で通算997得点(平均7.2得点)の成績を残して引退した。1950-51シーズンは引き続きヘッドコーチとしてブレッツを指揮したが、成績不振のため開幕37試合目を終えた時点で解任された。その後1952年から1956年までジョージタウン大学のヘッドコーチを務めた。 ジャネットは1964年にボルティモア・ブレッツ(前出の同名球団とは別)のヘッドコーチとしてNBAに復帰し、1964-65シーズンにチームをプレーオフのディビジョン決勝に導いた。この後1年おいて1966-67シーズン途中に再びブレッツのヘッドコーチとなったが、僅か16試合で解任された。1969-70シーズンにはABAのピッツバーグ・パイパーズのヘッドコーチに就任して45試合指揮した後、このシーズン限りで引退した。BAA/NBA及びABAでのコーチ戦績は、7シーズンで151勝203敗(勝率.427)であった。 ジャネットは1994年に選手としてバスケットボール殿堂入りを果たし、1998年に80歳で死去した。 個人成績[編集] レギュラーシーズン[編集] Season Team GP FG%

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